涙の日よ


 
              涙の      日よ。
 
 
 
 いつかこんな日が来ると。
 
 本当はとっくに分かっていた、分かりすぎるほどに。
 オラトリオは薄く溜息をついた。最早思うとおりにならない体に唯一許される動作、それさえもがぎちぎちと軋みを上げるほどの負荷を強いる。
 それでも長い長い、気の遠くなるほどに長い時間をかけてようやく半身を起こした男の前には遙かなる闇の世界が広がっていた。
 電脳の上天、高位の学術専用空間《ORACLE》───聳える白亜の殿堂が視界から消え去った今、その証たるべき何物もそこには見えず、ただその闇の重さだけが押しつぶすようにそれを教えている。視覚の構築までもがうまくいかない。
 「───オラクル?」
 無敵を誇った仮想の声(ヴァイタル・ヴォイス)さえもが為す術もなく封じられたその瞬間、とろけるような笑みを浮かべていた半身。今も近しくあるその気配に、男は掠れた声で呼びかけた。
 「オラクル───居るんだろ?」
 常は伸びやかな美声がみっともないほどにひび割れ、ほとんど意味をなさない音にしかならないが───それでも、相手に届くことを確信して。
 『居るよ』
 すう、と溶けるように薄いCGが傍らに組み上がる。その雑音(ノイズ)が周囲の闇にほぼ同化して、ただ抜けるような白い貌と手がぼんやりと浮かんでいるかのようなそれに、オラトリオが僅かに目を眇めた。オラクルの胸元を飾る赤い宝玉が、血の色にてろりとぬめった光を弾く。
 「…よう。悪かったな、時間かかっちまって。」
 待たせたか、と問う視線の動きに、オラクルが微かに笑った。
 『時間には意味がない、ここではね。』
 ここから出られない私にも、ここからもう出ることのないお前にも、もう時間というものは意味を為さないと言って笑うその顔はいっそ晴れやかだ。
 『ずっとここにいればいい、オラトリオ。』
 もう直さなくていい、とオラクルは微笑む。ほんとうに、幸せそうに。
 「…んな、馬鹿が、と…る、かよ…」
 苦しげな息の下から、絞り出すようにオラトリオが苦笑した。その途端、喉元へするりと当てられた掌が恐ろしいほどの力で男の首を絞める。
 『そんなことがまだ言えるんだね?』
 じゃあそんな声はいらない、と僅かに残っていた音声構築プログラムが取り上げられた。愛おしげに細められた雑音(ノイズ)の瞳が、やがてくるりと潤んで透明の滴を含む。
 『…でもまだお前は行ってしまうんだろう?』
 行かせたくないのに、と微笑む青年は、ぱたぱたと落ちた滴を拭うように男の頬を撫で上げた。物憂げに瞬く暁の瞳に笑いかけるその表情は、ただひとつの翳りもなく。全てを───何重にも架せられた思考調整をも振り切った暴挙は、おそらく彼のプログラムを傷つけているはずなのに。
 『だから行けないようにしてやろう。そうしなければお前はいってしまうから。』
 私の手の届かない、蒼穹の彼方へ。
 私を護るというそのためだけに創られたお前は、私のためにだけ死ぬだろう。多分私の知らないところで。それを許す位なら───
 『あとは何を取り上げればいい?』
 動けないように腕を、足を。何も言えぬように声を。それでも意志を失わぬ、強い瞳を?
 『──教えてくれ、オラトリオ───』
 
 ぱたぱたと落ちる滴だけが音を為すその空間で。                
   最後の時が近づいていることを、二人ともに分かっていたけれど。
 
 
 ───遠く高く響き渡る最期の歌は、《ORACLE》を砂に返した。
 
 
 
 
 涙の日よ涙の日よ涙の日よ
 罪なき者の命消ゆるその日よ
 ───いざ謳え人の子よ、神の御使いよ───                                                          
 預かりし神の言葉、神讃える歌を亡くした、愚かなる人の子の罪を。
                                        
 
                                                                                                                                                       




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