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中国における小農と市場

初めに
 今回採録するのは、7年ほど前に書いた一文(纏めとして翻訳の後に採録した)と、その元ネタとなった英語文献の一章分の翻訳だか要約だかである。この英語文献は確かまだ自宅のどこかに存在する筈だが見付けられず、正式名称は明示できない。誤訳や意味不明瞭な箇所は多々あるだろうし、簡潔に纏めたはずの一文も、今改めて読み返してみると要領を得ず、更に、今となってはこの問題にさっぱり疎くなってしまい、恐らく読者の方から質問を受けてもほとんど答えられないだろう。それでも、英語文献の翻訳の方は多少は役に立つかと思い採録する次第である。
 当初は、明〜中華民国期の小農と市場について以前一文を書いたと記憶しており、これを採録しようと考えたのだが、今改めて読み返してみると、確かに明代と清代についても語ろうとしていたものの、実際にはほとんど何も語っておらず、羊頭狗肉となっている。考えてみると、当時もこの問題をどれだけ理解できていたか疑問で、まさに汗顔の至りである。尚、小作農でなく小農としたのは、小規模経営の自作農も一部含めているからだと思われる。また、誤字脱字は訂正し、読みやすいように一部句読点を改変した。

 

「第六章 小農と市場」翻訳
 新古典主義者の市場経済モデルが、長江デルタ地帯における歴史的現実を記述できていないことは明白である。そこでこの章では、農村市場の構造と作用に関する幾つかの前置きの提案を行うために、商品に関する経験的資料と20世紀の民族学的調査におけるデルタの金融市場とを取り扱う。以下で読むことになるように、「小規模の商品生産」という古典的マルクス主義者の区分が有効である一方、商品経済の理論の理解を普及させたのは、カヤーノフに始まる実在主義者の伝統である。この伝統は、我々の関心を小農の利益戦略よりも生存戦略へと向けたのである。

