伝承と歴史書からの日中比較
初めに
ホームページを開設してからというもの、しばしば更新が滞ってきた駄文だが、一月ほど前より一週間に一度更新することを心掛けており、過去の雑文の採録もあるとはいえ、今のところ何とか週一の更新を守れている。この間ずっと歴史関係の文章を掲載しているが、これは私の視野が狭いためである。歴史関係とはいえ厳密な考証や深い考察がなされているわけではなく、ほとんど役に立たない文章でしかないのだが、それでも下調べにそれなりの時間をかけており、単に書き散らしているだけというわけではない。それなりの下調べを要する文章を週に一度掲載となるとダメ人間の私にはかなりの負担となるので、これからは気軽に書き散らした歴史関係の文章も掲載していこうかと思う。
そういうわけで、早速今回は、大して下調べをせずに伝承と歴史書、更には日中両国に関する常日頃の雑感を述べていこうかと思う。主に『史記』と『日本書紀』を対象として雑感を述べ、更にそこから両者を生み出した中国と日本との比較も試みてみたい。今回は雑感ということで特に注は付けない。
伝承と歴史書
言うまでもなく、伝承は当初は口伝えで、後に文字に書き留められるようにもなった。伝承の中で、民間に伝えられた物語は説話と呼ばれる。伝承がそのまま採録されて書物となれば、現在ではそれは物語や小説ということになり、文学と見做されるだろう。現在では文学と歴史とは別個に一分野を成しているが、古代においては両者は明確に区別し難いものであった。古代の、特に最初期の歴史書は、文字記録の皆無またはほとんど存在しない時代を初めて文字に記録することになり、そのため多分に伝承に頼らざるを得なかったのである。
伝承は、人々の全くの観念や願望の反映という場合もあるが、事実を反映したものである場合も多い。時代が下るにつれ文字記録が増加するので、後世の史家は伝承に頼る必要はあまりなく、採用する場合でも他の多くの文字記録と参照が可能なため、その採否にそれほど悩まずにすむ。ところが文字記録の極端に少ない古代では、その採否は極めて困難な問題であった。恐らく、その採否の判断基準と再構成能力とが優れた史家の著した歴史書が後世まで名著と語り継がれると共に、その史家自身は大歴史家として後世まで賞賛されることになるのであろう。
伝承の採否の判断はなかなか困難である。事実を反映したと推測されるものを選び取らなければならないが、事実を反映しているとはいっても程度問題で、伝承には潤色や誇張や錯誤(特に年代で多い)が含まれることが多いから、それらを取り除いて採用する必要がある。何と言ってもこれが難しく、特に文字記録の少ない時代には、資料の比較がそうも期待できないだけに尚更である。従って、最初期の歴史書には、史実としては不正確または不適切な記述が散見されることもしばしばである。
さて伝承に何故潤色や誇張や錯誤が多いかと考えると、口伝えに依るところが大いにあるためなのだろう。現代の噂話などでもそうだが、口伝えでは、事実が誇大にまたは誤って伝えられることは珍しくない。一般に伝承では、事実を正確に伝えなければならないという圧力が極端に強く働かないので、これは止むを得ないところもあるだろう。また、人類には英雄願望とでも呼ぶべきものがあるようで、これが特定人物の関わる事実を誇大に伝えたり、別人の似たような事績を特定人物に集約させてしまうのだろう。何故人類に英雄願望があるかと考えると、群れて生活する生物には強力な指導者が必要な場合が多いからだと思う。
こうしてみると、歴史書に採用するにあたって、伝承は真に厄介なものである。中国の史書は、時代が下ると民間伝承は採用しない傾向が強まったが、記録としての側面を重視すれば当然のことである。しかし、古代、特に最初期の史書にあっては、資料が少ないだけにそうも言ってはいられない。故に最初期の歴史書は、史書としての正確さに疑問が呈されることが珍しくないのである。しかし、伝承を採用したことは、一方で文学としての面白さを増すという結果を齎したのである。
