尼子氏の財源
初めに
私は、いつになるかは分からないが、「世界の中の日本」という主題で日本の通史を書いてみようかと考えている。無論、分不相応の大それた目標なので成し遂げられないかもしれないし、書き上げたにしても全くの素人によるものなので、自己満足の単なる雑感程度に終わる可能性は高い。だが、それでも書き上げるには相当な準備が必要で、それは私の見識を向上させるだけではなく、生き甲斐にもなるだろうから、こうした高い目標を掲げてもよかろうとも思うのである。
そこで今回は、大したことは書けないが、戦国大名尼子氏の財源を見ていくことで、当時の日本の様相と世界との関わりを僅かながらも探ってみて、最後はそこから少し鎖国の問題も考えてみて、多少なりとも今後の役に立てようと思う。主要参考文献は、米原正義『出雲尼子一族』(新人物往来社1997年)と山口啓二『鎖国と開国』(岩波書店1993年)である。先ずは、尼子氏について簡潔に触れることにする。
尼子氏の興亡
尼子氏は経久の代に所領を一気に拡大して戦国大名となった。尼子氏は宇多源氏である佐々木(京極)氏の支族で、近江の出身である。1392年に出雲・隠岐両国の守護となった京極高詮は1401年に亡くなったが、その晩年に甥の尼子持久を出雲の守護代に任命し、持久は出雲に赴き月山富田城に入って居城とし、出雲で在地化した。この持久が経久の祖父である。持久の子で経久の父である清貞も、出雲守護代となり尼子氏の勢力拡大に功績があった。
経久は一旦は守護代を解任され富田城から追われたが、富田城を奪還して守護代に復帰し、以後出雲を制圧して戦国大名化し、遂には十一州の太守と称されるに至った。無論、十一カ国全てを制圧していたわけではなく、経久と通じていた国人が十一カ国に跨っていたということであり、これら国人は完全に家臣化したわけではなく、情勢によっては他家と通ずることも屡々あったのである。
経久の長男政久は若くして戦死しており、経久は1537年に隠居して孫の詮久(後に晴久と改名、政久の長男)が跡を継いだ。晴久は安芸に攻め入って毛利氏の居城である吉田郡山城を包囲したが大敗し、以後尼子氏は衰退へと向う。晴久は1560年に亡くなって次男の義久が跡を継いだが、毛利氏に攻められて富田城は1566年に開城となり、尼子氏は滅亡した。
尼子氏は守護代から戦国大名へと発展し勢力を拡大・維持していったわけだが、これを支えた財政基盤は何であったのだろうか。無論、その筆頭として農業収入を挙げねばならないのだが、今回は、他の財政基盤に着目してみようかと思う。以下、美保関・鉄・銀山という三点に着目して見ていきたいが、これらは相互に関連もある。
美保関と交易
尼子氏発展の要因の一つが、美保関という港からの関銭であり、ここを通じての交易だった。尼子氏に限らず、港は戦国大名にとっての重要な財源であり、単に収入に留まるものではなかったようである。戦国大名は、土着の国人に対して改めてその所領を知行地として給与することで、彼らを家臣として編成していき領国を形成していった。だが、当初は家臣の所領から直接徴税を行うことはほとんどなく、彼らに対して軍役を中心とする諸役を課すことで支配を行っていた。故に、例えば尼子氏と中国地方の覇権を争った毛利氏が元就の代に100万石以上の所領を有すようになったとはいっても、元就の代に毛利氏自身の直接の農業収入が100万石分あったというわけではなく、そのため関銭や鉱山といった農業以外の収入が重要な役割を果たしたことが屡々あったのである。