20世紀における小農の市場での取引
 表6−1(文献が見付からないので表も掲載できなかった。以下同様)は1930年代後半における六つの長江デルタ地帯と華北の村落の小農家族の売却した商品の主要な区分である。作物(原則として穀物と綿花)が最大の割合を占めているが、綿花地域では綿糸や綿織物、米作地域では麦藁製品といった副業産品と結合しており、売却された全商品の82.1%を占めていた。 Wu Chengming氏によると、アヘン戦争直前の中国において、食糧穀物の綿花や綿織物への交換は全商品貿易の69.9%を占めている。Wu氏の概念によると、統合国内市場に属する商品のみが初期資本主義到来の証拠となり、日用品(必需品)の使用を正当化することになる。Wu氏のイデオロギー的な先入観を除去して、日用品を市場で売却される商品としてより一般的に見做すと、局地的市場に制限された商品が小農市場に顕著に表れるということが明確になる。特に家畜は小農家族が市場で売却するものの中で重要である。家畜が重要な割合を占めているような農村では、ほとんどキビやトウモロコシを栽培し、穀物の殻や籾殻から取れる飼料を家畜に与える。
 これらの農村の小農が商品を購入するために得た現金で購入する物に関する記録も同様の点を強調している。表6−2〜6−4が示しているように、食糧穀物と綿製品が小農の市場における取引の中心であり、長江デルタ地帯の六つの農村における全購入商品の、それぞれ平均して31%と6.8%である。一方華北においては、それぞれ48.8%と6.2%である。肉(主に豚肉)も重要だが、長江デルタ地帯の農村と華北の農村ではかなりの差があり、両者の生活水準の相違を示している。魚肉類の全購入商品に占める割合は、長江デルタ地帯では11.7%だが、華北では4.7%である。塩も重要な品目である。華北では5.4%、長江デルタ地帯では6.1%である。長江デルタ地帯では茶も重要で、2.2%を占めるが、華北では重要ではないため、計算されておらず、両者の生活水準の差異を反映している。また、Wu氏の一覧には載っていないが、長江デルタ地帯において重要な購入品は、砂糖・葉巻タバコ・酒・醤油・食用油等である。これらの総計は、華北(長江デルタ地帯の方が裕福である)における3.9%と比較すると、22.5%である。家族の消費が時間が経過してもそれほど変化しないと想定すれば、農産品や伝統的加工品は、何世紀にもわたって利用されてきたものであり、両地域における小農の市場での取引の長期にわたる類型を示している。
 20世紀の調査資料が古いパターンからの明確な出発を示しているところのものは、「産業製品」という新しい区分にある。1930年代までに、機械紡績糸、マッチ、灯油、等を中国の小農が広く使用していたことが明白になっている。機械製の布でさえかなり広く使用されていた。これら四つの新製品は、長江デルタ地帯では平均11.9%、華北では13.8%である。
 こうした新産業品目の中で綿製品は特に頻繁な交換をもたらした。Xu Xinwu氏の1860年と1936年との比較資料によると、1860年には全小農家族の45%が布を織っており、原料の80%は自らの綿花と紡ぎ糸であった。実質的に中国で消費される布の96.8%は手製で、そのうちの46.1%は家庭用であった。1936年までに、布を織る家族の割合は全小農家族の30%に、小農の手製の布は、消費された全ての布の38.8%に、家庭に供給される布は28.7%にとそれぞれ減少した。この頃までには、自ら布を織っている人でさえ機械紡績糸に大変依存するようになり、その割合は75.9%になった(1860年にはたった0.6%にすぎなかった)。こうした変化とともにより徹底した綿花経済の商業化がもたらされた。1860年には69.4%だった全綿花の家庭に供給される割合が、10.9%に減少し、中国で生産される全綿花の87.1%が市場に入るようになった。
 このような高水準の綿花経済の商業化が他の作物に影響を与えないわけはなく、耕作地の30%を綿花にあてる農村も出現し、そうした農村は自家消費の食糧穀物の購入に相当依存せざるを得なかった。米や小麦といった穀物は特に商業化が進行した。
 これらの資料はWu氏の分析を承認するものだが、1930年代後半になっても、穀物と綿花という生産物が小農の市場への関わりの中心であったことも非常に明白であり、これは予測していたことと一致する事実である。即ち、「真の生存」がこの経済で巨大な役割を果たしたという事実でもある。

地方・国家・国際市場
 小農が売買した商品を、関係する市場の空間的範囲で分類することは有益である。冷凍保存技術がなく、中国農村の伝統的輸送経済の時代には、肉や野菜や果物のような腐敗しやすい商品は、原産地から数日で到着する範囲内の市場地域に限定されていた。穀物や綿花のような長持ちする商品はより遠くに運送され、地方市場に限定されなかった。こうして、長江デルタ地帯の米が華北に、華北の綿花や小麦や大豆が長江デルタ地帯に船で運送された。こうした商品は国家的範囲の市場に属していた。
 中国の国際的資本主義への強制的「開放」とともに、塩を除くほとんど全ての商品がさらに国際的範囲の商品市場と関連するようになった。中国の綿花は日本へ、茶はイギリスや北米へ、絹はフランスやアメリカ合衆国へそれぞれ輸出され、一方、イギリスや日本の紡ぎ糸、ジャワやフィリピンやヨーロッパの砂糖等が次第に中国の農村の市場に流入して来た。 ドワイト・パーキンズ氏は長距離貿易と短距離貿易とを区分し、輸送費用のため、茶や絹のような贅沢品以外の長距離流通は不可能だと指摘した。彼は、20世紀になって長距離貿易が2倍以上になるまでは全農場の生産高の30〜40%は市場に出され、7〜8%は長距離貿易に出されたと推定している。
 パーキンズ氏は長距離貿易における綿商品の役割に数度言及しているが、一方で、長距離貿易は主に地方から都市の上流階級へという一方向の流通である、という印象がある。だがWu氏によると、小農の、穀物の綿商品への交換あるいはその逆は、実は中国王朝の商業経済において中心的役割を果たしており、全「商品貿易」の三分の二以上を占めるのである。
 Wu氏の発見を充分理解するためには、長く中国の歴史家の間で影響力を保持してきた「経済二元論」という古い概念を除外しなければならない。この見解では、中国での近代世界経済の衝撃は主に条約港に限定され、農村の経済には概して接触がなかったとされる。Wu氏の発見は、中国の綿花経済の構造における20世紀の変化が小農の生活に与えた衝撃を想起させる。結局、あらゆる小農家族が直接的に綿商品の生産−売却−消費者としてか、あるいは購入者−消費者として関係していたのである。中国の綿花経済が国際化したことは、あらゆる小農家族が世界市場と連結するようになったということであった。

