過大評価と過小評価
初めに
個人や組織や出来事の妥当な評価は難しいものである。そもそも何を以って妥当とするのか定義が困難だがそれはさて措き、先入観や利害や情報不足や能力などの問題で、的外れな評価や過大評価や過少評価になることは珍しくない。
何と言っても、最もよく分かっている筈の自分自身の評価さえ難しいものがある。いや逆に、自分だからこそつい自己弁護をしてしまい、客観的な観察が難しいのかもしれない。私も、自分のことを最もよく理解し妥当な評価をしているのは自分自身だと自負してはいるが、実際には的外れな評価や過大評価をしているのかもしれない。
自分自身について過大評価や的外れな評価をしていては厳しい人生を送ることになるだろうし、組織や出来事について同様の過ちを犯せば、時として重大な損害や不利益を与えたり受けたりすることもあるだろう。今回は、そうした評価の問題、特に過大評価と過小評価について雑感を述べていこうかと思う。
日本に対する評価
ここでは、日本人による日本評価について考えてみたい。普段思うことなのだが、或いは、自分自身の評価というものは、他人への評価よりも困難なのかもしれない。評価のための材料=情報については、一般に他人のものよりも自分のもの方が遥かに豊富である。しかし、自己防衛などが働くために、却って妥当な評価が難しいのかもしれない。
日本列島の大部分の住民が日本人という確固たる意識を有するようになったのは明治以降だと思われるが、明治以降の日本人による日本評価は、自己評価の難しさと言うべきか、大きく乱高下することとなった。
明治初期、西洋文明に触れた日本人の多くは日本が西洋より大きく劣っていると思い、西洋の技術・制度・思想・学問などの輸入に努めた。それらは着実に日本に根付き、日清・日露戦争の勝利を経て、日本人の間に近代国家を自らの手で樹立し世界の列強の仲間入りをしたとの自負が生まれた。
日本の明治維新後の発展の要因は、一つには西洋列強の意向に大きく背かなかったためで、西洋列強との最初の大きな直接的対決である日露戦争にしても、西洋列強の先駆者であり代表格である英国の支持を得て行ったものであった。日本に対して厳しく言えば、英国の代理としてロシアと戦ったという側面も多分にあると言えよう。
こうして着実に独立国として「発展」し「国威を発揚」していった日本だが、それが朝鮮と中国との犠牲の上に成り立ったという側面が多分にあるのは否定できない。その朝鮮と中国に対して、自力で近代化ができず列強に蚕食されている国として、多くの日本人が優越感を抱くようになったのは、当時としては止むを得ないことだった。また、当時多くのアジア諸国が列強の侵略に苦しんでいたことから、朝鮮や中国のみならず、アジア全体に対しても日本人は優越感を抱くようになった。アジアで唯一の列強、「停滞的な」アジア諸国とは異なる日本というわけで、これが後年の日本の暴走の一端を担っている。
アジア諸国に対しては優越感を抱いた日本だが、西洋列強に対してはなかなか劣等感を払拭できなかった。一つには、明治以降の日本の諸制度・技術・学問などにおいて、直接の起源の多くが西洋にあったからであり、もう一つには、日本の政策が、西洋列強となるべく利害が衝突しないという方針で実施された、つまり口悪く言えば、日本は西洋列強のお先棒を担いできたためでもある。人は、劣等感を抱いた場合、屡々自分よりも劣ると見做している者への優越感を強めることによって精神の安定を得ようとする。西洋に対する劣等感のある日本は、アジアへの優越感を拡大再生産することで精神の安定を得た。
しかしながら、劣等感というものはどうにも不快なものであり、他者への優越感で自己の精神的安定を図っていた場合、屈折した形で自己の過大評価がなされ、劣等感の対象者に対しても優越感の対象者に対しても、実に危うく屈折した形で劣等感への反発を含む自意識・自尊心が表出することにもなりかねない。
