2004(平成16)年投稿
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58,永井均『これがニーチェだ』講談社,講談社現代新書,1998
 評価 ★★★★★  ニーチェに興味がある人にはあんまり役に立たない本  投稿日2004/1/23

 この本は,筆者自身が序文で明言している通り,ニーチェの正しい解釈を提示しようとしているものではありません。あくまでも,筆者がニーチェの中にいわば勝手に読みこんだ,筆者自身の考えが示されているものです。そしてその永井均の考えたことがニーチェの考えたことと結果的に一致しているかどうかは筆者にとってどうでもいいのだということも,これまた筆者が明言している通りです。その本書に対して正しいニーチェ解釈を求めることは,ラーメン屋の看板を掲げている店にはいってキツネうどんを注文するようなものでしょう。ラーメン(=永井均の考えたこと)よりキツネうどん(=ニーチェの思想)のほうが価値があるのだからラーメン屋といえどキツネうどんを置いていないのはケシカランというような,パースペクティブな議論はさておいて,少なくともそれは筆者が提供しようとしているものではないのです。もっとも,ラーメン屋の看板にしては,うどん屋と紛らわしいという批判は当っていることでしょう。

 本書を読んでヨロコブだろうと思われるのは,筆者の考えに興味を持っている人や,或いは筆者同様本当はニーチェなどどうでもよくってとにかく自分の頭で哲学することにこだわってしまう性癖のある人と,いうことになるのでしょう。「ヤマカッコの私」の不代替性にこだわり続けて人目も憚らないという,永井均が罹患しているのと似たような病的傾向のある人になら,この本は間違いなくスゴク面白いものであるはずです。

 発意当初は冗談半分だったとはいえこの本にこんなタイトルをつけるということは,永井均は意外と悪ふざけが好きなのだろうか。本のカバー紙を外してマッチの火にかざすと,タイトルのそばに「あくまでもボクにとっては」とか「なんちゃって」とかの文字があぶり出しになっているに違いない。

59,ベッカリーア『犯罪と刑罰』岩波書店,岩波文庫,1959
 評価 ★★★★★  今の刑事法が生まれてきた現場の実況中継  投稿日2004/5/5

 現在各国で通用している刑法,刑事訴訟法を貫く重要な基本方針が,次々と打ち立てられていて,まるで大学で使う刑事法教科書の総論部分を見ているようです。著者の時代18世紀には,ヨーロッパでは,罪刑法定主義をはじめとする,今では当たり前のそれら法原則が認められていなかったそうです。特に,拷問によって強制された自白に基づいて裁判がなされ,無実の者が死刑になるという例が後を絶たなかったとか。

 当時の時代的背景からは,裁判所は王の専制の片棒を担いで非道に走る機関であり,その横暴を防ぐのは正義と公平の実現者たる理性的な議会の役割であるとされています。つまり,本書では,議会が裁判所を監視することによって刑罰権力が暴走しないようにコントロールする,という構図がはっきりと想定されているわけです。その構図を今日の刑罰権力にそのまま当てはめるわけにはいかないと思いますが,刑罰権力に対するブレーキを権力のシステムそのものの内に組み込んでおかなくてはならないとする基本理念は,今日でも見失うべからざる視点だと思います。

 刑事法に興味のある人にとっては非常に興味深い本であり,学習者にとっても効率的な寄り道となることでしょう。

60,荻生徂徠『政談』岩波書店,岩波文庫,1987
 評価 ★★★★★  300年前の明晰な頭脳に触れる快感  投稿日2004/5/5

 元禄時代に柳沢吉保の助言者として名を挙げた荻生徂徠が,その晩年,英傑の呼び声高い八代吉宗に幕藩体制の建て直しを期待して献上した労作。建策当時は徂徠の高弟さえその存在を知らなかった秘本扱いだったそうです。

 まずは当時の社会問題,経済問題の根本的原因を探ります。筆者は,武士が街中に居付いて余分な消費活動にかまけてばかりいて生産活動に関与しないこと,身分秩序が乱れて分不相応な消費経済が放置されていること,などが,それら諸問題の原因となっていると分析します。ではそれをどうするか。武士は土着に帰ること,身分関係をきちんとして要りもしないものの需要を減らし,無意味な物価高騰を抑えること,などが説かれます。