『史記』と中国
ここでは歴史書と伝承の関係について、『史記』と『日本書紀』を取り上げて比較してみたい。何故この二書かというと、それぞれ中国と日本における最初の本格的歴史書で文字記録の極端に少ない時代も記述対象とし、公的記録だけでなく伝承も大いに採用した、という共通の特徴が認められるからである。『史記』を中国最初の本格的歴史書とするのは妥当ではないかもしれないが、まあそれでも最初期の本格的歴史書の一つには違いないだろう。
『史記』と『日本書紀』の物語的記述を比較して、人はどのような感想を持つだろうか。恐らく、どちらも面白いとする人が多いだろうし、私も同感であるが、『史記』は一貫した筋のある話が多く洗練されていて(現実味のある話とも言える)、『日本書紀』は様々な伝承が雑然と寄せ集められていて素朴である、といった感を受ける。無論これは大雑把な印象で、『日本書紀』にも、例えば巻二十四(皇極紀)のように一貫した筋のある話(蘇我本宗家滅亡の過程)も存在するのである。どちらを好むかは人それぞれだが、私は『史記』の方が面白いように思うのである。もっとも、以下では、どちらが面白いかということではなく、洗練と素朴という対照的な性格を問題にしたいのである。『史記』も『日本書紀』も、物語的記述は伝承を採用しているところが多分にあり、両者の洗練と素朴という差はそれぞれの伝承の差であるように思われる。では何故こうした差が生まれるかと考えると、それは漢代の中国と7〜8世紀にかけての日本との差異に起因するように思われるのである。
『史記』の物語的記述は列伝に多く本紀に少ないため、古来より列伝は面白く本紀はつまらないとも言われてきた。列伝は民間伝承も採用し、本紀は主に公的記録に拠ったためなのだが、これは以後の中国の史書の方向性を決めることになった。司馬遷は大旅行家で、各地で長老から話を聞いている。『史記』の物語的記述、後世特に面白いとされた記述は、こうした民間伝承に拠るところが大きいのだろう。ではこうした民間伝承がどのように形成されたかというと、恐らく作者を特定できるというものではなく、民衆の間で語り継がれているうちに洗練されてきたのだろう。無論、この過程で潤色や創作がなされることも多かっただろうから、史実と掛け離れた伝承になることは多かっただろうが、一方で、様々な利害関係に因る圧力のために記録として残らなかった真実が却って語られるということもあったのだろう。
司馬遷が採用した伝承の多くは戦国〜漢代にかけてのものだったろうが、戦国時代の中国は百家争鳴の時代で、民間からも様々な学問や思想体系が唱えられ、既に民衆レベルで洗練された文化を生み出せる状況が出現していた。当時は、市において政治的演説や思想的主張や語り物などが行われ、その主体者や傍聴者には民衆も多くいた。前述した伝承の洗練はこうした環境の中で行われたのだろうが、戦国時代になっての生産力の増大が民衆の生活水準を向上させ、その全てではないにせよ、多くの者(とはいっても、あくまで18世紀以前の世界の中での相対的評価で、或いはかなりの者が日々の生活に追われるだけだったのかもしれない)が知的好奇心を高めていった結果、こうした状況が出現したのだろう。
『日本書紀』と日本
一方『日本書紀』はどうかというと、こちらは民間伝承を採用したのか判然としないが、初の本格的正史との意識は強かったようなので、民間伝承は採用されず、支配層の伝承のみが採用されたのではないかと思う。その結果である『日本書紀』の物語的記述は、一貫した筋、というか起承転結のある洗練されたものは少なく、個々の説話もそうだが全般的に素朴との印象を受ける。日本は中国と異なり、長く民間からの強力な文化的成果が現れなかった。木簡の出土例などからすると、中央支配層と一般民衆との間の文化的格差は相当に大きいものがあり、この差は容易に埋まらなかったようである。恐らく、民間伝承は支配層の伝承以上に素朴であり、洗練されていないものだったろう。どうも文化的側面で、7〜8世紀の日本は戦国時代の中国に及ばないようである。