長らく西洋列強との妥協を図ってきた日本だが、国際連盟の常任理事国となり一等国との認識を確固たるものとした第一次世界大戦後は、西洋列強との妥協について従来よりも慎重ではなくなってきた。これ以上の勢力拡大は西洋列強との激しい対立を惹起する可能性が高かったが、富国強兵と勢力圏拡大を是としとてきた日本は、自意識・自尊心の向上もあり、その方針を転換することはなく、所謂15年戦争に突入していった。
15年戦争の後半よりは西洋列強との直接対決となった。一応はドイツとイタリアという西洋列強の中でも後発国と同盟し、英仏といった旧来の世界秩序を形成している国への挑戦を試みた感もあるが、日独伊三国、特に日本とドイツは有効な連携をなすことなく各自が自分の都合のまま勝手に行動し、結果として日本は孤立した形で戦うことになった。
ここにおいて、日本の西洋に対する年来の劣等感はアジアへの優越感を伴って遂に歪んだ形で爆発した。世界で最も古い歴史を持つ日本からアジア各地へ日本文化が光被していく歴史を書くように文部省が帝大教官に要請したり、一方では同盟国のドイツとイタリアへの配慮からか、日独伊はロシアや英国と異なり根本的に種の優れた民族だとの証明を要請しに参謀本部の将校が大真面目で研究室に押しかけてきたりし、選民意識を煽るような主張が言論界で堂々と公表されたりした。
肥大化し歪んだ日本の自尊心は、敗戦により完膚なきまでに叩きのめされた崩壊した。その次に到来したのは、西洋への再度の劣等感であった。侵略への反省が唱えられたのはよかったが、日本が悪いとの前提の下に何でも解釈しようとする傾向が強まり、日本の侵略及び敗戦の原因について後進性がやたらと強調され、日本の罪悪と後進性とを指摘するのが進歩的で良心的との風潮が生まれたのは行き過ぎであった。1927年の所謂南京事件で、日本は英米と異なり南京城内へ砲撃をしたわけではないのに、日本も砲撃に加わったとする日本人研究者もいたそうである。
ところが、日本の侵略に対する糾弾は盛んではあったものの、それは不充分でやや歪な形であったように思われる。その一因は、日本が敗戦後諸条件に恵まれて高度経済成長の波に乗り、アメリカに次ぐ世界第二位の経済規模の国となったためだと思われる。日本はアジア諸国の中で断然の経済力を有することとなり、そのためにアジア諸国への優越感・蔑視が払拭されるには至らなかった。
高度経済成長の中で日本人は自信を回復し、流石に敗戦前のような日本優越論が大手を振ることはなかったが、日本の優秀さを主張する言論が盛んとなりだし、細々と伝えられてきた15年戦争の正当化も堂々と述べられるようになり、やがて戦前と同様に、一部には西洋への優越感を唱える動きも強まった。二度の石油危機と円高を乗り越えてバブル期を迎えるとその思潮は全盛となり、ジャパン・アズ・ナンバーワン、もはや西洋に学ぶことはないとする軽薄な主張も目立ち、日本人の自己評価は再度頂点を極めた。
こうした議論は、バブル崩壊とその後の経済の低迷によって再度叩きのめされることになった。敗戦直後のように、日本は西洋(今回は特にアメリカが対象)に大きく遅れている、日本式経営や日本人の意識は時代遅れだ、といった主張が勢いを増し、様々な点における日本の後進性が強調されている。
しかしながら、依然として米国に次ぐ世界第二位、アジアでは第一位の「経済大国」ということもあり、一方では自国に誇りを持とうとの主張も強く唱えられている。無論、それ自体はよい。経済が低迷しているからといって、徒に悲観的になり自国を過小評価することはない。だが、こうした論調の中には、アジア諸国、特に中国と朝鮮に対する優越感を強調することで誇るべき日本を主張せんとするものもある。流石に西洋(この場合は主に米国)に対する優位を主張するのは厳しいため、アジア諸国を下に見ることで日本の地位を相対的に何とか引き上げようとする試みであろうか。
