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『日本書紀』と日本史を巡る考察

 

初めに
 以下に述べるのは、『日本書紀』の信憑性とその性格についての考察であり、同書を日本史研究においてどう用いるべきかという考察でもある。また、延いては日本史を少しばかり構築せんとの試みでもある。そもそも歴史の専門教育を全く受けておらず(他の学問に関しても同様だが )、適当に本を読み散らしただけでほとんど素養もない全くの門外漢が挑むには分不相応の主題ではあるが、まあ本音を言えば、単なる自己満足の所為である。
 無論、多くの人に読んで頂いて御指摘や御批判を仰ぎ自らの糧としたいが、俺様『日本書紀』論にすぎず、しかも常識的観点からはほとんど極論というかトンデモ系と言えるような内容なので、批判するに値しないと思われる方も多くいらっしゃるだろう。この程度の駄文でも丁寧に読んでくださり、御指摘や御批判くださるような懇切丁寧で奇特な方がいらっしゃれば幸いである。とは言うものの、そう気にかけずに気楽にざっと読んでくださるだけでも、有り難いことだと思う。
 注はできるだけ付けようとは思ったのだが、どの論考からの典拠や引用だったかほとんど忘れてしまったので(ダメ人間らしくいい加減だね)、正規の論文でもない(そもそも到底論文審査に通るようなものではないが)ということで付けないことにした。この辺がダメ人間らしい甘さかな・・・。
 尚、参照したのは『全現代語訳日本書紀』上下巻(宇治谷孟訳、講談社学術文庫1992年)と『原本現代訳日本書紀』上中下巻(山田宗睦訳、教育社1992年)である。原文にあたらず現代語訳にあたるのが如何にもダメ人間らしい安直さだが、私には原文を正確に読みこなすだけの力がなく、仕方のないところである。参考文献は、特にこれというものはないのだが、どれだけ理解し消化できたか甚だ疑問とはいえ、西嶋定生氏の幾つかの論考に大いに触発されたところがあると思う。
 また、Korea全体の表記をどうすべきかは難しい問題だが、私は便宜的に「朝鮮」を使用している。李氏が建てた同名の王朝があって紛らわしいのだが、私には、韓よりも馴染み深い、というかしっくりくるのである。言うまでもないが、これは私の政治信条とは別個に判断したものであり、私が大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国を支持しているということではない。更に付け加えるが、利便性のため、天皇の諡号は『日本書紀』に記載された和風諡号ではなく8世紀半ばに贈られた漢風諡号を用い、勢力名は基本的に倭ではなく日本とした。

序論
 『日本書紀』は歴史書とするのが妥当なのではなかろうかと思う。巻第一と第二が神代とされたことやその潤色性を以って、歴史書ではなく文学の如き創作とする意見もあろうが、古い時代において、以前に広域的な政治勢力が存在しなかった地域に、ある勢力が勃興して地域を統一し建国に至った場合、文字の使用されていない時期をも扱う歴史書に神話が掲載されるのは止むを得ないと思うし、神話は全三十巻(加えて系図一巻があったが、現在は散逸している)のうち二巻を占めるだけである。
 潤色性については、逆説的な言い方になるが、歴史書たらんとするあまり却って潤色性を増したのではないかと思う。現代に生きる我々からは、一見すると歴史書ではなくほとんど文学としか思えない神代だが、『日本書紀』の歴史書としての一大特徴である異説の掲載が最も多いのが、神代二巻である。総じて『日本書紀』には儀礼や人事や外交や詔や天候の記述が多く退屈であり、文学的記述も散見されるものの文学としては出来損ないだと思うのだが、最も文学的性格が強いと思われる神代二巻にしても、明らかに歴史書たらんとしている。編纂者の意図は明らかに『日本書紀』を歴史書たらしめることであったが、『日本書紀』が多分に潤色性の強い書となり、現在の我々が『日本書紀』に歴史書としてよりも文学としての性格を時として認めるのは、編纂者と現在の我々との時代差による価値観の相違にもよるが、編纂者が参照史料の極端に少ない、或いは皆無の年代の記述をも歴史書として相応しいものにせんと試みたからではないかと推測している。そのため、年代を遡るほど、不確かな伝承と編纂当時の理念や価値観や政治状況に基づいて記事を編纂せねばならず、現在の我々からは、到底史実とは認めがたい荒唐無稽な記述や、実際に起きた事象の同書での年代と史実での年代との齟齬などが散見される、ということになったのだろう。
