| プリズムの向こう |
しゃぼんだま とんだ やねまでとんだやねまでとんで こわれてきえた「…シグナル?」おそるおそる、小さい手を差し伸べては引っ込め、差し伸べては引っ込めしているちびに、しゃがみ込んだオラクルが首を傾げる。「お化けです〜っ!」と力一杯叫ばれた時にはさすがにショックだったが、元来小さいモノの好きな青年は小さいシグナルにも興味を覚えたらしい。「何やってんだよ?」オラトリオが『弟』をひょい、と摘み上げる。ぷら〜ん、とぶら下がった格好で、ちびは難しい顔をしてみせた。「だってオラクル君がお化けなんですよ〜…」すかすかと通り抜けてしまう立体映像(ホログラム)の体が納得行かないらしい。現実空間にボディを持たないオラクルには触れることができないのだが、それを知らずに床面へ激突したちびは「オラクル=お化け」と認識してしまった節がある。どうやらそうではないらしい、と気がついたようではあるのだが。「小さいシグナルもお化けが怖いの?」そういえば大きいシグナルもそうだったな、とオラクルが尋ねる。彼とは電脳空間の方で先に出会っているから、お化け呼ばわりはされずにすんだのかな、と青年が窺うと、小さいシグナルはきっぱりと断言した。「いいえ、怖くありません!」おや、と意外そうに片眉を上げたオラトリオと、へえ、と関心したように相槌を打ったオラクルは、次のセリフを聞いてどちらからともなく苦笑を浮かべた。小さな胸を精一杯に反り返らせたちびは、こう宣ったのである。「でも体が透けてる人は怖いです!」「…そういうもん?」「さあ…」首を捻る二人に、下から信彦が笑った。「ちびはね〜、ホントはまだ怖いんだよ♪」「あっあっ、言っちゃダメです信彦ぉ〜!」ぽおん、とオラトリオの腕からちびが飛び降りるより早く、信彦はにやにやと続ける。「けどオラクルのことは気に入ったみたいだからさ、頑張ってみてるんだよ、きっと。」「それなら嬉しいけど…」そうなのかい、とオラクルが信彦に抱かれたちびを覗き込んだ。ちびは照れてもじもじと身を揺すりながらも、その薄い紫色の瞳をきらきらと輝かせて笑う。「はいです♪ぼくはオラクル君のことはだいすきです♪」「ありがとう、私もだよ。」オラクルが微笑むと、ホログラムが虹の七色に震えた。その様子を眺めるオラトリオの紫の瞳がが濃く甘い色を深める。本来この部屋へは立ち入りを許されないはずの信彦やちびではあるけれど、今回はまあ大目に見てもいいかな、なんて思ってしまうのだからこの守護者も甘い。「オラクル君はキレイですねぇ、シャボン玉みたいです♪」ちびが手を差し伸べて光を追いかけた。瞬く光は、オラクルの長いローブの上を時折走るように流れてゆく。千々に変化するそのきらめきが、ちびの目にはシャボン玉のように見えたのだろう。ホログラム特有の虚像感もその印象に拍車をかけているのかも知れない。「しゃぼんだま?」オラクルが首を傾げる。説明を求めるように見上げてくる雑音(ノイズ)に苦笑して、オラトリオが肩を竦めた。「石鹸水のな、張力を使った遊びだよ。日本が発祥だったか?」江戸時代だったかな、とオラトリオがごちる。「ちょうりょくって何ですかオラトリオお兄さーん?」ちびの目がくるり、と光を弾いた。その後をオラクルが引き取る。「張力と言うのはね、液体の表面に働く力だよ。液体の表面はなるべく小さくなろうとして、お互いに引っ張り合う力があるんだ。」石鹸水は粘力があるからね、内側に気泡を閉じこめることができるんだ。空に泳がせた目で何かを追うようにしていたオラクルが、そう説明する。二重に張った薄い膜がそれぞれに違う角度で太陽光を反射するために、シャボン玉は七色に輝くのだ。ふうん、と感心したようにしばらくデータを眺めていた青年は、そこで不思議そうに呟いた。「…似てるかな。」「似てねぇよ。」ぼそりと呟くように、でも妙にきっぱりと言ったオラトリオに首を傾げて、それでもオラクルは柔らかく微笑んだ。「う〜ん、さわれないトコとかは似てるかも。」聞いていた信彦が、ホログラムの中に手を潜らせながら笑った。光に透けた手をひらひらと遊ばせてそんな風に言う。「シャボン玉って触れないのかい?」「さわると割れちゃうんだよ。」「きらきらきれいなトコがオラクル君と似ています♪」「…信彦、そろそろシグナル戻した方がいいんじゃねぇか?」「あ、うん…」不意にかけられたオラトリオの言葉に、そうだね、とシグナルを抱えた信彦が送風口に近寄っていくのを見送りながら、オラクルは不機嫌になった相棒の顔を覗き込んだ。先ほど直したばかりの前髪を、またかき上げるように手をやったオラトリオの表情は、その広い掌に隠れて伺えないが、それでも僅かに落ちた肩や微かに低く沈んだ口調が伝えるそれは、多分間違いではないはずだ。「…どうかしたの、オラトリオ?」「どうもしねぇよ。」がしがし、と乱暴にかき上げた金の髪がぱらぱらと落ちて紫瞳を隠した。不機嫌に眇められたそれがオラクルを見下ろす。そこに満ちた静かな苛立ちに、オラクルの雑音(ノイズ)の色も不安定に揺れた。「悪りぃ、オラクル。」絞り出したような溜息がその言葉に重なり、振り切るように顔を上げた男が小さく笑った。「別に怒るようなことじゃねぇよな。」「…怒ってたの?」あの苛立ちは怒りではなかったような気がする、とオラクルは内心で首を傾げた。傷ついたような瞳の色、静謐に満ちたそれが心に重く刺さる。それはどちらかと言えば哀しみに近い色だ。或いは憤りとも、もどかしさともつかないやるせないその色を思って、オラクルの瞳がすう、と遠い色を浮かべた。「いや、俺にもよく分かんねーんだが。」苦笑する男の暁色の瞳が、曇天に隠れたようにその色を濁らせる。無理矢理それを吹き払うように笑って見せた男は、手櫛で整え直した上へトルコ帽を載せながらこう呟いた。「お前は消させない…絶対だ。」触れることはできなくとも、消えたりしない。今確かにそこにあるお前を、必ず護ってみせよう。どんなに儚く見えようとも、どんなに脆く映ろうとも。この手に残る感触は幻ではないから。ぎゅ、と握りしめた右手を、ぱし、と左の掌で受け止めて。不敵な笑みを浮かべた男に、オラクルも滲むような色をその雑音(ノイズ)に混ぜて微笑んだ。
「うん、分かってる。」光を分けて弾くこの仮想の体は、お前に触れることはないけれど。それでもこの体さえ、お前のために創られたものだから。お前が望んでくれる限り、私は消えたりしないだろう。「…でも大人げないよ、オラトリオ?」「…うるせぇ。」そうっと伸ばされた手がふわりと重なって、オラトリオが照れたようにそう呟いた。