ユーラシア大陸と日本

 

初めに
 大げさな感もする表題だが、今回は西尾幹ニ『国民の歴史』(扶桑社1999年)の読後感を書いてみようかと思う。この本は随分と売れたようで、そのためこれを取り上げた雑誌も少なからずあった。世間の評価は賛否両論で、著者の西尾氏への支持もあれば厳しい糾弾もあった。
 そうした雑誌の記事やネット上の各種掲示板での投稿から同書の内容の一部は窺い知ることができ、その主張について疑問も感じたので、ヤフー掲示板などで同書について少々批判的なことを書いてしまった。
 実際に読んではいないのにそうしたことを書いたのは軽率だったと今では反省しているが、ずっと貸し出し状態だった同書を漸く図書館で借りることができ読み終えたので、ここで一度同書に対する私の雑感を書いてみようかと思うのである。

 同書には、実際に読む前から少なからず疑問を持っていたが、いざ読んでみると、あまりにも多くの問題点があるのには驚いてしまった。勿論、西尾氏は私などと比較しては失礼なほど博学で読書量も豊富なのだろうから、私の方が的外れな見解を抱いているのかとも思ったが、どうにも納得できなかった。
 だが、私の抱いた違和感はどうも私の独り善がりというものではなく、専門家からも色々と批判がなされており、最近になって『徹底批判 国民の歴史』(「教科書に真実と自由を」連絡会編、大月書店2000年)という、専門家による一般向けの本格的な『国民の歴史』批判本が出版された。
 全面的に同意できないとはいえ、私の疑問点も多くは同書の中で述べられており、今更私が『国民の歴史』に対する疑問点を述べることに意味はないかもしれないが、表題の「ユーラシア大陸と日本」という問題意識で、『国民の歴史』についての私の雑感を述べていこうかと思う。そうした意識で自分の見解を述べていこうと考えた理由は以下の通りである。

 西尾氏の『国民の歴史』での主張は @日本は東洋に属さないばかりではなく、ユーラシア大陸と対峙する独立した高度な一文明圏である。 A戦争に正義と不正義との区別はあり得ず、日本が人類や世界に対して戦争責任を負う必要はない。 B世界史の必然として起きた遠い過去の出来事に対して、我々は罪の意識を抱く必要も謝罪の必要もなく、沈黙すべきである。それは、日本による韓国の植民地化にも当て嵌まりる。 の三点に分類されると私は思う。西尾氏は『国民の歴史』において様々な主張をされており、一見するとこれら三点に当て嵌まらないものもあるが、それらは概ね上記三点の直接・間接的な証明や補強だと私は思うのである。
 @ABは独立別個の主張ではない。Aでは、世界における普遍的な絶対的正義の存在への懐疑がその重要な根拠となっているが、それは、従来の正義は特定の集団による異質な集団への価値観の押し付けに過ぎないのではないか、との西尾氏の論理から導き出されたもので、日本は全く異質な西洋の価値観で戦争責任を問われたのだから、これは無効だというわけで、@にも繋がるのである。Bでは、西欧列強の世界制覇の中で、東アジアとは異なる独自の一文明圏を形成していた日本が東アジア諸国とは異なり近代化を達成し、日清・日露戦争に勝利するという情勢の中、日本が韓国を植民地化したのは歴史の必然であるとされており、やはり@にも繋がる。
 これらの点と全体を読んでの印象から、私は、西尾氏の主眼は@の主張にあるのではないかと思う。ABを正当化せんがために西尾氏は@を主張された、とする人もおられるかもしれないが、私はそうは思わない。そこで今回は、@に絞って西尾氏の主張に対する私の見解を述べていこうかと思うのである。
 尚、『国民の歴史』からの引用は紫色で示した。()内の数字は引用箇所のページ数である。

 

