装甲巡洋艦「日進」
明治37年1月7日、イタリア・アンサルド社で竣工。排水量7,700トン、全長104.9メートル、幅18.7メートル、出力14,696馬力、速力20ノット、航続力10ノットで5500浬、主砲200ミリ連装砲塔2基、副砲150ミリ単装砲14基、水中魚雷発射管4門、乗員568名。
アルゼンチン巡洋艦「モレノ」として建造中であったが、日露関係の緊張が高まったため日本が急遽購入した新鋭艦。
当初、日本はイギリスで建造中の戦艦2隻の購入を検討したが、ロシアの工作が早く売却寸前となった。
同盟国日本の脅威となることを配慮したイギリスは売却を禁じ即金でこの2隻を買い取りイギリス艦隊に編入するとともに、イタリア・ゼノアで建造中であった「モレノ」「リヴァダヴィア」の購入を日本に勧めた。
2隻とも主砲はイギリスのアームストロング社製であり、「モレノ」(日進)の主砲は仰角が高く最大射程は1万5千メートルを誇った。
二隻の購入価格は千六百万円であったが、山本権兵衛海軍大臣が大蔵省に掛け合ったところ陸軍の鉄道建設予算が先決と言われ交渉は破談となりかけた。
事情を聞いた児玉源太郎陸軍参謀本部次長が予算の流用を認めて購入に成功したと伝えられている。
二隻の回航は、アームストロング社が請け負ったが、出向直後からロシア戦艦「オスラビア」らに付け狙われ、イギリス地中海艦隊により護衛され無事インド洋に出て開戦直後の2月6日に横須賀に到着した。
海軍首脳部は、この二隻の有力艦が日本の勢力下に入るまでロシアと国交断絶にならないよう働きかけを行い、シンガポール出港を確認してから国交断絶を通告した。
開戦後、戦艦「初瀬」「八島」を触雷で失った第一艦隊第一戦隊に編入され、戦艦の代用として活躍した。
「日進」は第一戦隊の旗艦として、戦隊指揮官梨羽時起少将の座乗となったが、海戦では殿艦であったため被弾続出し日本海海戦では艦橋付近に被弾し艦長以下幕僚が戦死している。この時、弾着測定係りとして乗り組んでいた高野少尉候補生(後の山本五十六元帥)も左指二本を失う負傷を負っている。
第一次世界大戦では、駆逐艦部隊を率いて地中海に遠征した。大正10年海防艦となり、昭和10年4月1日除籍となった。