信じる者のために


 己の信ずるもののために。
  
 しばらく考えるように視線を逸らしていたオラトリオが、薄寒い笑みを浮かべて信彦を見下ろした。表情は明るいのに、瞳の色だけがそれを裏切るように闇を宿している。
 「実は俺も計画があるんだ、信彦。」
 「本当!?」
 ああ、と答えながら男は立ち上がった。ふわりと揺れるコートにつれて動いた空気が、ほのかな香りで信彦の嗅覚を一瞬擽る。鋭いようでいて押しつけがましくはないそれは、既に馴染んだオラトリオの匂いだ。花のように甘くも、果実のように爽やかでもない、僅かな苦みを含むような。
 「ここじゃなんだな…『図書館』に行こう。」
 一面のガラスから差し込む昼の陽射しが、オラトリオのコートの背いっぱいに溢れている。辺りに人気はなかったが、その開けた雰囲気は確かに話に相応しいものではないだろう。腰を下ろしていたベンチを首だけで振り返った男は、何処か歪んだ笑みをその端正な顔に貼り付けて信彦を見下ろした。
 「言っておくが、俺はお前が思ってる程良───いロボットじゃねえぜ。」
 薄く平板に光を弾いた紫の瞳が、人にはあり得ぬ虹彩を際だたせる。陰に落ちた半身は、オラトリオのもうひとつの本質(ディープ)を垣間見せた。振り返らずに足早に去ろうとする、その広い背中を見送る少年に、男は肩越しに誘いとも付かぬ言葉を投げて寄越す。
 「それでもよかったらついてきな。」
 普段は聞いたこともないような冷えた響きのそれに、躊躇いはない。《ORACLE》守護者としてのオラトリオには、例え弟のように可愛がっている少年に対しても向ける情は残されていないのである。制作者に対しても、そして親を同じくする兄弟達にさえも。
 
 ───全ては、『オラクル』の為に。
 
 そのためにならいくらでも冷酷になれる自分を知っている。だから男は振り向かない。強く誘いもしない。選ぶのは信彦だ。利用されると承知でこの手を取るも取らぬも────
 
 遠ざかろうとする見慣れた背を見つめていた信彦の、大きな濃茶の瞳に、ふと歳に似合わぬ怜悧な光が射す。すう、と浮き上がった冷めた色が、男の姿を映してひとつふたつ瞬いた。
 考えるまでもない。示された選択肢はたったふたつしかないのだ。このまま何もせずにいるか、オラトリオの差し出す手を取るか、ふたつにひとつ。
 そして、なにひとつ選ぶ余地のないシグナルたちのためにできることは、たったひとつ。オラトリオの『計画』がどんなものだとしても、それで何かは動くはずだ。
 少年は、腕の中のちびを小脇に抱え直すと、男の歩みに追いつくために駆けだした。その歩調にも常のような余裕はない。普段ならさり気なく信彦に合わせてくれている歩幅は、今はその大柄な体に見合ったものだ。小走りに『図書館』への道を辿りながら、信彦は心に呟いた。
      
 ───俺、オラトリオが良いロボットだなんて思ってないよ。
 
 オラトリオにひどく冷たいところがあるのも知っている。我が儘を言いやすいのは、彼が本気ではそれを聞いてくれないと分かっているからで。どんな無理をしてでも聞いてくれようとする相手には、信彦は無理を言わないようにしていた。その点、オラトリオの基準ははっきりしていて、心おきなく甘えられるのはそのせいもある。ある一線から先を絶対に許さない、それだけでなく、多分ある意味で自分自身さえもこの男にとっては手段なのだ。
 多分、《ORACLE》を───オラクルを、守るための。
 
 それでも、自分はオラトリオが好きだ。良いロボットとは思っていないけれど、悪いロボットだと思ったこともない。オラトリオはオラトリオで、自分はオラトリオが好きだから───きっと、何をしても。
 先を行く男の歩みにつれて、ガラスの扉が開いた。微かに流れてくる熱を帯びた空気が、少年を引き止めるようにくるむ。冷えた空調に慣れた肌に、それは心地よい温もりをくれたけれど、信彦はそれを振り払うように冷えた氷の気配を追った。前を行く大振りのコートからこぼれる冷気を、逃さぬように。     
 ───それだけが、今自分にできること。
 利用しているのは、自分の方かも知れない、と信彦は弾み始めた息を意識しながら思った。ひとりではできることがないから、オラトリオの『計画』を利用する。自分はまだ無力な子供で、できることが少ないのだから。
 
 
 ───『もう一回、チャンスがあればなぁ…』
 
 
 耳の奥でずっと聞こえている、その願いのために。



───それを望んだ、たったひとりのために───