だがこれは仕方のないことで、恐らく当時の日本は多くの面で戦国時代の中国に及ばず、そのために伝承も洗練されたものではなかったのだろう。しかし、当時中国は長期の分裂状態を脱して統一を果たし、朝鮮でも統一への動きが見られるのだから、日本とて安閑としているわけにはいかない。朝鮮に大きく遅れを取らず、中国に少しでも追い付かねばならない。ではどうすべきかというと、最先進国の中国の文化や諸制度を取り入れるのが最も手っ取り早い。そのため、日本は無理をして中国の様々な先進的要素を取り入れた。だが、やはり付け焼刃というべきか、中央支配層の間では割と早い段階で、一部の文化的分野では、中国と比較してそうも見劣らないものを達成できたが、その基盤は同時代の中国と比較して甚だ脆弱というか素朴なものであった。当時の日本は、文化的側面に限らず多くの側面で、中国と比較して素朴であり洗練されていなかったのだろう。
では、日本はいつ中国に匹敵するようになったのであろうか。私が思うに、視点によっては、今もって中国に追い付いておらず、中国と比較して素朴である、という主張も或いは可能かもしれない。無論、両者を比較してどの時期に同程度の発展段階となったなど、様々な側面かあるだけに判断するのは容易ではなく、現在の私も自信を持って答えられない。今回重視した一般民衆の文化水準に限定しても、果たして戦国時代の水準にいつ匹敵するようになったかさえ確証を得ないが、それはかなり遅い時期のことだった可能性もあるように思う。『今昔物語集』や軍記物語が書かれた平安末期かもしれないが、ずっと遅く江戸時代に入ってからのことかもしれない。あくまでこれは民衆文化の水準に限定しての話だが、それは当時の歴史状況を反映したものである以上、全般的な比較に益するところはあろう。
『源氏物語』や傑作美術品など中国文化にそうも見劣りしないような素晴らしい成果は一部あるが、どうも、日本は中国と比較して随分と発展が遅れたというか、素朴であり洗練されていない、との印象を受ける。『史記』と『日本書紀』の物語的記述の違いも、そこに起因しているように思うのだが、これはこじ付けだろうか。
結び
日本と中国の伝承と初期の歴史書の内容とを比較すると、発展し洗練された中国に対して、遅れて素朴な日本という大雑把な構図が浮かび上がるように思う。だが、だからといって日本はダメで中国は素晴らしいと単純に主張したいわけではないし、局面によっては日本の素朴さが中国の洗練に対して優位に立つこともあるように思うのである。
発展し洗練された社会は、文化的圧力は素朴な集団より遥かに強いが、一方で爛熟と退廃をも招来しやすい。このこともあり、概ね野蛮(素朴)で遅れたな集団が文明集団より戦闘力に優れることになり、いざ紛争となると前者が後者を圧倒し、一時的にせよ後者は甚大な被害を被ることがしばしばあった。しかし、前者も文明地帯に入ると忽ちにして文明化し、洗練されたものの、その代償としてて軟弱化することも珍しくはなかった。洗練と素朴とは、一概にどちらが有利とも言えないもので、特に剥き出しの競争が要求されるような段階になると、後者の方が大いに有利と言えるかもしれない。
今回は簡単な雑感で、それさえ上手く纏まらなかったが、最終的な目標は、インドやメソポタミアや地中海も含めて、伝承と歴史書の関係やその内容という視点からそれぞれの地域の特徴を比較することにある。とはいえこれは難問で、私の力量では一生かかっても雑感程度しか書けないかもしれない。だが、何か具体的な目標を持てば生き甲斐もあるというもので、これを一つの目標とし、いつかはそれなりのものを書き上げたいものである。