バッハファミリーの音楽U 1999/9/7
JTアートホール
今日の室内楽シリーズは小林道夫(Cem)を中心に景山誠治(Vn)、神谷美千子(Vn)、菊地知也(Vc)、佐久間由美子(Fl)、斎藤和志(Fl)で演奏された。
プロはW.F.バッハ(1710〜1784)を3曲。(1)2本のフルートと通奏低音のためのソナタ第2番、ニ長調、F48、(2)2本のフルートと通奏低音のためのソナタ、変ロ長調F50、(3)2本のフルートのための二重奏曲第4番ヘ長調F57それから、後半に、C.P.E.バッハ(1714〜1788)を2曲。(4)フルート、ヴァイオリン、通奏低音のためのソナタ、ロ短調、Wq143。(5)二つのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ、ヘ長調Wq161-9。 (1)はアンダンテ〜アレグロ〜ヴィヴァーチェの構成で、気品があり、優等生的な性格は横須賀で、聴いた小林のソロの時の印象と共通だ。2楽章でのフルートの絡み合いがおもしろかった。(2)はラルゴ〜アレグロ・マ・ノン・トロッポ〜ヴィヴァーチェ。フルートの二人がヴァイオリンの二人と代わって、演奏されたが、やはり、大バッハ内での様式感で、それを一歩も出ていない。これも1曲目と同じで、初期の作品か。(3)はフルート二本だけで、新鮮だった。アレグロ・エ・モデラート〜プレスト。現在、同種の曲が6曲あるそうで、4曲がドレスデン時代のもので、2曲が1770年以降の作ということらしい。ビュフェルダンとクヴァンツを想定してかかれていると言われる。今日も偶然に師弟関係で、第1(Fl)が佐久間、第2(Fl)が斎藤で演奏された。実にピュアな音色で、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハという人物は純な人だったのかもしれない。純粋といえば、やはり、古楽器で聴いてみたかった。大きい音とメカニズムを求める改良は楽器の音質への犠牲も大きかった言わざるを得ない。純粋で素朴な音のままでいる音楽が似つかわしいと思う、特にフリーデマンには。2楽章のラメンタービレ、3楽章プレストが良かった。
後半はカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ。18世紀の後半では、大バッハと言えば彼のことで、父、J.S.バッハはオルガニスト・バッハといわれていたという。それほど彼の名声はとどろいていたのだ。因みにフィリップはゲオルグ・フィリップ・テレマンのフィリップを授かっている。テレマンがゴッド・ファーザーなのだ。父がケーテンに移り、その地のラテン語学校とライプツィッヒのトーマス学校に学んだ後、大学で、法律を修めている。1740年フリードリッヒ2世が即位すると同時に宮廷の専属チェンバリストになっている。エマニュエル27歳であった。父の死後トマス・カントールには就任できなかったが、1768年、テレマンが亡くなって、その地ハンブルグの音楽監督になっている。ここで、多くの詩人たちとの交流があり、詩と音楽、「標題を持つ音楽」について論議を戦わせたという。このあたりが、もしかすると、彼が前古典派における「多感様式」の代表とよく言われるその起因する点ではないのだろうか。ちょっと調べものが入ってしまったが、曲に行こう。
(4)はヴォトケンス番号Wq.143で、「快活な人と憂鬱な人の対話」と副題がついている。まだ、ライプツィッヒに住んでいた頃の作品である。まだ十代の作品であり、全く父の域を出ていないばかりか、曲はアレグロ〜アダージョ〜プレストだったが、凡庸に感じられた。情緒的でないエマニュエルの作なんて全くつまらない。(5)はWq.161-1で、1751年変ロ長調Wq.161-2と共に出版されている(作曲は1749年)。既に「多感様式」に根ざしており、かなり、情緒的に形式が揺さぶられている。特に、アレグロ、プレストの1楽章に顕著だった。いつ終わるのか、分からない冗長さには、やはり少々辟易してしまう。第1ヴァイオリンの高音が「快活な人」で、低音の方が「憂鬱な人」だったのだろうが、2曲聴いただけで、クリスチャンを聴きたくなってしまった。
ベートーヴェンとモーツァルトというまではいかないが、エマニュエルより、クリスチャンの方がずっと個人的には、ピッタリ来るものがある。
少し、エマニュエルに飽きたところに、アンコールとして何とファッシュが演奏された。少々、食い足りなかった演奏会に、本当に、最後に美食を味わった感じで、聴いてきた5曲が短いフィナーレ楽章、たかが3、4分のために、消えそうな印象を持つほど音楽は力を持っていた。これは一体どういうことか!
また、小林道夫のチェンバロでの支持力の素晴らしいこと!共演するメンバーは実に幸せに演奏出来たのではないか。