小農の市場での取引の社会的内容
 小農の市場での取引の全体像を完成させるためには、それが導かれる所の社会的文脈を、実在主義者が力説した線に沿って調査しなければならない。特にデルタ地帯に焦点を合わせるなら、小農が穀物と綿花を原則として三つの方法と目的で市場で取引していたことが明確になる。
@目的:地主への賃貸料の支払い。 方法:現金など。現金での支払いが要求されれば借地人が穀物や綿花を売却し、現物で要求されればその大部分は後で地主が売却することになる。いずれにせよ、収穫物は一般的に市場で取引される。
A目的:当座の生産(賃貸料は除き、税金は含む)と生計の支出をカバーするため。小農の中には収穫の後未払いの負債を支払うために穀物を即座に売却し、結局、消費する分を満たすために高値で穀物を買い戻さねばならない者もおり、二重の取引である。
B目的:賃貸料、税金、生産支出、消費需要が支払われた後に剰余を得るため。小農の中には、利益を最大限得るために季節的な価格の上昇を待って収穫物を蓄えておく者さえいる。
 華北平原に関しては、借地の低負担(耕地面積の18%)のため、農業の商業化は概してABであり、主に綿花と小麦がその対象となった。先ず、貧しい小農は生存のために消費する食糧穀物を生産できるだけの土地を所有しておらず、一年単位の利益をより多く望み得る綿花に転換せざるを得なかったが、危険は時としてより大きいものになり、長期的には時として利益が低い場合もあった。これが、綿花では肥料と労働の投資がより多量に必要な理由であり、それゆえに自然災害や価格変動から来る危険が大きいのである。こうした農場のほとんどは収穫した冬小麦を現金を得るために売り、低価格の下等穀物を家族の消費のために買い戻す。一方、労働力雇用の大規模な経営農場もあり、それは概して、利益を最大にするために、多様な収穫一覧表の一部として綿花に転向したものである。二つの農場のタイプの間には、主に生存に没頭しているものから、利潤追求で売却される実質的な剰余を得るものにまで及んでいる家族的農場の連続体がある。
 長江デルタ地帯では対照的に@が農業の商業化の独占的形態であった。ここでは恐らく耕作地の45%が賃貸しされ、高度商業化地域では、価格は100%近くまで上昇する。八村の実例では、平均65%であった。
 Huayangqiao 村の例。1939年には、全耕地のうち、底土の88%は賃貸しで、95%の土地は稲作であった。毎年の小作料は二つの比率になり、一つは名目上のもの、もう一つは実際上のものである。実際上の小作料は一般的には名目上のそれの70%(時には80%になる)で、この村のほとんどの小農は米をHuayang 町の七人の米商人(その町の最大の商人であった)に売却し、現金で小作料を支払う。1939年に現物で支払ったのはたったの三人である。戦争後期、価格が統制不可能になると、これらの農村は不安定な通過経済から脱し、米を価値の基準単位として使用した。現金で支払われようと現物で支払われようと、小作料は米商人を経由して流通し、その地域の市場経済の背骨を形成する。町全体の経済はこの貿易で回転する。
 小作料支払い以外は、この村の小農は原則として生存のために米を市場で取引する。剰余を売却して利益を得る者はほとんどいない。1939〜40年の米の価格は、収穫時には17元だが、翌春には36元になる。そのため、余裕のある小農は春に出来る限り高値で売却するために自らの穀物を「蓄えた」のである。Lu氏は充分裕福で、利益を最大にせんとする企業家のごとく振る舞った。彼は、11〜12月に収穫の三分の一を小作料の支払いと新年の支出のために売却し、その三分の一を家族の消費用にとっておき、残りは四等分して1〜4月に分けて売却した(4月に最大の利益を得た)。
 他の村民は皆家庭の支出と負債の支払いのために売却した。そのうち39人は新年前に売却を終え、26人は後により高値で米を買わざるを得なかった。例えばYang氏の三人の家族は即座に収穫の約81.6%を売却し、次第に米価の上昇する中、少しずつ米を買い、ついには売却した以上の米を買ってしまった。
 このような売却を始めた小農は、企業家的に市場で取引することに従事している人とは市場との関係が異なっている。企業家的生産者は、家族の消費分を満たせば後は売却してより高額の現金収入を得た。一方生存生産者は、生存に必要な需要を満たすために新年前に売却するが利益は得られず、後に米をより高値で買わざるを得ず、その消費のため利子つきで金を借りていた。この種の関連市場は企業家的市場での取引と誤解されてはならず、このような小農の行為は利益を最大にせんとする合理性と誤解されてはならない。それは生存の合理性なのであった。