 もちろん,人の欲望のだらしなさに対して青天井と言っていいほどに寛容な今日の考え方からすれば,身分不相応な欲望は抱くべからずというような主張を現実の政策として採り入れることはできないのでしょう。しかし,筆者の分析は整然としていて,こうなるからこういう結果になる,だからこういう問題が出てくる,という流れが,とても論理的に心地よく説かれているので,その考えの筋道だけでも大いに範とするところがありそうです。

 荻生徂徠の業績の真骨頂となると,古文辞学と称される分野の『弁名』『弁道』などの著作にこそ見出されるのかもしれません。でも,この『政談』には,並はずれた社会政策のセンスが発揮されており,これはこれで見落とすことのできないタイトルだと思います。

 少々厚めの本ですが,当時の世情も活き活きと伺えるし,読後の満足度は高いと思います。

61,山本常朝『葉隠 上』岩波書店,岩波文庫,
 評価 ★★★★☆   死ぬこととは生き終えることとみつけたり  投稿日2004/5/23

 江戸も中期にかかる頃,武士本来の活躍の場のない太平の中で「武士道」はすっかりほこりをかぶってしまっていた。これを世間の冷ややかな目もはばからず後生大事に掲げ続ける鍋島藩のアナクロ武士,山本常朝。本書はこの「サムライ馬鹿」が,サムライらしい生き様死に様に入れ揚げた狂おしい心中を披瀝したものです。四方山話ゆえ一貫した流れもなく話があっちこっちに飛ぶし,ほとんど全編ソーロー文で書かれているしでいささか読みづらいところがあります。でも,追い腹を禁じられた腹いせにぶちまけられた一徹オヤジのゴタクは,ちょっと「年寄りの愚痴」のイメージも強いものの,なかなか人間くさくて好感です。

 考えてみれば,「武士道」そのものは,所詮支配階級のための単なるフィクションだったのかもしれません。しかし,「武士道」であろうと「任侠道」であろうと,はたまた「学究道」「商売道」などそのレッテルはどうあろうと,己に課した理想に忠実に邁進する人間の一途な姿には,まごうことなき輝きを感じられるものなのだなと思いました。

62,セルバンテス『ドンキホーテ後編2』岩波書店,岩波文庫,2001
 評価 ★★★★☆   笑いの襟を正されました  投稿日2004/10/18

 前編と後編とで随分と雰囲気が違います。前編が出版され、好評を博してから10年ほど経って、後編が執筆・出版されたそうです。前編では、主従のでたらめな珍道中を大口開けて笑っていることができたのですが、後編を読み始めると間もなく、笑っていた自分自身の間抜けさ加減をこれでもかという程手痛く突きつけられる羽目になりました。
 勘繰りかもしれませんが、作者は、前編の主従を笑う世間の眼差しに深く不満を覚えていたのではないでしょうか。というのも、後編では、まるでドッキリカメラの悪ふざけにゲラゲラ笑っているようなやり方で、沢山の人達がドンキホーテ主従を周到に愚弄するのです。その愚弄する人の側の悪辣さ・趣味の悪さが、持って回った表現で、しかし実は前面に押し出されます。これに対して主従の行動は寧ろそれに翻弄される被害者のものとして描かれています。そんな目でこの主従を見てほしくない、そんないやらしい仕方で彼らをあざ笑ってほしくない。作者の、じれるような思いが強く感じられました。  本当なら作者は、主従の愚行の底を流れているその誠実さ、優しさを、前編の荒唐無稽の中にこそ読み込んでほしかったのではないかと思うのです。そして、読者自身の愚かさを主従の中に看て取って、笑いつつもいとおしく思う気持ちを読者と共有したかったのではないかと思うのです。ところが意に反してそうは読んでもらえなかった。主従を特殊な愚者・狂人としてまるで他人事のように笑うばかりで、誰にでもある人間の悲しさを感じてはもらえなかった。それゆえに後編の主従には、思い迷った屈託が顕著になります。本来作者の意図からすれば言わずもがなであったはずのそれら「人間性」が、語るに落つるとでも言いたくなるほど露骨に表現されてしまいます。

