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人類史における一元論と多元論を巡る考察

初めに
 人類史における一元論と多元論の問題は、私にとって重大な関心事の一つである。とはいえ、余りにも壮大な問題だけに、非力な私が的確に纏め上げるのは容易ではなく、今回は論証などほとんどできておらず、精々現在の大雑把な考えを吐露するにすぎない。そのようなものを書いて果たして役に立つのか疑問もあるが、現時点での考えを整理することで今後どう検証・考察すべきか何某か見えてくるだろうから、多少は益するところがあると思い書く次第である。赤字で記した()付き数字は注で、文末に纏めて記した。

文化一元論と多元論
文化と文明の起源
 人類文化の起源を巡っては、一元論と多元論の対立がある。あくまで一般論だが、創造よりは模倣の方が容易である。また、旧石器時代より人類の交通は盛んで、数百km離れた場所から採られた石材を用いた石器が出土することも珍しくない
(1)。こう考えると、文化一元論に充分な説得力がありそうで、嘗て私も一元論者であったが、私の場合は、農耕の開始や原始文化に関しては一貫して多元論を採っており、文化一元論者というよりも文明一元論者で、その根源地を西アジア、更に限定するとメソポタミアに求めていた。
 現在でも、文化一元論を採る人の多くは西アジアにその根源地を求めているようである。実際、農耕・金属器・文字・国家・暦・成文法など文化や文明の多くの要素が先ず西アジアで開花したと考えられてきた。人類の原始文化の中でも最重要と言える農耕文化の起源は西アジアにありとする見解が支配的であった。文明については、その条件を、城壁都市及びそれを基盤とする階級制度を伴う国家の成立・金属器の使用・文字の使用・活発な交易・高度な芸術などと規定した場合、エジプトは前四千年期後半から末、メソポタミアは前四千年期半ばから後半、ギリシアとインドは前三千年期前半から半ば、中国は前二千年期前半から半ばにかけて黄河流域の所謂中原で文明段階に入ったと考えられ、即ち、文明は西アジアにおいて最も古く開花し、西アジアから遠ざかるにつれてその分遅く開花しているのである。インダス文明はメソポタミアとの交易が活発であり
(2)、中国では彩陶と金属器が西アジアより齎された。更に旧石器時代より人類の交通が盛んであったことも考慮すると、文化も文明も西アジアが根源地であり、西アジアの影響により世界各地で文化や文明が発達したとする西アジア一元論には充分な説得力があるように思われる。
 ところが、近年の発掘状況を見ると、西アジア一元論には疑問を抱かざるを得ないのである。先ず農耕だが、これは西アジアが最古とは言えなくなってしまった。現在のところ、西アジア最古の農耕が約12000年前まで遡るのに対し、長江流域では約14000年前に遡るのである。もっとも、長江流域以外で今後更に古い農耕の痕跡が発掘される可能性も充分あるとは思うが。では今度は長江流域が農耕の発祥地でそこから世界各地に拡散したのかというと、そうではないように思う。長江流域は稲、西アジアは麦が主要栽培作物で、この点で両者は異なっている。農耕栽培という概念が特定地域で誕生してそこから世界各地に拡散したという可能性も全否定はできないし、特定地域の影響を受けて農耕を開始した地域も珍しくはないだろうが、例えば中国文化西方起源論の根拠とされた彩陶も中国独自起源の可能性が充分あることが判明しており
(3)、西アジア・長江流域・東南アジアなどでは、農耕とそれに付随する文化は独立多発的に発生した可能性が高いように思う。
 次に文明の諸要素についてはどうかというと、必ずしも西アジアの大きな影響を想定する必要はないように思う。インダス文明はメソポタミア文明の影響大とよく言われるが、後者の大きな特徴である神殿や王墓が前者では認められず、前者の成立において後者が決定的な役割を果たしたと言えるか疑問である。次に中国文明だが、地理的要因からインダス文明よりもメソポタミア文明の影響が随分と希薄になっているだろうというのは容易に想像できるが、実際のところ、金属器を除く文明の諸要素で西アジア起源と確実に言えるものはなく、例えば暦にしても、中国では古くから農耕が行われていたことを考えると、独自起源とするのが妥当なように思う。中国には新石器農文化の長い蓄積があったから、独自に文明が発生したという側面が強いように思うし、また中国が文明段階に突入したのは従来言われているよりも古い可能性もある。旧石器時代より東西南北の交通は盛んであったとはいえ、大河流域のエジプト・メソポタミア・インダス・中国の所謂四大文明は、独立多発的に発生した一次文明とするのが妥当なように思う。つまり、文化も文明も独立多発的に発生し、多元論を採るのが妥当なのではないかと私は現在考えているのである。
ユーラシア大陸とアメリカ大陸
 ここまではユーラシア大陸のみに言及し、アメリカ大陸については一切触れなかったが、アメリカ大陸は文化多元論の重要な根拠になると思われるので、次にアメリカ大陸について見てみたい。
 アメリカ大陸に人類が移住した時期には諸説あり確定していないが、ユーラシア大陸とアメリカ大陸とが陸続きであった時期にベーリング陸橋
(4)を通じて新人が移住してきた、即ち原人や旧人の移住はなかったという点では一致している。現在では、アメリカ大陸への人類の移住は15000年前以降とする見解が主流になりつつあるようである(5)。人類は、アメリカ大陸に渡った段階では土器を使用しておらず農耕も行っていない。アメリカ大陸で農耕が始まるのは前5000年頃の中米においてで、土器もその頃に使用され始めている(6)
 アメリカ大陸においてはその後、階級制度を伴う国家の成立・南米の冶金術・マヤの太陽暦と文字・テオティワカンなどにおける四角錘型の巨大石造建築物、といったユーラシア大陸とよく似た発展も示している。では、両者に何らかの交流があったのかというと、フェニキア人やヴァイキングがアメリカ大陸にまで到達した可能性は全否定できないし、その他にも偶発的にユーラシア大陸の住民がアメリカ大陸に到達した可能性はあるが、両者の間の有効な交渉は1492年以降とするのが妥当であろう。
 有効な交流のない段階で、ユーラシアとアメリカの両大陸において農耕・巨大石造建築物・金属器といった共通の発展が見られるのは、興味深くもあり、また謎でもある。これに対する一つの解答として、未知なる超古代文明の存在の想定が挙げられる。これも一種の一元論で、地球上の全文化・文明には未知なる一つの根源地があったとするものである。近年では、グラハム=ハンコック氏が『神々の指紋』で、この立場から南極に未知なる文明が存在したと主張され、同書は200万部以上という驚異的な売上を記録した。また、これらの論者の中には地球外に根源地を求める人もいるが、こうした主張を裏付けるような根拠は極めて薄弱というか皆無に等しく、ハンコック氏もそうだが、とっくの昔に論破されてしまっている根拠をさも新たな根拠であるかのように持ち出し
(7)、そうした事情に疎い一般人を煙に巻くわけである。何だか、歴史「修正」主義者に通じるものがあるように思う。それはさて措き、こうした主張はトンデモ系と言わざるを得ず、退けるのが妥当であろう。
 未知なる超古代文明など存在しないとなると、両大陸の共通した発展現象は何に起因するのであろうか?私は、現代人(新人)の起源を探ることにより、その要因がかなり浮き彫りになるのではないかと思っており、次に現代人の起源について考えてみたい。