世界における日本の位置付け
 私は、ユーラシアを一つの文明圏とする見解も成立し得るのではないかと考えている。恐らく、記録に残らない段階よりユーラシア東西の交流は少なからず行われており、相互に影響を及ぼしていたと推測され、基本的に時代が下るほど相互の交流は盛んになっていったから、ユーラシアを一つの文明圏と認めてもよいのではないかと思うのである。この場合、質量で匹敵するか否かはさて措き、ユーラシアと対峙し得る文明圏は16世紀以前の先スペイン期のアメリカだと思う。
 だが、こうした区分も成立し得るとはいえ、実際にはそれほど意味のある概念とは言えないだろう。先スペイン期のアメリカ文明は食文化を除いて現代世界にほとんど影響を与えておらず、ユーラシア文明圏とはほとんど人類文明と言っているのに等しいからである。故に文明圏を考える際には、ユーラシアを複数の文明圏に区分する方が歴史理解にも役立つのではないかと思う。
 その場合様々な考えがあろうが、私は、大きく区分する際には、欧州と西アジアからなる西洋・インドと東南アジアからなる南洋・東アジアからなる東洋の三つに区分しようかと思う。この他、内陸アジアを独自の文明圏とすべきかとも思うが、自信はなく現時点では留保しておきたい。
 以上は私の考えだが、こうした大きな区分では西洋と東洋とに二分されることが多い。西尾氏もそのようだが、果して西アジアが西洋と東洋のどちらに区分されるのか、いま一つ掴みづらかった。どうも、東洋に区分されているようなのだが、まあこの点を曖昧にしておいても、西尾氏の主張も以下に私が展開する議論も混乱し困るということは特になさそうなので、このまま進めていきたい。

 普通、日本は東洋に属すとされているが、西尾氏の考えはそうではない。西尾氏は第1章において「ユーラシア大陸と対峙する一文明圏」という小見出しを付けられ、次のように述べられている。
 
日本文化は東洋と西洋との二大文化が対立するそのなかの東洋文化の一翼ではない。西洋、東洋問わず、両方ひっくるめたユーラシア大陸の文化全体と日本の文化とがあい対しているのである。(39)
 西尾氏はその根拠を色々と述べられているのだが、決定的な根拠は言語である。
 
その決定的な要因は言語である。現代言語学の達成した成果によると、日本語は、ユーラシア大陸のどの語族にも属さぬことだけは明らかになったようだ(39)
 比較言語学によると、日本語はどの語族に所属するか不明な言語とのことで、一見すると日本の独自性を証明しているかのようである。もっとも、比較言語学で提唱される言語系統論、更には言語の分岐年代を推定する言語年代学が果してどこまで有効か疑問はあるのだが、一先ずそれは措く。
 さて、所属の不明な言語は日本語だけではなく、朝鮮語やアイヌ語などもそうであり、日本語だけが特例というわけではなく、西尾氏も第5章でこの点には触れられている。朝鮮は普通は東洋に属すとされ、西尾氏もそう主張されているが、その朝鮮も系統不明の言語なのである。つまり、日本はユーラシア大陸と対峙する一文明圏という西尾氏の主張は、そもそもその根拠が甚だ脆弱であることが分かるのである。
 だが西尾氏は、朝鮮語が系統不明の言語であることの意味を掘り下げようとはなさらず、ひたすら日本語、延ては日本の独自性を主張されていくのである。西尾氏によると、朝鮮は時代が下るにつれ中国専制国家体制へ傾斜していき、独立した文明圏たり得なかったとのことで、西尾氏にとって、朝鮮の中国への従属と主体性や独自性の希薄さは自明の理なのだろう。 

 日本が西洋と異質だという主張は理解されやすいので、西尾氏の議論は勢い日本と東洋との異質さの強調に向けられる。上述したように西尾氏にとって、朝鮮は中国の従属下にあるようなもので独立した文明圏ではないから、独立した一文明圏としての日本という主張の証明は、日本と中国との相違の強調と、日本が中国から受けた影響は小さいか表面的なものに留まった、という方向で展開される。
 そこで以下では、西尾氏の主張される中国論や日中比較と日中関係を通じた日本論について見ていきたい。ユーラシア大陸と対峙する一文明圏としての日本、という西尾氏の主張の説得力を確かめるには最適のはずである。

 

