| 花の暦に寄せて |
白い薄紙越しにも溢れる春の日射しに、琥珀の瞳がほんの少し眩しげに細められた。
「花の季節だな。」
庭先へ出れば苦しいほど甘く沈丁花が薫り、夜風には遠く梅の気配が漂う。深い桃色と目に痛いほどの純白に咲きこぼれる桃の木立の向こうには、早咲きの桜が薄色の花弁を見せ始めていた。どの季節もそれぞれに手を掛けたものではあるのだが、空気にだけまだ僅か冬の気配を残したこの時期の庭はやはり格別の趣がある。
「…桜でも持参してやるか。」
一人で楽しむのも勿体ないような気がして、コードは濡れ縁に通じる障子戸をからりと開けた。さあ、と入り込む風は引き締まるように冷たい。まだ早朝の余韻を残しているそれは、心地よく青年の周囲を取り巻いた。
庭へ足を下ろしたコードは、しゃり、と踏みしだく小石の音を楽しみながら咲き始めた南向きの枝を物色する。梅、桃と続いた春の花だが、やはりそうなれば桜も見せてやりたくなろうというものだ。
『…綺麗だな。』
季節のない、時の流れすら定かでない《ORACLE》で過ごすよりない彼の人の、嬉しそうな声音が思い出される。どんな他愛のない土産でもそれは変わらないが、やはり喜ばれるものを、と思うのは人の常であろう。
桃の節句には花が遅れたからな、と終わりかけの桃の花を見上げながら、それでも随分と喜んでくれたことを思い出し───ついでに思い出したくもないことまで思い出して、青年は顔を顰めた。
「…それがあったか。」
丹精した枝を折るのも、それを持っていくのもさして苦にはならない。だが唯一これだけは、と思う難関が待ち受けていることには確信がある、そりゃもう考えただけでうんざりするほどに。
「仕方がない、アレを呼ぶか。」
元はと言えばアレの責任だからな、とひとりごちたコードは、ちょうど目の前にひらひらと落ちてきた数枚の花弁を捕まえてふう、と息を吹きかけた。僅かな風にそよいだそれが桜色の和紙に姿を変える。繊維成分のデータ組成を組み替えることで可能になる手品だ。それへさらさらと何事かを書き付けた青年は、ぱん、と掌を叩く。開いた時には、どういう仕掛けか、手の上に一羽の折り鶴が出来上がっていた。
「花の終わらんうちに来ると良いが。」
すい、と飛んでゆく鶴を見送りながら、コードは踵を返した。
「…で?」
御用ってのはソレですかい、と溜息をつく男に、コードが顎をしゃくってみせる。その先には備前の大瓶に投げ活けられた大振りの桜の枝が咲きこぼれている。はらり、と青畳の上へ落ちた花弁が白く淡く光った。
「土産だ、持っていくが良い。」
「あのですねー師匠、土産ってのはわざわざ呼びつけられて持ってくモンじゃないんですよ?」
そりゃあこれだけ見事なモンでしたら、喜んでいただきますけど、と肩を竦めるオラトリオは、コードからのメールを受け取って、急いで降りてきたらしい。
「大体、師匠が持ってきてくれればいいじゃないですか。」
その方がアイツも喜びますし、いつもそうして下さってるでしょうに、とぶつぶつ文句を垂れるからには、それなりに無理をして来たのだろうが。
あいにくと、そんなことに忖度してくれるような相手ではなかったりする。
「それができんから貴様を呼んだのだろうが。四の五の言わずに持って帰れ。」
随分と面白くなさそうな師匠を窺って、男が訝しげに眉を上げる。何を今更、と思ったのが顔に出たらしい。コードがその端麗な表情を顰め、桜色の髪を煩くかき上げながら苦虫を噛むように零した。
「持っていくたびに惚気を聞かされるのは沢山だからな。」
「はぁ?」
「梅を持っていけば似てるの、桃を持っていけば似てるのとぬかしおって…」
しかも恐ろしいことに本気でぬかしとるから始末に負えん、と琥珀の瞳が底に不機嫌な暗い色を溜めてオラトリオを睨め付ける。コレのどこが、と思ってもその場では口を噤むしかない。だとすれば溜まりに溜まったストレスを少しばかり発散するのに、その元凶を呼びつけたとしても、何も悪いことはないはずだ。
「…ソレって俺にですか…」
だらしなく崩れかける顔を大きな手で押さえながら、男が笑いをかみ殺すように呟いた。愛おしく細められた瞳は、それでも隠しきれない蜜の色を浮かべている。
「だろうな、まったくあれの目は節穴らしい。」
どいつもこいつも、と溜息をつきつつ、コードは小さく笑った。
夜の気配に紛れて、遠くまでその香りを届かせる花の兄。
季節に先駆けて咲く吉祥の花。
『本当だ、目を瞑った方がよく分かる。』
────オラトリオもね、そうなんだよ。
どんな暗闇の中でも、たとえ『影』だとしても。
どこにいるか私には絶対に分かるから。
破魔の力を秘めた可憐な花。
無事を祈り願う、想いを込めた護りの花。
『じゃあ、私にとってはオラトリオがそうだね。』
────闇を退け魔を破るための力。
いつどんなときでも、私を想ってくれていると。
知っているから私は強くあれる。
「桜でまで聞かされてはたまらんからな。」
責任をもって善処しろ、と突きつけられた花の甘い香りにか。
「…確かに、承りました。」
男の紫の瞳が、うっとりと甘く微笑んだ。