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何故日本では囲壁集落が発達しなかったか

初めに
 今回の表題では、当初は「囲壁集落」ではなく「城壁都市」を使用する予定だったのだが、都市といっても定義は人様々で、どういう集落を都市と認めるかについて意見が分かれることが少なからずあり、また日本での都市の成立を随分遅くに想定する人も多く、今回は都城だけでなく地方にも着目し、寧ろこちらに主眼を置きたいので、「集落」という用語を表題に用いることにした。尚、囲壁と城壁は基本的にほぼ同じものなのだが、都市を囲む場合は後者、都市とまでは言えないような集落を囲む場合は前者を用いた。
 今回この問題を取り上げたのは、元々関心があったからなのだが、最近、日本で城壁都市が発達しなかったのは日本が「ユーラシア文明」と大きく異なる独立一個の文明のためだ、とする見解が提示されていると聞き、この見解が気になったからでもある。
 とはいえ、なかなか難しい問題だけに私も容易に纏め上げることができず、ヤフーの掲示板でも以前何度か投稿したのだが、大したことは書けずに終わってしまった。今回もそれほど目新しい見解を提示できるわけではないのだが、現在の考えを整理するのに役立つかと思い書く次第である。赤字で記した()付き数字は注で、文末に纏めて記した。

囲壁の建造理由
 何故集落に囲壁を設置するのかと考えると、幾つかの理由が思い浮かぶ。一つは、外敵の侵攻を防ぐためで、これが決定的な理由だったと思われる。何故外敵の侵攻があるかと考えると、水争いも含む農業好適地を巡る紛糾と、富や人間の略奪のためであろう。後者の場合、初期には、生産力で定住民に劣る遊牧民が農村集落や都市を襲撃する例が多く、中には征服して定住化するものもいたようである。遊牧民の中には後に騎馬民族化したものもいたが、やはり生産力の点で定住民に劣っていたため、これを襲撃して略奪し、時として征服して定住化するという構図は長らく変わらなかった。ただ、騎馬民族が登場する頃には定住民も大領土を築いており、戦闘は大規模化した。
 二つ目は、洪水から集落を防御するためである。インダス文明の諸都市にも囲壁は存在したが、それらで発見された武器類は貧弱なものであった。インダス文明とメソポタミア文明の間の交易は活発だったようだから、インダス文明の諸都市に強力な外敵の侵攻の可能性があれば、もっと威力のある武器類が出土するはずである。それがないということは、強力な外敵の侵攻の可能性がほとんどなかったと推測される。にも関わらず何故囲壁が築かれたかと考えると、洪水で都市が破壊された度に囲壁も再建されていることから
(1)、洪水による被害を軽減するためだと思われるのである。河川流域の集落に築かれた囲壁には、この目的もあったのではなかろうか。
 最後に、他者との区別化という機能が挙げられる。囲壁は、自らと異質な者とを区別する境界でもあった。中国の場合は囲壁が特に重要な意味を持ち、後には囲壁集落の外に住む者は夷と呼ばれ、文明人ではないとされた。ただ、これは精神的要素であり、必ずしも囲壁という強大な物理装置である必要がない。従って、この場合の境界線は簡素な溝や縄程度でもよく、更には不可視的な境界線も存在したと思われるから、囲壁の設置される以前の集落にも広く存在したと思われる。従って、この機能は集落における囲壁の存在有無の理由を考察する際にはあまり考慮に入れなくとも良いと思われる。

西・南・東南アジアにおける囲壁集落の発達
 人類は古くより集落を築いていたが、新石器時代以降その規模は飛躍的に発展し、ユーラシア大陸の文明地帯においては、東西でよく似た発展状況を示した。初期には囲壁や環濠のような防御施設はないか貧弱であったが
(2)、集落規模の拡大に伴ってこれらの防御施設は強化されていった。当初は、生産力が低かったため略奪などほとんど起きなかったのだろうし、また人口が少ないため農地や水争いもあまり生じなかったのであろう。だが、生産力が向上して富が集積されると略奪行為が増え、また人口も増加するから更に農地を拡大しなければならない、というより、富の集積により農地の拡大に転じる余裕ができた、と言うべきか。古代の技術においては、水利用も含めての農業好適地には、後世と比較して大きな限界があったから、必然的に集落間に闘争が起きることになる。
 こうして各地の集落で防御施設が強化されることになったのだが、ユーラシア大陸においては、その防御施設が囲壁であることが多かった。メソポタミアにおいてはウルクが有名で、城壁の長さは9.5kmあった
(3)。他にも、ウルやラガシュなど多数の大規模な囲壁集落=城壁都市が多数存在し、都市国家群を形成していたのである。
 所謂四大文明の一つエジプトにおいては、他の三文明と異なり都市国家乱立の状態はなく、早期に統一国家が成立した。このこともあり、エジプトに城壁都市はほとんどなかったと以前ヤフー掲示板に投稿したことがあるのだが、どうも「都市なきエジプト文明」という古典的な評価は現在では怪しいようで、果たしてメソポタミアと比較して囲壁集落が一般的でなかったのか、現在では確証を得ない。よって、エジプトにおける囲壁集落の様相については、現段階では触れないことにする。
 南アジアでは、インダス文明の頃にモヘンジョ=ダロを初めとする城壁都市が築かれ、マウリヤ朝統一前の群雄割拠時代には、主要国の首都は城壁都市であったという
(4)。だが、都市とまでは言えないような一般集落において囲壁が存在したか、浅学なのでよく分からない。東南アジアにも城壁都市は存在したが、南アジア同様、一般集落において囲壁が存在したか、よく分からない。

