風の未来図


 「───まさか…」
 見上げるグリーン・アイズが、形良い眉が険しく寄った。一段と力を増したカルマの視線を跳ね返すように、オラトリオの瞳は暗く冷たい光を浮かべている。
 「あなたが裏で糸を引いているんですか!?」
 形こそ問うてはいるものの、返答を待つまでもなくカルマにも分かっていた。彼らの許しなくしてこの空間に自由はない。そこで自由に行動しているということは、それこそが〈ORACLE〉の──オラトリオの、意志だということだ。
 そうと悟った瞬間、無言に見下ろす守護者の、翻るアイボリーのコートが更に威圧感を増した。〈ORACLE〉から姿を消したコードとシグナルを早く追わなければと思っても、視線が逸らせない。かろうじて自由になる舌さえも、オラトリオを従わせることができない。紡いだ言葉は何の力もなく、ただの茶番劇の台詞じみて虚しく響く。
 「T・Aに対する背信行為ですよ!」
 T・Aの至宝、A‐NUMBERSがその意に背くなどあってはならない、という叫びも、守護者を縛る鎖ではあり得ない。そう分かっていながら、そうとしか語れぬことが歯痒く情けない。
 「───人聞きが悪いぜ。」
 案の定、何の痛痒も憶えぬ様子で、大きな手がひらりと翻る。右の掌を広げて見せたオラトリオは、冷たく澄んだ紫の瞳を不機嫌に眇めながら肩を竦めた。〈ORACLE〉とT・Aの関係を殊更に強調してみせる男は、A‐NUMBERSでありながらA‐NUMBERSではないのだと、カルマは半ば絶望的にそう悟る。知っていたはずの厳然たる事実を、それでも自分たちは甘く見ていたのだと。
 「〈ORACLE〉を騒がしてタダですむと思うなよ?」
 宣告と共に突き立てられた杖が閃光を生み、電子の檻が立ち上がった。『牢屋』と称するそれの強制力に身が竦む。薄く細い銀紫の光がパリパリと小さく放電を繰り返しつつ、縦横に格子を編み上げた。身動きすらままならぬ高速演算の気配が、重い音を立ててカルマを押さえつける。
 「頭が冷えたくらいに出してやるよ。」
 そう告げるオラトリオの半身が闇に沈んだ。冷えたその表情は薄く笑みを刻んでいる。オラトリオの言うように、自力でなんとかできる類のものではない、これは───
 よしんば拘束を解くことができたとしても、それはT・Aと〈ORACLE〉との全面的な対立を引き起こすだろう。オラトリオが守護者としての建前を振りかざす以上。そのことを甘く見ていた自分たちを内心に罵りながら、闇に溶け入る守護者の影を為す術もなく見送るしかない。
 「───オラトリオ!!」
 この手に掴めるものならば、何をしても引き留めるものを。
 ぐっ、と握りしめた黒絹の手袋は、虚しく空を掴む。どこで間違ったのだろう、と身の内を燃え上がる焦りに、カルマは小さく唇を噛んだ。これでは何のために正信が苦渋の選択をしたのか分からないではないか。
 A‐NUMBERSを守るためだった《封印》の選択。それが多分に甘えを含んでいたのだと今なら分かる。オラトリオに対して、A‐NUMBERSの一員だから、と統括であることの甘えが自分にはなかったか。HFRだから、と人間であることの甘えが正信にはなかったか。苦くその想いを噛みしめながら、カルマは気持ちを宥めるようにすう、と息を吸い込んだ。
 
 ────他にどうすれば良かったというのだろう。
 
 おそらくシグナルたちに逃走を示唆したのは〈ORACLE〉だ。『データを取り戻す』という大義名分の元にオラトリオが狙っているのは、自分たちと同じことのはずなのに。
 餌とするものが違うだけで、こんなにも食い違ってしまうとは。
 A‐O〈ORATORIO〉という存在の恐ろしさを初めて思い知ったような気がして、カルマは寒気を憶えた。その機体の優秀さは知っていたつもりでも、〈ORACLE〉の守護者としての冷酷な一面を承知していたつもりでも。
 自分たちにはできなかったことを、オラトリオはやってのけた。
 握りしめていた拳を開き、手袋に残る皺をぼんやりと見つめながらカルマは溜息をこぼす。『聖柩』の名を戴く自分は美味しすぎる餌で、おそらく囮だということはすぐに分かってしまうだろう。過大評価とは思わない。A‐Q〈QUANTUM〉は、A‐O〈ORATORIO〉のコピーなのだから。
 そして、『A‐NUMBERSを抹殺する』という意味が文字通りのものと限らないならば、《封印》はDr.クエーサーの計画を助けることにしかならない。例外として封じられなかった自分たちさえ自由の身とはなり得ぬこの状況は、A‐NUMBERSの社会的抹殺に程近い。それをよしとして───或いは、それこそを目的として一連の行動が為されたのだとすれば。
 このまま〈QUANTUM〉が出てこない、ということもあり得る。そうは思っても、自分や正信にはもう一つの、この方法を実行することはできなかった。
 
 A‐Q〈QUANTUM〉を確実に引きずり出す、その方法。
 
 A‐S〈SIGNAL〉を《封印》から逃がし、〈QUANTUM〉に対峙させるという。 
 瞑い緑の瞳の奥底で燃えていた炎が、すう、と醒める。手袋の皺を丁寧に伸ばしながら、カルマは小さく溜息を吐いた。〈ORATORIO〉が《ORACLE》のためにあるように、自分はA‐NUMBERSのためにある。実行されてしまったこの計画で、たとえ一体でもこれ以上傷つくことのないように、失われることのないように。その中に〈QUANTUM〉さえも含むというこの矛盾を満たす、ないかも知れない答えを見つけるために。
 しろい瞼が静かに落ちる。
 金の眩しい輝きに隠された、美しい緑の瞳が見つめる未来は如何なるものか。
 
 
 ────遠く、風の音が聞こえた。