始皇帝出生の謎

 

初めに
 最近の駄文はやや長めとなっており、一週間に一度とはいえ底の浅い私には結構な負担である。しかし、駄文を書くことによって適度な緊張状態を保てるわけで、ダメ人間らしく怠惰な私は、何か当座の具体的な目標がなければ漫然と日々を過ごしてしまいがちだから、一週間に一度と決めて駄文を書き続けるのはそれなりに有益だろうと思うのである。
 そこで、今回からはなるべく短めの文章にしようかと思う。短めならヤフー掲示板に投稿してもよいかとも思ったのだが、一回につき500字という厳しい字数制限があり、また投稿が反映されないことが屡々あるので、こちらに掲載することにした。
 さて今回は何を取り上げようかと考えたのだが、短く纏められそうということで、始皇帝出生の謎にしようかと思うのである。まあ、短く纏められそうというよりは、書けるほどのものをあまり持ち合わせていない、ということなのだが。『史記』については、平凡社の中国古典文学大系と徳間書店の原文付き抜粋訳を用い、『史記』からの引用は紫色で示した。

 

出生を巡る疑惑
 始皇帝は後の荘襄王である子楚の子とされるが、実父は子楚ではなく、実は豪商で後に秦の丞相、更には相国となった呂不韋である、という話は広く知られているだろう。さて事の真偽はどうなのか、というのが今回の主題である。先ずは、『史記』「秦始皇本紀」からの引用である。

 秦始皇帝者、秦荘襄王子也。荘襄王為秦質子於趙。見呂不韋姫、悦而取之。生始皇。以秦昭王四十八年正月生於邯鄲。及生、名為政。姓趙氏。年十三歳、荘襄王死。政代立為秦王。

 ここからは、始皇帝が呂不韋の実子と断言はできない。次に、『史記』「呂不韋列伝」からの引用である。

 呂不韋取邯鄲諸姫絶好善舞者与居。知有身。子楚従不韋飲、見而説之。因起為寿。請之。呂不韋怒。念業已破家為子楚、欲以釣奇。乃遂献其姫。姫自匿有身。至大期時、生子政。子楚遂立姫為夫人。

 ここでは、始皇帝の実父は呂不韋とされている。これは、始皇帝にとって甚だ不名誉というか、その存在基盤を脅かしかねないことである。『史記』以降の紀伝体の史書では、当人の紀または伝では、当人に不利な記述はなるべく避け、他人の紀または伝で記すというのが慣例となっているから、「秦始皇本紀」では省略された始皇帝出生の秘密が「呂不韋列伝」に書かれていることは不思議ではない。
 では、始皇帝の実父は本当に呂不韋なのであろうか。これを事実と認める人は多いようである。これが事実だとすれば、始皇帝の人間不信と暴虐の由来を説明しやすいからだろうか。
 だが、この後に「呂不韋列伝」には、趙に追われることとなった子楚は、婦人が趙の豪家の娘でだったので隠れることができ無事生き延びた、との記述がある。豪家の娘が舞姫となり呂不韋に身受けされていたというのは、あり得ない話ではないが、かなりの無理があるように思われる。このこともあり、「呂不韋列伝」の記述に疑問を抱く人も少なからずいるようである。明代の王世貞は、呂不韋自身がこの噂を流し、始皇帝に自分が実父だと思い込ませることにより地位保全を図った、と推測し、清代の梁玉縄も『史記志疑』でこの記事に疑問を呈している(『歴史読本』1986年2月号、丹羽隼平「呂不韋」より)。

 20世紀になって、始皇帝の実父は呂不韋との説を完全に否定したのは郭沫若氏である(以下、氏の見解に関しては吉川忠夫『中国の英傑@秦の始皇帝』より孫引き)。詳細は、「十批判書」(『郭沫若全集』歴史篇第二巻に所収)に見える。邦訳は『中国古代の思想家たち』上・下(岩波書店1953・1957年)で、「呂不韋と秦王政」の章が該当部分である。
 氏は、この説の疑うべき理由を三つ挙げられている。(1)『史記』に見えるだけで、呂不韋と子楚とを屡々取り上げる『戦国策』には見えない (2)『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」にある春申君と李園の妹の物語と同工異曲で、その筋書きが全く小説的である (3)上述した、子楚の夫人は趙の豪家の娘との記述 以上三つである。春申君と李園の妹の物語とは、大略次のようなものである。
 前3世紀半ば、楚の考烈王には男子がなく、宰相の春申君は次々と女性を後宮に送り込むが、世継ぎは生まれない。そうした時、趙から楚にやって来た梨園という男性がいた。彼には美貌の妹がおり、彼女を楚王の後宮に送ろうと考えていたが、子が生まれるか疑問である。そこで李園は、春申君に仕えて妹と会わせた。春申君は彼女を寵愛し、彼女は妊娠した。どうやらこれは李園兄妹の予定通りだったらしく、李園は妹を考烈王の後宮に送り込むよう春申君を説得する。もし男子が生まれたなら、実父である春申君は楚国を悉く手に入れられる、という訳である。李園の妹は考烈王の後宮に入り、幸いにも男子を産み后に取り立てられた。だが、考烈王死後、実子がまさに楚王に即位する直前、春申君は李園の放った刺客に殺害されたのである。
 郭沫若氏に限らず、上記三つの理由などから、始皇帝の実父が呂不韋との記事を否定する人は多いが、さて真相はどうなのだろうか。次にもう少し詳しく考えてみたい。

