趙高とその三人の仇の物語

初めに
 今回の駄文は、私が中学1年生の時に抱いた疑問に対するあり得べき一つの解答の紹介であるが、私独自の見解というわけではなく、『中国古代史論』(平凡社1988年)に収録された宮崎市定氏の「史記李斯列伝を読む」に全面的に依拠している。色々と検索してみたところ、あまり一般には知られていない見解のようで、書く価値はあろう、とも思うのである。
 この駄文を書いた主な理由は、私が大変感銘を受けた論考を紹介し、多少なりとも私自身の感銘を文章として他の人にも伝えたい、ということなのである。「史記李斯列伝を読む」は、私が強く感銘を受けた二つの論考のうちの一つなのである。もう一つは水野祐氏の三王朝交替説で、この二つほど感銘を受けた論考は他にはない。三王朝交替説についてはその後懐疑的になり、現在では私の歴史像にほとんど影響を与えていないが、「史記李斯列伝を読む」の方は、現在読んでも新鮮な感動を与えてくれる。
 さて、全面的に依拠し、ほとんど紹介とはいえ、文責が私にあるのは言うまでもない。よって、読者がこの駄文を読まれて論旨不明と思われたり矛盾を感ぜられたりしたら、無論責任は全面的に私に存在するのである。また、同じく『中国古代史論』に収録された宮崎市定氏の「身振りと文学」も大いに参考にした。尚、「史記李斯列伝を読む」の初出は『東洋史研究第三十五巻四号』(1977年)で、『アジア史研究X』(同朋社1978年)と『宮崎市定全集第五巻』(岩波書店)と『東洋的古代』(中公文庫2000年)にも収録されている。尚、「李斯列伝を読む」からの引用は緑色で、『史記』からの引用は紫色で示した。『史記』については、平凡社の中国古典文学大系と徳間書店の原文付き抜粋訳を用いた。

 

疑問
 私が初めて『史記』を読んだのは、中学1年生の時であった。勿論、原文や全訳を読んだわけではなく、面白い逸話を採用して編年体風に纏めた小中学生向けの訳本を読んだのである。日本史だけでなく少しは他国の歴史も知ろうと思い、先ずは日本と関係の深い中国を対象にしようとして『史記』を読んだのだが、これが大変面白く、以後中国史に強い関心を抱くようになった。中でも、専ゥが焼き魚の腹中に隠していた匕首で呉王僚を殺害した話や、項羽の目に瞳が二つあったという話が特に印象に残っているが、今にして思うと人物の逸話ばかり印象に残っており、歴史理解には大して役に立たなかったかもしれない。
 さて全般に大変面白かった『史記』も、私が未熟なためというのもあったのだろうが、当時どうにも解せないことが二つばかりあった。その一つは、衛青と霍去病を巡る人間模様である。兵士達が食糧不足や寒さに悩んでいても、一向に構わず本営に有り余る程の食糧を蓄え遊戯に興じていた霍去病に対して、衛青は人柄が情け深く謙虚であった。だが、衛青の声望は霍去病に遠く及ばなかったという。この点が、当時の私にはどうにも理解できなかった。たとえ霍去病の方が武功が派手に見えたにせよ、両者の官位や俸禄に差はなく、両者の功績はさほど差がなかったはずである。
 その後、司馬遼太郎氏の「どうも衛青は苦労して育ったためか、上の者に媚びるようなところがあったのではなかろうか。声望が霍去病に及ばなかったのもそのためだろう」という御指摘を読み、世間知らずの私もそれなりに納得したものである。また、将軍には世俗性を感じさせない超人的な性格が要求されるものなのだろうか、などと考えてはみたが、今もってこうした人情の機微をよく理解できているというわけではない。これは『史記』の記述そのものへの疑問ではなく、また今回の本題とは関係のない余談で、つい脇道に逸れてしまったが、もう一つの疑問が今回の本題に繋がっていくのである。

