指先の幸せ


 幸せは案外簡単にやってくるものだ。
 
 「居るかい、オラトリオ?」
 勝手知ったる他人の家、とばかりに覗き込んだダイニングにこの家の住人たちを見つけて、オラクルはふわりと暖かな笑みを浮かべた。
 「わぁい、オラクルくんです
 「あぁこらちび、動くなっっ!」  
 大きく動いた頭を追いかけるように、男が慌てた声を上げる。しゃき、という軽い音がして、ほんのわずかフローリングの床にプリズムのきらめきが散った。
 「…あぁあ、やっちまった…
 やれやれ、と肩を竦めたオラトリオがちびの頭を軽く小突く。子供用の高い椅子の上で、ちびがくしゅん、と縮こまって見せた。首の回りに巻いた大振りの白い布が、動きに会わせてさらりと音を立てる。
 「ごめんなさいです、オラトリオお兄さん。」
 「全くだ、危ねぇだろうが。」
 耳でも切ったらどうする気だ?と苦笑して、男が顔を上げた。申し訳なさそうにしている顔をそこに見つけて、オラトリオの苦笑が甘く綻んだ。
 「よ、オラクル
 どうした?と首を傾げて見せるとオラクルも鏡合わせのように首を傾げる。
 「悪いとこに来ちゃったかな?…貰い物があったからお裾分けに来たんだけど。
 「いんや、すぐ終わる。」
 ほれちび、後ちょっとだから大人しくしてろ、と末の弟を落ち着かせたオラトリオが、鋏を握り直した。頭の天辺で留めていたピンを外すと、ちびがぎゅっと閉じた瞼の上に長めの前髪がふわりと落ちかかる。目の少し下まで被るくらいに伸びたそれを指で挟み込み、男は器用に鋏を動かし始めた。
 しゃきしゃき、と歯切れの良い音がリズミカルに響く。
 「…まぁだですか、オラトリオおにーさん?
 「んー、もうちっとつぶってろな。」
 長さを確かめるように目線を合わせた位置からオラトリオがそう言うと、間近い所で囁かれたそれに、ちびが擽ったそうに首を竦めて頷いた。
 「分かったです〜」
 「よし、こんなもんかな
 髪の間に残った毛を落とすように、男の指がくしゃくしゃと弟の髪をかき混ぜる。ぱらぱらと落ちる髪が瞼や鼻先を擽って、ちびがふるふると首を振った。
 「ちくちくします、オラトリオお兄さん。」
 「あぁ、取ってやるから待ってろ。」
 お湯で搾ったタオルで軽く顔を拭くと、オラトリオは首に巻いていたエプロンとタオルを外してやった。テーブルの上に出してあった鏡を見せてやる。
 「ほれ、どうだちび?」
 「わぁい、ありがとうです、オラトリオお兄さん
 「さっぱりしたね、ちび。」
 にこにこと眺めていたオラクルにも褒められて、ちびが満面の笑みを浮かべた。後ろは長く伸ばしているちびだが、さすがに前髪が目に被るのは鬱陶しかったのだろう。ましてや目に悪いそんな状態をこの長兄がそう長く放っておくわけもない。時折切ってやっているとは聞いていたのだが、こんなに本格的だとは思わなかった、と感心する。
 まったく、この従弟はいくつ隠し技を持っているものやら。
 内心で舌を巻いているオラクルには気付かず、オラトリオはエプロンに落ちた髪の毛をゴミ袋にまとめて捨てながらちびを促した。
 「ちび、一応顔洗って来い。」
 「はいです。」
 ぽんぽんと弾むように駆けていった先で、きゅっ、と蛇口を捻る音と、勢いの良い水音がし始める。
 「器用だね、オラトリオ。」
 本職の床屋さんみたいだ、と感嘆の声を上げた青年に、オラトリオが口の端をにっ、と引き上げて笑った。
 「お前のも切ってやろうか?」
 大分伸びてきたもんなー、と間近く覗き込む紫の瞳。一瞬息をのむように大きく見開いたオラクルの目を、覆うほどに伸びた濃茶の髪を弄ぶ長い指。そこからこぼれた毛先がオラクルの頬を軽くくすぐる。そのまま後ろへ流すように髪をかき上げた大きな掌が、癖のない髪が逃げるのを惜しんでくしゃりとオラクルの頭を撫でた。ぱちりと瞬くブラウンの瞳が、くる、と光を含んで色を変えるのを満足げに見やって、やっぱこの方がいい、とオラトリオが呟いた。
 「お前の髪、癖つきにくいからなぁ…もっとまめに切りに行けよ。
 そういや何だよ、貰いモンって?
 ころりと話題を変えて腰を屈め、ひょいと指先に引っかけて覗き込んだビニール袋の中に小振りの西瓜を見つけて、男は腑に落ちたように苦笑する。
 「早いな、もう出てんのか。
 「…うん、一人だと食べきれないから、どうかと思って。」
 「おう、ありがたくいただくぜ…お前も食ってくだろ?
 「ありがとう、そうするよ。」
 冷蔵庫に冷やしておこうか?と袋を持ち上げるようにして伺いを立てたオラクルに、オラトリオがひらひらと手を振って見せた。
 「あぁ悪ぃ、いっぱいなんだわ今。」
 風呂場で冷やすよ、と袋を受け取る。たらりと下がった藍染めの暖簾を分けてその向こう側へ消えた背を見送り、オラクルがほぅっ…と溜息をつく。
 
 …まったく。
 お前のそんな何気ない仕草に、私が情けないほどどきどきしているなんて、お前は知らないんだろうな。
 もったいないから教えてやらないけどね、と心の中で舌を出してオラクルは小さく笑った。
       
 
 たとえば指が触れるだけで。