中国史認識
 『国民の歴史』を読んだ印象では西尾氏は大変な読書家のようで、中国史に関しても相当な量の本を読まれたようである。内藤湖南のような大家の論考から近年の若手研究者の論考まで幅広く読まれたようだが、それにも関わらず西尾氏の中国史認識には多々疑問を覚えてしまう。
 西尾氏は、日本人による従来の中国論や中国史認識は中華思想に忠実で中国を崇拝する傾向にあるとして大いに不満をお持ちで、宮崎市定氏のような大家に対しても容赦ない。西尾氏は従来の中国史像に対して、近年の若手研究者の論考を引用しそれにも依拠しつつ、御自身の中国史像や中国論を展開されている。一見すると、時代遅れの中国史像に対して新鮮で魅力的な説得力のある見解を提示されているようだが、私には西尾氏の見解はどうにも疑問なのである。

 西尾氏の中国史像は、早い段階で高度な文明を築き周囲に影響を及ぼしたが、殷以来の専制国家体制の下で早い時期に停滞に陥り、長期に亘って基本的に発展や変化はなかった、というものである。また西尾氏は、唐代までの中国の影響力についてはある程度評価されているが、以後の中国の影響力は唐代までには遠く及ばないとされ、更には、一国の民族史としての中国史は唐滅亡以降は存在せず以後の中国の歩みは王朝交替史にすぎない、と主張される。それに対して、日本の内的発展が強調されるのである。
 こうした主張は特に目新しいものではなく、明治以降、特に高度経済成長期以降の日本人の中国への一般的な認識と通ずるところが多いように思われる。以前には日本よりも先進的な文明を誇った中国は停滞して半植民地状態に陥り経済も発展しないのに対し、発展性に富む日本は西欧列強に抗して独立を保持し、一旦は敗北を喫したがすぐに復興して高度経済成長を達成した。停滞の老大国中国に対して順調に発展してきた日本という図式で、中国に対する優越感も多分に感じられるものである。

 西尾氏は、異質な集団間での「追いつけ追い越せ」史観や先進・後進といった枠組みは成立し得ないとされる。異質な集団同士はどんなに発展しても相互に異なる社会となるのだから、そもそも論の立て方が間違っているというわけだが、少々都合のよい解釈に思える。第19章「優越していた東アジアとアヘン戦争」では、異質な集団間での優劣関係を認めておられ、発展度合いの差や優劣関係、具体的には例えば、古代における中国の日本に対する優越を認められているようである。先進・後進というのも一般には優劣関係の意味で用いられるのだから、たとえ異質な集団間といえども、先進・後進という枠組みで語っても問題はないように思う。
 明治以降の日本の中国に対する優位を自明のものとされている感のある西尾氏は、古来より独立した高度な一文明圏としての日本、という重要な主張の証明のためにも、できるだけ早い時期に日本が中国に優位に立ったと主張されたいようで、そのために中国の停滞を強調されているように思われる。西尾氏が中国の発展を認められているのは基本的に唐代までで、
漢の時代から二千二百年間、あの大陸はほとんど何も変わっていない(214)という記述から推測すると、本音では漢代以降の中国は停滞していたとされたいようである。
 専制国家体制が継続し、中国は何等変化のない停滞した社会というわけだが、私にはこうした枠組みの方こそ時代遅れに思われる。専制国家体制とはいっても、果して漢と唐と宋との体制は同質のものとして認識してよいのだろうか。果して漢〜清までの社会の実態を停滞と認識してよいのだろうか。

 そもそも、多数の中国史関連の論考を読まれたはずなのに、西尾氏の中国理解には甚だお粗末な点が見受けられる。中国の王朝交替劇はおおむね「禅譲」ではなくて「放伐」であった。(201)とされているが、前漢の滅亡から宋の成立に至るまで、多くの王朝交替が禅譲によるものである。そうした禅譲の多くは分裂状態の中統一王朝ではなかったから意味がないという理解なのかもしれないが、殷以降を一貫した専制国家体制とされているのだから、漢末〜唐の統一までの長期の分裂状態も前後の時代と同列に認識されているわけで、分裂時期は除外して考えるというのも説得力に欠ける話である。
 また、
なぜいったん皇帝が即位すると、あれほどの広大な領土の全エネルギーが一人の皇帝に結集して、豪族や地方分権の貴族などの登場を許さず(201)とされているが、漢滅亡から宋の成立に至るまで、京都学派の言うところの中世において、豪族や貴族の勢力は強大なものがあり、皇帝権力を掣肘する傾向が強く、そのために皇帝側が新たな直属機関を置くものの貴族がこれを制圧するという構図が繰り返され、こうした動きの中から貴族・豪族の没落と近世における皇帝独裁政治の成立を見るのだが、これらの点は軽視されているようである。確かに地方分権の貴族は一見すると存在しなかったように思われるが、中世において、豪族は地方に広大な私領を有して強い勢力を保ち、中央政府に出仕した者は貴族と呼ばれた。彼等は中央政府にて形勢不利と見れば所領に帰って好機到来を待つことが屡々あり、地方分権的貴族という性格も認められる。西尾氏のこの見解はどうにも的外れに思えてならない。

