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ダメ人間にも一寸の光明

 ダメ人間をまともな一般人が見た場合、優越や軽蔑や嫌悪や同情といった感情を抱くことが多いのだろうが、私の場合はどうだろうかと考えると、やはり一般人が私のことをよく知ると同様の感情を抱くのだろう。確かに私の現状は、一般人からはかなり悲惨なものに見えるだろうとは自分自身でも思う。
 先進国においては、まずまずの健康状態で生きている以上、どんなダメ人間であっても消費活動は行っているわけで、ダメ人間といえども多少は世間の役に立っていることになる。私も、一般人よりは遥かに少ないとはいえ消費活動を行っているし、無能で全くといっていいほど使えないとはいえ欠勤もほとんどなく出勤しているので、僅かばかりは社会に貢献していると言えるだろう。
 だが、仕事に関していうと、私がいなくなって(ここでは、死亡したり、人間関係を一切絶って誰にも告げず遠く離れた地へ移ったりした場合のことを意味する)も現在勤めている会社(職場でもよいが)が困るということは全くなく、私の代わりなどすぐ見付かるだろうし、消費活動に関しても、出費額が少ないため、私がいなくなることで経営が悪化する店などはなく、やはり私がいなくても困る人などいないのである。

 では、仕事や消費活動とは離れて、直接的な利害関係のない知人・友人・親族・家族といった個人的な人間関係だとどうかというと、やはり私がいなくなっても本当に困る人などいないという結論になるのである。
 知人と親族に関しては、私が資産や名誉や社会的に高い地位や権力や有益な情報には無縁で、将来有望というわけでもないので、私がいなくなっても困らないだろうし、そもそも私の存在自体ほとんど意識されていないであろう。
 もっと身近な存在である友人はどうかというと、一応私には友人と自分が認識している男性が二人いるのだが、その二人が私のことを友人と認識しているかは定かではない。ひょっとすると私のことを、それ程金もかからずに共通の話題(主に歴史と競馬だが)を語り合えるという意味で
安上がりな御伽衆ぐらいに考えているのかもしれない。だいたい、友人とはいっても実際に会うのは年に数回で、電話で話すのも一月に一度くらいだから、私がいなくなっても大して困らないだろう。多少残念とは思うかもしれないが。
 最も身近な家族(私の場合は両親ということになるが)についてはどうかというと、失踪した場合は、息子だけに心配するかもしれないが、同時にいつまでも迷惑をかけおって、と腹を立てるだろう。死亡した場合は、やはり息子だけにそれなりに悲しむかもしれないが、散々迷惑をかけてきた馬鹿息子がいなくなってもう悩まされることもないから清々した、という思いの方が強いかもしれない。まあいずれにせよ、両親は私に老後の面倒を見て貰おうとは思っていない(以前はっきりと私にそう言った)ので、私がいなくなっても困ることはないだろう。
 つまり、私がいなくなったとしてもこの世の中で本当に困る人や組織は存在しないし、また悲嘆にくれる人もいないだろうから、一般人には私が本当に悲惨な人生を送っているように思えるだろうし(流石にダメ人間の方々にもそう見えるかな)、また私が存在(生きている)価値のほとんどない人間にも思えるだろう。

 ここまで、「ダメ人間のための憩いの場」と銘打ったホームページでありながら、とんでもなく気の滅入るような文章を書いてしまったが、別にこの駄文を読んでくれたダメ人間の方々やその他の読者(読んでくれる人が本当にいるか分からないが)を落ち込ませることを目的としているわけではないし、私自身現在落ち込んでいるわけではなく、寧ろ毎日楽しいと感じているぐらいである。
 ダメ人間の方々の中には、私と同様に、自分はほとんど世間の役に立っておらず、また誰からもどの組織からも必要とされておらず、自分は存在価値がないと思い、悩み苦しんでいる人は多くいるだろう。そうした思いが強くなると、中には自殺する人もいるかもしれない。だが、こうした理由で自殺するダメ人間の方は少ないように思う。ダメ人間である自分自身を鑑みると、その理由は、まだ(多くの快楽を得られるかもしれないという期待の下で)生きることに未練があり、死ぬのが怖いからなのだろう。現在自殺する人の多くは、経営に行き詰まったり解雇されてしまったりして前途を悲観した中年以上の方で、こうした人々の多くは真面目で立派な方で、真面目なだけに思い詰めてしまうのだろう。
 ただ私の場合、自殺しないのは、生への未練と死への恐怖(一言でまとめると煩悩ということになろうか)、と言うよりは、自分が好きだから、と言う方が適切かもしれない。まあ、自分が好きと言うと聞こえは良いが、実態は、我が身が可愛いという低俗で卑しむべき感情で、私の場合はこの感情が他人と比較して非常に強いから自殺など全く考えないのだろう。

