2005(平成17)年投稿
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68,『再審「南京大虐殺」』明成社,2000
 評価 ★★★★☆   「南京大虐殺」についての見方が劇的に変わった  投稿日2005/1/11

 読前は、「このテの本」という先入観が強かったが、読み進めるうちに居住まいを正すはめになった。無論、本書の著者が「南京大虐殺」を主張する者に対して向けているほどに厳しい眼差しを、等しく本書に対しても向けるなら、本書の主張にも疑問に感ずる点も少なくないことにはなるが、「南京大虐殺」を主張する側の論拠を一つ一つ丁寧に確かめ、反論していくその手際には、「このテの本」と片付けてしまうわけには行かない堅固な論理を認めざるを得ない。読後、私の中で、『「南京大虐殺」はどうやら相当眉唾な話のようだ』、という思いが非常に強くなった。さらに、だからといって、日本がやったことはみんな正しかったとか、中国人はどいつもこいつもウソツキだとか、そういう短絡の臭いを感じさせてはいない点も、本書は安心できる。

 ただ、どうしても批判せざるを得ない点がひとつ。それは、本書が終始刑事訴訟手続になぞらえて歴史的真実の検証を行おうとする、その基本姿勢である。本書で度々引き合いに出される「挙証責任」やら「証拠能力」やらという刑事訴訟上の仕組みは、仮令真犯人がのうのうと逃げおおせてしまうような事態が生じてしまうとしても猶、刑罰権力によって無実の者が罪を着せられてしまうよりはまだましであろうという、身を切るようなギリギリの譲歩を法的システムとして定めたもののはずである。その苦渋に満ちた「歴史的真実に対する妥協」のためのシステムを、歴史的真実を確かめようとする本書のような企てに当てはめるのは、どう贔屓目に見ても的外れという他ない。

 あげつらいはともあれ、本書の主張の本筋について根本的な不合理を感ずる部分はとても少ない。あと読者に残された作業は、本書が論拠とする歴史資料に直接当たって、本書の資料解釈が妥当かどうかを検証することばかり、ということになりそうだ。

69,宮城谷昌光『三国志 第一巻』文藝春秋,2004
 評価 ★★★★☆   読み進むうちに第二巻への期待が大きくなってきた  投稿日2005/1/17

 白状します。この作家は、名前も知りませんでした。スミマセン。三国志が好きなので、なにやら現在執筆連載中の活きのいい作品らしいと、先の永い楽しみを期待して読んでみました。
 まずは、これまでの三国志の書き出しに漫然と馴らされていたファンの意表をつくスタート。三国志の中で知らないことなど(あまり)ないと思っていたのに、こりゃいったいいつの時代のことだろうととまどっていると、「宦官の子」曹操のその宦官である祖父曹騰の幼少期あたり。従来の三国志体験では名前しか知らなかった人物が生き生きと動いているところを見せられると、「おお、これがあの」と興味をぐっと惹きつけられます。ニクイ構想です。
 ただ、所謂エンターテインメントと分類するには、この作品の雰囲気はだいぶゴチゴチしているようにも感じます。見慣れない言葉も多いし。北方謙三三国志のようなものを期待していると、「なんだか殺風景」と思ってしまうかもしれません。とはいっても、元の資料を逐一明記して引用したり他資料と比較したりの一点張りというわけでもなく、想像をたくましくしたフィクションとしてうまいこと気を持たせてくれてもいます。
 まだ第一巻。これからどうなっていくのか不安半分であるにせよ、とりあえず第二巻を読まずにはいられなくなりました。

70,宮城谷昌光『三国志 第二巻』文藝春秋,2004
 評価 ★★★★☆   いよいよ主役たちの入場行進  投稿日2005/2/3

 第二巻は、三国志のスタートとして定番となっている霊帝末期に直接つながる、桓帝のあたりが中心になっています。この巻の終わりのころになると、いよいよおなじみの顔ぶれが動き始めます。いつもの登場人物が、いつものエピソードで登場します。その人物、エピソードの一つ一つについて、作者の理解で作者のイメージを膨らませて描かれています。その描き方からは、作者はずいぶん丁寧に歴史資料を広げているのだろうということが伝わってきます。そこには資料に裏付けされたリアリティがあることも確かですが、ただそれだけに、たくさんの資料に目移りしてしまって、つい歯切れが悪くなってしまうものかな、という感じもします。なじみの薄い登場人物が多い点にも、「いつもの三国志」のつもりでばかりいると戸惑います。
 それにしても、やっぱり、曹操、袁昭、孫堅、劉備といった名前が並び始めると、それだけで勝手に華やいだ気分になってきます。みんな若いし、「ああ、これからだなあ」と期待のこもったため息が出てきます。
 これだけ気をもたせて、さあ第三巻はどうなるのか、やっぱり読まずにはいられないようです。

