バッコスの密儀
初めに
今回は、バッコスの密儀に関する前186年のローマ元老院決議を取り上げ、そこからローマの変容を僅かながらも探ってみようかと思う。元老院決議の現代語訳は、古山正人・中村純・田村孝・毛利晶・本村稜二・後藤篤子編訳『西洋古代史料集』(東京大学出版会1990年)から引用した。赤字で記した()付き数字は注で、文末に纏めて記した。
元老院決議
元老院は前186年にバッコスの密儀を禁止し、この写しと添付されたコンスルの指令を刻んだ銅版が南イタリアのカラブリアで発見されている。バッコスとはディオニュソスのことで酒の神なのだが、これを祭る密儀は前5世紀には既に南イタリアで行われており、ローマへはエトルリアを介して伝えられたという。以下に元老院決議を引用するが、()はテキストの校訂者や注釈者等が補った章句、{}は訳者が補った章句である。尚、句読点と漢字は一部改めた。
ルキウスの子(クイントゥス=)マルキウスとルキウスの子スプリウス=ポストゥミウスは10月のノエナ(1)の日にベロナ神殿でコンスルとして元老院に諮問した。{元老院決議文の}起草に立ち会ったのは、マルクスの子マルクス=クラウディウス、プブリウスの子ルキウス=ワレリウス、ガイウスの子クィントス=ミヌキウス。 {元老院は}バッコスの密儀に関し{ローマと}同盟関係にある人々に以下の如く布告さるべきことを決議した。
彼らの何人もバッカナル(2)を持とうとせぬこと。バッカナルを持つことが自分にとり必要だと主張する者がもしいるとすれば、彼らはローマの母市係プラエトルの下に出頭すること。そしてその案件について彼らの主張が聴取された後、我々の元老院が決定すること。但し、その案件が審議される(時)100人を下回らぬ元老院議員が出席のこと。男性はローマ市民であろうと、ラテン人若しくは同盟者の何人であろうと、誰もバッコスを祭る女性達{の集まり}に参加を欲せぬこと。母市係プラエトルの下に出頭し、彼が元老院の意見に従って許した場合はこの限りにあらず。但し、この案件が審議される時、100人を下回らぬ元老院議員が出席のこと。{以上元老院は}決議した。
男性は何人も{バッコス}の神官にならぬこと。男性であれ女性であれ何人も運営役にならぬこと。彼らの何人たりとも{バッコスを祭る}団体の基金を持とうとせぬこと。何人も男性であれ女性であれ運営役または運営役代理に選ぼうと欲せぬこと。これ以降互いに、誓いを交し合ったり、願を掛け合ったり、誓約し合ったり、約束し合ったりしようと欲せぬこと。何人も互いに言質を与え合おうと欲せぬこと。何人も隠れて{バッコスの}祭儀を行おうと欲せぬこと。何人も、公的にであれ私的にであれ都市の外でであれ、{バッコスの}祭儀をしようと欲せぬこと。母市係プラエトルの下に出頭し、彼が元老院の意見に従って許した場合はこの限りにあらず。但し、この案件が審議される時100人を下回らぬ元老院議員が出席のこと。{以上元老院は}決議した。
誰も、総勢5人以上の男女で祭儀をしようと欲せぬこと。そこに男性が2名以上、(女性は3名以上が)参加を欲せぬこと。但し上記の如く、母市係プラエトルと元老院の意見による場合はこの限りにあらず。
諸君はこれら{の決議}を集会において3市の日を下回らぬ期間(3)公示すること。そして諸君は元老院の決議を心得ていること―彼らの決議は以下の如くだった。{即ち}彼らは、もし誰か上記に反して行う者がいたとすれば、この者に対して死罪を問う裁判が行われるべきであると決議した―。そして諸君はこれを銅版に刻み、その板を最も人目に付き易い所に取り付けるよう命じること。以上の如くを元老院は妥当だとして決議した。そしてバッカナルについては、もしそれがあれば、そこに何か神聖なもの(4)がある場合を除き、諸君はこれを上記の如く、{この}板が諸君の手に届いてから10日以内に撤去さるべく配慮すること。テウラ人の地にて。
ローマの宗教
