O'mbre Rose


 
 ふらり、とよろめいた体は、差し伸べた手が受け止める前にはらりと解けた。受け止め損ねたオラクルの腕は、余した力で宙をかき抱く。融けるように消えていくCG、指先から冷めていく熱。ほんの刹那感じた鼓動が途絶える、その感触。
 「…オラトリオ!」
 その瞬間に貫いた、心を引きちぎる痛みを。白く融け落ちた視界、その絶望の色を。
 
 私は一生忘れないだろう。
 
 
 
 荒れて乱れた雑音(ノイズ)が淡く紫の光を纏い、徐々に緻密なCGを組み始める。時折大きくグラフィックを歪めながらも。金の髪が陽の光を映して鈍くきらめき、たっぷりとした白いコートがふわりと風を孕む。襟元深く緋の天鵞絨が、つま先に艶のある子山羊革がちらりと覗いて。
 最後に不思議の瞳が開く。
 暁の色、深い紫の光を閉じこめた人工の宝石。作り物めいた透明なその色に、すうっと力強い息吹が宿って、瞳がふわりと和む。普段と変わらぬ優しい表情に、知らず詰めていたオラクルの息がすっと解けた。 《ORACLE》をその身に預けることの重みを、誰より己が知っている。たとえそれを可能とする許容量(キャパシティ)を彼が持っているとしても、だ。
 「いっやー、戻れねーかと思ったぜ。」
 常と変わらぬ口調でオラトリオが笑う。 それでもどこか掠れたその声が、彼の受けた傷の深さを教えてくれるような気がした。 体と心の癒しきれぬ傷を。
 「…オラクル?」
 目の前でひらひらと振られる白い手袋がふわりと滲む。はらはらと落ちる滴を優しい手が拭って初めて、オラクルはひとつ瞬きをした。
 「どうした?」
 首を傾げながら覗き込んだ男は、手の内に包んだしろい頬を軽く叩いて、その瞳を愛おしむように甘く緩める。潤んだ雑音(ノイズ)が薔薇の色を宿してぱらりと綻んだ。闇潜む鮮血、燃え上がる炎、沈む夕陽。淡雪の陰、青き月の光、清かな星の輝き。暖かき陽光、金糸雀の軟らかき羽、とろりと沈む蜜の色。朝靄に浮かぶ遠き峰、重く下がる花房、薄く棚引く暁の雲。千々に乱れる薔薇の花弁がはらはらとほどける。忙しく行き来する雑音(ノイズ)の、余人にあり得ぬその瞳が男を映して、雨に濡れた花のように重く潤んだ。
 オラトリオはくしゃりと歪んだ己の影に眉を寄せる。
 「…った…」
 「おい…」 
「…良かった、帰ってきた…」
 僅かな息に乗せた呟きは、聞き取れぬほどに小さく。
 まるで何かを逃すまいとするように、そのかたちを確かめるように。不意にしがみついたそのほそい腕の、震える肩の、まさぐる指の、ただひたすらに愛おしく───
 その気持ちは噎せ返る華の香りにも似て、眩暈を誘う。
 オラトリオはひとつ溜息を吐くと、その腕をふわりと下ろした。触れないように、怯えないように、ただ何かから守るがごとく。
 「オラクル…?」
 宥めるように優しい声が、世界の全てになればいいのに。
 声、吐息、温もり、鼓動、やさしいきもち───触れる全てを抱きしめて、オラクルはそのひとつひとつを痛みと共に刻み込んだ。もう二度となくさないように、自分の一番深いところでオラトリオを憶えていられるように。
 戻ってきたはずの彼だけが足りなくて、オラクルはぎゅっとしがみついた腕を弛めることができなかった。こころのどこかが空いてしまったようで、刻み込む傷が血を流すほど切なく痛むのにまだオラトリオが欲しい。
 「オラトリオ…」
 『ふたりでひとつ』のはずなのに、どうして自分たちはひとつになれなかったのだろう。
 そうしたら、こんなに欲しいとは思わなかったのに。
 
 『お前が、欲しいよ。』
 ひそりと心で綻んだ言葉を。
 
 今はまだ、誰も知らない。


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