 西尾氏の中国史認識は、自説の主張の都合上、中国をできるだけ変化のない停滞した社会・国家体制と描くのに腐心するあまり、非常に古めかしく歪んだものになったように思われる。

 

中国の影響力と日本
 中国の影響力軽視というのも、西尾氏の中国観の特色の一つである。唐滅亡以降に関しては特にそうである。日本への中国の影響も、唐代までは表面的なものに留まったとしつつも認めておられるが、唐滅亡以降はもはや決定的な影響は受けていないとされる。
 
春秋戦国期(前七七一−前ニニ一)にヤスパースのいわゆる「軸の時代」の、人間としての限界の自覚と精神の跳躍を経験し、つづいて漢唐の大帝国の統治方式、歴史伝承の様式などを革新的に創造したあとではもはや、なにが起こっても、過去を超えることは二度とできない。周辺文明に、新鮮かつ衝撃的な理念の「型」を提示し、印象づけることはもはや起こりえないのだ。(330)
 一応、新鮮かつ衝撃的な理念の「型」と断わっておられるが、果してこのような理解は妥当なのだろうか。西尾氏の言う理念とは、律令制度などに代表される専制国家体制や儒教など唐滅亡以前に達成されたもので、日本への影響としては漢字も挙げられているが、果して歴史の原動力や社会へ根本的な影響を及ぼしたものをこうした点に留めておいてよいものだろうか。どうも私には、一面的・表層的な側面もあるように思えてしまう。宋以降の中国はそれ以上の影響力を周囲に及ぼしたのではないか、西尾氏の言われる理念の「型」以外のものも提示する必要があるのではないか、という疑問を私は抱いているのである。
 西尾氏には、社会の基盤や実態にはあまり着目されない傾向があり、中国を長期に亘る専制国家体制と捉えられているのもそのためなのだろうが、特に社会基盤への重視には、唯物史観的だとして敵意剥き出しのように思える。確かに全てを下部構造で説明しては偏向していると批判されても仕方なかろうが、かといってこちらを軽視した歴史像も甚だ一面的と言わざるを得ない。社会基盤の軽視は民衆軽視に繋がっており、『国民の歴史』で民衆が描かれることはあまりない。西尾氏の提示される理念の「型」に表層的なものを感じてしまうのはそのためだろうか。

 宋代以降の中国の世界への影響については、枚挙に遑がない。火薬・羅針盤・印刷術・絵画・石炭利用に伴う陶磁器と製鉄の発展・茶・朱子学などである。正直なところ、中国の世界への影響に関しては、唐以前よりも宋以降の方が遥かに強いと思う。
 それらは理念の「型」ではないとのことだが、果して、西尾氏の言われる理念の「型」が周辺地域に及ぼした影響と、宋代以降の上記影響とでは、どちらが衝撃的で根本的なものだったのだろうか。そうした理念の「型」には、例えば日本における律令制度がそうであるように、中国社会との大きな差によりすぐには決定的に根付かなかったものも少なからずあるのではなかろうか。これに対して朱子学は、唐以前の支配理念よりも強力な影響を及ぼしたと思われるのである。
 モンゴルを頂点とする、10〜15世紀における内陸・東アジアの遊牧民族の活発な活動の一要因は、中国における宋代の製鉄革命にある。廉価な鉄製品の大量生産が可能となったため、これら遊牧民族の戦闘力は飛躍的に増大したのであり、また彼等の活動の主目的の一つに高度に発展した中国経済の支配があり、支配に成功した場合には中国がその経済的活動基盤となるのである。宋以降の漢民族王朝が遊牧民族に対して劣勢傾向だったことが西尾氏の宋以降の中国低評価に繋がっているのだろうが、寧ろ中国における経済発展やナショナリズムの勃興など、中国の総合的発展と影響力増大が、これら遊牧民族の活発な活動を齎した要因なのではないかと思う。
 こうした影響を西尾氏は理念の「型」とは認められないだろう。だが、仮に西尾氏の提示される理念の「型」という概念を認めるにしても、それらは社会経済の在り様により形成されるという側面が大で、この時期の中国の周辺地域には中国の影響大なるを認めるのが妥当である。更には、西アジアや欧州にも、絵画や陶磁器などを通じて唐以前よりも中国の影響が強く及んでいる。総体的に見て、中国の世界への影響が宋代以降に更に強くなったとするのが妥当と思う。

