ノルマン征服以降の英国
初めに
今回の駄文は、以前書いた文章の採録である。本当は『国民の歴史』について何か書こうかと思っていたのだが、まだ読み終えていないので、止むを得ず過去に書いた文章を採録する次第である。それに、やはり毎週一回新規ネタで何か書くのは厳しいものがあるので、手抜きにはなるが、今後は一月に一度くらいは過去の雑文を採録しようかと思う。
内容はというと、ノルマン征服以降1世紀の英国の概観と、ウィリアム一世からエドワード一世までの各王の至極簡潔な事績の紹介だが、英語文献の翻訳か要約だったように記憶している。()の数字は各王の在位年代である。
概観
1066年12月25日ノルマンディー侯ウィリアムがウェストミンスター寺院で王として迎えられた。だが、彼のその地位は当初は大変不安定で、ノルマン支配に対する反乱が1067〜1070年の間に毎年ケントや南西部等で勃発している。そのため、征服が完了したと彼が自信を持てるには、更に5年を要した。この征服により、イングランドは新しい王家のみならず、新しい支配階級、文化・言語(フランスの)をも受容することになった。
当初イングランド人は土地を保持できていたが、1086年までに4000人以上の封建領主が土地を失い、200人以下の直臣集団に取って替わられた。新領主は、ほとんどがノルマン人であった。彼らは大陸の領土も保持し続けたため、結果的にイングランドとノルマンディーは単一の政治共同体となり、ノルマンディーを統治する領主はフランス国王に臣従しているので、イングランドの政治はフランス政治の一部という側面も有するようになり、これが後の百年戦争の一因ともなった。ノルマン征服はその後1154年にアンジュー伯ヘンリーとその妻エリナ(アリエノール)に受け継がれ、フランス文化の優越が強化されることになった。
ノルマン征服への評価に関しては、「新しい始まり」、「重要な転換点」、「大変化をもたらした」というものから、「英国史上最大の災難」、「大変化はあったがノルマン征服が原因ではない」というものまである。ヘースティングスの戦いについても、愛国的イングランド人は国家的大惨事と見なしたはずだ、という指摘がなされている。
この時代の顕著な変化の一つが、文献記録のすさまじい激増である。これらの中には小自作農や小作農のものも多数含まれている。さらに印鑑も、従来は王しか保有が認められていなかったのが、エドワード1世の時代になると、法令によって農奴でさえ所持するように定められている。こうした事実は、社会全体が物事を習慣的に記憶する段階から書き留める段階へと変化したことを示している。
ウィリアム1世(1066〜1087)
1071年にウィリアムのイングランド支配は安定し、これ以降彼の関心事は大陸との戦争及び外交となった。隣国は彼の新勢力に不安になり、これを葬り去ろうとした。その先鋒となったのは、フランスのフィリップ国王とアンジュー伯Fulk
le Rechinであった。彼らはウィリアムとその長子ロバートとの不和に付け込んだ。また、ウィリアムとフィリップは国境論争をして、ヴェクシンがその抗争地となった。この王家内紛争と国境紛争という二つの要素は、11世紀の政治動向を規定するものとなった。
ウィリアム2世(1087〜1100)
ウィリアム1世の死後、ロバートがノルマンディーを継いだが、イングランドは彼の弟のウィリアム・ルフスが継いだ。これには、有力者たちの意向が働いており、当時王位継承決定の慣習がまだ柔軟であったことを示している。ロバートは当然これに反対し、ルフスは即位後間もなく大領主や有力者の強力な連合に反対されることになる。彼らの目的は、イングランドとノルマンディーの再統合であり、彼ら自身の政治問題の解決であった。だがルフスにとっては幸いにも、ロバートが支持者たちを見捨てる形でノルマンディーに留まっていたため、この反乱は迅速に鎮圧できた。
この1088年の反乱は、ノルマンディー侯の地位を兼ねないイングランド王の地位がいかに不安定か、ということを示している。実際、ウィリアム2世と次のヘンリー1世時代の反乱は、イングランド王がノルマンディー侯でない時期に集中している。この後ウィリアムはロバートからノルマンディーを譲り受け、大陸での失地回復に乗り出し、成功を収めた。
ヘンリー1世(1100〜1135)
ヘンリーはルフス(ウィリアム2世)の死を知ると直ちにウィンチェスタに行って国庫を掌握し、それからウェストミンスターに行って8月5日に戴冠式を行った。これに対して彼の兄のロバートが1101年6月にポーツマスに上陸してきた。ロバートの側にはイングランドの大封建領主の多くが付いたが、一方ヘンリーの側には教会等が味方に付いた。結局この戦いは1106年のタンシブレの戦いでロバートが捕虜になったことで決着が付き、ノルマンディーとイングランドは再び統一されることになった。