現代人の起源を巡って
 現代人の起源を巡っても、古くから一元論と多元論の対立があり、現在でも決着はついていない。とはいえ、現在では人類の起源をアフリカに求めることに異論はほとんどなく、従って現代人の起源は大元を遡ればアフリカにあるということになる。問題は、どの段階で現代人の直系祖先がアフリカを出たか、即ち、現在世界各地に存在する人類の分岐がいつかということである。現代人の起源を巡る論争は、一元論と多元論の対立というより、分岐年代を巡る論争と言う方が適切かもしれない。一元論に相当するのが単一起源説で、多元論に相当するのが多地域進化説なのだが、ハーヴァード大学人類学者のウィリアム=ハウエルズ氏は、前者を「ノアの方舟」説、後者を「枝付き燭台」説と命名された
(8)
 前者では、現代人の直系祖先=後の新人は約20万年前にアフリカの一角で誕生し、約10万年前頃より世界各地に拡散し始め、各地の先住民である原人や旧人に代わって定着し、原人や旧人はその過程で滅びたとする。後者では、遺伝的交流はあったものの、アフリカから世界各地に拡散した原人がその地で旧人から新人へと移行し、多発的に現代人への移行が起きたとする。この問題を考えるにあたって難しいのは、当然のことだが、遺物や人骨が後世と比較して極端に少ないということである。これが、人類の系譜作成を困難にしている。
 原人・旧人・新人の典型的形質は明確で、相互に大きく異なると言える。だが、出土した人骨の全てが明確にいずれかに分類されるかというとそうではなく、実際にはばらつきがある
(9)。そうすると、原人はさて措き、旧人と新人の相違は環境への適応に拠るところが多分にあり、例えばネアンデルタール人とクロマニヨン人の相違を強調するのは妥当性を欠き、両者には直接的繋がりがあるのかもしれない。実際、現代人は各環境へ適応した結果、例えばアフリカ熱帯地域の長身足長の集団と胴長短足のイヌイットとのように、大きく異なる外見を示していて多様性に富んでいる。では、多地域進化説に妥当性があるのかというと、遺伝学的成果からはそうとは言えないのである。
 1980年代半ば以降、遺伝学的見地からの現代人の起源探求が盛んに発表されるようになった。それらは、現代人のミトコンドリアDNAの比較から、現代人の起源と分岐年代を推定しようという試みであった。その結果、遺伝的相違はアフリカにおいて他の地域よりも大きいことが判明し
(10)、現代人アフリカ起源説を強く示唆したが、多地域進化説論者にとってこれは受け入れられないものではなかった。問題は、遺伝研究において分子時計(11)という手法が用いられ、アフリカ人と東アジア人との分岐が約116000前、アフリカ人と欧州・西南アジア人との分岐が約113000年前とする研究者も出てきたことで(12)、これでは多地域進化説は到底成立しない。ミシガン大学の古人類学者ミルフォード=ウォルポフ氏のように、こうした結果を導き出した分子時計に疑問を抱く研究者も少なからずいるし(13)、私も疑問はなくもないが、この見解を否定するような強力な見解は現在まで出されておらず、どうも現代人の分岐は約10万年前の前後に求められそうである。また近年、ある研究グループがネアンデルタール人のミトコンドリアDNAの一部を採取することに成功し、現代人のそれと比較したところ、現代人間の相違よりも、現代人とネアンデルタール人との相違の方が遥かに大きかったという。現代人の分岐が約10万年前だから、ネアンデルタール人と現代人とはそれよりも遥か前に共通の祖先から分岐したのだろう。
 そうすると、現代人の起源に関してはノアの方舟説に分がありそうで、現代人は人類史上においてはかなり近年まで遺伝的一体性を保持しており、外見上は環境への適応により大きく異なることとなったが、知能も含めてその資質には根本的に大きな差はないと言えよう。こう考えれば、相互に有効な交流のほとんどなかった段階のユーラシア大陸とアメリカ大陸においてよく似た発展現象がしばしば認められるのも全く不思議ではない。生物の中には、地理的環境の変動により次第に別種へと移行する例もあるが、現代人は、別種へと分化する前に交通手段を大いに発達させて相互の交流が盛んとなったため、同一種たり得続けた。現在交通は大いに発達し、今後も更なる発達が望めそうだから、現代人はその一体性を維持し続けるように思う。ただ、今後の遺伝子研究とその応用の方向性によっては、或いは現代人の決定的な分化が始まるかもしれない。