 日本についても同様である。西尾氏は、九〇七年の唐帝国の崩壊より以降、日本はもはや中国大陸文明から決定的影響は受けていない(23)とされるが、日本が中国より決定的な影響を受けたのは寧ろ唐の崩壊以降だと思われる。
 鎌倉新仏教や朱子学などはその好例である。これらが日本に与えた影響は甚大なものがあり、その後の日本の枠組みが形成されていく上で重要な役割を果たした。西尾氏が高く評価される武士道にしても、朱子学と鎌倉新仏教の影響大である。
 そして何よりも、14〜16世紀における日本の大変動への影響力である。この時期が日本史における大転換期だったことを否定する人はまずいないだろうし、西尾氏もそれは認められている。この大変動は日本列島内だけで自己完結的に説明されるべきものではない。10世紀以降に次第に発展してきた中国を中心とする東アジア交易圏の一員であることにより、朝鮮や中国から齎された諸技術や物産や銅銭なども大きな影響を及ぼしていると考えるのが妥当であろう。この大変動を経て日本に成立した村社会において、物質面だけではなく、精神面においても、朱子学や鎌倉新仏教など中国の影響の強い思想も庶民の規範意識に大きな影響を及ぼしているものと思われる。ただ江戸時代の朱子学に関しては、直接的には朝鮮からの影響が強いとするのが妥当かもしれない。
 果して、唐滅亡以前において中国が日本にこれだけの影響を与えたと言えるだろうか。確かに漢字の影響は甚大だったが、その派生文字である仮名も含めて広く浸透したのは後代で、中国の影響もあっての社会発展がその要因となっていることも公領に入れる必要があると思う。仏教や儒教については、現代日本に重大な影響を与えているのは鎌倉新仏教であり朱子学である。朝鮮経由のものも含めて技術の伝播は唐以前より盛んだったが、灰吹法や明代の中国から学んだ農業技術の浸透など、宋以降もそれ以前と比較して決して劣らないほどの影響を日本に与えている。
 律令制度については、やや詳しい説明が必要かもしれない。西尾氏は、律令制度の導入は表面的なもので、日本風に翻案されており、中国的な支配理念はすぐに崩壊したとされている。確かにそうかもしれない。西尾氏は、その理由を中国と日本との異質さに求めておられ、先進・後進という枠組みでの説明は否定されている。だが、近年有力になりつつあり、西尾氏も認められているが、律令体制はすぐに崩壊したとされるが、寧ろ律令理念は時代が下り日本が発展するにつれ浸透していくという見解が提示されている。確かに律令制度が表面的な導入に終わったのは日本と中国との異質さのためだが、この点からその異質さを追求すると、結局日本が中国よりも後進的だったという見解に帰着させるのが妥当だと思われる。律令理念の浸透は確かに過小評価はできないが、日本の在り様を規定した要素として、果して宋代以降の中国から齎された様々な要素よりも根本的な影響を与えたと言えるかというと、私はそうではないと思う。少なくとも、律令制度に匹敵するような新鮮で衝撃的な理念の「型」が、宋以降の中国から齎されなかったとは言えないように思う。

