ミュケナイとポリスとの比較
初めに
この小文は、もう10年以上も前に私が書いた雑文に多少手直しをしたものである。何故今更そのようなものを引っ張り出してきたかというと、もう一ヶ月以上おざなりな日記以外更新しておらず、そろそろ何か書こうかと思っていたからなのだが、新規ネタはなかなか纏まらないので、取り敢えず過去の駄文を掲載してみようかと考えたのである。
10年程前は古代ギリシア史に嵌っていて、この駄文も勢いに乗って書いてしまったものである。今読み返してみると、目新しい見解を提示しているわけでも、深い考察がなされているわけでもなく、せいぜい高校の世界史に毛の生えた程度のものでしかない。だが、今これよりも遥かに水準の高いものが書けるかとなると自信は全くなく、古代ギリシア史に関して(他の多くの分野でもそうだが)、私が近年ほとんど進歩しておらず、或いは退歩さえしているかもしれない、と改めて思い知らされた。
やはり、私はダメ人間らしく怠惰で、絶えず自戒しておかなければすぐに堕落してしまうのであろう。これを契機に、古代ギリシアに限らず幅広く知見を得ることを常に念頭に置くと共に、日記以外のホームページの更新も頻繁に行うように心掛けたい。競馬ゲームに嵌っている場合ではないな・・・。
最初に断っておくと、ポリスとは都市国家のことであり、ミュケナイの諸国も、小村落を支配してポリスよりも領域的にはやや広かったとはいえ、領土国家とまでは言えず、都市国家とするのが妥当であろうが、ここでいうポリスとは、主に前7〜4世紀にかけてのギリシアの諸都市国家を指していて、要するにギリシアにおける前1600〜前1200年頃と前7〜4世紀頃の都市国家とを比較せんとの試みである。ただ、ポリスといっても色々あり、一概に言えないが、ここでは主にアテナイ(アテネ)を念頭に置いている。アテナイにポリスを代表させて良いものかは疑問だが、最有力ポリスであり、ポリスの一典型例でもあったのは間違いないだろうから、取り上げることにする。まあ、私がアテナイ以外のポリスに詳しくないというのもあるが。
両者の比較
ミュケナイの諸国家は前1600年頃より前1200年頃まで繁栄した。中心的国家はミュケナイであるが、他にピュロスやティリュンスなどがあり、いずれも海洋的性格が強かった。ミュケナイの諸国家は前1200年頃破壊され滅亡したが、その100年ほど前より城壁が厚く強化されるようになっており、短期間に破壊されたのではなく、長期に渡る襲撃の末に破壊され滅亡したものと思われる。その破壊者は不明であるが、最近は、前13世紀末よりエジプトなど東地中海各地を襲撃して回った海の民こそ破壊者ではないかとするのが有力な見解となりつつあるようである。海の民は、フィリスティと呼ばれ、『旧約聖書』ではペリシテ人とされている。彼らの出自は不明だが、複合的集団ではないかと推測されている。海の民は、侵入先で先住民と融合するなどしてその固有性はすぐに失われたようである(松本宣郎『週間朝日百科 世界の歴史第6号』「ポリス国家群の活躍」より)。
ミュケナイ諸国家の滅亡後、ギリシアは所謂暗黒時代を迎える。この時代のギリシアでは、バシレウスと呼ばれる統率力のある有力者を中心とした共同体が成立してきた。バシレウスは、ホメロスの叙事詩などによると英雄的指導者とでも言うべき存在だったようだが、バシレウスは村落に数人おり、共同体は集団指導的性格が顕著だったようである。前800年頃より、散在していた村落共同体が集住・政治的統合し、また貴族層が中心市へ移住し、ポリスが成立した。
ミュケナイの諸国家は、概ねポリスよりも領域はやや広かったようである。村々に役人を置いて支配し、民衆は自由人だが貢納の義務を負った。王都は堅固な城壁で囲まれて立派な宮殿や王族の墓があり、王権は強大だったようである。ミュケナイ諸国は、村落支配を基盤とする萌芽的な官僚機構を備えた貢納王政であり、専制国家的性格を有していると言える。
一方ポリスは、初期には有力貴族が王として選出されていたが、やがて王権は分化していき、貴族の集団指導体制が確立した。平民はクローレスという私有地を所有して経済的に自立しており、貴族との差はそれほど大きくはなかった。ポリスの原理は、村落共同体における族長的貴族と民衆との協調的社会関係と言え、強権を発動できないため兵の動員にあたって平民の参政権などの要求に譲歩せざるを得ず、平民の地位向上を促進して民主政を招来した。もっとも、ポリスにも王国は存在したのだが、基本はやはり族長的貴族と民衆との協調的社会関係で王権は弱く、王権の強大であったミュケナイ諸国とは大きく異なる。
両者は、政治形態だけでなく経済活動や階級構成も大きく異なると言える。ミュケナイ諸国は海洋的性格が強かったとはいえ農業を基盤としており、村落の住民はほとんど農業従事者であった。一方ポリスでは、前8〜7世紀にかけてミュケナイ諸国よりも活発な植民活動が行われて商工業が飛躍的に発展し、農業は依然として最重要産業ではあったが、発展した商工業を新たな経済基盤として貿易により食糧不足を補っていた。各ポリスの食糧自給率は概ね25%程度であった。
次に階級構成についてである。ミュケナイ諸国では強大な王権の下、王宮には奴隷が多数存在したが、前述の通り村落の住民のほとんどは農民で、王権が強大で平民の力が弱体故に、平民と奴隷の間に明確な区別が生じにくく、平民の下に奴隷が多数存在する状況には至らなかったと推測される。一方ポリスでは、平民の地位向上に伴い自由民と奴隷との区別が明確化し、本格的な奴隷制社会が確立したが、ある意味で、ポリスは奴隷制を根底にして真に成立したと言える。
総じて、ミュケナイ諸国はポリスと比較してオリエント諸国との共通性が多く、古代世界の主流がポリスではなくオリエントの専制国家であったことを考えると、古代における特殊地域とされるギリシアも一旦は主流に属しかけたようである。それが結局は特殊な政治体制へと移行したのは、恐らくは生産力の低さのため、広域的な強権が成立するのが困難だったからであろう。