日本の私年号

 

 

初めに
 今回は、大したことは書けないのだが、私年号について小文を書いてみようかと思う。例によって狭く浅くという感じの駄文だが、週一回定期的に書くためには、私の能力ではこの程度のものが多くならざるを得ない。大した文章ではないが、博学な方から御教示を頂ければ幸いである。

 

年号について
 現在でも年号を公的に使用しているのは日本くらいだろうか。そもそも年号は東アジア文化圏に広まった紀年法で、初めて定めたのは前漢の武帝である。中国における中央集権化は、戦国時代に七雄と呼ばれる各国で進展し、秦の始皇帝による統一で一応の完成を見た。しかしこれはまだ強固なものではなく、秦の統一は短期間にして打ち破られてしまった。秦の後を受けて中国を統一した前漢は、秦の急速なる中央集権的統一政策が失敗に帰したことに鑑み、封建制と郡県制の併用という郡国制を採用した。だが、戦国以来の中央集権化の流れは止まることがなく、中央政府は異姓諸王を取り潰し、呉楚七国の乱を平定し、遂に武帝の代になって本格的な中央集権的統一国家が成立した。
 年号の制定も、武帝による統一政策の一環であると言える。中国では武帝以前は、君主が先代を継承した翌年を元年として数え始め、戦国時代の七雄は勿論、漢代に入っても封建君主は各々その領内でその即位年を用いた(宮崎市定『中国史・上』P177・178より)。日本でも、平安時代以降は天皇即位の翌年または翌々年に改元するとの原則が認められるが(例外も少なくはないが)、これは古代中国に範を取ったのかとも思うが、どうも、即位後すぐに改元すると前天皇に非礼となる、との観念が存在したためらしい。それはさて措き、武帝は定めた年号を統治範囲内に適用し、後に中国を宗主国と認める国は中国の年号を使用することになった。年号の本質とは、君主による支配領域(この場合、直接支配でなくても構わない)内の人民に対する時間の支配なのだろう。中国の年号は、当初は概ね4〜6年で改元されていたが、後漢の光武帝以降はこの原則は崩れたようである。明の太祖以降は一世一元制が行われ、これは中華民国が成立し年号が廃止されるまで続いた。

 日本で最初の年号は大化とされるが、法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘と『釈日本紀』に引用された『伊予国風土記』逸文には法興という年号が見える。日本では大化以後も年号が屡々途絶え、継続して用いられるようになったのは、大宝からである(大宝元年は701年)。日本における年号の成立は、国号及び天皇号と一体の関係にある可能性が高く、大宝より前の年号については、どこまで年号が用いられ、またその機能が果たされたか不明な点が多く、大宝以降の年号と同一視してよいものか疑問はある。日本では明治以前は一世一元制ではなく、天皇一代の在位中に多数改元がなされることもあり、1979年に制定された元号法では皇位継承の際にのみ改元されると規定された。
 改元はその理由により、大別すると4通りに分類される。 @代替わり A祥瑞 B災異 C革命の年(辛酉や甲子) Aは平安時代に多く、Bは鎌倉時代に多いが、これは鎌倉時代に入って戦争や地震や飢饉といった災異が激増したということではなく、11世紀半ばに末法の世に突入した、との認識が当時の知識層の間で一般的だったことが大きいと思われる。改元とは、時間を切り新しい時間を創り出すことを目的とし、世界の一新を図ったものなのだろう。徳政と通ずるところがあるように思われる。

 

私年号
 私年号は朝廷の定めた公的年号とは異なる年号で異年号とも言い、日本では現在約440例確認されている。平安時代以前は少ないが、前述した法興を私年号とする見解も有力である。私年号は鎌倉・室町時代に増加し始め、戦国時代、特に東日本で最も多く確認されている。東日本で私年号が盛んに用いられたのは、西日本と比較して朝廷の影響が小さいからだろうか。また古代においては、東大寺の僧が私年号を使用することもあったようである。
 さて戦国時代の私年号の具体例としては、1491年頃の福徳・1507年の弥勒・1527年の永嘉・1542年の命禄、といったものが挙げられる。これらは、主に民間信仰の金石文碑や板碑に見られるが、大名の公的文書には普通は正規の年号が用いられた。また目出度い文字が多いのが特徴で、そのことからすると、命禄は三島神社の創建と関係があるのではないかと推測される。
 こうした私年号は、狭い地域限定のものや関東一円で確認されているものなど、多種多様な地域で使用された。例えば前述した福徳は、現在の東京を中心として中部でも用いられた。