小規模な取引市場
 取引された商品の構成と小農の市場での取引という社会的文脈が示したのは、「小規模の商品生産」というマルクス主義者の概念がデルタ地帯には相当記述的な妥当性を有していたということである。農村の交易の大部分の品目である穀物や布は、小農の農場や小農の家族の熟練した手先で小規模に生産された。
 この取引体系が古典的マルクス主義者から同志を切り離した所のものは、マルクスが想定したように、それが資本家にとって商品の交換であった、ということである。小規模な取引は必ずしも資本主義貿易には発展しない。小規模な商品生産は必ずしも大規模なそれに結びつかない。20世紀のフィールド資料が示しているのは、実は、小規模取引が大変頑強であった、ということである。機械紡績糸は綿花栽培・製糸・布織りという古い結合を分解させたが、穀物・紡ぎ糸・布のような生存に必要な商品が全小農交易の大部分を占め続けていたという重要な事実を変えることはできない。付言すると、紡ぎ糸を除くこれらの商品は小農生産者が主に生産し続けたのである。
 この取引もまた、勿論アダム・スミスの言うところの農村と都市との取引とは異なっている。スミスにとって、都市の製造業者と農村の無教養な製品との交換が変化する経済発展を促進する重要な役割を果たしたのである。だが長江デルタ地帯の貿易は明白に農村と都市との交換の最低量のみから構成されている。小農は主に他の小農から生活必需品を購入し、少量の補助的な必需品を越えて都市の製造業者を通じて購入する物はほとんどない。20世紀においてさえ、都市の製造業者の侵入は大変限定されていた(布、マッチ、紡ぎ糸、灯油等である)。
 この小規模な市場に小農が関係することを強調している社会主義者の説明は、スミスが考察したように互恵的な農村と都市の間の交換には多く触れず、むしろ生存へのエキスと激しい闘争について触れている。地方から都会への剰余の一定方向の流れから成る取引の一部は主に小作料支払いにあり、利益は得られない。もう一方の巨大な部分は、生存を目的とする小農の交換から成る。この取引の小規模のシェアのみが、スミス派の利潤追求のための企業家的交易という概念に合っている。