東アジアにおける囲壁集落の発達
 中国においては前4000年頃に、黄河流域に姜寨や半坡、長江流域に城頭山といった環濠集落があるが、これらは平面円形構造で、概ね防御施設と武器類が貧弱であったことから、闘争はさほど激しいものではなかったと思われる
(5)。その後、長江流域では前4000年紀に土堤、即ち囲壁からなる集落が発展してきて、前述した城頭山にも囲壁が設けられたが、やや遅れる石家河では略方形となっている(6)。黄河流域では、ほぼ同時期の西山や平糧台に囲壁集落が認められ、前者は平面円形で後者は方形だが、その後の中国の都市は、殷代の偃師商城がそうであるように、城壁を伴う方形が主流であった(7)。中国においては、普通は都市とまでは認められないような一般集落にも囲壁、即ち城郭が設けられたから(8)、概ね円形の環濠集落から方形の囲壁集落へと発展した、と言えよう。
 朝鮮では、前1000年紀半ばに、高地性のものも含めて環濠集落が出現するようになったが、これらは概ね円形構造であった
(9)。集落における円形構造は3世紀頃まで続いたが、中国の直接統治が及んだ地域では、3世紀以前にも方形の囲壁集落が築かれていた(10)。朝鮮においては、円形環濠集落から方形環濠集落へ、都城的集落に関しては方形囲壁への移行という流れを概ね認めても良いと思われる。
 日本においては、縄文時代の集落は概ね円形構造で環濠はなく、溝も一般的ではなかったようである
(11)。弥生時代になると環濠集落が出現し、これが一般的な集落の在り様だったかは議論の余地があるが、環濠集落は有力な集落で、環濠のない集落の上に立っていたということは言えよう。当初の環濠集落は概ね円形で、これは朝鮮南部からの影響だけではなく、縄文時代からの流れも受けているようである(12)。弥生中期後半以降になると環濠集落は巨大化し、また墓の面積の大小や大形建物の集中などからすると、階層分化が進展していったようである。また、朝鮮と同様日本にも高地性環濠集落が存在した。この頃より日本でも方形環濠集落が出現し始めたが、一部の都城を除いて囲壁の発達には至らなかった。この移行に中国や朝鮮の影響があったことは想像に難くない。吉野ヶ里には環濠の前に土塁があり、これを囲壁と解釈できなくもないが、土塁は低くその上に木柵が設けられており、「魏志倭人伝」(13)にも「城柵を設けた」とあることから、木柵と環濠が防御設備として重要で、囲壁を廻らしたとは言えないだろう。日本では、円形環濠集落から方形環濠集落へと移行したが、囲壁集落には移行しなかったということになる。
 ここで東アジアの集落について纏めてみると、円形集落から方形集落への移行という大きな流れが認められる。円形から方形の移行に関しては階層分化が伴うようで、中国でも日本でも、一般の墓とは異なる大墓が出現する頃より方形集落が出現する。では何故階層分化が円形から方形への移行を促すかと考えると、どうも、人の集合形態において、円形は平等の方形は支配の象徴という観念が存在するためでもあるらしい。当初この考えは単なるこじ付けではないかと思ったが、江戸時代に百姓一揆が計画される際に、発起人が分からないよう、即ち上下関係が不明で平等な関係と見せるために円形の傘連判状が作成されたことを想起すると、東アジアにおいては古くは上記の観念が存在し、少なくとも日本では江戸時代にも存在したように思われる。ユーラシア西部においても、1980年代のポーランドにおいて、政府と自主管理労組連帯との交渉が上下関係を設けないため円卓会議の形式で行われたことからすると、上記の観念は広く人類全般に共通するように思われる。
 この過程で、中国においてはほとんどの集落が囲壁を有するようになった。朝鮮においては、都城的集落は囲壁を有するに至った。日本においては、囲壁は発達しなかった。では、囲壁の有無をもって別個の文明とできるのかというと、途中より防御施設に違いはあれど、その内部構造も含めて初期における基本的な集落の変遷に決定的な差はなく、集落形体の変遷において中国や朝鮮の影響も認められる。集落という社会の基本的要素において中国や朝鮮との共通性と関連性が認められるので、囲壁の存在しないことをもって日本が中国や朝鮮と異なる独立一個の文明とするのは根拠が乏しく、日本の発展は東アジアにおける発展の中に位置付けるのが妥当のように思われる。とはいえ、囲壁が発達しなかったのは事実で、この要因は充分考察しなければならず、次にこの点を考えてみたい。漸く次から本論に入るわけだが、前置きや余談が長く本論が貧弱というのは私の悪い癖で、今回も同じ轍を踏んでしまった。今後は自戒しなければ・・・。