港を支配下に置く利点は、様々な名目の徴税だけではない。新技術を初めとする先進要素を取り入れるには、何と言っても交易が最も手っ取り早い。また古来より、一般的に大量製品を安価に輸送するには陸上より海上の方が優れているし、日本の場合は、様々な面で先進的な列島外と交易を行うには海上交通を利用するしかない。ここに、戦国大名が港・海上交通の支配を重視し、またそれが発展の一要因となった理由が存在するのである。織田氏の発展には津島の港が重要な役割を果たしていたようである。毛利氏と陶氏の厳島合戦は、海上覇権を巡る争いでもあった。武田信玄は、同盟国を敵に回し嫡男と対立する危険を冒してまで海岸地域へと進出した。
それでは、尼子氏について少し具体的にその事情を見ていくことにする。美保関は中海と日本海との境に位置した山陰屈指の良港で、ここでは日本に留まらず朝鮮との交易も盛んであったため、ここを支配下に置き課税すれば大きな収入を得られたのである。直轄地が少なく財政基盤の弱い室町幕府は美保関を御料所とし、出雲守護京極氏に公用銭(上納金)徴収を委託したが、その京極氏は、実際の関銭徴収を美保関代官に任命した在地の有力豪族に代行させ、その関銭の中から公用銭を納めさせていた。つまり、定められた公用銭を納めれば、残りは代官の取り分となるのである。そのため、美保関代官は、尼子氏も含めて出雲の有力豪族の争奪の的となっていた。
1468年、尼子清貞は軍功を認められて守護京極持清から美保関代官職を認められた。当時、美保関の公用銭は年間5万疋(500貫、約500石)であった。当時尼子氏が美保関にどれだけ課税していたかは定かではないが、年間5万疋もまともに公用銭を納めていては、莫大な利益を生むとまではいかなかったであろう。できるだけ自らの取り分を多くしたいというのは自然な人情というものである。時恰も応仁の乱で旧来の権力・秩序が徹底的に崩壊していこうとする時期である。尼子氏は勢力を拡大するために旧来の中央権力への挑戦を始めた。
先ず、年間1万疋分の免除を当時の出雲守護京極政高(後に政経と改名)に要求し、政高も乱世の中尼子氏が出雲で勢力を着実に拡大していっていることに配慮したのか、1475〜79の5年間に限って公用銭を年間4万疋と認めている。世の常として、こうした要求・行為は強力な抵抗に遭うまで際限なく増大していくものである。1477年頃家督を継いだ経久は、次第に公用銭を「横領」するようになり、1482年頃には段銭や公役も怠るようになった。ここに至って流石に守護京極氏と幕府も経久の「横暴」を看過できず、1484年に幕府は経久討伐の命令を下し、経久の急速な勢力拡大に反感を抱いていた出雲の豪族が結集して幕命に従ったため、経久は守護代を解任されて富田城から追放されてしまった。
だがこれで逼塞するような経久ではなく、1486年頃に富田城を奪還して、以後尼子氏は戦国大名への道を歩み始める。美保関も完全に尼子氏の支配するところとなり、尼子氏の重要な財源となるのである。尚、出雲の西部には宇龍という港もあり、これと美保が出雲の二大港であった。出雲統一の過程で尼子氏はこちらも支配下に置き、やはり重要な財源となった。
次に、朝鮮との交易について少し触れることにする。尼子氏は義久の代の対朝交易は確実だが、経久と晴久の代には定かではない。だが、『世宗実録』や『海東諸国記』などに拠ると、既に15世紀前半の時点で山陰の国人で対朝交易に従事していた者が少なからずいる。そうすると、尼子氏は経久と晴久の代にも対朝交易を行っており、それが重要な財源となっていたことも認めて良いのではなかろうか。
9世紀以降の東アジア交易圏の発展は屡々指摘されるところだが、恐らく記録では確認できずとも、山陰と朝鮮との交易は古来より頗る盛んで、更には中国との直接交渉もあったのだろう。近年様々な発掘成果から古代出雲王国論が喧しいが、こうした交易も、出雲の勢力を支えていた重要な要素なのだろう。尼子氏の場合も、朝鮮との交易は発展と勢力維持に寄与するところ大で、それは収入源というだけではなく、恐らく文化や技術面でも大きな意味を持ったのではなかろうか。
出雲鉄と製鉄革命