71,アドルフ・ヒトラー『わが闘争 上』角川書店,角川文庫,1973
 評価 ★★★★☆   いまだ克服されてなどいない  投稿日2005/2/3

 上巻では、ヒトラーの生い立ちから第一次大戦に従軍した後政治活動に入り込んで成功していくあたりまでの経緯を綴る中に、歴史や政治、民族についてのヒトラーの考えが織り込まれていく。
 文学的な表現力、長文の構成力という点では、少々偏執的ではあっても並でない力量に端的な感銘を覚える。しかし、その確かな文章で築かれた本書には、冷静な理性の目と熱病に浮かされてうつろにすわった目とが並んでこちらを見据えているような、なんとも気色の悪い居心地の悪さがある。
 政治の仕組みとしての民主主義の危うさを指摘し、それを逆手に取る大衆宣伝に注目するあたりの認識には、冷徹で非凡な炯眼を認めるべきだろう。しかしながら、アーリア人こそが選ばれた優秀な民族であり、他の劣等な民族を踏みにじって栄えるべきであるとし、さらには西欧社会を土台から腐らせている元凶はユダヤ民族の陰湿な陰謀にあるなどと息巻くところを目の当たりにすると、まるでスーツを着込んだ紳士が電車の中で相手も無くいきなり大声で罵り始めるところを見ているようで、とても共感だの反感だのという気持ちの興る代物ではない。とは言っても、これを幾分か穏便な表現に焼きなおしさえしたなら、昨今威勢のよい発言で人気を博している政治家たちとまるっきり見分けが付かなくなってしまうのではないかという気もする。

 本書がヒトラー一人で構成、執筆したものであるかどうかはさておき、ここに説かれているところは今日に至るまで何一つ克服されていないと思い知るところから、改めて今後の社会のあり方を問い始めるべきだろう。気休めのレッテルを貼って本書を黙殺することは、社会を考える上でプラスにはならない。

72,岡田尊司『人格障害の時代』平凡社,平凡社新書,2004
 評価 ★★★☆☆   人類は人格障害から逃れられないのか  投稿日2005/3/18

 人格障害という、治療対象となる心の状態について、原因、症状、治療法などを整理し、更にこれをキーワードとして現代社会を読み解こうとする試み。
 本書によれば、資本主義原理を押し立てて人間を自由にさせておけば自己愛性人格障害をもたらすし、そうかといって、前近代のように画一的な価値観で人間をがんじがらめにすると妄想性、あるいは強迫性人格障害に陥る。リーダータイプの人は演技性、あるいは反社会性人格障害の傾向があり、これに付いていく人は依存性、回避性人格障害の特徴が強いとか。なんだか、人間に関する現象の何もかもが人格障害に付きまとわれてしまっている。もしかしたら、結局、どんな状況の下でもどのみち人格障害「的」になってしまうのが人間なのだというのが、ことの真相なのかも知れない、という気さえしてきた。
 思うに、人格障害「的」な傾向というのは、なにも「治療」を必要としてはいない人にでも、誰にも認められる人間としての通有的傾向、言葉を換えればそれこそが「人間らしさ」なのではないだろうか。それなら人間の営為のすべての面について、人格障害「的」傾向を指摘することができるのも、当たり前のことだ。しかしその同じ人格障害「的」傾向が、時には「治療」を必要とするものとなってしまい、時にはそうではなくバランスをとって収まっていてくれる。それはいったいなぜなのか、そこの点にこそ関心があるはずなのだが、本書にはそういう問題意識はなかった。
 本書では人格障害的な世の中を改めて人間らしさを取り戻すべきだと結論される。しかし、もし人格障害的なものこそが人間らしさなのだとしたら、それを斥けておいていったいどんな「人間らしさ」を手に入れようというのだろうか。

73,堀場清子編『「青鞜」女性解放論集』岩波書店,岩波文庫,1991
 評価 ★★★★☆   世間の壁に当たって砕けた珠は輝いていた  投稿日2005/3/18

 女流文学の発表の場としての使命を任じた『青鞜』に、付録のようにして掲載された評論などを集めたもの。当時の女流論客のしのぎの火花を砂被りで眺めているような迫力がある。ただ、一連の議論として発表された文章であっても、『青鞜』以外で発表されたものは収録されていないので、不便もある。
 議論の水準としては、成層圏の彼方に飛翔してしまったような今日の女性学とは比べるべくもないが、決して過去の遺物と軽んずるようなものではない。特に、平塚らいてうの所論の鋭さは際立つ。冒頭、『人形の家』のノラについての所感が次々と熱く繰り広げられる中で、らいてうの眼差しは至って冷ややか。こんなの当たり前じゃないの。いまさら浮き足立つなんて、ノラもずいぶんとウブなんじゃない?と言わんばかり。対照的に、公娼制度に関して青山菊栄の反論に応えた野枝の文章などは、もはや読むに耐えないほど見苦しく取り乱したものに成り終わってしまい、いかにもお粗末。