 そうした記述を含む書物は歴史書としては認められず、文学とするのが妥当との批判はあろうが、前述したように『日本書紀』は基本的に退屈な書物である。文学としての性格も見られるが、かといって文学としては徹底しておらず、編纂者は歴史書たらしめんと意図したが、歴史書としては甚だその資格に欠く記述も多数見受けられる。何とも煮え切らない中途半端な性格の書物で、どう分類して良いものやら悩むところではあるが、人類の持った初期の歴史書の代表作である『史記』にしても、民間説話や芝居中の台詞などを多分に取り入れたと推測され(宮崎市定「身振りと文学」より)、文学的性格も持ち合わせている。『日本書紀』においては、伝承を編纂者が大いに潤色したと思われるので、古い時期の記述は文学的傾向が甚だしいと言えようが、凡そ各民族が持つ初期の歴史書とは程度の差はあれそういうものであり、『日本書紀』も分類するとすれば、歴史書とするのが妥当なのではないかと考える。
 無論、『日本書紀』が潤色性の強い書となったのは、編纂者が編纂当時の支配層の正当性や理念を証明せんとの意図を有して編纂した故でもあり、『日本書紀』編纂時の支配体制に直接連なる支配体制が定まっていない時期の記述に潤色が多いことは否定できないだろう。『日本書紀』の記述がその枠組みの中にあるということは大前提となる。だが、その枠内という制限はあるものの、例えば、「巻二十九天武紀下」には草薙剣が天武に祟ったと、「巻三十持統紀」には持統の伊勢行幸に対して三輪朝臣高市麻呂が諫言したと記載されている。これは些細な例だが、参照史料の多数存在する年代となると、編纂当時の支配層にとって正当化の最重要対象と言える天武や持統にしても、必ずしも一方的な賛美ばかり記載されているわけではない。
 編纂当時の支配層の正当化という問題は『日本書紀』の全記述について回るが、『日本書紀』の成立は720年で、最後の記事は697年8月だから、編纂者に課された正当化という命題を余りにも強調し、記述の全てをそうした視点から解釈するのは妥当性を欠くのではないかと思う。また、天武の死亡と『日本書紀』の成立には34年もの時間差があり、同書を天武の大本営発表とする見解には全面的には承服しかねる。前述の例のように、参照史料の豊富と思われる時期については、『日本書紀』に続く残りの六国史と同程度に信憑性を認めても良いのではないかとも思うが、そこまで言って良いものかは自信がない。だが少なくとも、そこからかなりの歴史像を構築できる史料として使用できる歴史書と認めることはできるだろう。
 参照史料の豊富な時期の記述は歴史書としての信憑性をかなり認めることができるということは、逆に参照史料の少ない時期の記述は信憑性に疑問符が付くということで、歴史書だからといってこれを安易に使用することはできない。日本には漢字の導入まで文字が存在しなかったため、古い時期の参照史料は主に中国と朝鮮の史書(朝鮮の史書の場合、例えば『百済本紀』もそうだが、『日本書紀』に引用されたものは、現在は全て散逸してしまったようである)ということになるが、無論『日本書紀』の記述の大半は外国史料に拠らないものであっただろう。故に、日本における漢字浸透の度合い(これが高ければ、当然参照史料も増加するはずである)が、『日本書紀』の信憑性を検証する重要な判断材料となるのではないかと思う。以下、先ずはこの問題について考察してみたい。

日本は何故漢字を受容したか
 何故、日本で漢字が受容され普及したのだろうか?この解答として、古くから密接な関係を持ち日本より遥かに高度な文明を誇った中国の文字であり、他に近隣に全く別個の高度な文明が存在しなかったから必然的帰結であるとするなら、充分とは言えまい。文明は、水が高き所より低き所に流れるように、先進地域より後進地域に自然と伝播するというものではなく、先進地域または後進地域の積極的な動機とそれを可能たらしめる交通が必要である。また、文明の成果の一部は、必ずしも文字を介さなくとも伝播は可能である。漢字も、中国による日本の征服がなかった以上、日本側に漢字受容への強烈な動機(必要性)があったとするのが妥当だろう。