ローマは少なくとも、イタリア半島を統一してポエニ戦争に突入する辺り、即ち古代帝国への道を明瞭に歩み始める頃までは、古代世界における後進地域であり素朴主義の集団であった。概ね、素朴主義の集団は厳格な集団規律を有し一致団結してよく纏まっており、文明地域は個人主義と奢侈に流れて軟弱化する傾向にある。そのため、文明程度の劣る集団が先進地域よりも戦闘力に優れていることは珍しくなく、前者が後者を征服するという構図は世界史において度々見られる。ローマによる世界帝国の建設も、正にこの構図に当て嵌まるのである。
近代以前は、宗教と社会規範との区別を明確にしづらいことも多く、一般に後進的な素朴主義の集団でそれが著しい。ローマについても、ギリシア出身のポリュビオス(5)は、宗教が国民統合・抑制の役割を果たしていて宗教的誠実さ・神々への誓いの尊重が見られると述べている。またポリュビオスは、ローマでは公金に対して清廉潔白で、機構のみならず個人も清廉潔白だとの印象も述べている。
実際には、ポリュビオスの生きた前2世紀には、任地先の属州で私腹を肥やす役人も珍しくなく、この印象は妥当とは言えないが、前3世紀におけるギリシアとローマとの比較では概ね妥当と言ってよい。よく言われることだが、ギリシアはローマよりも文明程度が高く、その分だけ個人主義的傾向が強く、ややもすると安逸な方向に流れやすい。そうしたギリシア出身のポリュビオスには、ローマが清廉との観念が強く存在したのだろう。
大雑把に言って、ギリシアの宗教が個人救済を目的とする祝祭宗教で狂騒的と言えるのに対して、ローマの宗教は保守的で、国家・家庭の鎮護、即ち共同体の保護・救済を最大の目的とし、儀式・祭りを正確に行う祭儀宗教であると言えるが、ややもすると祭儀の形式の惰性的尊重に流れた。ローマの宗教は保守的なだけに、共和政期に外来の神が公的に認められることはほとんどなく、例外はキュベレ神(6)くらいであろうか。
ギリシアよりも更に先進的であるオリエントの宗教の中にも、個人救済的なものが多くあり、前3〜前2世紀にかけてローマには、イシス・オシリス・セラピス・ミトゥラスといった神への信仰が東方から流入し、バッコスもその中の一つであった。バッコスもそうだが、これらは社会秩序を乱すとして屡々弾圧されたこともあり、紀元後には淘汰が始まって、最後にはミトゥラス教と同じく東方から流入したキリスト教とが残り、後者が勝利しローマ領内の大半を席巻するに至った。もっとも、ローマ領内でも最先進地域の東地中海沿岸一帯は、7世紀にイスラムが席巻することになった。
ローマの支配層が、これら外来宗教が社会秩序を乱すと判断したのは、上述したようにこれらの中には個人救済的なものが多く、ローマ伝統の共同体保護・救済の宗教と抵触するためであろう。こうした個人救済的宗教が浸透すれば、共同体への帰属心や忠誠心が失われ、ローマの長所である素朴社会的な団結力による強さが損なわれる恐れがあるのである。バッコスへの祭儀も、同様の理由で弾圧されることになった。
バッコス信仰は、外征から帰還した兵士が齎し、平民から貴族にまで浸透した。当初バッコスの密儀は年3回程度行われていたが、次第に盛んとなり、遂には月5回行われるまでに浸透した。個人救済的傾向のあるバッコス信仰は次第に反権力的要素を強め、カトーのような国粋主義者は反バッカスキャンペーンを展開した。
ローマ支配層もバッコス信仰の隆盛を看過できないようになり、前186年に元老院はバッコスの密儀を禁ずる決議を行なった。この時、政府は神官達を一斉に検挙・逮捕し、そのために信徒達が騒ぎ出すと、処刑をも辞さぬ強硬な態度を取った。リヴィウスに拠ると、逮捕・処刑された信者の数は7000人にも及んだと言う。だが、その後もローマ領内で、官憲の目を盗んでバッコス信仰は行われていたようである。
ローマの変容