日本の集落では何故囲壁が発達しなかったか
 先ず考えねばならないのは、西アジアにせよ東アジアにせよ、囲壁の一般的な登場には、新石器時代に突入してから随分時間がかかっているということである。東アジアで、集落の防御施設として囲壁が環濠に先行していることから考えると、囲壁の登場には環濠と比較してより高度な発展状況が要求されると思われる。次に考慮しなければならないのは、囲壁は基本的に防御施設であるということである。先ずは、この二つの視点を中心に考察することにする。
 日本に都市国家
(14)の時代がなかったことはよく指摘されるが、実際のところはどうだったのだろうか。都市国家が乱立していた頃の中国は、最大の都市国家でも3000戸ほどであり、元来「国」の概念はそれほど大きなものではなかったようである(15)。「魏志倭人伝」に記述された頃の日本は弥生後期〜古墳初期と推測されるが、同書によると、奴国2万・投馬国5万・邪馬台国7万で、誇張の可能性は高いだろうし1戸あたりの平均人数も不明だが、それにしても随分と1国あたりの戸数が多い。どうも「魏志倭人伝」に記載された「国」は、多くの集落の連合から成っていたと推測される。但し、これを領土国家と認めて良いものか甚だ疑問で、拠点集落に多くの集落が従属する関係にあった、との表現に留めておくのが妥当だろう。「魏志倭人伝」によると、こうした国々のうち約30が邪馬台国に属して一つの政治圏を構成していたことになるが、「魏志倭人伝」や考古学の成果からすると統治機構が充分発達していたとは思えず、これは統一国家ではなく浮動的な従属または同盟関係にあったとするのが妥当だろう。
 そうすると、方形集落が出現し始めてからさほど時間が経たずに広域的な連合が成立したことになり、やはり日本では都市国家の時代はなかったようである。都市国家、即ち囲壁集落が発達するような段階の前に広域的な連合が成立し、恒常的な紛争状態が解決されたのであろう。これが、日本の集落において囲壁が発達しなかった重要な一因であろう。日本列島内で恒常的な紛争状態が解決されれば、列島外からの大規模な侵略が困難なだけに
(16)、その後囲壁集落が発達しなかったのも充分納得できるように思う。更に、日本は中国の直接統治を受けず、局部的な高度発展状態が存在しなかったことも、囲壁集落が発達しなかった理由であろう。では、何故囲壁集落が発達する前に日本では広域的な連合が成立したかというと、これはなかなかの難問である。一つ考えられるのは、日本には遊牧民や騎馬民がおらず、農耕民以外に強力な戦闘力を有する集団がいなかったため、利害関係の調整が割と上手くいき纏まりやすかった、ということだが、どうにも自信はない。
 日本では都城にも囲壁はほとんど存在しなかった
(17)。都城が築かれる頃には囲壁を設けるだけの条件は充分備わっていたと思われるが、過去に囲壁集落が存在しなかったのも一つの要因だろう。日本と同じく朝鮮にも都市国家の時代はなかったと思われるが、朝鮮は中国の直接統治を受け、一部地域で高度な発展状態を迎えて囲壁集落を発達させたことがあるため、都城に囲壁が設けられたのだろう。無論、朝鮮では三国が激しく覇権を争っていたというのも要因の一つになっているのだろうが。尚、平城京は唐代長安を模倣したと言われることもあるが、両者に類似点が認められるとはいえ、原型は藤原京に求めるのが妥当だろう。その藤原京に類似しているのは、唐代長安ではなく、寧ろ南北朝時代の北魏や西魏や南朝の都城の方である(18)
 律令国家成立後、日本が長期的な戦乱状態となったのは、南北朝期と戦国期である。ここでも、囲壁集落は発達しなかった。その理由となると、集落が襲撃されることがあまりなかったためであろう。例えば、青田刈りが頻繁に行われたことと比較すると遥かに少なかったと言えよう。では何故集落自体への襲撃が少なかったかというと、やはりなかなかの難問である。一つ考えられるのは、集落が豊かでなく富がさほど蓄積されていなかった、ということだが、果たして当時の集落が、略奪の重要な対象とならないほど貧しかったか、疑問はある。もう一つ考えられるのは、集落の基本的構成員である農民が他の集落への征服・植民活動を考えていたわけではなく、当時の戦争は支配層による集落の支配権確保が主目的で、農民が主体的存在として戦争をしていたわけではないので
(19)、集落を襲撃する意味があまりなかった、ということである。では農民が何故従軍するかというと、領主権力の強制があるからなのだが、一方で領主の側が租税や労役の減免を約束することも多かったためでもある。とはいえこれもあまり自信は持てず、或いは、古代より囲壁集落が存在しない状態が続いたため、惰性で築かなかったのかもしれない。

