タイにおける政党政治の発展

 

初めに
 これは、随分前に書いた小文の再掲である。やはり、新規のネタとなるとなかなか書けないもので、ダメ人間らしくつい安易な方向に走ってしまう。
 内容はというと、1932〜1945年の間の、タイにおける政党と議会制民主主義の進展を簡潔に述べたものである。今となっては、私自身も内容をほとんど忘れてしまっており、参考文献さえ思い出せない程だが、これを機にタイ、更には東南アジアへの理解を深めていきたいものである。

 

政党政治の展開
 タイにおいて、政党が政治の前面に出て重要な役割を果たすようになったのは、1932年の立憲革命以降のことである。この年6月24日、陸軍将校32名、海軍将校21名、文民46名の計99名の集団が指揮下の軍隊を動員してクーデターを挙行し、1782年以来のチャクリー王家による国王専制の政治体制に終止符が打たれ、以後タイは、屡々しば逆行することもあったものの、議会制民主主義体制への道を歩むことになった。
 このクーデターの首謀者たちは自らを人民党と称した。人民党は、1927年2月にパリで留学中の少壮軍人や文官によって結成された。彼らの目的はタイを欧米列強や日本のような大国にすることであり、そのためにはこれらの国々に共通する立憲制度と強大な軍事力をタイでも確立することが必要だと考えていた。立憲制度の確立にあたって彼らが掲げた理想は西欧型議会制民主主義であり、彼らは、民衆を国家レベルの政治に参加させることにより国民統合の強化も図ろうとしたのである。
 実際、クーデター後の経緯を見てみると、人民代表議会という名の議会が国権の最高機関とされ、この議会の信任を得て初めて内閣が組織されていることが分かる。先ず人民党は、プラチャーティポック王に立憲王制下の国王になることを要求し、国王はこれに同意した。これを受けて国王は6月27日に人民党が準備していた暫定憲法に署名し公布した。翌28日にはこの憲法に基づき70名の人民代表議会議員が任命され、同日に第一回人民代表議会が開かれた。
 この時、クーデター以来軍側首都維持責任者として全権を掌握してきた人民党の長であるプラヤー=パホン大佐は全権を議会に返還した。同日、憲法の規定に基づき、議会は人民党員ではないプラヤー=マノーパコーンニティターダを初代首相として選出し、合わせて内閣の組閣も承認した。

 こうして議会制民主主義への道を着実に歩むかに見えたタイだが、この立憲革命は、官僚政治の永続化という問題をその出発点より内包していた。この立憲革命が軍人・文官を問わず官僚主体の革命であり、彼らが人民代表議会に選挙を介さずに任命され、そうした者だけで構成された議会の信任によって内閣が成立したということは、議会制民主主義とは外形だけで、実質は人民党に参加した官僚たちによる官僚政治が始まったことを意味していた。
 もっとも、全員任命制という議会の構成は革命当初のみの特例とされ、暫定憲法においては、6カ月以内もしくは国内が平常化した時に総選挙が実施されると規定されており、実際に翌1933年11月15日に、第1回総選挙が間接選挙制度で実施された。
 だが、この選挙によって直ちにすべての議員が選挙によって選出されるようになったわけではなく、半数は第2種議員と称された選挙の洗礼を受けずに在職し続けた議員であった。暫定憲法を受けて1932年12月に制定された憲法では、10年以内、若しくは全国の有権者の過半数が10年より早く初等教育を修了すればその時点で第2種議員を廃止し、全議員を選挙で選出すると定めていたが、10年以内に議会制民主主義体制を実現すると定めた憲法の規定は、10年間は人民党支配が続くということも言っているのである。
 そのため、人民党と経済的利害・政策・イデオロギー等を異にする集団が人民党と対立するのは必至となった。先ず対立の争点となったのは、1933年初頭に人民党側の提出した経済計画案で、これを国王が共産主義者の計画そのものと反対し、これにプラヤー=マノーパコーンニティターダ首相が同調し、彼は議会閉会という手段に出た。議会という自らの権力基盤を失った人民党は同年6月20日に再度クーデターを起こし、プラヤー=マノーパコーンニティターダ政権を瓦解させ、同日議会の支持を得て、人民党の長であるプラヤー=パホン大佐を首班とする内閣を組閣した。
 このように民主主義を掲げながら議会と内閣を独占し、しかも容共的集団が相当な影響力を有する人民党政権に対しての抵抗はこれに留まらず、1933年10月にはボーワラデート親王を中心とする地方軍の反乱が勃発し、表現及び政党結社の自由の承認と、完全な民主主義体制を早急に実現することを人民党に要求して聞き入れられなかった国王は、1935年3月2日に滞在先のイギリスより退位の声明を発表した。

 こうした動きに対して、人民党は批判勢力を国家反逆罪として強圧的に抑え込み、自己権力の保全のために、民主主義実現とは反対の方向へ進んで行った。更に1938年末に首相に就任したピブーソンクラーム大佐が人民党に所属していない軍事官僚エリートを重用するようになり、従来にも増して軍人による官僚政治の様相が濃くなっていった。
 この政権下では、10年以内に第2種議員を廃止し全議員を選挙制にするという憲法の規定が、20年間第2種議員を置くと改憲され、人民に基盤を持たない官僚政権の長期化が図られ、更に民主主義化に逆行することになった。だが、ピブーソンクラーム政権は、太平洋戦争勃発後に同盟を締結した日本の戦局が傾くとともに威信を失い、1944年7月24日に総辞職に追い込まれた。
 この後に政権の中心を担ったのは、摂政であり、また人民党に所属していた1932年革命の理論的指導者プリディーであった。彼は1932年革命の理念復興を目指してさまざまな改革を実行し、この一連の改革もあってタイでは民主化の思潮が強くなっていった。新首相のクアン=アパイウォンと協議して反逆罪に問われていた政治犯の恩赦を行い、新憲法を制定して1946年に公布した。
 この憲法では、一般職公務員が国会議員及び閣僚を兼任することが禁止されると共に、全員が選挙によって選出された議員からなる人民代表議会に内閣不信任決議権が与えられ、官僚政治の制度的基盤は除去された。また、この憲法では政党結社の自由も明記され、タイは漸く、政党・会派に基盤を置く西欧型議会制民主主義を実現する充分な機会を得ることになった。

 民主化の思潮が強くなる中、憲法公布に先立ち政党結成の気運が高まり、先ず1945年11月8日の政党法公布の前に、ククリット=プラモートが中心となって進歩党が結成され、当時既に非合法政党として存在していた共産党を除くと、タイ初の公然と結成された政党となった。
 政党法公布後は次々と政党が結成され、与党のサハチープ党(民主社会主義を理念に掲げた)、憲法路線党、これに対して自由主義を理念に掲げた野党の民主党(クアン内閣下野組と進歩党などが合同)などが翌年前半までに相次いで結成され、タイの政界は一挙に政党主導によるものとなった。

 

 

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