ローマにおける、バッコス信仰を初めとする外来神への信仰浸透は、ローマの変容を背景としている。古代世界において多数存在した都市国家の一つであったローマは、前3世紀前半ばにイタリア半島を制圧し、前3世紀半ばからは西地中海の覇権を巡ってカルタゴとの100年以上に亘るポエニ戦争に突入していき、また前196年に第二次マケドニア戦争に勝利するなど東方への進出も活発で、都市国家から領土国家、更には世界帝国へと発展していった。
個人と共同体とが強く結び付いている可視的な都市国家共同体から、個人は広い世界の一員にすぎず個人と国家との結びつきが希薄な不可視的な世界帝国への転換は、人々の意識を内向化させ、個人主義的傾向を強化した。そのため、ローマ人は個人救済的傾向の強い東方世界より流入した宗教に惹かれたのだが、その流入は、ローマの拡大に伴う外征から帰還した兵士達によるものであった。また素朴なローマ人にとって、先進地域の洗練された要素を有する外来宗教は極めて魅力的なものだったのだろう。ローマの形式的・保守的な共同体救済の宗教は、斯かる変化に対して柔軟な対応ができず、外来宗教が多くの人々の心を掴むことになったのである。
無論こうした変化は、世界帝国への発展に伴い人々の意識が内向化したという精神的側面のみが要因ではなく、実利的な事情もあった。ローマの拡大に伴い外征も盛んとなり、多年に亘る従軍はローマ発展の担い手であった中・小土地所有農民の没落と大土地所有を招来したが、政府も従来の宗教も、これに有効な対策を取れなかったのである。
当時のローマは価値観の転換期で、従来の一枚岩的素朴主義社会が崩壊し始め動揺しており、前2世紀後半から前1世紀後半に至る内乱の100年に突入するのである。この内乱はオクタヴィアヌスにより終止符が打たれたが、ローマがエジプトなど東方の先進地域を制圧したことによりローマ人は東方の先進文明の影響を大いに受け、従来の伝統的宗教に回帰することはもはやなかった。
帝政期のローマでは新たな宗教規範が求められ、キリスト教は当初は、その要求に応え得る一つの候補としてローマに浸透し始めた。恐らく、キリスト教がローマを変容させたのではなく、ローマにはキリスト教を受容する状況が整いつつあった、とするのが妥当だろう。
結び
文明化が進展すると個人主義的傾向が強まり、共同体への素朴な帰属意識が希薄となって団結が弱まるのは避けられないことなのだろう。これが行き過ぎると社会が無秩序状態となり、また戦闘力が低下して外敵の侵入を防ぐのも容易ではなくなるため、古来より文明化の進展する国家は共同体への帰属意識を強化せんとして様々な手を尽くした。
近代以前は、宗教やそれに比較的近い社会規範が採用されることが多く、近代以後は民族主義や愛国心が利用されることが多く、また特定の思想や宗教の利用も少なからずあった。一方でこうした帰属意識の昂揚は、他集団への侵略に利用されることが頻繁にあり、その弊害には甚だしいものがある。
共同体への帰属意識を強調し過ぎると個人主義の圧殺に繋がり、これは社会の硬直化を招来し、また柔軟性と発展性を著しく損なうことになる。一方で個人主義に寛容になり過ぎては、社会の無秩序状態を招来することになりかねない。個人主義と社会の秩序維持とを均衡の取れた形で両立させるのはなかなか困難で、人類全体の一層の文明化がもはや避けられない情勢であることから、これは人類にとって、今後も極めて重大で困難な問題であり続けるのだろう。
注
(1)10月7日。
(2)バッコスへの祭儀が行われる場所。
(3)市の日(ヌンディエナ)とは、8日毎に市の立つ日のこと。テキストの表現を「3回のヌンディエナを含む期間」と理解すれば、17日から31日間。
(4)古い祭壇や神像など。
(5)前201年頃〜前120年頃。スキピオ家に優遇され、循環史観に基づきローマの発展を述べた『ローマ史』を著した。
(6)大地母神で、前216年のカンネーの大敗後、予言者の解釈により小アジアから輸入された。