 当時抱いたもう一つの疑問とは、『史記』の記述そのものに対してで、それは、始皇帝没後に趙高と李斯と後に第二代皇帝となった胡亥とが画策した陰謀である。前210年、5度目の行幸に出た始皇帝はその途中病が重くなった。「死」という言葉を避けていたとされる始皇帝だが、ここに及んで遂に自らの死期を悟ったのか、長子の扶蘇宛てに遺書と受けとれる璽書(皇帝の御璽を押した親書)を作った。それには「喪を発すると同時に、軍は蒙恬に任せて咸陽に帰り、わが遺骸を迎えて葬儀を行え」とあり、2年前自らに諫言してきたために蒙恬を監督するとの名目で北方に左遷していた扶蘇を事実上後継者と定めたものであった。
 しかし、これが使者に託される前に始皇帝は亡くなり、璽書も印璽も宦官の趙高が保管していた。始皇帝の死を知っていたのは、行幸に随伴していた趙高を含む何人かの宦官と胡亥と李斯だけであった。胡亥と親しかった趙高は、この状況を利用し璽書を偽造して胡亥を帝位に即けようと考えた。趙高は、胡亥と李斯を、時には脅迫も交えて説得し、偽の璽書を作成して扶蘇を自害させ、更に蒙毅を殺害し蒙恬を自害に追い込んだのである。恐らく、当時読んだ訳本は、「秦始皇本紀」と「李斯列伝」と「蒙恬列伝」の記述を再編したのだろう。
 最初にこの一連の記述を読んだ時、どうにも解せないことがあった。それは、司馬遷は如何にしてこの間の事情を知ったのか、ということである。趙高以外の宦官が知っていたのは始皇帝が亡くなったということだけで、璽書を代筆した者が趙高ではなかったとしても、三者が即座にその者を抱き込むか殺害した筈である。三者はいずれも悲惨な最後を迎えたが、いずれも死ぬまでに自らの陰謀を告白したというわけでもない。つまり、趙高が企て胡亥と李斯とが参画したこの陰謀は、三者以外の誰も知らないはずなのだが、司馬遷は『史記』にこの間の事情を載せている。これはどういうことなのか、中学1年生だった私は随分と想像を巡らせたものである。
 その結果一応到達した結論は、当時より秦朝内部で上記のような事情が推測されており、それが伝わって漢代には一般的な常識となっており、司馬遷はこれを妥当と判断し採用した、というものである。その後、この問題は、気にはなっていたもののそれ程重要な関心事とも言えず、いつしか頭の片隅に追いやられていたが、「史記李斯列伝を読む」を知ったことにより、この問題に対するあり得べき一つの明快な解答に導かれることになったのである。その詳細を記す前に、何故上記のような記述がなされたのかという理由にも関わることなので、先ずは『史記』「李斯列伝」の構成と、それを書くに当たって司馬遷が用いた資料について触れることにする。

 

「李斯列伝」の構成と参照資料
 では、「李斯列伝」はどのような構成になっているのかというと、ここは「史記李斯列伝を読む」からの引用の方が分かりやすかろうと思うので、以下に紹介する。

 「史記」の列伝七十巻について、文学的に最も整斉完備するものを求むるならば、李斯列伝は必ずその一に数えられるであろう。何となればこれを読んで先ず感ぜられることは、全体として中国に固有なリズム、起承転結の四段の起伏に従って展開されて行く特色があるからである。
 李斯列伝の主要部は四段に分れ、最初の起の部は彼の修行時代から、秦に入って悪戦苦闘の末に始皇帝の信任をかちとるまでの経緯を叙し、これをうけた第二段の承の部では、彼が始皇を助けて天下統一の大事業を達成するに参劃し、丞相となって朝廷の大権を委嘱され、位人臣を極むる栄誉に浴した得意絶頂の時代を取扱う。併しながら始皇帝の突然の死去によって、政局が急転直下すると共に、彼の生涯も一大転機に直面し、ここに第三段の転の部が出現する。ここで彼は宦官趙高の甘言にのせられて方針を誤り、始皇の長子、扶蘇を退けて、少子胡亥を二世皇帝に擁立する。さりながらその結果は大凶と出て、彼の悲惨な破滅に終わるのが、第四段の転の部である。
 (中略)李斯列伝はあり合わせの材料をただ年代順に列べたというのではなく、予め敷設した軌道の上に起承転結の順を追って李斯の一生を展開させた文学的な作品、一篇のドラマであると見てよい。