 だが、存在価値がほとんどなく、煩悩や低俗で卑しむべき感情のために生きているからといって、自己嫌悪や自己否定に陥る必要は全くないと思う。まあ、反省は必要だろうが。どんな生物でも同時代を生きているものの中で「落ちこぼれ」は必ず存在し、人間以外の生物ではそうした「落ちこぼれ」は充分成長しないうちに淘汰されて天寿を全うすることはほとんどないだろうが、人間社会ではかなりの保護が加えられることになり、天寿を全うする者も珍しくない。
 最近では、自由主義経済主流の世の中だけに当然と言うべきかもしれないが、人間社会にももっと競争原理を導入し弱者(落ちこぼれ)は切り捨てるべきだ、と説く人も多く、そうした人は大抵社会的に高い地位と名声を得ている「強者」であり「立派な」人なのだが、それはさておき、弱者(落ちこぼれ)が出来る限り受け入れられ生きていくことができる社会こそ人類の発展と存続に繋がるのではないかと私は思う。自分が落ちこぼれの立場にいるからそう主張せざるを得ないというのも多分にあるが、何よりも、多様性こそ生物の発展と存続に最も必要なものであり、善悪の判断は措くとして、人類が地球上で覇者として君臨できたのも、あらゆる生物の中で最も多様性を認めてきたためで、例えばダメ人間のような特定の理想的価値観から外れた者をも社会に受け入れることは人類の多様化に繋がると思うからそう主張するわけである。
 勿論、人間社会で多様性を受け入れるということは、危険や損失をも容認するということでもある。危険や損失に重点を置けば、特定の価値観でもって一線を引いて選別し、落ちこぼれた者は隔離または抹殺してしまえ、という主張も出てくるだろうが、こうした考えを学問的に体系化したのが優生学なのだろう。だが、特定の価値観で人類を選別・排除するという行為は、短期的には人類の資質向上に役立つように見えるが、そもそも何が役に立つか見極めるのは大変困難なわけで(その好例が鎌状赤血球貧血症であろう)、結局人類から多様性を奪い進化の袋小路に迷い込ませて環境への対応力を失わせ、資質の低下を招来することになると思う。
 様々な多様性こそ生物にとって最も重要なものだと考えれば、地球上に完全に同一の生物など存在しないのだから、一見すると存在価値がないように思えても、この世に誕生した全ての生物にはそれぞれ存在意義があるわけである。落ちこぼれ=ダメ人間も、一見するとほとんど存在価値がないかもしれないが、いつどこで社会に重要な貢献をする場面が到来するかもしれないし、また自分でさえ気付いていない才能を今後何かの契機で発揮するかもしれないし、或いは人類にとって有益な遺伝子を持っているかもしれない。
 一見すると「ハズレ」かもしれなダメ人間の中にも、確率は低いものの「アタリ」である人もいるはずで、ダメ人間の方々も、開き直って自分が「アタリ」かもしれないと思い続け、法律や倫理や自らの能力(器量でもよいが)から大きく逸脱しない範囲内で自分のやりたいことをやっていれば、自己嫌悪や自己否定に陥ることも少なく、割と楽しい人生を送れるのではなかろうか。やりたいことが分からないという人は、前記の範囲内で自己の欲望に忠実に生きるていれば、そのうちやりたいことが見付かると思う。

 うーん、またしても独り善がりで自己満足にすぎない文章を書いてしまったか。まあこのページ自体、ほとんど私の自己満足にに終わっているからなあ。最後まで読んでくれる人がいるか相当不安ではある。それにしても、『コメディーお江戸でござる』でよくあるような題名だなあ。毎週見ているので影響を受けてしまったか(笑)。