戦艦 三笠



明治35年3月1日、イギリス・ヴィッカース社で竣工。排水量15,362トン、全長131.7メートル、幅23.2メートル、出力15,207馬力、速力18ノット、航続力10ノットで7000浬、主砲300ミリ連装砲塔2基、副砲150ミリ単装砲14基、魚雷発射管4門、喫水線装甲230ミリ、乗員859名。
竣工時において列強海軍最新鋭・最強艦であった。
防御装甲に、従来のハーヴェイ鋼より強度の高い新開発のクルップ鋼を用いたため、装甲を薄くして重量を軽減することができ、装甲部分を拡大している。

「三笠」の発注に際しては次の逸話が伝わっている。
拡大を続けた海軍であったが、明治33年には海軍予算が底をつき「三笠」の注文手付金を払えなくなった山本権兵衛海軍大臣が対策に窮し、西郷従道内務大臣を訪ねた。
相談を受けた西郷は事も無げに笑って「お国の大事じゃ、すぐ注文すべきでごわす。他の予算を流用して金を出せばよか。違憲じゃが、おいとおはんが腹を切ればよか。」と答えて発注が行われたと言う。

明治36年12月、日露間の緊張が高まり編成された「連合艦隊」旗艦となり、東郷平八郎司令長官の座乗となった。
海戦早々、旅順港攻撃に参加し、8月10日の「黄海海戦」では「三笠」の主砲弾がロシア旅順艦隊旗艦「ツェザレウィッチ」の司令塔を直撃しウィトゲフト少将以下司令部員を殺傷したため旅順艦隊は敗走した。
明治38年5月27日、戦局挽回を期して、ロシア皇帝ニコライ二世が派遣したバルチック艦隊38隻と対馬海峡で激突。
「三笠」は先頭艦として戦い、右舷に40発、左舷に8発の命中弾を受け死傷110余名を出し、後部檣楼が半ばから折れるなどの大被害を受けた。
一時は、檣楼の先端に上がった「戦闘旗」も引き破られたが、信号係りの士官が個人的に用意した戦闘旗が掲げられたエピソードも伝わる。
日露講和後の明治39年9月11日、連合艦隊司令部の大半が帝都に報告のため凱旋している最中、原因不明の火薬爆発により佐世保湾内で爆沈した。
直ちに引上げ作業が行われ、艦隊に復帰したが「ドレッドノート」の出現により第一線艦としての役割は終った。

大正11年、ワシントン条約により廃艦が決定されたが、記念艦として保存されることとなり現在はその勇姿を横須賀に見ることが出来る。