 日本の場合、漢字の導入及び普及は、メソポタミアや地中海や欧州における文字の普及とはかなり異なった性格のものとなっただろうことは間違いないであろう。なぜなら、前者で主に普及したのが表音文字であるのに対し、日本で普及した漢字は基本的に表意文字だからである。しかも、日本語(無論、列島内の言語は今日よりも遥かに多様性に富んでいて、一言語として一纏めにはできないだろうが、ここでは主に支配層の使用言語を念頭に置いている)と中国語は大きく系統が異なる全くといって良いほどの別言語である。無論、縄文期の日本各地の言語は復元不可能なのだが、大多数の人々は中国語と大きく異なる言語を話していたものと思われる(ついでに言うと、縄文時代の日本列島各地の言語にどれだけの共通性があったかは永遠に不明だろう)。現在の我々は漢字文化に完全に浸ってしまったので、漢字を寧ろ便利なものと認識してしまいがちだが、全く異なる言語の文字、しかも表意文字を使用するというのは大変に不便なことだったはずで、故に日本は割と早くから漢字に接していたと推測されるにも関わらず、普及には時間がかかったのだろう。
 ついでに言うと、日本が漢字の導入に大変長い時間をかけ、文字や音や単語を導入したが遂に中国語化しなかったことを以って、日本の極めて特異な独自性の発露とする見解があるが、これは全く以って的外れと言うべきであろう。そもそも、言語は余程の強制力が働かなければ全面的な転換が行われることはまずなく、現に朝鮮も漢字は導入したが言語は中国語化しなかった。メソポタミアや地中海や欧州にしても、日本よりも文字の普及速度が速かったのは、それら何種類もの文字が基本的に表音文字だったからで、また文字の普及が言語の全面的転換をもたらしたことはほとんどなかった(全くなかったとしたいところだが、征服に伴い言語の全面的転換があったかもしれない)。文字と言語の間に齟齬があったからこそ、日本は苦心して万葉仮名という形でも漢字を用い、やがて仮名を作成するのだが、朝鮮においては、ハングル作成前には(以後も知識人はハングルを使用したがらなかったが)吏読(万葉仮名はこれを参考にしたとする説もある)が使用され、やはり苦心して独自の漢字使用を行っている。もし漢字が基本的に表音文字であったなら、日本では縄文期より文字使用が始まったかもしれず、そうなると現在とは異なる文明を築いただろうし、古い時期の歴史の解明に貢献すること大であっただろう。
 つい横道に逸れてしまったが、それでは日本に漢字が普及した理由とは何であろうか?私は、主に三つの理由を想定している。@自勢力の権威付けを図るため中国と交渉を持ち中華秩序に参入するA鎮護国家のための仏教の受容B律令制度を代表とする支配制度の導入、の以上三つである。無論、これで全てを説明するのは少々乱暴だが、例えば儒教の受容はBに含まれるわけで、概ねこの三つで説明しても良いのではなかろうかと思う。前述したように、文明の成果の一部は文字を介さずとも受容は可能である(例えば冶金術)。しかし、上記@ABは文字を介さずに行うのは極めて困難である。そして日本の場合、その文字とは@ABのいずれにおいても漢字をおいて他にはなかった。以上日本に関して述べてきたことは朝鮮にもほとんど当てはまる。日本の漢字受容の在り様は、決して特異なものではない。次に、漢字受容の具体的様相を考察してみる。

日本における漢字受容の在り様
 日本が漢字を受容する最初の契機となったのは@で、AとBはどちらが先か一概には言えない。官位制度の導入という点で言えばBが先行するが、律令制度の導入という点では、BはAよりも後に進行した。ただ、漢字の普及に決定的な役割を果たしたのは律令制の導入なので、Aが先行したとするのが妥当かもしれない。
 @のみの段階においては、国書の交換が漢字の主な用途で、漢字の需要はそれ程なかったと思われる。実際、Aの段階の到来前(6世紀末以前)には、漢字は金石文としてしか残っておらず、木簡の出土は皆無である。紙が使用された可能性は高いだろうが、大して必要性もないので、実際にはほとんど使用されなかったものと推測される。無論、この時期の漢字浸透の度合いは一様ではなく、年代が下るにつれ高くなっていったと思われるが、大きな変化とまでは言えないのではないかと思う。