土地市場
 デルタにおける土地市場も同様に、スミスや新古典主義経済学者が仮定した完全に競争的な市場とは基本的に異なっていた。土地の売買は、革命の直前までは精巧で厳しい束縛の下にあった。完全な競争の市場、或いは供給と需要の法則にのみ従属する市場を想定してはならない。
 事実、清代には土地の譲渡は増加していたが、実際は、普通の場合には多様で複雑な段階を含んでおり、完全な売却ではなかった。土地を売却するというよりは、寧ろ病気や死亡や凶作や子供の結婚といった理由から担保として、或いは条件付か取り消し可能な売却として提供したのである。時には、協定期間の終了まで土地を買い戻せないこともあったが、これは、ほとんどの協定では家族がその土地を耕作し続け、保有者に土地使用料を払い続けることになっていたからである。既に生存の限界で奮闘してきた家族は土地を完全に売却する必要性に直面する。実際、時間が経過するにつれ、担保保有者は、本来の報酬と土地の実際の価値との収支を支払うことにより十分な権利を得られるようになった。
 だが、この慣行は、このような条件付の取引に対していかなる場合にも曖昧な立場を取ってきたを清の法律に反する。法律は課税によってその取引を合法化したが、依然として、土地所有権は理論上は譲渡できないという考えが古い道徳的理想像に留まっていた。その結果、土地の取引が取り消し可能とされている所では、その法典は担保提供者に買い戻しの不明瞭な権利を付与した。たとえ契約で明細に売却は取り消し可能とされてなくても、担保提供者には尚30年の土地を買い戻すだけの猶予があった。契約に売却は取り消し不可能と明確に述べられている場合のみ買い戻しの権利は失われた。共和国の民法でさえ、買い戻しの拡大権利を認めている(30年間取り消し可能)。15年以下の取引の場合は、担保提供者が土地を買い戻せない時にはその売却を取り消し不可能とすることが明確に禁止されている。
 法の対策と実際の土地の売買の慣行との不一致はしばしば訴訟をもたらし、元来の所有者が、担保保有者がその土地の完全な権利を購入してしまったはるか後になって、その土地を買い戻す権利を行使しようとしたこともあった。こうした慣習は、共和国の法典が、担保提供者が元来の契約の期間の終了の2年以内に土地を買い戻さねばならない、と定めることに関しての議論を妨げた。
 長江デルタ地帯では、土地所有権の二層の形態が発展し、古い原則と新しい慣行を適合させた。土地は底土と表土からなるとされ、底土の財産権は、土地に投資する都市部エリートと土地を売却する困窮した小農の願望に応じてますます自由に取引されることになった。華陽では20世紀までに底土権におけるほとんど自由で競争的な市場が出現した。底土権は、表土の所有者や使用者を無視して売却された。村人はその取引に気づいてさえいなかった。表土の所有権は法で認知されたものではないが、実際の土地使用によって決定され、複雑な譲渡の古い束縛と親族や隣人による購入の最初の権利に従属していた。
 華陽橋における底土と表土との相違は、特異な所有権と取引のパターンにおいて説明される。底土権は大変頻繁に売買され、1940年までにこの村の底土の約87.2%が、ほとんど小規模な1区画で80人の他者に所有されていた。表土権は対照的に、時が経過しても異常な安定性を示していた(村人の記憶では2件しか取引がない)。伝統的束縛を保ったのは表土権であった。
 この二つの側面は土地の売買の発展、商業化の大きな傾向の一部、近代市場の論理に反するイデオロギー的・社会的束縛の持続性であり、資本主義市場体系のこの経済への単純な投影に対して警告している。