これは結局のところ、過去の西洋への劣等感とその裏返しとでも言うべきアジアへの優越感の再来だが、以前と異なりアジア諸国は独立し経済的にも発展してきているだけに、過去のそれと比較しても遥かに根拠の弱い観念的優越感だと思われる。それだけに危険で、以前のように日本の孤立化と本格的衰退を招来しかねない論調なのかもしれない。
明治以降の日本人の自己評価は大きく乱高下し、時としてそれは悲惨な結果を齎した。過大評価は、事態が変わると一転して過小評価となることがあるが、やはり作用が大きければ反動も大きいということだろうか。確かに妥当な自己評価は難しいが、それをやらねば惨事を惹起しかねず、こうした自己評価の乱高下の要因は考えなければならない。
その一因として、世界における日本の地位を客観的に見定められていない、ということが挙げられると思う。無論、完全に客観的な観察など無理だが、でき得る限り客観性を高める努力は必要である。客観的に自己の地位を見据えるには、時として自分を捨て去ることが必要であり、また世界をよく知り理解することが必要である。また、世界に限らず、個人の身近な範囲でも、こうした作業は必要なのかもしれない。無論、これは日本だけの問題ではなく、程度の差はあれ、どこの国や地域にも当て嵌まる問題である。
中国に対する評価
日本の中国評価は、時代の移り変わりに伴って変遷があったのは言うまでもないが、なかなか複雑な様相を呈しているようにも思われる。現在の日本の対中国評価は、敬慕・好感・蔑視・嫌悪・恐怖などの入り混じった複雑なものである。日本の伝統的な中国観は、これらの中では、主に敬慕・好感・恐怖(畏怖とする方が妥当かもしれないが)であった。蔑視や嫌悪については、明治以前の例えば明清交替期に芽生えたという可能性もあるが、明確に表れたのは明治以降であり、今回は主に明治以降について見ていきたい。
明治維新後、日本では「近代化の遅れた」中国に対する優越感・侮蔑感が浸透としていき、日清戦争での圧勝によりそれは決定的となった。従来の中国への評価が高かっただけに、今度は中国を過小評価する傾向となったことは否めず、中国に対する優越感と侮蔑感も大いに高まった。15年戦争での日本の中国における暴虐行為は、戦争だから仕方ないの一言で片付けられる水準のものではなかった。日本の様々な面での余裕のなさがその主要因だとは思うが、中国への侮蔑感も要因の一つとして挙げられるように思う。
こうした中国に対する優越感・侮蔑感は、敗戦によってもあまり払拭されなかった。それは、日本人がアメリカに負けたとの実感は確かに抱いたが、中国に対して負けたとの認識はほとんど持たなかったためであった。中国戦線で日本は中国に圧倒されていたわけではなく、それどころか逆に圧倒する局面も屡々あったからである。敗戦が伝えられると、中国戦線にいた将校の中には、我々は勝っているのに何故戦争を止めねばならないのだ、と言って激昂した者もいるという。
だが、1949年に中華人民共和国が成立すると事情が変わってきた。外国の軛から脱し共産主義国建設に邁進する中国は、少なからぬ日本人の希望の星となり、好意的に評価・紹介するマスコミや学者が少なからずいたが、こうした現象の要因としては、共産主義への肯定的評価のみならず、伝統的な中国への敬慕も挙げられる。だが、中国への低評価が主流だった後を受けたことと、中国への贖罪意識があったためか、中国への過大評価と必要以上の配慮が主流になったとまで言っても決して不当ではないような状況が出現した。そして、日本には中国への憧憬・敬慕という伝統も根強く存在したため、こうした論調は割と浸透しやすかったのである。
政府が中国に配慮したのは、侵略という歴史的経緯もあることで、行き過ぎの感もあるが、仕方のないことではある。だが、少なからぬマスコミや学者に関しては、明らかに行き過ぎであった。特に文化大革命期の中国に対する論調に関しては、朝日新聞が現在でも指弾されている。確かに朝日新聞の論調は偏向していたが、当初からそうだったわけではなく、文革中に北京特派員が交代してから論調が大きく変わったようである。