 Aの段階は、6世紀末頃に始まると推測される。この頃、時期に多少の差はあるが日本のほぼ全域で前方後円墳の築造が終了しており、大和を中心に大伽藍の建築が相次いで開始されているからである。恐らく、大伽藍は前方後円墳に代わる新たな権威の象徴となったのであろう。仏教の受容に関しては、従来は伽藍仏教=鎮護国家仏教のみとされてきたが、最近の研究によると民間仏教も盛んであったらしい。当時の支配層が仏教を支配の思想的道具としたのも、こうした情勢の変化を受けてのものだったのかもしれない。仏教自体は、文字を介さずとも或いは受容が可能かもしれない。だが、鎮護国家の仏教となると、教義を理解し、それを日本(当時この国名が存在したかは甚だ疑問だが)の実情に応じて支配層の正当性を理論付けねばならない。そのためには、僧侶に頼るばかりではなく、支配層自ら仏教の教義を理解する必要があり、漢字を習得しなければならない。だが、この段階では仏教の教義理解が主な目的で、木簡の初出が7世紀半ばということを考慮すると、漢字の普及は7世紀後半以降と比較すると著しく劣っていたと推測される。だが、前代と比較すると飛躍的に漢字が普及していったものと思われる。
 次にBの段階だが、中心となるのは律令制度に代表される様々な支配制度の導入である。無論、日本と中国にはこの時点で相当な文明格差があり、律令制度の導入も一朝一夕にして成ったのではなく、徐々に進行したと見るのが妥当だろう。隋は短期間で滅亡してしまったので、実際にはさほど参考にされなかった可能性が高く、模範とされたのはほとんど唐の諸制度であろう。日本側に、唐の諸制度を導入するだけの状況が整いつつあったのだろうが、それを促進したのは唐の隆盛で、具体的には朝鮮半島への唐の圧力であろう。640年代以降にはそれが顕著であり、この時期には高句麗や新羅や百済で相次いで大規模な政変が勃発しているが、これらは唐の圧力に対する反応と言えよう。蘇我入鹿が殺害された645年6月12日の政変について、『日本書紀』がどこまで事実を語っているのかは判然としないが、蘇我氏の位置付けはさて措き同書の内容が大過ないものとすれば、この政変も東アジアにおけるこうした一連の流れを受けてのものだろう。
 律令制度の導入には漢字は不可欠で、それに留まらず運用に際しても漢字は不可欠となる。つまり、実務段階で漢字の使用が不可欠となるわけで、下級官吏も漢字を習得せねばならず、漢字の飛躍的な普及に繋がったことは想像に難くない。当時紙は貴重品だったので、記録や習字は主に木簡でなされた。木簡の初出は7世紀半ばだが、7世紀後半以降の増加が著しく、8世紀の平城京付近での出土が圧倒的に多い。このことからすると、律令制度は7世紀半ばより導入が積極的に図られたが、7世紀後半になってそれなりに定着し、701年の大宝律令制定を以って一応の完成をみたということになろう(木簡は地方での出土は非常に少なく、律令も実際にどこまで規定通りに運用できたかは疑問だが)。近江令や浄御原令がどこまで整っていたものなのか今となっては知る由もないが(近江令はそもそも存在しなかったとする説もあるが)、律令制度導入という流れの一環として捉えられるだろう。
 こうしてみると、『日本書紀』の記述範囲内での日本における漢字浸透の度合は、時期的に(イ)6世紀末以前(ロ)6世紀末から7世紀半ば過ぎ頃まで(ハ)7世紀半ば過ぎまたは7世紀後半以降、の三つの時期に大別されると推測される。従って、『日本書紀』編纂の際に参照された史料も、(イ)→(ロ)→(ハ)の順に飛躍的に増加したものと推測されるが、次にこの点をもう少し詳しく検討し、『日本書紀』の信憑性を、記述対象の時期ごとに考察してみる。

『日本書紀』における各記述対象時期ごとの信憑性
 序論で述べたように、『日本書紀』の信憑性は、日本における漢字の浸透度合いに拠るところが大きいと思うのだが、だからといって前述した(イ)(ロ)(ハ)の区分をそのまま当てはめることはできない。(イ)についてはそのまま当てはめても良いだろうとは思うのだが、問題は(ロ)と(ハ)である。
 「巻二十七天智紀」は、(ロ)と(ハ)の境目辺りに位置し、どちらかと言うと(ハ)に属するのだが、坂本太郎氏の御指摘にあるように、同事重出などの編修上の疎漏が多い。例えば、天智の子女の紹介にしても異説が掲載されており、持統とその兄弟姉妹について混乱が見受けられる。天智・天武非兄弟または異父兄弟説を主張する人の中には、重大な史実を覆い隠すために敢えて異説を掲載し、後世の人を混乱させようとしたのだとする人もいる。私も以前は、参照史料もある程度は存在したはずなのに、持統の兄弟姉妹について不明な点があることなど有り得るだろうか、と疑問に思ったものである。だが、重大な史実を隠すためなら都合の良い記述にしておけばすむことで、敢えて異説を掲載する必要はないはずである。