金融市場
 デルタ地帯の農村の金融市場も、清朝における3世紀の力強い商業化の後でさえ、同様に完全に競争的な通貨市場とはほど遠かった。デルタ地帯の小農が多様な金融「市場」で働いていたのは明白である。彼らの最も直接的な貸付の源泉、20世紀まで最もよく使用されたのは、親族や隣人、あるいは同じ村落内の友人であった。こうした「非公式な」貸し付けは現物または現金で行われ、利子のつかないことや「市場」のレートより利子の低いことがよくあり、「好感情」や縁故や互恵主義に基づいていた。
 この源泉の拡張部分が、親族・友人・隣人からなる金融社会であった。こうした内部共同体の貸し付けは、今日資本または通貨市場で連想される原則とは大変異なったそれに基づいていた。重要な要素は相互利益のための互恵主義であり、コストと利益の投資論理であった。
 この村落体系の上に、「高利貸し業」の言葉で連想される金融市場が存在した。町の富裕な商人や地主や専門の高利貸は、村人の購入する商品に貸し付けの範囲を拡張したり、村人に少量の金や商品を貸した。規模が大きくなると、小農はしばしば土地を担保として売却せざるを得なかった。こうした貸し付けの利子のレートは供給と需要の法則に影響されなかった。小農が高利貸から借りているのは緊急事や生存のためであり、コストと利益の単純な計算の論理を無視している。
 農村の高利貸市場における利子のレートの決定には慣習と法が強い役割を果たしており、普通一月2〜3%であった(明・清代の法定最大値は3%であった)。ちなみに質屋の場合の利子はさらに高く、一月2〜4%であった。 ほとんど全ての借金は、借りる先がどこであれ、緊急事や生存に関するものであり、生産的投資(この場合ほとんどは、商人から購入する化学肥料であった)に関するものではなかった。資本家の借金で連想される、金融市場においては供給と需要、コストに対して予測される利益の見込みに支配されるという予測は当てはまらない。生存のために借りた小農は資本家の企業なら耐えられないであろう利子のレートにも耐え得るであろうし、実際生存のための貸し付けの利子のレートの方が高かった。
 この金融市場の最高水準に「生え抜きの銀行」が位置し、20世紀までに近代的銀行も誕生したが、両者は大都市の中心部にのみ見られた。これらの設立は近代的市場の論理に密接に作用したが、少なくとも、生え抜きの銀行は依然として金融市場の低い水準の影響に従属していた。いずれにせよ、銀行は小農の直接的生活からは除去され、間接的にのみ彼らの生活に影響を及ぼした。

労働市場
 田舎において、自由で競争的な市場に最も近いものは、短期の日雇い労働者の市場である。ここでは、現実がモデルの域に接近した。その意思のある者は誰でも雇われ、賃金を支払える者は誰でも雇えた。繁忙期には労働者(中には顔見知りもいる)が日の出前に地方のよく知られた場所(たいてい大樹か寺院)に集まり、雇用は一般的に夜明前に完了する。契約は一般的にその日限りで、数日になることはない。華北平原では、全小農家族の約36%に、日雇い労働者として一年に平均40〜50日雇われた男性が一名いる。長江デルタ地帯では、その割合は31%と推測される。
 だがこの市場も、依然として新古典主義者の理想に遠く及ばない。その理由として、先ず、季節市場(植え付け期や収穫期と言った繁忙期しか充分機能しない)であることが挙げられる。さらに、ほとんどの日雇い労働者は家から歩いて来れる距離にいなければならない小農のため、大変極地化された市場であることが挙げられる。市場の空間的のみならず時間的拡張は、換言すれば、厳しく制約されたのである。
 労働市場を離れると縁故がますます目立つ。長期の農業労働者は紹介か仲介者なしでは得られない。華北平原では小農家族の10%が年間労働者を一人雇っており、長江デルタ地帯ではさらに低く3.8%となる。また、小農の中には都市部や北東のフロンティアに雇用を求める者もいたが、これも縁故が要求された。これらは、全員に開かれたものではなかったのである。
 デルタ地帯に関して重要な点は、生産労働力の実質的な一部(特に女性)が労働市場外に留まっていたことである。これは文化的束縛のためでもあるが、そのため、労働者にとって市場がより発展するのを妨げた。これは、自らの労働力を売り、小農経済の持続性を促進してきた成人男性には高賃金を維持するという矛盾した効果をもたらした。その結果は、デルタ地帯からの経営農場の効果的な壊滅であった。