 次に、「李斯列伝」がどのような資料に基づいて書かれたのか、という問題を取り上げる。勿論、確証は得ないが、ある程度までは探れるのではないか、というのが宮崎氏の推測である。
 「李斯列伝」は大別すると、@立身出世に燃え、大家荀子の下で学び、後の始皇帝である秦王政に仕えて信任を得る前半部 A趙高との応酬が大半を占める後半部 B主君宛ての上書五通、の三つに分けられる。
 Bは、後世の史書ならば根本的な史料として高く評価されるが、この場合は必ずしもそうではない。第二代皇帝である胡亥宛の三通は後人による創作の可能性が高いのである。獄中より胡亥に宛てた上書は趙高が棄てたとあり、時の実権者である趙高を退けるよう進言した上書も、胡亥が採用しなかった以上、趙高により処分され後世に伝わらなかった可能性が高いだろう。もう一つは胡亥に逸楽を進めた内容だが、秦代には相応しからぬ表現が見られる。恐らく、上書五通のうち、逐客令を諌めた上書と焚書を進めた上書は概ね信頼でき、残り三通は後世の創作ということになるのだろう。
 次に@だが、ここではどのような資料が用いられたのだろうか。宮崎氏によると、どうも@では偶語風の物語が粉本として用いられたらしい。偶語は、元の意味は対語、二人が相対して問答対話するということだが、普通は多数の民衆が聴衆となっての語物となり、時には時事問題も語られたようで、戦国〜漢代にかけての市にて盛んに行われたらしい。漢代の諸書から推測すると、その偶語風物語は「荀子とその三人の弟子の物語」とでも言うべきものだったらしい。それは、荀子とその三人の弟子を通じて三人それぞれの人生観を描き、世を諷刺したもののようである。
 荀子の弟子の中に、李斯と韓非子と包丘子の三人がいた。ひたすら権勢を追い求め秦の丞相となった李斯と、名声を追求して天下の名士となった韓非子は共に非業の最期を遂げた。一方、包丘子は貧賎に甘んじて名利に惑わされず、恐らく李斯や韓非子にその無能を嘲笑されながら、乱世にあって学問の孤塁を守り、天寿を全うした。さて、どれが本当の人間の生き方か、という問いかけになっているのである。恐らくここでは、主人公は李斯ではなく、包丘子なのだろう。
 さて最後に、本題のAについてである。中学生の頃の私が疑問に思っただけに、碩学の宮崎氏がこの記事を疑わないわけがない。氏は、趙高・胡亥・李斯の三人の間に交わされた問答は、到底史料として当時にも後世にも伝わり得ない性質のものだとし、これは民間で語られた偶語であり創作であったとされる。氏の推測はこれに留まらず、この偶語の元来の内容にまで及んでいる。次に、この偶語の性格について詳しく見ていくことにする。

 

趙高の復讐物語
 「李斯列伝」後半部は、当時民間で語られていた偶語を粉本として纏め上げられたと推測されるが、それはどのような内容だったのであろうか。宮崎氏が先ず着目されたのは、名目的な主人公は李斯なのだが、実際に活躍するのは趙高で、李斯の方は生彩がない、という点である。次に着目されたのは、李斯に代わって主人公的な役割を演じる趙高があまりにも悪魔的に描かれている、という点である。趙高は胡亥を唆し、扶蘇と蒙恬を自害に追い込んだのみならず、公子12人を刑殺、公主10人を磔にし、更にこれに連座して多くの者が処罰された。胡亥と趙高が自らの地位保全を図ったにせよ、これでは過当防衛で、却って自らの地位を危うくするやもしれない。何故そこまでやる必要があったのか。李斯の最後についても同様で、五刑を課された後に腰斬されたのだが、五刑とは、舌の切断→黥→鼻の切り落とし→両足の切断→笞殺で、筆舌に尽くしがたい苦痛を与えられて殺され、この後は曝し首にされて市にて塩辛とされるのである。さて、宮崎氏はここから一つの推測に至る。そこで、次に該当部分を引用する。