 編修上の疎漏が多いことを考慮すると、どうも「巻二十七天智紀」の編纂にあたっては、当該時期の参照史料が不足しており、編者も確証を得なかったのではないかと思われる。この時期には漢字がかなり普及していたと推測されるのに、何故参照史料が不足していたのかと考えると、672年の壬申の乱により多くの文書が散逸したとするのが妥当な解釈なのではないかと思う。故に、7世紀半ば頃から672年までは、漢字の浸透度合いはかなりのもので文書も多数存在したが、『日本書紀』編纂時には、それらの内で散逸してしまっていたものも多いのではないかと推測される。
 故に、信憑性により区分した『日本書紀』の記述対象時期は、
(A)6世紀末以前(B)6世紀末〜7世紀半ば頃(C)7世紀半ば頃〜672年(D)672年以降、の四つに大別されるのではないかと思う。以前はBとCを一括していたのだが、現在は区分した方が良いと考えている。無論、6世紀末以前を一括するのは暴論であるとの批判はあろうし、6世紀の記述と3世紀の記述では信憑性に大いに差があるかもしれないが、私は一括しても良いのではなかろうかと考えている。以下、各時期ごとの信憑性について考察してみる。
Aの記事の信憑性
 Aの時期の史実を伝える史料はほとんどなかったと思われる。6世紀半ば頃に『帝紀』と『旧辞』が作成されたとされるが、後述する狭山池の例から推測すると疑問で、例えその時期に作成されたとしても、どれだけ史実を忠実に伝えていたか疑わしい。既述したように、この時期に関しては、主に伝承と編者の価値観や理念と編纂当時の政治状況を基に記事が編纂されたと考えられる。伝承には、全くの創作で全く史実を反映していないものもあろうが、無論多くの場合何らかの史実の反映であろう。故に、この時期の記事が無価値ということは断じてないが、伝承は抽象化しやすく実年代を正確に伝えることは期待できない。更に、伝承には加上の法則があり、時代を遡るほど新しい史実を反映した伝承が記載されることが多い。神代や神武紀や崇神紀の記事が、応神紀や雄略紀に記載された記事よりも古い史実を反映しているとは限らないのである。この時期の記述からある程度正確な史実を推定するのは至難の業であろう。そのことを証明する好例が、狭山池の記事である。
 狭山池の築造は、『日本書紀』では崇神天皇の治世、前30年のこととされている。崇神は実在したとする人が多く、普通3〜4世紀に実在したとされる。故に、狭山池の築造は4世紀頃とする人が多かったのだが、近年の発掘成果により、6世紀後半〜7世紀前半の築造だと判明した。恐らく、6世紀後半に築造が始まり、使用されつつ改修されて7世紀前半に一応の完成を見たのだろうが、7世紀前半だとすると『日本書紀』では推古朝のことで、私の区分でもBに属する。編纂者にとって近世の出来事が、600年(崇神を4世紀に実在したとすると300年だが)も繰り上げられて記載されているのである。これを、天皇支配の古さを強調するための作為として片付けることもできるかもしれないが、そうだとしても、何故近世の史実をわざわざ600年も繰り上げたのか疑問が残る。他に史実を反映した適当な伝承は多数あったはずである。私の推測は、狭山池築造の史実を正確に伝える史料が編纂時にはなく、編者が不用意に崇神紀に入れてしまった、というものである。私の推測が的を得ているか否かは別にしても、Aの記事から史実を推定するのが大変困難なものだということは言えるのではないかと思う。
 また、『日本書紀』のAの記事に見える人物について私の推測を述べると、編纂時には、名前は伝承されてきたものと後世のものからの借用による創作が、事績も史実を反映したものとそうでないものとが混在して用意されていて、その実年代は曖昧であった。無論、事績と名前とがかなり正確に一致して伝えられた人物がいた可能性はあり、「巻十九欽明紀」以降に見える人物はその可能性は高いかもしれない。だが、前述した狭山池の例からも窺えるように、大半の人物は、参照史料の極端な不足のため、当時の政治状況や編者の理念と価値観を反映した編纂方針に基づき、編者が名前と事績を組み合わせたのだろう。