尼子氏の躍進を支えた要因の一つとして、出雲鉄が挙げられる。製鉄技術の導入以来、日本の製鉄は砂鉄製鉄だったが、古来より出雲は良質な砂鉄の産地として有名であった。出雲鉄は一部は製品に加工され、上述した美保関や宇龍港に運搬され、そこから日本のみならず朝鮮など各地に出荷されたのである。そのため、出雲鉄の産地を支配下に置くのは尼子氏にとって重要だったのである。また尼子氏は、砂鉄生産地として出雲の他に備中の千屋(岡山県新見市)も支配下に置いていた。
一部は製品に加工されたとされたと書いたが、尼子氏は領内に製鉄所を置き、更には各種工房も置いていたようで、領内で精錬と加工を行い、鉄の支配を確固たるものにしていたようである。武器や農具の製作も行わせ、国力増大に努めていたのだろう。
出雲鉄は尼子氏にとって重要な財源となったが、それは、戦国時代に製鉄革命とでも言うべきものが起きたことに因るところが大きいと思われる。製鉄革命の主要な内容は、大別すると三つある。一つは、鉄穴流しという砂鉄を大量に掘り出す方法が確立されたことである。二つ目は、規模の大きい踏み板鞴が用いられるようになったことである。三つ目は、露天製鉄から屋根を葺いた高殿製鉄への転換で、これにより天候に左右されない製鉄が可能となった。
これらにより鉄製品の大量加工が容易となり、廉価な鉄製品が普及することになった。戦国時代の日本の生産様式では、農業と工業における小経営の自立が重要な動向として認められるが、それだけ鉄製品への需要が高まったということであり、またこの傾向を製鉄革命が促進したと推測されるのである。尼子領内でも大量の鉄製品が作られ、それら鉄製品や砂鉄そのものが、主に海路で、上述した美保関や宇龍港を通じて大量に各地に出荷されたのだろう。製鉄革命も、転換期としての戦国時代の重要な側面と言えよう。
石見大森銀山
これは、美保関や出雲鉄とは異なり、尼子氏にとって長期的に安定した財源たり得なかったが、それでも一時期非常に重要な財源となったのは間違いない。その重要性は、「銀山に異変あれば弓矢(合戦)もなるまじ」とまで言われたことからも分かる。石見大森銀山では14世紀の初め頃より採取が行われていたようだが、これは露出銀で、地下銀の採掘は1526年、博多の商人である神谷寿禎によって始められた。
大森銀山の重要性が飛躍的に増したのは、1533年、神谷寿禎が灰吹法と呼ばれる精錬法を初めて日本に導入して以降のことである。これにより銀採掘量は大幅に増え、灰吹法は大森銀山から日本全土に広まり、16〜17世紀にかけて日本はシルヴァーラッシュを迎えることになる。灰吹法は、中国では既に15世紀には盛んに行われており、その頃朝鮮にも伝わったようである。朝鮮はこれを国家機密としていたが、上述したように日本との交易が盛んなため、いつまでも秘密を保持できるものでもなく、博多に伝わったのである。これは日本鉱業史上の一大事件と言ってよく、日本に留まらず世界に影響を及ぼすこととなった。
大森銀山における採掘量の増大は、銀山から支配者への上納銀の枚数を見ればよく分かる。1533年、大森銀山を支配した大内義隆は毎年銀100枚の上納を命じた。その後一旦尼子氏が支配したもののすぐに大内氏が奪還し、この時1538年には、毎年銀500枚の上納を命じている。1562年以降は毛利氏の支配するところとなったが、毛利氏は毎年銀5000枚を上納させていた。
灰吹法の導入以降の銀採掘量の増大は明らかで、大森銀山を巡って中国地方の各勢力は熾烈な争いを繰り広げることになる。尼子氏が大森銀山を直接支配したのは1537・1543・1558年頃で割と短かったのだが、尼子氏と通じていた石見の国人である小笠原氏が支配することもあり、一時的にせよ重要な財源となったのは間違いない。