 本書で採りあげられている様々なテーマの中には、家父長制や姦通罪についての法改正、堕胎罪運用の大幅な変化、或いは女性普通選挙の実現、公娼制度の廃止など、時代を経て既に議論の直接の基礎が失われた問題もある。しかし、それらについて本書で問われていたことの根本は、制度の変化によっては結局なにも解消されたわけではないこともまた見逃してはならないはずである。刑罰の対象とならないとは言っても、姦通や堕胎を例えば自分に許せるのかという問題の深みは、相変わらず混沌のままではないか。大正時代に熱く論ぜられたこれらは、結局われわれの問題として今尚立ちはだかっている。

74,飯尾憲士『開聞岳』集英社,1985
 評価 ★★★★★   雄弁な沈黙  投稿日2005/3/21

 特攻隊員の「本心」を追い求めるルポルタージュ。

 朝鮮出身者を父に持つ著者は、陸軍航空士官学校在学中に敗戦を迎える。その後、父の足跡などを追う取材の中で、朝鮮出身の特攻隊員が「天皇のため」というストーリーとは別の思いを抱いて米艦隊に突入したという資料に触れる。どういうことなのだろうという素朴な疑問に駆られ、すでに数十年を経た彼らの気持ちを掘り起こす。特攻隊員一人一人の内心を再現する上では、公的戦史はまったく当てにはならない。本人を直接知っていた生き証人を一人また一人と探しては、過去の古傷を疼かせることにさえなりかねない取材を続ける。まるで探偵小説のような緊迫した展開の中に、死に場所を思い決めた彼らの梃子でも動かぬ眉根が年月を越えて浮かび上がってくる。戦後、息子が特攻隊員として戦死したことから自国朝鮮同胞から手厳しく断ぜられた遺族が、著者の誠意にほだされて取材に応ずるくだりには、超えがたいものが超えられた重みがある。

 本書を読むと、自分の立場をアピールするために靖国参拝をすることなど、とても冒涜的なことにさえ思えてくる。

75,丸山茂徳,磯崎行雄『生命と地球の歴史』岩波書店,岩波新書,1998
 評価 ★★★★★   生きている地球を研究する、その学問も生きている  投稿日2005/11/30

 地球はどんな風に出来上がり、どんな風に変わってきたか。その地球の成長の波に木の葉のごとくもまれながら、生物はどのように移り変わってきたか。
 地球の中で起こっている、長い周期での大規模な変動。「プルーム」と呼ばれる巨大な塊が何億年もの間隔で地球の内部を浮かんだり沈んだり。そのたびに、地表の生物が何度も絶滅しかけてはかろうじて生き残り、異なる生態のものが栄えるということが繰り返された。20年以上前に学校教育に区切りをつけてしまった自分にとっては、「ちっとも知らなかった」ということばかり。
 それにしても、地球や生物の歴史については、現在まさにどんどん研究が進み、新たな仮説が次々発表され、それが立証されたり反証されたりという状況のようです。これほど活気のある学問分野というのが、他にいったいどれだけあるのだろう。
 誰も見てきていないことについてあれやこれやの証拠を見つけ出しては学説を検証していくその展開は、まるで上等の推理小説みたい。そして誰も目撃することなどない何億年何十億年先の地球の姿を描いてみせる想像力はまるで天を翔るよう。そのまじりっけなしの「科学する心」は門外漢をも心ゆくまで楽しませてくれる。

76,三浦展『下流社会 新たな階層集団の出現』光文社,光文社新書,2005
 評価 ★★★☆☆   「やっぱり上流はうらやましい」と思う読者の引け目が著者の付け目  投稿日2005/12/13

 自分が上流中流下流のいずれに属していると思うかという意識調査の分析報告。消費行動、嗜好するブランド、性格、教育程度、所得など、どのような要素がそれら意識と関連が深いのかに注目している。かなり身近な風俗・生活環境が、具体的な商号やブランド名をふんだんに採りあげて盛り込まれているので、今を生きている読者にはとても近しさを覚えやすいものになっている。ただ、それだけに、本書の賞味期間はかなり短いものにもなりそうだ。
 統計の数字の読み方はぞんざいではないが、なお、ことさら上と下との差を強調しようとする恣意性も感じる。なにより、本書が採りあげているデータは、自分で自分の階層をどう位置づけるかという自己評価についての調査結果なのだ。それが客観的な階層所属事実とは別物であることはもとより、上流中流下流という言葉の定義によっては、その階層自体さえもきわめて流動的となることは当然だ。さらに、例えば僻みっぽく後ろ向きな考え方をする人間だったら実際より下の階層に自己評価をするだろうし、逆ももちろん。
 結局、本人の幸福感・満足感は上流中流下流という意識に還元されてしまうものではないはずなのだ。そして、実は著者もそれは当然のこととして折込済みでものを言っていることはよくわかる。しかし、敢えてその点に対する読者の誤解を厭わない構えも見え隠れする。うがってみれば、上流中流下流の意識こそがずばり幸福感とイコールなのだという、まるっきり週刊誌的な下世話な期待に迎合してホンネをそっと押し隠しているようにさえ感じられる。