戦艦「日向」


「日向」は昭和に入っても度々改装が行われ、昭和9年に大規模な近代化工事が呉工廠で行われた。遠距離砲戦力の向上、水平・水中防御の強化、重油専焼式主機への交換、航空兵装の強化などが行われ、鐘楼トップには10メートルの測距儀が搭載され、九五式方位盤など諸設備も近代化された。
 煙突は第2煙突あとに1本煙突とし、その周囲に探照燈台が設置された。艦尾も改装により延長され、広くなった後甲板は飛行機甲板とされ艦尾右舷に呉式2号5型射出機1基を装備し、水偵3機の搭載が可能となった。なお、この改装までに魚雷防御網展張ブーム、水中固定式魚雷発射管、スタン・ウォーク等の旧式装備はすべて撤去された。これらの改装により、「扶桑」型より0.5ノット優速となり「長門」型に対応する速力発揮が可能となった。弾火薬庫の防御力も強化され、基準排水量36,000トン、全長215.8メートル、最大幅33.83メートル、航続力16ノット7,870海里、最大射程35,450メートルの近代戦艦に生まれ変わったのである。
 太平洋戦争開戦時は第一艦隊第二戦隊に所属し活躍を期待されたが、著戦の真珠湾攻撃で米戦艦部隊は壊滅したため戦果をあげることができないまま内地にあったが、昭和17年5月5日、伊予灘で主砲射撃訓練中に第5砲塔が爆発事故を起こし使用不能となるアクシデントに見舞われた。このため、ミッドウェー海戦で喪失した主力空母の穴を補うため戦艦の空母化が検討された際「日向」が候補となり、「伊勢」型2隻の改装が決定された。
 第3砲塔以後の4砲塔と後部艦橋全てを撤去し、煙突から後ろ全てを航空施設とする案も検討されたが、工期と用材の関係から、第5.6砲塔を撤去する案となった。砲塔を撤去した後部上甲板に格納庫を設け、その上に飛行甲板を設置したが、着艦はできず航空機を繋止し整備に使用されるもので3条の搭載機運搬軌道が設けられた。飛行甲板やや後方に丁字型の昇降機が設けられ、左舷後方に航空機揚収用の4トンクレーンが取り付けられた。
 格納庫の下には3層の甲板があり最下層に舵機室があるが、周囲にコンクリートを充填し防御を強化した。
 副砲は全て撤去され、高角砲4群16門、機銃は57挺が装備された。対空火器はその後も追加され捷号作戦の頃には機銃92門、対空ロケット砲28連装6基を装備した。「伊勢」「日向」に積んだ対空ロケット砲は、「瑞鶴」が装備したものと同型で6発ずつ5段(下段2層は俯仰角用歯車があり5発)の発射軌条をもっており、ロサ弾とよ呼ばれた重量24キロの弾体を発射した。最大射程4,000メートルと言われているが、射程の切り替えにより2,000〜3,000メートルで使用された。弾体の中には焼夷弾子4.5キロが入っており、敵機の進入コース全面に焼夷弾の弾幕を広げる仕組みであった。
 主砲用として開発された、対空用砲弾「三式弾」は、焼夷弾子を敵編隊の前面にばらまく砲弾で各種口径向けが製造され、36センチ砲用のものは焼夷弾子480個、危害半径152メートルの巨大な花火であった。珊瑚海海戦、ガダルカナル島砲撃などに活躍したが、「陸奥」爆沈の嫌疑を受け一時使用中止となり、製造中止となっていた。
 電波探信儀は、対空見張り用の21号電探と水上見張り用22号電探を艦橋上部に装備した。
 搭載機は当初、新鋭の彗星艦上爆撃機をカタパルト用に改造したものを使用する予定で、カタパルトを甲板上に埋め込み22機を15秒ごとに左右交互に打ち出し約5分で発艦完了する計画であった。しかし、戦局の悪化と物資の不足で彗星艦爆は間に合わなくなり、この計画も水泡に期した。
 改装なった「伊勢」「日向」は第4航空戦隊として松田少将の指揮の元、昭和19年10月24日ルソン島東北海面に進出したのである。

 マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦でようやく錬成した空母搭乗員を喪失し、すでに航空戦力を失った小沢中将率いる機動部隊は、戦艦「大和」「武蔵」を中心とする栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させるため、ハルゼー提督の機動部隊を引きつける囮となったのである。
 開戦当初活躍した、「赤城」「加賀」「翔鶴」「蒼龍」「飛龍」すでに無く、歴戦の搭乗員も相次ぐ激戦でほとんどが失われていた。
 小沢機動部隊の戦力は、空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千代田」「千歳」、航空戦艦「伊勢」「日向」、軽巡「大淀」「五十鈴」「多摩」、駆逐艦「秋月」「霜月」「桑」「槙」「杉」「桐」の17隻であったが攻撃機は僅か106機、対するハルゼー艦隊は空母12隻、護衛空母18隻、搭載機1,280機であった。
 フィリピン沖海戦を生き残った「伊勢」「日向」はリンガ泊地に帰ったが、すでに南シナ海から東シナ海へ抜ける海域は米潜水艦に封鎖されており、開戦時日本が渇望した南方資源地帯との日本本土は事実上断絶していた。
 軍需物資の不足に悩む海軍は、北号作戦として「伊勢」「日向」に日本回航を命じた。「伊勢」「日向」は航空ガソリン、ゴム、錫などの軍需物資を満載し、「大淀」「朝霜」「霞」「初霜」を従えて昭和20年2月10日シンガポールを出港した。 再三にわたる潜水艦と攻撃機の攻撃を回避した艦隊は、2月20日一隻の落後も無く呉軍港に到着し無事任務を果たしたのである。
 内地に帰投した2艦であったが、すでに新たな作戦を行うだけの燃料は本土には無く、「伊勢」「日向」ともに呉軍港外に係留され3月19日には米機動部隊の空襲を受け錨で固定され回避運動の取れない「日向」は猛烈な対空砲火で応戦したが、命中弾1発、至近弾多数を受けた。
 7月24日には、再び米攻撃機50機が襲来し200発以上の爆弾を投下、命中弾10発、至近弾30発を受け浸水しやがて着底した。
 「伊勢」「日向」ともに沈没の原因は、装甲を張った重要部分に命中弾を受けたからではなく、多数の至近弾による非装甲部分にできた破孔からの浸水であった。
 超弩級戦艦として誕生し、最強を誇った戦艦は防御力においても優秀な設計であった。

戻る