 趙高と李斯との間に、何故にこのような酷刑を加えねばならぬ怨恨があったのであろうか。どうも単なる宦官のコンプレクスだけでは説明できない嗜虐性と言うより外ないが、そんならこの嗜虐性は何処から来たのであろうか。
 李斯列伝の後半に主人公的な役割を占める趙高は、何の前触れもなく忽然と出現するが、実は趙高の素性は、同じく趙高の為に犠牲に供された蒙恬の列伝中に記されている。私はそこで、趙高は実は秦に滅された趙の一族であったという記事を見て、豁然として悟る所があった。趙高こそは疎遠ながら趙の王族の末裔として、秦に対して亡国の恨を晴らしたに違いないのだ。ここにもう一つの「趙氏孤児雑劇」があったのだ。

 さて、『史記』「蒙恬列伝」に記された趙高の出自と始皇帝生前における様子は次の通りである。尚、戮は代用文字である。

 趙高者、諸趙疎遠属也。趙高昆弟数人、皆生隠宮。其母被刑戮、世世卑賤。秦王聞高彊力通於獄法、挙以為中車府令。高即私事公子胡亥、喩之決獄。高有大罪。秦王令蒙毅法治之。毅不敢阿法、当高罪死、除其臣籍。帝以高之敦於事也、赦之、復其官爵。

 諸趙というのは、趙王の一族との意味である。生隠宮とは、生まれて間もない時に宮刑に処された、即ち宦官にされた、ということである。では、趙高のこの幼時の災難がどのような事情の下に起こったのかというと、勿論確証は得ないが、推測せしめる記録はある。「秦始皇本紀」に、前228年、秦は趙を滅ぼし、秦王政は自ら邯鄲に赴き、母の家と嘗て仇怨関係にあった多くの者を捕えて穴埋めにしたと言う。趙高の母が殺され、自身も宮刑を受けたのはこの時のことではなかろうか。
 そうだとすれば、趙高にとって始皇帝とその権臣李斯は、祖国のみならず、自分自身と母、事によれば父にとっても不倶戴天の仇である。趙高が始皇帝の子を互いに殺し合わせ、李斯に酷刑を用いた理由も分かる。更に、蒙氏も趙高にとって仇敵であった可能性が高い。それは、『史記』からの上記引用にあるように、嘗て罪を犯した趙高に対して蒙毅が死罪を言い渡したためだけではないらしい。秦において、蒙恬と蒙毅の父蒙武の代に趙方面の経営に当たったのは将軍の王翦なのだが、後に王翦が楚を平定した際に蒙武も行動を共にしており、両者がその前より行動を共にしていた可能性は充分にある。そうだとすれば、秦が趙を平定して政が虐殺を行った際、王翦と共に蒙武もその実施に参加した可能性がある。蒙武の父は趙の攻略に従事したこともあり、蒙武も趙の地理に通じていただろうから、この推測には妥当性が認められよう。
 ただ、宮崎氏の推測では趙高の年齢が若すぎる気もする。生まれて間もないとは言っても曖昧で、10歳頃に宮刑に処されたのか、或いは前239または234年における秦の趙への侵攻の際の事件だったのだろうか。まあ、元の偶語ではこの辺は大した問題ではなく、二世皇帝胡亥の代に実権を握った趙高の苛烈な行動と伝聞から漢代の民衆が色々と推測して、趙高が幼時の災難から秦の王室と李斯と蒙氏に対して極めて強い恨みを抱き、これら三家と秦そのものに対して徹底的な復讐を遂げた、という偶語を作り上げていったのだろう。
 どうやら、「李斯列伝」の後半部は、趙高を主人公に据えた復讐物語、宮崎氏が名付けるところの「続趙氏孤児雑劇」または「趙高とその三人の仇の物語」とでも言うべき偶語が用いられて纏め上げられたらしい。だが、「李斯列伝」を読んでも趙高の復讐物語としての性格は読み取れず、「趙高とその三人の仇の物語」は「李斯列伝」と「蒙恬列伝」とにニ分されて採用され、「秦始皇本紀」でも用いられたようである。何故、司馬遷は「李斯列伝」を纏めるにあたって趙高の復讐物語にその多くを依拠しながら、復讐物語としての性格を否定したのだろうか。次に、この問題を取り上げてみたい。

