鏡の中の闇 |
───すべてヒトの定めたそのように。
「こんな迅速な芸当、お前以外できやしない!」
弾劾の声は鋭い。鋭利な刃物のように突きつけられる言葉、荒げた声音。常は感情を顕わにすることの少ない正信が、まるで弟たちのように激高する様を落とした瞼の裏にうっすらと感じ、オラトリオはその瞳を開いた。
「…答えろオラトリオ!!」
苛立ちと焦り、裏切られた痛み。
いっそ心地よいとすら言えるそれに口の端を僅かに引き上げ、傲然と見下ろす暁の瞳がはっきりと告げる。
「そうだ。」
《ORACLE》に一時凍結封印されたA‐Numbers4機の脱走と信彦の同行は、確かに自分のプランだとオラトリオは認めた。その整った顔にうっすらと刻まれた笑みは冷たく硬い。青ざめ歪んだ表情で詰め寄る正信の顔を無表情に眺め、そのように造っておきながらそれを責めることのできるヒトは幸せだと、思考の片隅を冷笑が掠める。強い力で掴まれ皺の寄ったコートを正し、男は心の襟をも正した。読みが当たっているなら、ここからが本番だ。
背後でポーン、と明るいインタホンの音が鳴り、軽い音を立ててドアが開いた。
「うえーっす。」
「失礼します。」
入ってきた初老の科学者たちは、ある意味切れ者として評判の高い正信よりもオラトリオにとっては苦手な存在である。生みの親たる音井信之介は元より、シンクタンクの相談役としてこの場に呼ばれたのだろうDr・ハンプティもまた、こちらの手の内を知る人間。
「あららー、教授もお越しっすか。」
総帥の座にある老婦人ほどにではなくとも、HFRを、その回路の隅々からプログラムの末端までを生み出すことのできる、それを知り尽くした創造主たち。自らの手で『命』を生み出したことのない正信には判るまい、その大きな違いが。
普段通りに迎えて見せながらも、男の目は冷たく冴えている。
「私も居りますよ。」
怒りを潜ませた統括役の美貌がその後ろに見えて、オラトリオは軽く左手でサインを切った。念入りに組み上げた電子の檻を破るのは、いかなカルマと言えどもそう簡単なことではなかったろう。14時間あまり、僅かに読みより短かったそれにはさすがと思わされたが、その代価は高くついたらしい。憔悴の色濃く浮いたその容を見下ろし、暁の瞳が薄笑う。
「よおカルマ、電脳空間の牢屋は快適だったかい?」
ぬけぬけと言うそのセリフに、苛立ちを隠せない真緑の瞳が眇められる。常は柔らかな響きを持つテノールに、鋭い棘が混じった。
「おかげ様でね。」
そして彼にも判るまい、とオラトリオは心の裡で呟いた。真に守護者たりえない者、護るべきものを失い違えた者には。今は閉ざされた黄金の海上都市、遙か電脳の海に浮かぶ空虚な真円を思い浮かべ、男の瞳が硬質な光を弾く。
「当たり前だろう。俺はそういう風に造られたんだぜ。」
己が感情に囚われ、いっそ無邪気なほどに当たり前のことを責める、未熟な人間をオラトリオは嗤った。その本音に怯え、恐れを抱くことのできる己が末弟を幸せだとは思うが、自分はそうありたいとは思わない。
護るべき者の為ならば、ヒトの命さえも切り捨てることができる。それが《ORACLE》の守護者たれと造られた自分───それだけが拠。
《ORACLE》を護る為に、《ORACLE》のデータを護るために。
「信彦を危険な目にあわせるのは、あなたに与えた権限から外れているんじゃなくて?」
…否。
「それは信彦とシグナル君だって同じようなものじゃない?」
…否。或いは是。
カシオペア博士の淀みない言葉に、みのるの張りつめたそれでいて的確な指摘の言葉に。論理的に追いつめられ、硬く硬く収縮していく思考回路に我知らず戦きながら、オラトリオはただひとつ残ったものに縋り付くように言葉を綴る。
「───めだ…」
みのるの言葉に応えたのはどこかひび割れた声。深く俯いた男の顔はその大部分を闇に沈めている。読めない表情の中でただ人工の瞳だけが痛いような光を放っている。
「カルマでは囮足りえない。」
まるで合わせ鏡に向かうかのように、見え始めた「それ」。零れる言葉を押さえる掌は、ただのひとつも罪を隠してはくれなかった。
目的に向かう手段、本当の目的。
音井ブランドを引きずり出すために、3機もの同胞を破壊した『クオータ』。
奪われたデータを確実に取り返すために、《ORACLE》を害したわけでもない信彦の身を危険に晒す『オラトリオ』。
与えられた権限を越えて己が為そうとすることが、あいつと何の違いがある?
思い至ったその事実に白く灼けついた思考がたったひとつの疑問を繰り返す。
…ソレデモ。
教エテクレオラクル俺ハ本当ニ“おらとりお”ナノカ?
───自分のすべてがヒトの定めたそのようにあるのだとしても。
その答えだけは〈ここ〉にはないから。
表情も動きも硬く冷たく強張る中で。
闇の中のたった一つの光のように、オラトリオはそれだけを幾度も呟いた。