 狂気のままだろうと正気に戻ろうと、そんなことにはお構いなしに「騎士」らしい誠実を貫いたドンキホーテ。彼を笑うにはやはり相当の覚悟が要るようです。

63,ペルリ『日本遠征記(1)』岩波書店,岩波文庫,
 評価 ★★★★★   見習うべき外交の手本にしてその限界なのだろうか  投稿日2004/11/15

 ペリーの艦隊は、大西洋を越え喜望峰を廻り長い行程を経て日本へやってきます。遠征記の前シは、その、日本へたどり着くまでの航海記で、当時の「世界史」がいっぺんに同時に進行していたさまを輪切りにして垣間見せてくれます。それだけの手間ヒマをかけた遠征隊は、さすがに日本の気候、風土、地理、さらには産業、歴史などについてまで、かなり詳しく下調べもし、相応の人材を揃えたうえで満を持して日本にやってきたようです。日本の事情を欧米に詳しく紹介したシーボルトについて、その業績を高く評価しながらも非常に辛辣な批判を下したり、鎖国当時の日本と交流の合ったオランダについてその倫理面をかなり手厳しく批判したりもしています。遠征隊は日本についてかなり冷静で客観的な視点を持っていたようだと感じました。
 ところが後半、いよいよ日本との国交交渉に入ってくると、それまでの客観的な、あるいは傍観者的な立場が姿を消して、アメリカの国益がズイっと押し出されてきます。そこには、相手に大砲を突きつけながら「私は友好的な平和の使者だ。私に逆らうものは平和の敵だ」と迫る、はなはだ身勝手で脅迫的な外交姿勢が慎みもなく露呈されています。これだけの準備を経た充分な資質の使節にして、結局はこんな無自覚なゴリ押ししかありえないのが「外交」というものなのかと溜め息が出ました。

 日本の近代の初めの一歩を振り返りながら、国同士の付き合い方のありようそのものをつくづく嘆き返さずにはいられなくなりました。

64,<音楽CD>『モンゴリアン・バーベキュー』レニングラード・カウボーイズ,BMGファンハウス
 評価 ★★★★★   足腰の強い念の入った悪ふざけ  投稿日2004/11/15

やってくれてます。
悪ノリです。
映画の中だけに出てくるギャグバンドかと思っていたのですが、
私の認識が甘すぎました。
こんなナリでこんなことをやっている連中が本当にいたんです。

悪ノリとはいえ、堅固な土台がドッシリと根を張っているようです。
相撲取りが四股を踏みながら真剣な表情でジャグリングをしているような、
抗い難い異様な力強さがあります。
その野太い音に蹂躙される我々の聴覚は、
祖国フィンランドを虐げてきたロシアに対する
彼等の屈折した表情を見ていることにもなるのでしょう。
しかし、そこには安直な阿諛などはもとより、
裏返しの自嘲すら既に読み取ることができません。
屈折を屈辱と思わぬ強靭な下半身、
心の古傷にも目くるめくことのない清澄なバランス感覚。
これこそが四股を踏みながらのジャグリングをも可能にする足腰の粘りなのでしょう。
おのれを笑いのめすには、
これくらい臍に力を入れてテンションを上げる必要があるのだと
ホレボレしました。
フィンランドの音楽ヒロイズムの担い手として、
レニグラこそはシベリウスの後継と位置づけられるべきでしょう。

ぜひ、日本国内版限定ボーナストラックのジンギスカンで、
まるでアメ横の叩き売りのような混濁した重量感に圧倒されてみてください。

65,島田ゆか『ぶーちゃんとおにいちゃん』白泉社,2004
 評価 ★☆☆☆☆   なぜこんなことに・・・  投稿日2004/11/29

 これまで島田ゆか作品は、バムケロ4冊、ガラゴ2冊、いずれも大気に入りで、子供にも手放しで勧めていました。ぶーちゃんを店頭で見つけたときも、何の迷いもなくレジに直行しました。でも、これは期待はずれでした。
 今までの6冊とは、明らかに雰囲気が違っています。優しさに包まれている感じがせず、かわいそうでさびしくて、いやな気分になります。