 故に、例えばミマキイリヒコイニエ(崇神)という名の人物は伝承で伝えられていた可能性はあり、崇神紀の記事の一部は崇神の事績であるという可能性もあるのだが、多くの人物は無関係に名前と事績を組み合わされた可能性が高いのではないかと思う。つまり、実際に存在したXという名の人物が『日本書紀』に記載されていて様々な事績が記載されているが、それはXではないYの事績や編者の創作かもしれず、またXの事績がZの事績として記載されているかもしれない。こうなると、Aの記事に見える人物の大半は、例えそういう名の人物が実際に存在していたとしても、これを歴史上存在した個別具体的人格とは言えないのではなかろうか。例えば、倭王武=稲荷山古墳出土の鉄剣銘に見えるワカタケル大王=雄略はほぼ確定で、雄略の実在は確実と普通言われるが、仮にワカタケル大王が『日本書紀』編纂時に伝えられて雄略として記載されたとしても、「巻十四雄略紀」に見える事績のうち、どれだけがワカタケル大王のものか極めて疑わしく、そのような人物を歴史上存在した個別具体的人格と認めて日本史を構築するのにあまり意味はないと思う。また、辛亥年が471年ではなく前後に60年ずれている可能性もあり、その場合、そもそもワカタケル大王=雄略説自体甚だ怪しいものとなろう。故に、中国の史書に見える人物や巨大古墳の被葬者をAの記事に見える人物に比定するのはほとんど意味のないことと思うし、そもそもAの記事に見える人物の実在を問うこと自体、あまり意味のないことかもしれない。
 Aの記事については、事件の年代や史実性が曖昧で、人物については前述の通りである。故に、既述したように、6世紀末以前の日本史像を、『日本書紀』から推定するのは取り敢えず控える方が良いのではないかと思う。推定を幾重にも行うこととなり、史実とはかけ離れた歴史像を描いてしまう危険性大である。例えば『日本書紀』に基づいた継体新王朝説にしても、5世紀末から6世紀前半にかけて近畿の王権が衰退混乱し動揺していたとする人も多いが、そうした状況を証明するような考古学的成果は今のところ皆無である。無論、その逆は大いに行われるべきで、考古学的成果と中国及び朝鮮(こちらは現存史書の編纂年代が遅いということもあり、それ程信用はできないが)の史書より構築された歴史像から『日本書紀』の記事の史実性を追求するのは、編者の意図や理念などの究明に役立ち、延いては編纂時の歴史を解明するのに大いに有益なのではないかと思う。
 この時期というか律令国家成立以前の支配の在り様には不明な点が多く、屯倉や田部や部曲などとはいっても、当時の様相を伝える参照史料の不足により、後世の支配状況が反映されていることも充分にあり得るだろう。よって、考古学的成果より推測するしかないが、そうすると実態の解明は甚だ困難であろう。所謂古墳時代には集落が大規模化し、百戸近い集落も存在したが、豪族(首長)と農民との関係や、税や労役の実態などは不明である。ただ、律令制度が従来の支配慣習を引き継いだ可能性は高く、そのことと巨大古墳の築造が盛んであったことから推測すると、税よりも労役の方が厳しい負担となっていたものと思われる。
 ついでに神話(神代二巻)について述べると、『日本書紀』の神話からある程度確実に復元できる古い伝承は、世界各地に共通して見られる伝承であり、この復元には比較神話学が大いに役立つだろう。だが、日本独自の古い伝承を復元するのは、『日本書紀』が古い時代の記事ほど編者の潤色や創作が顕著だと推測されることや、伝承加上の法則からかなり困難と思われる。『日本書紀』の神話からある程度確実に窺えるのは、世界各地に共通する伝承と、編者の価値観や理念(及びそこから推測される8世紀前半の思潮)に留まるのではないかと思う。『日本書紀』の神話が純然たる日本の古い伝承を正確に伝えているとは言い難く、それは程度の差はあれ『古事記』神話についても同様だと思う。
Bの記事の信憑性
 Bの記事はある程度信用できると思うのだが、狭山池の例があるし、何よりも遣隋使に関して『隋書』と大きな食い違いがあるので、どこまで信用して良いものか判断に悩むところである。仏教の受容に伴い漢字の普及度は大いに高まり、参照史料もAの時期と比較して豊富になったはずだが、この時期の前半には木簡の出土がないことから推測すると、漢字の使用は主に当時貴重だった紙で行われ、経典の筆写が優先されて行政や外交の記録はそれ程盛んではなかったのかもしれない。「巻二十二推古紀」には、疑問もあるが620年に『天皇記』や『国記』を初めとして多数の本記を録したとあり、この時点での参照史料の不足によりそれらが史実を正確に伝えられなかったか、それとも『日本書紀』編纂時には戦乱などによりこれらの内かなりのものが散逸していたのか、恐らくその両方の理由によりBの記事と『隋書』に食い違いが生じたのであろうし、またこのことから、Bの記事から史実を推定するには慎重にならねばならないと言えよう。