彼の統治期の重要問題の一つに聖職叙認権問題がある。この問題は、改革派が教会を世俗権力から自由に使用としたことに端を発した。ヘンリーはこの問題を先延ばしにして、結局1107年に王が司教叙認権を放棄することで解決した。これは、ヘンリーが王の世俗的性質を認識していたことを示し、王権史の重要な一幕となった。
ヘンリー1世の統治後半期には、王位継承問題が生じた。彼の世継ぎは1120年に事故死したため、彼は1127年6月に寡婦になっていた娘のマティルダをアンジュー伯ジョフルワと結婚させ、二人を後継者に立てようとした。
スティーブン(1135〜1154)
ヘンリー1世の甥であるスティーブンはヘンリー1世の死後ロンドンに入ってロンドン市民の支持を得て、弟であるウィンチェスター司教ヘンリーの協力によりウィンチェスターの宝蔵室を得て、1135年12月22日に戴冠式を行った。
彼の治世は、当初の2年半は平穏に過ぎたが、彼が弟のヘンリーの心証を害し、更に1139年秋にマティルダがアルンデルに上陸するに及んで、イングランドは二つの宮廷が争う内乱期に突入した。この内乱も、当事者の死や疲弊した双方の領主の平和への願望もあって、1153年11月にウェストミンスター条約により終結した。この結果、スティーブンは終生国王の地位を保証され、その世継ぎにはマティルダとジョフルワの息子ヘンリー(父よりノルマンディーを相続し、アテキーヌ公の女子相続人アリエノールと結婚したためアテキーヌ公領も得ていた)がなった。
ヘンリー2世(1154〜1189)
ヘンリー2世は1154年に王位に就くと、先ずスティーブンの統治期の損失を回復していき、1157年にはスコットランドからカンバーランド等を回復するなど、1158年までにはこの事業を達成した。だが、この時代アンジュー家(プランタジネット朝)の社会的・文化的中心はフランスであり、イングランドではなかった。
ヘンリー2世は、その統治よりもカンタベリー大司教トマス・ベケット殺害容疑の方で記憶されている。両者の対立は、教会から奪われた権利の幾つかを取り戻そうとしてヘンリー2世が作成したクラレンドン法にベケットが反対したことに始まり、1170年にはついにベケットが殺害されるに至った。これは全キリスト教諸国に衝撃を与えたが、結局この事件は王の権力を揺るがすには至らなかった。
彼はその支配権を上三人の息子たちに分割したがうまくいかず、長男と次男が早世したため、跡を継いだのは三男のリチャードであった。
リチャード1世(1189〜1199)
リチャード1世は即位前の1172年にアキテーヌ公となり、イングランド王となった後も、イングランドのみを統治しているのではない、という自覚・責任感から十字軍に参加し、エルサレム王国支援に向かった。この十字軍への参加とそれに付随して起きた彼の幽閉事件とで、彼は領土を長期間主君不在状態にしてしまい、その間フランス王フィリップ等に領地を奪われ、釈放された後失った領地は急速に回復したものの、保釈金と併せてこの間出費は膨大なものになった。
ジョン(1199〜1216)
リチャードには世継ぎの子がいなかったため、1199年イングランドとノルマンディーの領主の選択によりその弟のジョンが王位に就いた。1202年、前王時代より争っていたフランス王フィリップがジョンの大陸の支配権は没収するとの宣言をし、1206年までにはジョンはフランスの領地の大半を喪失してしまった。また彼はカンタベリーの大司教の選出を巡って教皇インノケンティウス3世と対立し、1209年には教皇から破門されてしまった。だが彼は、周囲に敵の多い状況の中、破門状態のままでいる不利を悟って、1213年イングランドを教皇の領地として寄進することで教皇と和解した。
ジョンはこれを受けて翌年にフランスに遠征したがブーヴィーヌの戦いで敗北し、イングランドでの諸公の反乱を惹起してしまった。この結果、1215年6月に反乱者たちはジョンに条件を承諾させることに成功した(マグナ=カルタ公布)。更に反乱者たちはフランスから王太子ルイ(後のルイ8世)を呼び、イングランドは内乱に突入していく。
ヘンリー3世(1216〜1272)
1216年ジョンが死ぬと息子のヘンリーが跡を継ぎ、これによって内乱は収束に向かった。ヘンリー3世には失政が多く、旧領回復と称してフランスへ度々遠征したが諸侯の支援はなく成果は上がらず、教皇への協力(この時フランスと和解している)もイングランドに不利益をもたらしただけであり、諸侯の不満が高まった。その結果、諸侯の反乱を招来し、1265年のシモン=ド=モンフォール議会の招集に至った。
エドワード1世(1272〜1307)
ヘンリー3世の跡を継いだ息子のエドワードは、ボルドー(ワインの産地)に宮廷を構えたプランタジネット王朝最後の王となった。彼はフランス王に臣従の礼を取り、治世前半は主にウェールズ問題に対処した。