千の祈り


 「ったく、世話のやける。」
 ふんわりと柔らかい笑みを口の端に浮かべたオラトリオが、取り出した毛布をそっと掛けてやるのを眺めながら、オラクルはカウンター近くの照明をふっと落とした。
 ぼんやりと照らし出されるその人は、今はほんの少し安らいだ表情をしている。本当はあまり歓迎したいことではないのだけれど、こうして過ごすことが彼の助けになるというなら、たまには悪くないのかも知れない。
 「まぁいいよ、今回は。」
 私たちにもちょっとは責任があることだし、と言われた男が小さく肩を竦める。
 「まぁな。」
 自分たちが《封印》を解く術を与えた。その向こうに続く道を示した。選んだのは彼らではあるけれど、全ての『鍵』は自分たちの手の中にあったのだから。
 
 
 ────《MIRA》の暴走。
 海峡の街マラッカで、一連の事件は幕を下ろした。電脳の海に現実の距離は関係がないとはいえ、その知らせがここ《ORACLE》にもたらされるには些かの時間を要する。近いようでいて遠いその距離に苛立ちながらも、できる限りのサポート体制を整え。
 迎え入れた早々に、こんなことになっている。オラトリオは、隣に座るコードの空いた杯に酒を注ぎながら、見えないように溜息を吐いた。
 「聞いておるのか、貴様は!」
 「はいはい。」
 座りきったコードの視線が怖い。入ってくるなり酒を所望された辺りから覚悟はしていたものの、いつにも増して酒癖の悪い師に苦笑する。だいたい《ORACLE》で酒を要求したことなど今までになかったことから考えても、相当煮詰まっていると思うのは間違いではないだろう。
 「あの馬鹿めが、俺様を切り捨ておったのだぞ!」
 襟元をぐい、と掴んで引き寄せられ、一人では何もできんくせに何を考えておるのだ、と酒臭い息で吹き付けられたオラトリオの顔が引きつった。
 「まぁ、シグナルの考えも聞いてみないとね。」
 取りなすように向かい側のオラクルからかけられた声に、ふい、とコードの視線が動く。泳ぐようなそれに僅か混じった気弱さが、オラトリオの心を削った。
 自分も─────こんな目を、させていたのだろうか。
 半身と信じていた者に置いて行かれるかもしれない不安、焦燥、苛立ち────すぐそこまで忍び寄る絶望の、ひやりとした安堵。
 そんなもので充たされた、暗い色の瞳を。
 
 だとしても、とオラトリオは苦く笑う。
 おそらく自分は置いていくだろう。最後の最後で裏切るようなことになっても、それでも。
 ────連れては、逝けないだろう。
 
 似ていないように見えて、そんなところばかりが自分たちは兄弟だな、と男は苦笑した。
 
 
 珍しいほどに酒を過ごした青年が、静かに寝入っている。
 「それに、こんなコードを見られるのも一興じゃないか?」
 酔いつぶれるところなんて見たことがなかったよ、とオラクルが笑った。
 「これを一興と言えるってのが流石だよな。」
 苦笑したオラトリオの頭を軽く叩いて、オラクルはカウンターの上へ色とりどりに散らばった紙から一枚を選び出す。
 「ほら、手が止まってるよ?」
 「マジで千羽折るのかー?」
 ただ待つことも辛い、ひとりで待つことは尚更に。
 だから祈る代わりにこうしていよう、と青年は微笑んで折りあげた小さな鳥をふわりと浮かせた。
 
 
 
 千々に乱れる心のままに、お前だけを待ち続ける者がここにはいるから。
 
 ─────還っておいで。