 607年の倭の隋への派遣と、それに応えての608年の隋の倭への使者派遣は、『隋書』と『日本書紀』の双方に見える。一方『隋書』に記載された600年の倭王の隋への使者派遣は『日本書紀』に記載されていないが、このことも含めて両書には相違点が多く、不可解である。この問題の一つの解釈が九州王朝説で、近畿勢力ではなく九州勢力が使者を派遣したとするものである。私は『宋書』などを根拠に九州王朝説は採っていないので、倭王とは近畿に拠を構えた勢力の王とするが、そうすると両書の食い違いをどう解釈すべきであろうか。そもそも、『隋書』に見える倭王は男性と思われるのに対し、『日本書紀』によるとこの時期の天皇(この時点では天皇という称号はまだ使用されていなかった可能性が非常に高いが、ここでは便宜的に使用する)は推古天皇で女性である。この点に関して、隋に軽蔑されないように聖徳太子を大王に見せかけた、実際には聖徳太子が大王だった、蘇我氏こそ当時の大王家で馬子が大王だった、隋の煬帝の不興を買い日本側が低姿勢に改めたため、その方針に従い600年の派遣と「日出づる国・・・」の国書は掲載されなかった、など様々な解釈があるが、私は最後の解釈に最も惹かれる。編纂時には都合が悪かったので、敢えて史実を隠蔽し大半の記事を創作したという可能性もあるが、他に考えられる私の解釈は、日本側の参照史料が不足しており、隋の日本への理解が充分ではなかったために食い違いが生じたとするものであるが、自信はない。
 こうなると、実はBの時期の史料は編纂時にはほとんど伝わっておらず、Bの記事もAの記事も信憑性に大差はないのかもしれないとの疑念を抱きたくなるが、『日本書紀』には『隋書』には記載されていない隋からの国書が記載されており、これは重大な意味を有していると推測される。Aの記事で中国との交渉を記したのは「神功紀」のみで、それは『魏書』からの引用である。また朝鮮諸国との交渉は多数詳細に記載されており特に「欽明紀」に著しいが、中国との交渉記事から推測するに、それらの大半は現在は散逸してしまった朝鮮の史書からの引用か後世の編者の創作であろう。一方隋からの国書も、編者の創作か『隋書』に採録されなかった中国の史書からの引用という可能性もあるが、日本側に独自の参照史料が存在したとする方が妥当だと思われる。その理由だが、『隋書』に見える官位と『日本書紀』に見える官位は一部順序に相違があり、どちらかに誤伝があったのか、それとも時期により官位の順序に変動があったのか不明だが、官位制度に関しては日本側に独自史料が存在した可能性が高く、そうすると国書についても、日本側に独自の史料(国書そのものが伝わり保存されていたかもしれないが)が存在したとするのはそう無理のない推測と思われるからである。また、国書の中に倭という表記が使用されているのもその根拠としている。こうした点からも、Bの時期の参照史料は、Aの時期のそれと比較すると大いに増加したのではないかと推測される。
 『旧唐書』に見える倭の使者派遣も『日本書紀』には掲載されておらず、ここまでくると単に史料の不備ではなく、何らかの意図に基づいて採録しなかったのではないかとも思われる。そうした点も含めてBの記事について一応の結論を述べると、Aの記事よりも信憑性は高いが、Bの記事から日本史像の大枠を構築するには慎重でなければなるまい。この時期は『日本書紀』では推古朝以降に相当し、推古朝以降の記事は普通概ね信用できるとされるが、私の考えでは、前代と比較すると遥かに信用できるが、それでも歴史書としてはまだ多くの疑問符が付く、といったところである。またCの記事に見える人物も、どこまで歴史上存在した個別具体的人格として認めて良いものか疑問で、聖徳太子や蘇我馬子や推古天皇も、記載されている事績も含めて実像は不明な点が多いというべきだろう。この点については、また別の機会に触れようかと思う。


CとDの記事の信憑性
 この時期は7世紀半ばに始まるとしたが、645年と限定しても良いかもしれないとも思う。細部の状況や蘇我氏への評価はさて措き、流石に645年の政変がほとんど創作ということはないだろう。万一この政変がほとんど創作だとしたら、私の主張は全く意味を持たないし、通説も全面的な書き換えが必要となろう。それはともかく、蘇我氏を執拗なまでに悪しく印象付けるような記述が多いことから推測すると、恐らくこの政変は、『日本書紀』編纂時の支配層にとって壬申の乱と匹敵するかそれ以上の転換点だったのではないかと思われる。王権的な意味での『日本書紀』編纂時の支配体制の確立は645年に始まるのだろう。故にこの政変の後は、編者による史料の改変や隠蔽なども、それ以前と比較してかなり少なくなったのではなかろうか。『日本書紀』の信憑性を低下せしめている原因の一つである編者の潤色がかなり減少していると推測されるので、その分Cの記事の信憑性も増しているだろうが、私が重視しているのはあくまで参照史料の量なので、ここでもその問題を見ていきたい。