 

司馬遷の意図
 起承転結の波動に乗って進行する「李斯列伝」とによく似た構成の列伝としては、「伍子胥列伝」が挙げられる。宮崎氏は、これも偶語に拠るところが大きかったのではないか、とされる。ただ、伍子胥より随分と時代の下った李斯と比較すると資料が少なく、歴史的事実から受ける制約が少なくなるため「李斯列伝」よりも文学的になり、従って生彩のあるものになったのだろうと推測される。その「伍子胥列伝」においては、伍子胥の復讐が重大な要素となり、司馬遷はこれを認めるかのような発言もしている。司馬遷は決して復讐という行為を否定してはいないのだが、ではどうして趙高の復讐は否定されたのだろうか。宮崎氏の推測は次の通りである。

 殊に問題なのは李斯列伝の後半を読む時、「趙高とその三人の仇」の偶語における語り口がそのまま再現されているような感じを受ける点である。いったいこの物語が市井で演ぜられる時、談者と聴衆との同情は何方に傾いていたであろうか。恐らくそれは趙高の方ではなかったか。それは最初の被害者であり、仇を討つ側であったからだ。漢初の人民の身体にはまだ古代都市国家人の自由な血が流れていた。特に秦の始皇帝という抑圧者に対する反感がまだ忘られずに残っていた筈である。
 ところが司馬遷の立場はこれと異なっていた。司馬遷にとって、趙高は何処までも秦の後宮に奉仕する一宦官で、従ってその行為は大逆不動であった。若しも司馬遷が純然たる民間人であったならば、彼は大いに趙高に同情してもよかった。何となれば彼は趙高と同じように宮刑に処せられ、最大の屈辱を受けたからである。或いはそれなればこそ、うっかり趙高に同情を表しては、自身が武帝に対して怨望を抱いたとの嫌疑を受けるかも知れぬと恐れたのであろうか。彼にとって趙高は、これを「趙氏孤児」たらしめてはならなかった。そこで原本を二部に分け、李斯列伝においては、あれほど重要な役割を占める趙高が、何の前触れもなく全く突然に登場し、登場したと思うと殆ど独りで舞台を占領する。趙高の出自は蒙恬列伝の方にまわされるが、此処でも彼は「趙氏孤児」となって復讎する権利を拒否されている。
  趙高なる者は、諸趙の疎遠の属なり。趙高の昆弟数人、皆な生れて隠宮され、其の母は刑戮せらる。世世卑賤なり。
 この最後の世世卑賤の四字は何を意味するか。上文にある疎遠の属だけでもよさそうに思えるのに、わざわざこの四字を付けた司馬遷の真意はと言えば、そんな身分であるからには、趙のために復讎するような権利は全然持っていなかったと宣告するにあったと思われる。このあたり、司馬遷と一般大衆との間には大きな感情のずれがある。司馬遷は大漢帝国の太史令である。エリート官僚としての矜持は、宮刑の屈辱によって帳消しにされるような安っぽいものではなかったのである。

 楚の名族であった伍子胥とは異なり、「世世卑賤」であった趙高には復讐の権利はなかったということなのだろうか。それとも、武帝への配慮からこうした記述となったのであろうか。司馬遷の人物像とその思想を探る上で興味深い問題である。その司馬遷について、宮崎氏は次のように述べておられる。