当時朝日新聞社員だった人の回想録を読むと、日中友好の妨げになってはいけないとの理由で、中国報道には規制が敷かれていたらしい。なるほど日中友好はもっともではあるが、そのような配慮とその結果としての偏向報道は、結局は日中友好の妨害になったと私は思う。
文革後、中国の実情が明らかになると、朝日新聞を初めとする少なからぬ中国報道や論調が偏向していたことが明らかとなった。戦前からの中国に対する優越感・蔑視が必ずしも払拭されていない状況の中での中国に対する過大評価の後だっただけに、今度は必要以上に中国を蔑視し、低く評価し、嫌悪する風潮が生まれ、1989年の天安門事件で中国への印象は非常に悪化し、現在に至っている。こうした風潮を受け近年では、中国の政治・経済・軍事での躍進に対して、恐怖心もあるのだろうが、必要以上に警戒し悪意を以って解釈する傾向も認められるように思う。
中華人民共和国成立後の中国報道・紹介、特に文革期における、朝日新聞の報道や論調を初めとする中国への必要以上の配慮と過大評価は、その意図に反して中国に対する優越感や侮蔑感を拡大再生産したという側面が多分に認められ、却って日中友好の妨げになったところ大だと思う。無論、情報統制の厳しかった中国の実情を的確に報道するのは困難だったから、朝日新聞を後知恵的解釈で一方的に批判するのも不当であるとは思うが。
やや脱線するが、無論戦後の中国報道が全て中国賛美や過大評価だったわけではなく、中国に傾倒しない論調も根強く存在した。それら全てを、中国に対する優越感を引き継いだものとは到底言えないが、中国に対する優越感・侮蔑感を引き続き抱いている人は少なからずいて、そうした人の多くは中国に傾倒しなかったり冷淡であったりした。
現在では批判の対象となっている文革期の朝日新聞の報道・論調に対して、産経新聞の報道・論調は浮ついたところがなかったとして評価が高い。これには中国当局により北京を追放処分となった柴田記者の力量が大いに貢献しているようで、確かに産経新聞の報道・論調は的確なものだったかもしれない。
だが、これを手放しで賞賛することはできない。産経新聞は反共を社是としており、中国への厳しい報道・論調も、中国が共産主義国であったので、都合の悪い情報や厳しい見解を遠慮なく書くことが容認というか奨励されたために可能なのであった。そして、当時の中国は自身の宣伝や日本の主流論調で紹介されているような理想の国家とは程遠かったため、産経新聞の当時の報道は結果としてなかなか的確なものとなったのである。
だがこうした姿勢は逆に、中国への過小評価や必要以上の警戒心や無用の憎悪を生み出す危険性もあり、全面的には信用し難い。しかしながら、非は非として認め理解することも重要で、必要以上に相手に配慮して媚びるようなことはあってはならない。
朝鮮に対する評価
日本の朝鮮評価も、中国評価と共通する点が多くある。対中国の場合と同様に、敗戦後も日本の朝鮮に対する優越感・侮蔑感はあまり払拭されなかった。日本は植民地としていた朝鮮半島から一掃されたが、朝鮮民族に追い出されたのではなく、アメリカに徹底的に打ちのめされ敗北したからであった。そのため、日本人の間に朝鮮に負けたとの実感はほとんどなく、その優越感を打ち砕くには至らなかったのである。
朝鮮半島は北の朝鮮民主主義人民共和国と南の大韓民国とに分裂したが、1980年頃までは南よりも北の方に好意を寄せる日本人が多かったように思われる。これは、北が社会主義国建設に邁進していたというだけの理由ではなく、北が中国と同じく厳しい情報統制を敷いていたためでもあると思われる。
南は北よりも開かれた国家であったため、国家権力の弾圧や統制が北よりも遥かに明瞭に確認できたのである。また、ベトナム戦争への出兵など、一見すると南の方が外国への従属度が強く、民族的主体性は北の方が強く保持しているかのように思われたことも挙げられる。更に、人口の少ない北の方が1970年頃まで工業生産で優位に立っていたという事実も北への高評価の一因だったが、これは、植民地時代の日本のインフラ整備が、南よりも北の方で進んでいたためでもあった。