 

始皇帝出生秘話の出所
 恐らく、「秦始皇本紀」と「呂不韋列伝」の該当部分は同じ資料に拠っており、重複の回避とどちらに主眼を置くかという問題のため、記述に相違が生じたのだろう。さてこの資料はどのようなものだったのだろうか。先ず考えなければならないのは、これは朝廷に保存されているような公的記録ではあり得ない、ということである。前述したように、始皇帝の実父が呂不韋だとしたら、それは始皇帝にとって致命傷になりかねない。そのようなものが朝廷に記録され保存されているわけがない。では、この資料はどのような性質のものだったのであろうか。「秦始皇本紀」の該当部分には、生という文字が三回重ねて用いられている。恐らくこれは、民間の口碑をそのまま書き取ったためだと思われる(宮崎市定「身振りと文学」より)。

 では何故こうした伝承が生まれたのだろうかと考えると、呂不韋の出世を説明するためだったように思われるのである。戦国時代には階層が流動化し、呂不韋は大商人で豊富な資産があったとはいえ、戦国七雄最強である秦の相国にまでなったのは、大変な出世である。子楚の即位に功があっただけではなく、もっと別の決定的な理由があったのではないか。そしてここに、恐らく、始皇帝の母は呂不韋の紹介で子楚の後宮に入った、との伝承か或いは確実な事実があり、そこから、呂不韋の大出世を説明するために、実は始皇帝の実父は呂不韋であるとの「実父伝承」が誕生したのではなかろうか。
 同様の伝承は日本にも存在し、武家として太政大臣にまで昇り詰めるという大出世を遂げた平清盛は白河法皇の御落胤だった、と言われているのである。「実父伝承」はそれほど珍しいものではなく、こうした大出世を説明する際に屡々用いられるものなのだろう。

 さてそうだとすると、司馬遷は何故『史記』にこの伝承を採用したのだろうか。司馬遷の時代には後世と比較すると文字記録が大変少なかった筈で、民間の口碑を採用したのは無理もない。だが、厳密な史料批判学がなかったにせよ、司馬遷も確固たる基準を以って民間伝承の採否を決定していた筈で、始皇帝と呂不韋との「実父伝承」を採用したからには、何らかの根拠か意図があった筈である。
 先ず考えねばならないのは、この話は始皇帝にとって甚だ不名誉だということである。恐らく、漢のエリート官僚である司馬遷にとって前王朝の秦、特に始皇帝は否定的に描かねばならない存在で、実際『史記』での始皇帝は人間不信の暴君に描かれている。無論、始皇帝は中国史上では暴君の部類に入るだろうが、或いは『史記』では誇張されているかもしれない。司馬遷は、事実かどうかは確証がなかったが、始皇帝の名誉を充分に傷つけ得るとの理由で、この伝承を採用した可能性があるようにも思うのである。
 まあこれは私の思い付きにすぎないのだが、根拠はないわけではない。前述した「春申君列伝」には、春申君が殺害されその実子が楚王に即位したとの記述の後、同年始皇帝即位後9年に呂不韋が内乱に連座して失脚した、との記述がある。こうした唐突な記述は、記憶は定かではないものの他にもあったとは思うのだが、これは司馬遷が年代を明確にするために記したというだけではないようにも思う。司馬遷も、始皇帝の「実父伝承」と春申君のそれとの類似性に気付いており、或いは両者が同工異曲の創作だと考えていたようにも思えるのである。

 

結び
 『史記』に見える、始皇帝の実父が呂不韋との記事は、呂不韋の大出世を説明するために後人が「実父伝承」を用いて語り伝えた口碑に拠るのではないかと思う。やはり、そうした記事にあまり信頼を置くことはできず、恐らく、この伝承よりも始皇帝の母は趙の豪家の娘との記述の方が信憑性は高いように思われる。私が考えるに、始皇帝の実父は呂不韋ではなく子楚である可能性が高い。
 だが一方で、民間伝承は公的記録よりも支配者の監視が緩やかな場合が多いだろうから、或いは民間伝承の方に却って真実が伝わっている場合もあるのではないか、とも思う。故に、始皇帝の実父が呂不韋である可能性も、全否定はできないようにも思うのである。

 

 

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