 由来、司馬遷は不世出の名文家とされて来たようであるが、私はこれには無条件には賛成しかねる。というのは司馬遷の文章の出来栄えには非常にむらがあるからである。その良否の拠って来る所を考えると、それは彼が利用し得た資料の如何に懸っていると思われる。もしもその材料が良かった時には、自然にその出来上がりも優秀であるが、もし欲する所の資料が思うように揃わなければ、その仕上げも従って不十分になるのは、別に司馬遷に限ったことではなく、歴史学というものの持つ不可避な宿命と言えるであろう。

 恐らく、司馬遷は「李斯列伝」を書くにあたって、李斯を主人公に据えた纏まった資料を見付けられなかった。そこで、(1)比較的信頼できる上書二通 (2)後人の作と推測される上書三通 (3)「荀子とその三人の弟子の物語」 (4)「趙高とその三人の仇の物語」 という非常に性質の異なった四種類の資料を雑然と寄せ集めた。しかも、前半部を纏め上げるのに用いた(3)と後半部を纏め上げるのに用いた(4)のいずれにおいても、李斯は主人公ではなく脇役なのだが、それを主人公に据えたのである。宮崎氏は、「李斯列伝」を読んでも大した感興を覚えず、李斯という人物の印象もあまり判然とは浮かび上がらないのは、このためではなかろうか、と指摘されている。

 

結び
 始皇帝死後に秦は急速に崩壊していくが、この過程で実権を握った宦官の趙高は刑罰を多用して恐怖政治を行い、遂には二世皇帝胡亥をも死に追いやった。漢代には、これが趙高による秦に対しての復讐物語として民間に流布していたようである。司馬遷は『史記』「李斯列伝」を書くにあたって、この物語を用いて後半部を纏め上げたと推測される。故に、後世は勿論のこと、同時代の者でさえ当事者以外には知りようもなかった陰謀が『史記』に書かれることになったのである。
 「李斯列伝」のみならず、『史記』を書くにあたって司馬遷はこうした民間伝承を大いに採用したと推測され、特に生彩のある箇所はそうだろう。司馬遷の生きた時代には、後世と比較すると文字記録は遥かに少なかったと思われ、これは仕方のないところであろう。故に、『史記』は文学と歴史とが完全には分離していないと言え、後世の史書と比較すると歴史書としての信憑性は劣るかもしれない。例えば陳寿の『三国志』だが、これは概ね史実を簡潔に記すに留まっており、歴史書としては『史記』よりも遥かに信頼性は高いかもしれないが、裴松之の注がなければ『三国志演義』を初めとする数々の三国志物が世に出なかった可能性は高く、例えば日本で、果たして三国時代が『史記』の記述範囲の時代以上の人気を現在得ているか疑問である。文学と歴史とが完全に分離していないということは、それだけ記述が面白いということでもある。『史記』以降の史書は、信憑性を得た代償として面白さを失ったのかもしれず、一概にどちらが良いとも言えない。
 だが、民間伝承が公的記録よりも常に資料価値が劣るとは、必ずしも言えないようにおもうのである。無論、公的記録と民間伝承とでは資料価値に雲泥の差があるが、公的記録には時の権力者の意向が反映されやすく、真相が伝えられないことも屡々あっただろう。このような時、却って民間伝承の方に真実が伝えられている、ということも或いはあるのかもしれない。『史記』は、後世の史書よりも、ある面では真相を汲み取っているかもしれないのである。
 始皇帝が扶蘇を事実上の後継者と指名する遺書を扶蘇に送ろうとし、趙高がそれを阻んで数々の陰謀を画策し、秦に対して徹底的な復讐を遂げたというのは、漢代の民衆の創作なのだろう。だが、漢代の民衆も様々な風聞を元にこの復讐物語を作っていった筈で、或いはかなりの真実を伝えているのかもしれないのである。

 

 

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