結び
 日本における集落の発達は中国や朝鮮のそれと類似している。囲壁が発達しなかった点が異なるとはいえ、集落の変遷には中国や朝鮮からの影響も認められ、囲壁の発達しなかったことを以って、日本が中国や朝鮮などの東アジア世界と異なる独自文明圏を構成していた、という主張の根拠とすることは難しいように思う。
 では何故日本で囲壁集落が発達しなかったかというと、囲壁が発達する前の段階で広域的な連合が成立し、恒常的な紛争状態が解消されたことが最大の要因と思われる。とはいえ、私も日本で囲壁集落が発達しなかった理由についてよく分っているわけではなく、様々な因果関係を明快に説明できてはいない。精一杯分ったところまでを書いたのが今回の一文なのだが、どうにも上手く纏まらなかった。
 この纏まらない文章を最後まで読んで頂いた方には本当に感謝する。御意見や御批判を頂ければ幸いである。


(1)近藤英夫「インダス文明」『古代文明と遺跡の謎』(自由国民社1998年)P52
(2)例外はあり、金関恕「都市の出現」『古代史の論点第三巻』(小学館1998年)P72によると、新石器時代初期のジェリコは高さ9mの囲壁が存在した。だが大勢は、新石器時代初期には貧弱だった集落の防御施設が時代が下るにつれ強化される傾向にあった、としても大過ないだろう。
(3)謝世輝『古代史の潮流』(原書房1994年)P53
(4)辛島昇「南アジア マウリヤ王朝の繁栄」『週刊朝日百科 世界の歴史第11号』(朝日新聞社1989年)
(5)武末純一「弥生環溝集落と都市」『古代史の論点第三巻』P88
(6)同上P88〜89
(7)同上P89
(8)宮崎市定「中国城郭の起源異説」「中国における聚落形体の変遷について」『中国古代史論』(平凡社1988年)
(9)武末純一「弥生環溝集落と都市」P89〜90
(10)同上P89〜90
(11)
同上P91
(12)同上P92〜93
(13)『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝」倭人の項とするのが妥当だが、ここでは慣例に従う。
(14)特に規模が大きく様々な要素が発展したと認められる囲壁集落については都市国家とされるが、ここでは領土国家成立前の囲壁集落を概ね都市国家として認めて議論を進める。
(15)宮崎市定「中国における聚落形体の変遷について」P82
(16)古来より日本列島を巡る海上交通は活発で、多くの人や文化が流入した。だが、後年の元寇の例からも推測するに、大陸から日本列島への大規模な軍事行動は極めて困難で、元寇以外に確実なものといえば刀伊の入寇くらいである。
(17)囲壁の確認されている都城は、現時点では難波京のみである。
(18)岸俊男「都城の源流をたずねる」『日本の古代9 都城の生態』(中央公論社1987年)
(19)土一揆や一向一揆はあるが、これらも指導者は国人であることが多く、確かに農民の主体的役割は増大しているとはいえ、基本的には支配層間による集落の支配権を巡る争いだろう。無論、国人も富農であることが多く、農民と言えなくもないが、ここでの農民とは、さほど豊かではない一般農民を念頭に置いている。