石見大森銀山を初めとする日本のシルヴァーラッシュで採掘された銀は何処に流れたのかというと、それは朝鮮や中国、特に後者だったようである。尼子氏と朝鮮との交易は上述したが、尼子氏と大森銀山を争った大内氏は、中国との交易が有名である。日本は銀産出量の増大に伴い、9世紀頃より発展してきた東アジア交易圏に質・量共に一層深く組み込まれることになったのだろう。
スペインやポルトガルやイギリスやオランダといった欧州諸国が東アジアに乗り出してきたのも、この発展した東アジア交易圏に参画するためであり、日本への進出にも熱心だったのは、日本の産出する大量の銀が主要な目的だったと思われる。17世紀初頭、日本の銀産出量は世界の1/3〜1/4を占めていたという。
銀を媒介とした中国・朝鮮・欧州勢力も含めての東南アジアとの活発な交易は、様々な物資や文化の活発な導入と共に日本経済の成長を促進し、日本の新たな秩序・体制の成立に寄与するところ大であったと思われる。灰吹法の導入は、単に日本鉱業史に留まらない重大な影響を及ぼしたと言えよう。
結び
尼子氏の財源を探っていくと、それは日本列島内だけで完結させられるものではなく、日本列島外との関わり合いも決して浅くはないということが分かる。恐らく日本史も、日本列島内で完結させてしまってはほとんど意味がなく、絶えず世界との関わり合いの中で考察していかなければ有意義なものとはならないのだろう。そしてそれは、所謂鎖国時代でも同様なのではなかろうか。
鎖国とはいっても、朝鮮やオランダとの公的関係はあり、中国とは長崎で公に交易が行われていた。蘭学は明治以降は振るわなかったが、それでも江戸半ばから明治初期にかけてどれだけ日本の学問や技術などの発展に貢献したか計り知れない。また私も詳しくはないので断言はできないが、中国の考証学は江戸時代の諸学問に貢献するところ大だったのではなかろうか。まあこの推測は的外れかもしれないが、それにしても、鎖国時代における日本列島外からの影響は無視できない程大きかったように思うのである。
また、記録には残りにくい性質で断言はできないのだが、密貿易の問題もある。尼子氏に限らず山陰の国人が室町〜戦国時代に朝鮮と交易していたことは上述したが、朝鮮や中国との交易は西日本の多くの豪族や大名が行っていたことである。例えば肥後の相良氏である。相良氏は肥後一円を支配していたわけではないもののそれなりの勢力を有し、法度を発布したことで有名である。この相良氏は、20艘から成る交易船団を江南に派遣したこともある。
戦国大名の支配の在り様が、知行制や農民把握などの点で、東日本と西日本とでは異なる、とは屡々指摘されるところである。これは、日本の東西で列島外との関わり合いが異なるためだとの指摘がある。東日本では、日本海沿岸の一部を除いて日本列島外との直接交渉があまりなかったという。そうすると、東日本に基盤を置いた江戸幕府の所謂鎖国政策も、その主目的の一つは、西日本大名の富強化を阻止するにあったと推測される。
さて戦国時代に頗る盛んであった西日本と日本列島外との交渉を、鎖国政策によって果たして完全に禁ずることができたであろうか。西国でも対馬の宗氏は朝鮮との交渉が公に認められており、島津氏は従属させていた琉球を通じて半ば公然と密貿易が可能であったが、果たして他の大名家は全く朝鮮や中国との交易は行っていなかったのだろうか。どうもそうではないらしい。1717年に幕府は西日本諸藩に密貿易を企む中国商人の取り締まりを命じているが、これは西日本諸藩が密貿易に関わっていたことの傍証で、密貿易を行う西日本諸藩に対する幕府の威嚇であったようにも受け取れるのである。
取り潰しの危険を冒してまで行っていたのだから、海禁(鎖国)政策の下での密貿易の利益は大きかったと推測される。薩長土肥を初めとする幕末の雄藩が西日本に集中し、これらが中心となって江戸幕府を倒し明治維新を成し遂げたのは、単なる偶然だとは私には思えないのである。鎖国時代といえども、日本の歴史を日本だけで語っては甚だ不十分だと思われる。