 私年号の頻出する理由は色々と考えられるが、室町〜戦国時代における惣村の成立、民衆の識字率の向上、末法思想を裏付けるように当時は思われた戦乱の世の到来、という三点が先ず挙げられるように思う。無論、これら三点は独立別個の事象ではなく、相互に関連があったと考えるべきだろう。
 私年号も結局は年号なので、その使用目的は、上述したように世界の一新ということであり、戦乱の世の終焉を願ったものなのだろう。例えば弥勒という私年号は、弥勒の世実現を願う弥勒信仰の現れで、世直しを目的とするものであり、また一種の千年王国思想とも言える。千年王国思想は世界に普遍的に存在するものらしく、決してアドルフ=ヒトラーの専売特許ではない。
 私年号使用の直接的理由は、公的年号と同様に上記@〜Cのいずれかに求められるが、私年号の場合@の例はほとんどないようである。Aの例としては、不適切かもしれないが、上述した命禄が当て嵌まるかもしれない。Bの例としては、甲斐国妙法寺の私年号が挙げられる。妙法寺は1490年に延徳から正亨と改元したが、当時飢饉や流行病が甲斐国を襲っていたのである。Cの例としては、1441年に東日本で用いられた徳応が挙げられる。この年の干支は革命の辛酉で、朝廷でも永享から嘉吉に改元されている。

 こうした私年号を創った主体者は多くの場合は特定できず、主に民間信仰の金石文碑や板碑に見られることから、民衆が自分達で年号を創ることにより、主体的・積極的に世の中を変革していこうとしたものと思われる。ただ、具体的な人名や団体名は特定できないとはいえ、それは惣村である場合が多かったと私は推測する。
 惣村の形成は鎌倉時代後半にその萌芽期を認められるが、従来の支配権が南北朝の争乱以降急速に崩壊していく中で全国各地に成立していき、戦国時代にはその流れは決定的なものとなった。惣村の構成員は、地主へと変貌を遂げていった名主と、既成秩序の崩壊により荘園内部に定着して耕地・その他の土地を所有するようになった小農民である。つまり、自立した農業経営者が惣村の構成員で、既存の権力が動揺し始めた時期だけに、惣村は自立的・自治的性格が強かった。こうした状況の下で、惣村の指導者は主体的に私年号を採用していき、土一揆のような幅広い地域での惣村同士の連合や識字率の向上や産業と交通の発達といったこともあり、幅広い地域で使用される私年号も存在することになったのだろう。
 惣村の形成は重要な問題なので、甲乙人や非器といった用語や徳政や百姓身分形成の問題と絡めて、いつか詳しく書ければ、と考えている。

 戦国時代に流行した私年号も、それ以降はあまり振るわなくなる。その大きな理由は、一つには、豊臣政権、次いで徳川政権という従来よりも強力な秩序の成立により戦乱の世に終止符が打たれたことであろう。もう一つは、戦国時代の各国での検地とその集大成である太閤検地により、惣村がこの新秩序に組み込まれたことであろう。
 江戸時代以降の私年号の例としては、戊辰戦争期に薩長を中心とする新政府に抵抗した東北諸藩が使用した延寿、自由民権運動が盛り上がった時期に秩父困民党の使用した自由自治、日露戦争期に民衆の間で流行した征露などがある。これらも、世直しを目的としたものと言えようが、延寿に関しては、日本の南北朝期や中国の分裂期における並立年号の一例として捉えるのが或いは妥当かもしれない。

 

結び
 私年号は、日本の多様性やそれが流行した戦国時代の諸状況を反映したものであると言えよう。私年号が用いられた時期と、その創始者及び使用者を推測することは、日本史理解に少なからず貢献するものと思われる。
 今回は勉強不足で大したことは書けていないし、日本と同じく東アジア文化圏の朝鮮と中国については全くの手付かずである。朝鮮や中国で、国家樹立とまではいかなかった小規模な反乱勢力が独自の年号を定めたことはあっただろうが、日本のように必ずしも反乱軍に属していたわけではない民衆の間で、私年号に類するものが広く用いられたか否かという点について、恥ずかしながら私は全くの無知である。これは今後の課題で、調べていけば東アジアの歴史について新たな知見も得られるのではないかと思う。

 

 

駄文一覧へ   先頭へ