市場と発展
 要するに、新古典主義のモデルが明・清期の長江デルタ地帯における製品と問屋市場の構造に関心を喚起する一方、そのモデルで推定されているような完全に競争的な市場を推測することは役に立たない。小農の交易した商品のほとんどはマルクス主義者の言う「小規模な商品」の種類の内の生存商品であった。土地市場は譲渡不可の原則に、金融市場は互恵主義と生存に、長期の労働市場は社会概念に支配され続けた。市場への参加機会と生産的な女性や子供の労働者の供給とのギャップは、ついに地方において不完全雇用と労働者の剰余を物語る。
 マルクスやスミスの想定とは逆に、商業化を経済発展と分離する必要がある。事実、帝政後期と共和国期におけるデルタ地帯の問屋市場だけでなく製品は、変化力のある発展ではなくインヴォリューションを示している。小農の市場での取引は主に都市と地方との交易を伴う生存必需品の交換からなり、小農家族は事業用よりも小作料の支払いと生存の必要のために市場でより多く取引し、生産的投資のためよりも緊急事と生存のためにより多く金を借りた。
 この種の近生存経済は非常に高水準の商業化を維持できた。だが、この商業化は蓄積と生産的投資点ではほとんど何ももたらさなかった。それは、経済発展や「初期資本主義」の到来よりも抽出することや生存と関係があった。そのような経済の市場は、生産者が剰余を生み出して生産的投資を蓄積するという資本家の生産の出現によって伴われた種類の商業化と混同してはならない。近代初期と近代西洋における市場の発展と資本化との連合は一致しているが、実はそれは異例のものであった。それを、商業化の全形態として世界の全部分に常に投影してはならない。
 全国的集約市場への商品の生産は非資本化の形態へと固定され、極地化した市場への生産は実際に資本化を生じさせるかもしれない。例えば、綿商品は全国的集約市場に属していても、その零細な生産はほとんど全く資本蓄積に導かれないが、対照的に、家畜の飼育は取引が非常に極地化されているが、資本蓄積への機会を提供するかもしれない。また取引は、国家市場に属しているか否かという観点からよりも、寧ろその社会的文脈と資本蓄積や経済発展の可能性との観点からとらえられるべきであろう。
 商業化の全形態とあらゆる類いの市場が必ず資本主義や経済発展に関係している、と想定するのは良くない。明・清期と共和国期のデルタ地帯の商業化は変化力があるというよりもむしろ主にインヴォリューション的であった。

 

纏め
 ここでは主に、明・清王朝〜中華民国期の小農と市場に関して述べ、小農の市場での取引が、一般に市場での取引の際に想起される、競争的な性格を持つものではなく、むしろ自らの生存を目的としたものである、ということを論じ、さらに、この特質が中国の経済をどのように規定したか、という問題を最後に論じてみたい。 

 1930年代後半の長江デルタ地帯と華北の小農家族の売却した商品の資料によると、小農の主要売却品は主に穀物や綿花といった作物で、綿花地域では綿糸や綿織物、米作地域では麦藁製品のような副産業品と結合しており、その割合は全体の82.1%を占めていた。この取引の目的は主に三つあった。
 @地主への小作料の支払いのため
 A当座の生産(小作料は除き、税金は含む)と生計の支出をカバーするため
 B小作料・税金・生産支出・消費需要が支払われた後に剰余の利益を得るため
@の場合、小作料の支払いが、現金で要求されれば借地人が穀物や綿花を売却し、現物で要求されればその大部分は後で地主が売却することになるが、いずれにせよ、収穫物は一般に市場で取引される。Aの場合、小農の中には収穫の後、未払いの負債を支払うために穀物を即座に売却し、結局、消費する分を満たすために高値で穀物(この場合、売却した穀物が主に小麦や米といった細糧“finegrains”であるのに対し、買い戻す穀物はモロコシやトウモロコシといった粗糧“coarse grains”である場合が多い)を買い戻さねばならない者もいる。これは二重の取引である。Bの場合、小農の中には、利益を最大限得るために季節的な価格の上昇を待って収穫物を蓄えておく者もいる。
 華北平原に関しては、借地の低負担(耕地面積の18%の小作料)のため、農業の商業化は概してABであったが、長江デルタ地帯では対照的に@が農業の商業化の独占的形態であった。ここでは恐らく耕作地の45%概して賃貸しされ、高度に商業化した地域では、小作料の価格は100%近くまで上昇し、八つの村の平均値は65%であった。

