隣の席に座るヒト。


 「…では、〆切は月末と言うことで、よろしくお願いします。」
 持参した文献資料や写真を手早く揃えながら、クオータはにっこりと笑みを浮かべる。薄いガラスの向こうから「まさか守れないとは言いませんよね?」という無言の圧力が掛けられているようだ。
 ちょっとばかり期日に無理のあるこの原稿を引き受ける羽目になったのは、やはり彼が持ってきた話だからだろう、とオラクルは溜息をついた。本来なら断っても構わない話なのだが、傍らに座る相棒の『やる気』に火を点けるのが巧いのだ────この、敏腕編集者は。
 「誰に言ってんだ、お前は。」
 不機嫌にコーヒーをすすりながら、オラトリオが唸る。オラトリオは基本的にぎりぎりにならないと書き始めないタイプだが、書き始めたら速い。滑り込みセーフで間に合わせるのがいつものことだから、クオータが念を押すのも無理はないのだが、それでも〆切を破ったことはないから、まあその点では優秀なライターだと言えるだろう。どちらかと言えば自分の方がその点では問題児かも知れない、とオラクルは思う。
 「…じゃあ、私も頑張らないとね。」
 オラクルの方は、余裕を持って仕事を始めはするのだ。けれども、自分で納得のいくものが描けないと、何回でも描き直す。結果、〆切に間に合わなかったことが何度もある身としては、肩身の狭い話である。
 「個人的には、納得のいくものを描いて頂きたいところなんですが。」
 そうも言ってられませんので、とクオータが苦笑した。まとめた資料を出版社の封筒へ入れ直し、オラトリオに手渡す。
 「…プロならどっかで割り切るべきなんだよ。」
 甘やかしてんじゃねぇ、と分厚い封筒をひったくって、オラトリオが向かい側に座る涼しい顔を睨みつけた。それを綺麗に無視したクオータが、ふと袖口から覗く腕時計に目を落とす。深いブルーの盤面に白く浮き出したような目盛が美しいアナログのそれは、待ち合わせの時間から既に二時間近くが経過していることを示していた。
 「おや、もうこんな時間ですか。」
 社に戻らなければなりませんので、これで失礼しますね、と立ち上がりかけた青年に、オラクルが首を傾げる。
 「これから?」
 もうじき陽も落ちるという時刻だ。これから戻って仕事をするのでは、帰宅が何時になるか分かったものではないだろう。不規則な生活は職業柄お互い様だけれども、行ったり来たりすることがない分、自分たちの方がマシかも知れない。
 「…えぇまぁ、いろいろと調整しないといけませんし。」
 「それがお前の仕事だろ。」
 さっさと行って仕事しろ、と顎をしゃくって見せたオラトリオに苦笑して、クオータは立ち上がった。
 「そうします。」
 貴方もさっさと仕事してくださいね、と微笑んだ彼がレシートを手に立ち去ってから、オラクルは自分のカップを手に溜息をつく。
 「…どうしてそう、お前は彼につっかかるんだい?」
 良い仕事じゃないか、と首を傾げた青年は、穏やかなブラウンの瞳にちょっとだけ苦笑を混ぜて、「〆切が近いのは難点だけど」と言いながら紅茶の香りに目を細めて見せた。
 「仕事はいいんだ、仕事は。」
 複雑そうな色にその瞳を曇らせて、オラトリオが溜息をつく。どうやら、ちょっとばかりムキになって引き受けたことを、今頃になって後悔しているらしい。
 「遅いんだよ、オラトリオ。」
 その性格を直さないと、クオータにうまく使われるよ、と小突くと、「分かってるけどよ」と男も苦笑した。天敵とでもいうのか、オラトリオとクオータは顔を合わせると何やかやとやり合わずにはいられないのだ。今のところ勝率は四分六でオラトリオの分が若干悪い。冷静になりきれない分、損をしているというところだろうか。
 「…まあ、そういうのがお前の良いところだけどね?」
 焦がれるように熱い気持ちに引きずられるのは嫌いじゃない。常に余裕を崩さないこの従兄弟の奥底に、時折見え隠れする炎のような感情の揺らぎや情熱。
 自分に足りないものを、オラトリオは持っている。
 「言ってろ。」
 「ほんとだってば。」
 くすくすと笑い続けるオラクルの頭を軽く小突き返して、男が苦笑した。その瞳に甘く濃い蜜の色が混じって。
 「…そうだな、アイツとの打ち合わせは嫌いじゃねぇ…かな。」
 
 ──── でもなきゃ、お前の隣には座れねぇし。
 
 オラトリオが喉の奥でくつくつと笑いながら囁く。
 「…馬鹿。」
 オラクルは溜息混じりにそう呟いて、取り上げた封筒でオラトリオの頭をはたいた。
 
 本気半分、からかい半分。
 始末の悪いことに、そんなお前も好きなんだけど。
 
 二人を送り出した扉の向こうで、かららん、と軽いドアベルの音がした。