こうした理由もあり、日本では北に好意的な論調が優勢となり、その反動もあって南の体制は軍事独裁として厳しく批判されることとなったが、現大統領である金大中氏が日本で南の情報機関に拉致された事件は、南の印象を決定的に悪化させた。こうした論調は著しく偏向したものだったが、中国報道と同様に情報不足も考慮しなければならず、後出しジャンケン的批判だけで事足れりとするわけにはいかない。
とはいえ、当時の北に甘い論調は到底弁護できるものではない。そもそも、情報統制が厳しいということは、それだけ知られては都合の悪いことが多いからで、一般に情報統制国家の内実は宣伝に程遠くろくなものではない。まあこれも後出しジャンケン的批判ではあるが、強調し過ぎてもよいくらい重大なことだと思う。社会主義諸国に関する報道・論調で痛い目に遭ったことは、良い教訓になったと思う。
南への厳しい報道・論調は、南への批判的視点と共に、敗戦によっても払拭されなかった優越感・侮蔑感の拡大再生産という結果を齎すことになったのではないかと思われる。現在の日本人から大韓民国への偏見や蔑視が払拭されたとは言えないだろうが、それは伝統的な朝鮮への蔑視のみに淵源を求めることはできず、戦後のマスコミや学者の朝鮮民主主義人民共和国寄りの論調も大韓民国への偏見を助長したと言えるのではなかろうか。だが大韓民国に対しては、その後の経済発展と五輪成功など実情が詳しく知られるようになって、偏見や蔑視は徐々に薄れてきていると言えよう。
北への過大評価は、中国へのそれの場合と同様に、却って北への理解や日朝友好の妨げとなった。悪いことに、日本において朝鮮への評価は中国よりもずっと低く、北の実情が広く知られるようになると、中国の場合よりも過大評価に対する反動は大きく、今度は過小評価が主流となってしまった。
多くの国民が貧しく厳しい管理体制に置かれた、宣伝されていた理想とは程遠い強権国家で、外国人を拉致したりテロを起こす「無法国家」であることが指摘されたところまではよかった。だが、同じ民族のもう一つの国家が順調に発展していき、世界的に社会主義国が退潮している中、そうした国家はすぐにも崩壊するだろうとの論調が幅をきかせ、更には最高権力者である金正日氏も随分と過小評価されることとなった。外遊や公的な行事への出席がほとんど確認されなかったことから能力に疑問が呈され、またその趣味など私生活についても興味本位で面白おかしく紹介され揶揄された。
日本でも南でも、北をその最高権力者共々見下す風潮が強まった。だが、北は強かな外交を続けすぐに崩壊する兆しはなく、そうしているうちに日本は泥沼の不景気に突入し、南もアジアの経済危機の中でIMFの管理下に置かれ、共に苦境に陥ってしまった。
そういう状況の中、今年2000年6月に初めての南北首脳会談が北の首都平壌で行われ、金正日総書記が金大中大統領と堂々と会談する様子が映像で伝えられると、金正日氏への印象は日本でも南でも、普通に話の通じる機知のある指導者というように劇的に改善された。南では金正日総書記のファンクラブも多数でき、従来の低評価からすると驚くべき変化である。流石にこれは一時的なものだとは思うが、50年以上に亘る分断と厳しい対立があり、南北双方に離散家族が多数存在し、その対立国の指導者が話の通じそうにない得体の知れない人物だと思われていた状況で、南北首脳会談が実現し、相手の指導者が同じ言語を普通に話す人物であることが判明したのだから、何人も南における金正日熱を嘲笑することなどできないだろう。日本ではそこまで金正日総書記熱は高まっていないが、それでも氏への評価は一気に高まった。
だが、南北首脳会談後の報道で、北が多くの国民に多大な犠牲を強いている強権国家や「無法国家」であることが軽視される傾向にあるのは何とも困ったもので、金正日総書記がそうした国家の最高権力者であることにほとんど触れず、普通の人だったと言ってやたらはしゃいだり、南北の和平ムードを煽るのは行き過ぎである。