 例えば、ある農村を例にとると、1939年には、耕作地の88%は賃貸しで、95%は稲作地であった。毎年の小作料は二つの比率になったが、一つは名目上のもの、もう一つは実際上のもので、一般的に後者は前者の70%(時には80%になる)であった。この村のほとんどの小農は米を富裕な米商人に売却し、現金で小作料を支払った。この年に現物で支払ったのはたったの三人であったが、小作両支払い以外は、この村の小農は原則として生存のために米を市場で取引し、剰余を売却して利益を得る者はほとんどいない。例外的な、余裕のある農家は、1939〜1940年の例でいえば、収穫時には17元の米価が翌春には36元に高騰することを利用して、出来る限り高値で売るために穀物を蓄えた。こうした農家は、例えば、11〜12月に収穫の三分の一を小作料の支払いと新年の支出のために売却し、その三分の一を家族の消費用にとっておき、残りの三分の一は四等分して1〜4月に分けて売却する、というようなことをしたのである。だが、他の農家は家庭の支出と負債の支払いのために米を売却しており、中にはAの例に陥る者もおり、1939〜1940年の例で言えば、39人が新年前に売却を終え、そのうち26人は後により高値で米を買わざるを得なかった。中には、収穫の約81.6%を売却し、次第に米価の上昇する中、少しずつ米を買い、ついには売却した以上の米を購入した農家もあった。
 後者のような、生存を目的とした売却を始めた小農は、前者のような利益を目的とした売却を行う、言わば企業家的生産者とは明白に異なっており、後者の如き小農が多数を占めていたことを考えると、20世紀前半においても、依然として小農の取引の主要目的は生存にあったと言える。次に、このことが金融市場に関しても当てはまる、ということに触れておきたい。
 長江デルタ地帯の農村の金融「市場」は、完全な競争的通貨市場とはほど遠かった。20世紀まで最もよく使用された直接的な貸し付けの源泉は親族や隣人や同じ村落内の友人であった。こうした「非公式な」貸し付けは現物または現金で行われ、利子のつかないことや、市場のレートより利子の低いことがよくあり、縁故や互恵主義に基づいていた。この村落金融社会体系の上に、「高利貸し業」の言葉で連想される金融市場が存在した。町の富裕な商人や地主や専門の高利貸が村人の購入する商品に貸し付けの範囲を拡張したり、村人に少量の金や商品を貸した。規模が大きくなると、小農はしばしば土地を担保として売却せざるを得なかった。
 こうした貸し付けの利子のレートは供給と需要の法則に影響されなかった。それは、小農が緊急事や生存のために高利貸から借りていたからであり、このことは、農村の高利貸市場における利子のレートが、普通一月2〜3%と高めだったことから理解できる。生存のために借りるのであれば、生産的投資の際に借りる場合よりも高い利子のレートに耐えられ得るからである。

 農村の取引の大部分の品目である穀物や布は小規模に生産されるが、こうした小規模な生産は必ずしも大規模なそれには結び付かず、小規模な取引は、取引事態は拡大しても、必ずしも資本主義的取引には結びつかない。実際、20世紀のフィールド資料が示しているのは、小規模な取引の頑強さである。国内の主流の取引である小農の市場での小規模な取引は、かなりの小農が生存限界の線で生活していたため、生活必需品が主流であり、これを購入するためにも小農は金を借りねばならず、生産的投資にはほとんど金を使えなかった。そのため、この非常に高水準の商業化を維持していた近生存経済は、蓄積と生産的投資という点ではほとんど何ももたらさなかった。
 従って、この商業化は、生産者が剰余を生み出して生産的投資を蓄積するという資本家の出現によって伴われた商業化と混同してはならず、それを経済発展に結び付けてはならない。商業化と経済発展は分離する必要があり、明・清〜中華民国期の中国の、特にデルタ地帯の商業化は変容力がさほどあるとは言えず、中国経済の質的変容をもたらしたとは言えないであろう。