 日本への、唐以前の中国と宋以降の中国との影響を比較すると、後者の方が圧倒的に強くまた根本的な変化を齎したとするのが妥当と思われる。確かに西尾氏が指摘されるように、唐以前の中国から齎された根本的な文化や諸制度は表面的な受容だったり、日本の状況に応じて大幅に改変されたのかもしれない。しかし、宋以降に関しては、決定的影響を受けていないとする西尾氏の見解は的外れだと思う。
 或いは西尾氏もその点に薄々気付かれており、だからこそ、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本という主張をされる西尾氏にとって、宋以降の中国の日本への影響力は徹底的に軽視されねばならないのかもしれない。またそのために、宋以降の中国の停滞性を強調されているのかもしれない。  

 

日本文明圏という枠組み
 以上、主に『国民の歴史』における西尾氏の中国への見解に対して私見を述べてきたが、次に、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本、という西尾氏の主張に対する私の意見を述べておきたい。

 確かに西尾氏の指摘される通り、日本と中国とは古代より現代に至るまで相互に異質な存在である。だが、凡そ全ての集団、更には個人同士は相互に異質な存在であり、民族や文化や文明などは、全員を対象にして類似性と異質性とを抽出して比較し、その強弱の度合いによって様々な区分がなされているわけで、決して自明のものでも固定不変的なものでもない。
 さて古代より現代に至る日本と中国とを、両者の異質性と相互の影響力とを理由として、一貫して相互に別個の文明圏だったとする見解を取ることは可能だろうか。私は、確かにそうした見解も成立し得ると思う。だが、日本と中国との異質さを理由に両者をそれぞれ異なる文明圏とする場合、世界各地に多数の文明圏を設定しなければならないのではなかろうか。
 西尾氏は朝鮮を中国を中心とする東洋文明圏に属すると自明の如く主張されているが、上述したように言語系統学では朝鮮語は中国語と異なるばかりか系統不明なのだから、西尾氏の論理では独自文明の最重要ともいえる構成要件を備えているのである。李朝以降の、儒教の受容を誇ったことや事大主義が朝鮮の独自性を軽視させるのだろうが、前者は陸続きの大国に対する配慮であり、後者にしてもそれが中国と同様の儒教浸透の在り様かは検討を要するであろうし、儒教が古来の基層文化を消滅させたとは言えず、それは民衆芸術などに噴出していた。語り物であるパンソリや農楽などがそうである。朝鮮は時代を下るにつれ中国への傾斜を強めていったとされるが、政治制度や社会全般の点での中国との根本的類似性が本当に認められるのか、慎重な検討の必要があると思う。また、18世紀以降にはハングル表記の民間文学も盛んとなっていく。
 朝鮮については、今後ホームページに掲載予定の「朝鮮史」の中で詳しく考察していきたいが、現時点での私の考えでは、仮に日本と中国とを別個の文明圏とするなら、朝鮮と中国とも別個の文明圏とするのが妥当であるし、そうすると世界各地に設定する文明圏は10程度では到底足りないということになるのである。故に、西洋・東洋・日本といった文明圏の設定には無理があるように思われる。

 異質さという観点から日本と中国の対峙関係が成立するなら、朝鮮と中国に関しても同様なのではないか、という私の見解は或いは妥当性に欠けるのかもしれないが、次は類似性という観点から見ていきたい。
 欧州諸国の類似性を以って西洋という枠組みを提示する一方で、東洋という枠組みを提示する時、果して日本は東洋に属さないほど、例えば東洋の中の朝鮮や中国との類似性に乏しいのだろうか。実は、西尾氏は次のように述べられているのである。
 