これは北への過小評価の反動であり、結局のところ、北に対して妥当な評価がなされてこなかったから、過剰なまでの好意的評価が溢れることになるのである。
無論、日本にも南にも北への厳しい評価も依然として存在するが、中には北による危機をやたらと強調し、南北首脳会談の意義をできるだけ過小評価しようとする論調があるのは、逆に行き過ぎである。
人物と出来事に対する評価
これも、なかなか難しいものがある。どのような資料を用いたとしても、最終的に評価するのはあくまで現代に生きる個別具体的存在である個々の人間である。そうである以上、その時代の権力や規範や思潮から逃れることはできず、人物や出来事に対する評価も、それらに大きく規定される可能性大である。20世紀においては、政治権力の要請に従って多くの人物の評価が乱高下し、それは社会主義国において顕著だったが、スターリンはその好例である。
過小評価または過大評価されていた人物が妥当な評価を受けるという場合もよくある。例えば、戦前には随分と評価の低かった田沼意次がそうで、戦後になると改革者としての側面も評価されるようになった。こうした事例は足利尊氏など他にも多数あり、これはよい。問題は、従来の評価への反動として過大または過少評価になっている恐れのある場合である。こうした事例の候補は多くあるが、今回は取り敢えず曹操のみを取り上げたい。
曹操は名教の罪人として指弾されてきて、特に南宋以降はそれが顕著であった。清の滅亡後は、儒教批判が高まったこともあり、曹操に対する評価は好転することとなり、特に中華人民共和国成立後は顕著である。中国における曹操評価の好転については、政治権力の要請による所も多分にあり、林彪失脚後は一時特に盛んだったようである。
だが、政治権力の要請とはいっても、突き詰めると、儒教的価値観の束縛の弱化ということなのだろうと思う。曹操の数々の業績が、儒教的価値観に縛られることなく評価されるようになったのである。その結果、曹操は中国史上における偉大な人物として高く評価されることになったが、結局は原点である陳寿の評価に回帰したと言えようか。
私も曹操を高く評価しているのだが、最近は少々疑問に思うこともある。漢末の群雄の中で曹操が最も高く評価されるのは分かるが、人材登用や政策や大局観や用兵など、多くの面において他の群雄を圧倒していたかのように考える傾向も生じて来たことである(ここでは主に、学界ではなく、一般の風潮を念頭に置いている)。自戒も込めて言うのだが、最終的な覇権を握ったのが曹操だからといって、曹操個人の資質が他の群雄のそれを圧倒していたと即断するのは、結果論に捕われ過ぎの感もする。
どうも曹操についても、従来の評価があまりにも低かったためか、その反動として今度は過大評価気味になっているように思われる。次に出来事についてだが、取り上げる候補はやはり多くあるものの、今回はロシア革命についてのみ取り上げることにする。
ロシア革命は、嘗ては人類史における輝かしい出来事として高く評価されていた。無論、飢餓輸出や自由の抑圧や人民の弾圧など、悲惨な側面も指摘されてはいたが、こちらが主流だったとは言い難い。
だが、社会主義諸国の実情が次第に知られるようになり、遂に東欧の社会主義諸国ばかりでなくソ連邦も崩壊するに及んで、ロシア革命への評価は否定的なものが主流となった。悲惨な側面が強調され、肯定的な解釈はあまり省みられなくなってしまった。
確かにロシア革命は、結果として人類史における惨事であり愚行だったと言えるのかもしれないが、その肯定的な側面を軽視することはできない。ロシア革命は、却ってその革命本国よりも、革命を敵視した国において好影響を齎した。革命の波及を恐れた資本主義諸国は、労働者の権利保護や福祉の充実に従来よりも熱心になったのである。革命の理想は、社会主義諸諸国よりも、却って資本主義諸国において実現したと言えるのかもしれない。