 既述したように木簡の初出は7世紀半ばで、以後出土例は増加し続ける。これだけでも参照史料増加の根拠となると思うが、もう少し詳しく見てみたい。Cの記事には、従来の記事には見られなかった特徴がある。中国側の史書(『日本書紀』など日本側の史書を引用または参考にしたと思われるものは除く)に見えない日本と中国(この時期は唐だが)との通交が多数記載されているのである。これらの記事全てが編者の創作という可能性もなくはないが、日本側に独自の史料が存在したとするのが妥当であろう。実際、従来は朝鮮諸国や中国の史書以外は、引用史料は「一書」とされてきたのだが、Cの記事には「伊吉博徳の書」という具体的な名を持つ史料が何度も引用されている。ここに至って漸く、中国の史書よりも確固たる信用性があると認められるものと思う。既述した壬申の乱による散逸や、D程には漢字が普及してはいなかったとの推測はあるものの、Cの記事は概ね信用できるもので、そこから日本史像の大枠を構築しても良いのではないかと思う。ただ、多数の指摘があるように、改新の詔を初めとする一連の詔を全面的に信用するのは危険で、編者による潤色も多分にあると思うが、それは支配層の正当化という意図によるもののみではなく、時代差に伴う編者の誤解もあったものと思う(例えば、改新の詔に見える国司という用語の使用も、その可能性は高いと思う)。もっとも、これはCの記事のみではなく、『日本書紀』の記事全体に共通する問題だろうが。
 最後にDについてである。出土木簡の増加からすると、この時期に漢字が飛躍的に普及しただろうことは既述したが、そうなると当然参照史料も前代と比較して遥かに豊富となったはずである。「巻二十九天武紀下」には姓を賜った氏族が百数十も記載されており、またDの記事に関しては、記述量自体も他と比較して多いと言える。律令制度の定着が図られるにつれ、支配層の間でも、一部のみではなく全体に漢字が普及し、参照史料が飛躍的に増加したためでもあろう。参照史料の豊富さと、王権的な意味での『日本書紀』編纂時の支配体制は、この時期にはほぼ固まっていたものと思われ、潤色の必要性がほとんどなかったと推測されることからも、Dの記事はかなり信用してよく、充分にこの時期の日本史研究の史料たり得るのではないかと思う。Dの記事から基本的な日本史像を構築し、詳細な研究を行っても大過ないものと思う。

結び
 坂本太郎氏による「巻二十七天智紀」における同事重出の御指摘は既述したが、肝心のこの駄文自体も同事重出の如き記述を多数行うことになってしまい、自分の非力さを改めて思い知らされた次第である。大変読みづらい文章となり情けない限りだが、纏めを記して終わりとしたい。
 第二次世界大戦における敗北後、皇国史観の桎梏から解放された日本史研究において、『日本書紀』の史料批判は盛んになされ、同書の史書としての信憑性に多数の疑念が呈されて、人口に膾炙されることともなった。私が考えるに、同書の史書としての信憑性の低さは、編纂時の支配層の正当性や理念の証明のために多数の潤色が図られた故でもあるが、参照史料の不足がより大きな問題であった。日本には9世紀頃まで漢字以外の文字が存在しなかったため、漢字の浸透度こそ参照史料の多少を測る目安であり、延いては同書の信憑性を推定する基準であると推測される。日本語と中国語は言語体系が大きく異なる故、表音文字である漢字の導入には強烈な動機が必要となる。その動機と具体的様相から漢字の浸透度を推測して三時期に区分し、更に政治状況の推移とそれに伴う潤色の必要性を推測してこれも考慮に入れ、『日本書紀』の記事の信憑性は、記述対象時期により異なり、それは四時期に大別されるとした。
 この駄文はこれといってネタ本がないので、ほとんど私の推測である。よって、見当違いの見解となっている可能性は大で、8世紀以前の日本史に疎い方も、眉唾ものだとの疑念を常に念頭に置きつつ読んでい頂きたいと思う。このだらだらとした長文を最後まで読んでくださった方には本当に感謝する。