見果てぬ夢


 「───…あれ…」
 ふと立ち止まったクリスが首を傾げると、さらりと艶やかな髪が肩先をくすぐった。ぱたぱたと走り去っていく小柄な影には見覚えがある。翻る裾は青く、T・A(シンクタンク・アトランダム)研究員の、制服のブルー。けれども、背の半ばまでを覆い、微かに光の弾けるあの亜麻色の髪はHFRだけにあり得るものだ。
 「…エララよねぇ、あれ。」
 〈封印〉されたはずのA‐Numbers。
 クリスは傾げた首を扉の方へ振り向けた。ぴたりと閉じた分厚い扉は、白く廊下の照明を照り返して沈黙を守っている。静寂に沈むその向こうで、『何か』が起きているのだろうか?
 
 ───ふうん?
 
 ぱちぱちと瞬いた茶水晶の瞳が、すう、と醒めた光を宿す。普段は赤みの強いその色が冷えて奥底に沈み、秘めた理性の輝きを浮かべた。かき上げるように苛々と髪を弄りながら、扉の正面に向き直る。この向こうで何が起こっているにしても、エララ一人でのことではないだろう。まず間違いなくそこにはシグナルがいる。ロボット工学界未曾有の天才児の名を恣にする、音井信之介教授の最新作、全てにおいて型破りのHFRが。彼なら人の決めたことさえ軽々と越えゆき、自分の信じる道をゆくことも可能かも知れない。そして彼がいるなら、おそらくコードも〈封印〉を逃れているだろう。おそろしく気難しいA‐Numbers最長老の彼は、口では何のかんの言いつつ最新型のサポートという己の役割を気に入っているように見受けられた。その自分の見込みに間違いがなければ。
 少なくともその二人は、とクリスは指折り数えた。そしてそれ以外に、彼らの機体の〈封印〉を解いた者がいるはずだ、と口元に当てた爪を苛々と噛みながら考える。あの保管庫は内からは開かない、誰かが外から開かない限りは。
 ふと、あの場所で聞いた言葉が浮かんだ。音井教授の助手の立場を与えられているとはいえ、まだまだ半人前の工学者である彼女は〈封印〉に立ち会ったわけではない。けれどもその代わりのように、閉ざされた《ORACLE》の前に立って。
 そのセリフも、そうして立ち止まっていたときに聞いたものだった。
 
 
 「ロボットはヒトがいなければ存在できん。」
 壮年の科学者の、陽気さを装わせた声が常より幾分固く呟いた。意気地のなさを指摘されて苦笑いを浮かべ、鼻の下を擦りながらDr.ハンプティが呟く。
 「だからこそヒトを裏切らない、命令に従う。」
 嬢ちゃんもロボット工学者をめざしてるんなら判ってるよな、と言われてクリスの眉がきつく寄せられた。きゅう、とつり上がる茶の瞳が、冴えた氷の輝きを思わせる。語られたその言葉は彼女の科学者としての心を揺さぶった。いつかは〈アトランダム〉の名を戴くHFRを創りたいと思っているクリスにとって、その先達である男の言葉は聞き逃せぬ重みを持つものだ。たとえ頷けぬものがあっても。
 ヒトがいなければ生まれなかった命、ヒトの手なくしては維持できぬ身体。決して裏切らぬ、奇跡のようなその心───けれども。
 それがヒトに逆らわぬことと果たして同義か。
 ときに不器用なほどに真摯な彼らは、人の手を離れて歩むこともあるのだ。それができるだけの、より良きものをヒトは与えてきたのだから。
 『子供たち』への愛情に縛られた『彼ら(制作者)』には、見えない真実かも知れないが。
 願いを込めた言葉が零れる、凍った冷たい廊下。あの中にいれば安全だと祈るように伸べた指先が指し示す扉の内は、ヒトの手の届かぬところ。全智の巫(かんなぎ)宿る、情報管理電脳《ORACLE》だ。
 
 
 ───じゃあ、あいつも一枚噛んでるってことよね。
 
 ヒトを越えることを許された唯一のHFR、A‐O〈ORATORIO〉を思い浮かべてクリスは小さく身震いをした。端正な表情の奥に狂気にも似た光を潜め、《ORACLE》を統べる神ならぬ神の片割れ。『ヒトの手から知識を預かり、ヒトの手より護る』のは、彼の仕事だ。そこに眠っているはずのA‐Numbersが自由を得たのなら、どんな形にせよ彼が関わっているのは間違いがない。いついかなる時にも余裕ある態度を崩さない絶対の守護者の、許可なくしてその門より出ずる者はないのだから。
 まだ半人前で、アクセス・コードを持たぬクリスでさえその程度の知識は持ち合わせていた。そして『姿なき最強の守護者』を知り得た数少ない者として、それは確信でもある。
 ぱたぱたと引き返してくる小さな足音を聞きながら、クリスはくすり、と笑みをこぼした。
 
 『あの中は今言ったことが通用しない。』
 Dr.ハンプティはそう言った、確かに。
 だとすれば、彼らはもしかしたら己の信じる道をゆくのではないかと───そう思ったのだ。だからこそ「あいつらがおとなしく休んでんのかしらね」という言葉が出た。そのときは予想というよりも願望に近かったのだが。
 そうあって欲しかった。自分は『子供』が創りたいのじゃない、共に歩むことのできる『パートナー』を創りたいとこの道を選んだのだから。いつまでも手の内にとどめておけはしないのだと、証明されたことがわくわくするほど嬉しかった。
 
 
 
 「不本意ながらついてってあげるわ。」
 自分の描いた夢の、可能性を見せて欲しい。
 
 ───たとえばそれがどんな未来でも。