ロシア革命についても、従来あまりにも肯定的に評価し賛美してしまったため、その反動として今度はその意義が過小評価されるに至ったものと思われる。
結び
どんな対象であれ妥当な評価とは難しいものだが、偏った評価は時として惨事を惹起し、また偏った評価は次にはその反動として反対方向に偏った評価になることが屡々あるので、我々は妥当な評価を追求し続ける必要がある。屡々、過大評価の反動として過小評価になったり、その逆の例が起きたりするのは上述した通りである。
現代は過去と比較して激しい変化が短期間に起こるようになり、眼前の事象に一喜一憂して、つい性急に過大(過少)評価しておきながら、すぐに過少(過大)評価に転じてしまうことがあるのは、仕方のないところもある。眼前の事象に惑わされず的確な評価を下すには、確固たる人生観と深遠な洞察力が要求されるが、これは歴史を学び理解し、自分の中で消化することによって、その多くを獲得できるのではないかと思う。
歴史は文科系の中でも基礎的な学問で、それだけに直接には現実の諸問題の解釈や解決にはなかなか役立たないかもしれないが、歴史を学ぶことで得られる人生観や洞察力は、生きていく上で貴重な財産であり、歴史を学ぶ目的や意味は、一つには人生観や洞察力を養うことにあるのではないかと思う。
最後に、やや脱線するが、中国と朝鮮のナショナリズムとそれに対する日本の対応、日本と中国や朝鮮との友好問題について雑感を述べてみたい。
中華人民共和国や南北朝鮮のナショナリズムの発露が時として非常に激しいものとなり、その際日本が頻繁に批判対象として厳しく指弾され、理不尽に思われることも屡々あるが、日本人はそれに対して徒にナショナリズムで以って対抗するのではなく、先ず相手の主張を理解することが肝要で、時には耐え忍ぶ必要もある。
なぜならば、中国と朝鮮は近代になって日本も含めた列強の圧力を受けてナショナリズムを抑圧され、現在になって漸くナショナリズムの昂揚期を迎えようとしているが、嘗て自らのナショナリズムの発露により中国と朝鮮を抑圧した列強には、中国と朝鮮の主張を理解する道義的責任がとりわけ強く存在するからであり、特に日本は、朝鮮に対しては植民地化しそのナショナリズムを最も強く抑圧し、中国に対しては最も大きな直接的被害を与えたからである。先に自らのナショナリズムの発露により相手のナショナリズムを強く抑圧した国には、それ相応の責任が存在する筈である。
無論、理解し時には耐え忍ぶ必要もあるとはいっても、相手の言いなりになって媚びよということではない。嘗ての日本にはそうした風潮が認められたが、それは結局は安定した友好関係に反するもので、また相手から侮られるだけである。相手の長所のみならず短所も見据え理解した上で付き合わねばならない。同民族間でさえ相互理解は難しいが、それが異民族相手となると尚更で、相手の一側面だけを強調したのでは、相互理解と友好は危うい。
無論、相手の短所を何でもずけずけと指摘すればよいというものではなく、相応の配慮は必要で、特に政府にはそれが要求されるが、言論界は政府よりも大胆に発言してもよいとは思う。嘗ての問題は、寧ろ言論界が進んで中国や北に必要以上に配慮してしまったことにあり、嘗てほどではないが、現在でもそうした傾向がないわけではない。また、他民族・国家への蔑視感というものはどの集団にも存在するもので、或いは日本のアジア諸国に対する蔑視はひどいとの意見はあるかもしれないが、これを強調するのは却って憎悪を増幅させるだけだと思う。
これらの点は、日本だけでなく中国や南北朝鮮にも心掛けて貰いたいものである。日本と中国や南北朝鮮との間に、相互に耳の痛いことを言い合っても、さほど関係が悪化しないような真の友好関係を築くには、相互の不断の努力が必要で、現時点では、特に日本側に寛容さが求められているという意味で、個々の日本人の責任は重大だと思う。