最近痛切に感じるのだが、中国を南と北に分けると、南の文化、すなわち揚子江流域の稲作地帯には、日本や東南アジアにもつながる自然に開かれた感性、天地万物との共生感覚があって、われわれはおのずと共感を覚えるし、広い意味でのアジア的特性をわれわれと共有しているような気がする。これに反し北京政府に代表されるところの北中国は、およそ精神風土を異とするように思える。ここには、むしろイスラエルの砂漠の民と共通したきわめて抽象性の強いカミの概念があり、その意味では北中国はアジアではないのではないかとさえ、むしろ違和感を感じることがときとしてある。つまり、黄河以北など北方が代表するところの中国は、元来、西洋的思考にむしろ近いものを持っているのではないかということなのだ。(175)
 西尾氏も、西洋に対するアジアの温暖湿潤地域における共通性を認められている。私も、日本は江南など東アジア南方の文化と共通する特徴が多々見受けられるように思う。それは単純化して言うと、稲作農耕文化圏ということで、高床式建築を初めとして、日本の生活文化は南方的要素が多分に認められるのである。勿論、日本を南方要素だけで説明することはできず、弥生時代の青銅器文化やシャーマニズムを初めとして、北方的要素も大いに認められる。日本はその地理的環境からアジアの吹溜りとなる傾向にあり、遺伝的にも文化的にも雑多な要素からなる混合社会という点に最大の特徴があり、日本の独自性とは、東アジア、広く見ればユーラシアにおける様々な要素が認められる点にあると思う。
 ただ、日本の基底文化となると、漠然とした印象だが南方的要素が強いように思われ、西尾氏もそうした印象をお持ちのようである。だが西尾氏の場合、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本、という主張が前提条件となっているため、華南よりも日本とは異質な華北を以って中国、更には東洋を代表させ、その特徴を強調することで、日本と東洋とは別個の文明圏と区分すべきほど異質だ、という議論を展開されていくのである。
 西尾氏は中原一元論的立場のようで、中国の多様性についてはさほど考慮に入れられていないようである。停滞史観もそうだが、一見すると従来の東洋史学に大いなる疑問を投げかけ新しい中国史像を提示されているように見えても、実際には、偏見や蔑視が混じっていると思われても仕方のない伝統的な中国観の提示に留まっているという側面が多分に認められるように思われる。
 そうした中国観に基づく文明区分論にはやはり疑問で、私はユーラシア大陸において東洋と西洋という文明区分を採用する場合は、日本を独立一個の文明圏とするのではなく、東洋の一端を担うとする方が妥当と思われる。

 

結び
 大変な読書家で博学なはずの西尾氏が『国民の歴史』で展開された議論にはあまりにも多くの問題点があり、説得力に著しく欠けるように思われる。何故こうなったのかと考えると、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本、という無理のある主張を証明せんとしたためではないかと思われる。
 西尾氏は宮崎市定氏の「東洋史の上の日本」について、
なにがなんでも中国が日本よりも先進国で、古代だけでなく現代史においてもそうだと言い張りたいための支離滅裂に陥って、十五、十六世紀以後の同氏の日中比較は見るも無残な内容であるが(341)と述べられている。別に宮崎氏は現代史においても中国が日本より先進国だとは主張されておらず、意図的かどうかはさて措き明らかな誤読なのだが、私が同様の言辞で西尾氏の『国民の歴史』を評すると、次のようになる。
 何が何でも、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本、と主張されたいがために、西尾氏の比較文明論は支離滅裂に陥っていて、特に中国論と日中比較論は見るも無残な内容である。

 西尾氏の、西洋の日本に対する人種的偏見と植民地支配の問題、中国と朝鮮の日本への伝統的蔑視が日清戦争や朝鮮支配の要因となった、中国と朝鮮の腐敗と停滞、といった見解は、10代の頃の私の考えに近いものがある。これらは新鮮な見解であるかのように描かれているが、実は明治以降の日本の伝統的な主流見解で、私も特に選り好みせずに本を読んでいると、自然にそうした考えを抱いたのである。その後読書量が増えるにつれてこうした見解に疑問を抱き、現在ではかなり異なった考えになっているが、私よりも遥かに読書量が豊富で勉強されているはずの西尾氏がこうした見解を未だに強く主張されるのは、理由は分からなくもないが不可解な面もある。今回『国民の歴史』を読んで、一体読書や勉強とは何なのか、改めて考えさせられた。
 この他にも、縄文時代における日本列島外と区別されるような文化的同一性の形成と連続性の保持、西欧像、明治維新と近代化論など、『国民の歴史』への疑問はこの他にも多々あるが、これ以上書く気力はないので、今回触れなかった問題については、『徹底批判 国民の歴史』と共に、歴史に関心のある方の批評に期待したい。

 

 

 

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