 ぶーちゃんをかまうおにいちゃんの行動が、下心のある企みであったことを見せつけられるときの後味の悪さ。自分の後ろ暗さをごまかすためのおにいちゃんのもてなしに、そうとは知らずご満悦のぶーちゃんを見るときの罪深い申し訳なさ。読んでいる自分までこずるい不誠実に加担しているかのような、なんともさわやかでない居心地の悪さを感じます。

 子供はそういうものなんだ、人間はそういうものなんだ、そのとおりだと思います。でも、それをどう受け止めるのか、そこに作品の味わいの違いが出るのであり、作家の仕事はまさにその部分にこそ核心があり、価値があるはずだと思います。これまでの島田ゆか作品では「そういうもの」である人間と手を取り合って軽やかにスキップしていたはずなのに、この作品に限って、「そういうもの」である人間に対する心穏やかでない視線が感じられます。

 この作品に関して家内も私と同じ感想だったので、我が家では、まだ子供の目に触れないうちにこの本は隠してしまいました。
 次回作で、元の島田ゆかさんに戻ってくれることを祈っています。

66,五味太郎『がいこつさん』文化出版局,1983
 評価 ★★★★★   立ち読みしていたら涙があふれてきた  投稿日2004/12/6

子供の絵本として分類してしまうと、
この本の味わいは大幅にはみ出してしまいそうです。

忘れていたものを探しに町にさまよい出たがいこつさん。
最後の手紙を出したのはもうとっくの昔のこと。
待ってくれている人もいたけれど、それもずっと昔の話。
ここにあるのは、涙が涸れた後の冷めたムクロだけ。
そんなさびしいがいこつさんのあてのない彷徨に、
作者はこの上なく暖かく寄り添ってくれます。

いつもどおりの五味太郎の絵のはずなのに、
がいこつさんの目を通して見る町の賑わいは、
まるで離人症のように実在感のない無表情。
でも、そんな浮世の空々しさを、
作者は批判したり厭わしく思ったりしてはいない。
この世にはこんな楽しみもあったっけ、あんな心配もあったっけ。
それら詮無いあれこれを、
ま、それもそうだな、と言ってため息の中にしまっておいてくれる。

気がかりを突き止めて、
冷え冷えした色使いのねぐらにもどったがいこつさん。
もういまさら必要のない詮無い浮世ごとをすませて、
とっても安心した気持ちで寝てしまいます。

小1の娘にはがいこつさんの酸っぱさがピンと来なかったようです。
でも、これほど温かい懐に憩うことのできる絵本は、
生きる手本として与えておきたいと思います。

67,香山リカ、森健『ネット王子とケイタイ姫』中央公論新社,中公新書ラクレ,2004
 評価 ★★★☆☆   簡単に考えて済むものでないということは伝わってきた  投稿日2004/12/13

 インターネットにケータイにテレビゲーム。ホンの近年になって普及したそれらについて、我々は適切な利用の仕方のノウハウを十分に身に着けてはいない。そして、大人が戸惑っていること自体も魅力となってか、子供たちはそれらを急速に採り入れてしまっている。さて、大人にとって自分たちがまだロクに分かっていもしないそれらが、子供たちにとってよくないものかもしれないと心配になったとき、大人はどうしたらよいのか。
 確かに本書で説かれるところは正論である。ネットにせよケータイにせよ、単に便利な情報端末というに留まらず、子供たちはこれらを通じて人間関係の一定の割合を築いている。場合によっては子供にとって全人格をこれらの手段に寄りかかってしまっていることさえある。それはつまり、ネットもケータイも、学校生活や家庭生活と同様に、人間として成長する上で不可欠の場となっているのが実情だということだ。そうである以上、すでに子供たちが大きく依存しているそれらをただ一律に取り上げてしまおうとすることは、気がかりな問題の解決方法として適切ではない。多くの人が常識的に感じていることではあろうけれど、本書では、そのあたりの実態を冷静によく見つめ、それを誠実に受け止めていることが伝わってきて心強い。
 しかし、では、どうしたらよいのか、肝腎のその点になると、本書の論調はグッとトーンが落ちてしまう。つまるところ、「危ないこともあるものだしドップリ浸かってしまうのはよくない。困ったときは大人に相談して」というなんとも奥ゆかしい提言で締めくくられてしまう。
 日頃潔い香山リカの度胸をもってしても、さすがにこのテーマにはてこずっているのだろうか。