結び
 現代人に直接繋がる人類の分化が始まったのは、人類史上ではかなり新しい年代のこととするのが有力な見解で、現代人はその外見の著しい相違にも関わらず割と近年まで根源的一体性を有しており、かなり均一な資質を有していると言える。そのため、相互に交通のほとんどない地域同士においても、よく似た発展現象がしばしば認められるものと思われる。
 そうすると、人類文化にも根源的一体性があり、文化一元論が妥当と言えるかもしれないが、根源的一体性を保っていた段階の人類が農耕を行っていたわけでも絵を描いていたわけでもなく、人類文化の重要な要素は分化後に発生したとするのが妥当だろうから、やはり人類文化や文明は多元的と言うべきだと思う。現代人の起源に関しては、一見多様でありながら均一性をも保持しており、その多様性が顕現した=分化したのが人類史においてかなり新しい年代で、しかも決定的な相違ではないということを考慮すると、一元的と言うべきだろう。


(1)河合信和「なぜネアンデルタール人は消えたのか」『大航海1998年6月号』(新書館)P81
(2)近藤英夫「インダス文明」『古代文明と遺跡の謎』(自由国民社1998年)P54
(3)量博満「中国の古代文明」『古代文明と遺跡の謎』P41〜42
(4)ベーリング海峡は、10万年前頃より12000年前頃まで陸続きであった
(5)ブライアン=M=フェイガン、河合信和訳『現代人の起源論争』(どうぶつ社1997年)P285
(6)
大井邦明「アメリカ  最初の石器と土器」『週刊朝日百科世界の歴史第1号』(朝日新聞社1988年)
(7)例えば、『神々の指紋』の冒頭に出て来るピリ=レイスの地図に対するハンコック氏の見解は、既に1970年代に地理学者らによって論破されてしまっている
(8)『現代人の起源論争』P19
(9)片山一道・山極寿一「対話 直立歩行と言語をつなぐもの」『大航海1998年6月号』P61〜62
(10)ジョナサン=キングドン、菅啓次郎訳『自分をつくりだした生物』(青土社1995年)P368〜369
(11)ミトコンドリアDNAのうち、自然淘汰に対して遺伝的に中立的な場所で起きた突然変異の速度が一定であると仮定し、各集団間の差異の割合を調べることにより、各集団間の分岐年代を探ろうとする手法
(12)『現代人の起源論争』P44
(13)ジェイムズ=シュリーヴ、名谷一郎訳『ネアンデルタールの謎』(角川書店1996年)P94〜98、またウォルポフ氏は、分子時計そのものを否定したわけではなく、「目盛り」が間違っているとし、現代人の分岐を約85万年前に求めた。尚、分子時計そのものに対して疑問を抱く研究者もいる