背徳のシナリオ


 『…見捨てられないんでしょう?』
 微かに嗤いを含んだ冷たい声が、聞こえるようだった。
 Dr.クエーサーの造ったHFR。その残した言葉が等しく音井ブランドの傷を抉る。
 ───互いにその意味は違えども。
 
 「…あぁ、多分そうだろう。パルスの考えは当たってるだろうな。」
 溜息をつくように、オラトリオが口元の受話器へ同意の囁きを落とした。ぼんやりと暗い図書室の、そこだけぽかりと浮かんだようなカウンターの天板の上で、男は行儀悪く片膝を立てて座り込んでいた。闇に落ちた玉座でオラクルが静かに見上げている。
 『じゃあ俺たち、これから黄さんに教えてもらったトコに行ってみる。』
 「そうだな。気をつけて行けよ?」
 『うん、俺とクリスねーちゃんは邪魔になんないようにするよ。』
 「いい子だ。ぜひそうしてくれ♪」
 でないと俺、顔向けできねーからな、とオラトリオが笑う。遠い電波の向こうで、信彦も笑っているようだった。
 『分かってる。心配させてごめんね。』
 「それはこっちのセリフだ。…悪かったな、こんなことになっちまって。」
 ふと男の声が真摯な色を僅かに響かせる。苦い物を含むそれに、向こう側で少年の明るい声が応えた。
 『しょうがないよ、オラトリオのせいじゃないもん。』
 「あぁ…じゃあな、師匠と弟どもにもよろしく言っといてくれ。」
 何かあったらすぐ連絡しろよ、と念を押したオラトリオは、しばらく耳を預けるようにしていた受話器をカウンターへ戻す。見上げる視線が曇りを浮かせていることに気付いて、男が苦笑した。
 「…どうした、オラクル?」
 闇に沈む雑音(ノイズ)に微かに走る光へ指を伸ばし、白い絹の光沢をその中へ遊ばせる。引き寄せた一房に軽く触れたままで、男の唇がふと笑みを刻んだ。
 「何か言いたそうだな?」
 言ってみな、と促す吐息が癖のない髪を揺らして指から逃がす。残る感触を惜しむように口元へ当てられた指が、すう、と形良い顎をなぞっていくのを見つめながら、オラクルはその玉座を離れて立ち上がった。さらさらと滑る布の音が僅かに遅れて後を追う。
 「…いいや?」
 そう見えるとしたら、それは私がお前を映しているからだろう、と近づいた視線が静かにひとつ、ふたつと瞬いた。
 「何を憂えている、お前は?」
 「俺が?」
 何も、と肩を竦めた守護者を、穏やかな声が追いかける。
 「…最初から計算の内に入っていたことだろう?」
 「あぁ…今更だな。」
 苦く引き上げられた口の端を辿るように、オラクルの白い手が男の頬を包んだ。常は定まらぬ雑音(ノイズ)が、男の薄い紫の瞳を映して淡く霞んだ光を走らせる。潤んだようなそれが深くオラトリオの裡に沈んで───男は、表情を隠すように俯いてくしゃりと前髪を崩した。
 「…今更、だ。そんなことは分かってる。」
 A-Numbersの『封印』から彼らを逃がしたときに。シンクタンク・アトランダムの庇護の元から彼らが飛び立ったときに。
 ───どんな形ででも、彼らは傷つくのだと分かっていた。
 そして自分の出来の悪い複製(コピー)が描くだろうシナリオの中でも、最も醜悪で愚かしいものが現実になろうとしている。
 〈MIRA〉と〈SIRIUS〉とを手に入れて、何にも使わぬはずがない。データだけでは扱えぬと知れば次に狙うのはそれを扱う技術を持つ者だと───知っていて尚、教えはしなかったその負い目が男に重くのしかかっていた。教えていれば何かが変わったかも知れない。それでもそうしなかったことを悔いてはいないのだけれど。

 ───全てに背いた、全てを欺いた最悪の、そして最上のシナリオが演じられようとしている───誰にとって?
 『…見捨てられないんでしょう?』
 不意に蘇った言葉が、心を掻き毟る。
 本当に見捨てられないのなら、これほど傷つかないのに。
 ───簡単に『見捨ててしまえる』自分が吐きたくなるほど嫌だった───

 「馬鹿だね、オラトリオ?」
 顔を覆う手をそのままに、オラクルが男を優しく引き寄せた。
 優しいこの守護者は、『全てを守れない』ことなど承知の上だ。だからこそこんなにも傷ついている。
 ───そんなことも分かっていないくせに、傷を抉っていった愚かな女。

 
 見ているがいい、と賢者は声もなく呟く。
 
 差し出された一冊の本。
 そこに記されていた『計画』の通りに、事は進んでいる。

 『───止められるのはお前だけだ』
 捧げられたそれを、受け取ったその時から。

 ───舞台が始まったのだ───


 大人しく肩先へ伏せられた額の重みにくすりと息だけで笑った青年が、囁きを耳元へ落とす。
 
 「───お前は私の守護者だ。」
 
 

 何を捨てても守るべきものは、たったひとつ。

 
 『お前が守るのは私だけで良いんだよ?』
 
 だから、お前は傷つかなくていい。
 


 「…ばぁか。」
 ───男がくつり、と笑った。