天智と天武の関係について

 

 

初めに
 天智天皇(中大兄、葛城)と天武天皇(大海人)が同父同母の兄弟であり、天智が兄で天武が弟であるということはほとんど周知の事実で、どの日本史辞典でもそう書かれていると思うが、戦後になって両者の兄弟関係と長幼関係を疑う人が出てきて、本当は天武が年上であり、両者は異父兄弟、或いは非兄弟ではないか、とする見解も少なからず出されている。
 こうした見解に対して、以前私はヤフー掲示板で投稿したことがあるが、字数制限と対論形式ということもあり、考えているところを充分に述べきれず、また少々纏りも悪かったように思う。そこで今回は、天智・天武異父兄弟説や非兄弟説について、改めて自分の見解を述べてみようかと思う。
 両者の即位前についても触れることになるので、天智については中大兄または葛城、天武については大海人と表記するのが妥当だろうとは思うが、天智と天武の方が一般には馴染があるだろうから、今回は天智と天武とで統一する。同様に、他の天皇についても漢風諡号で統一するが、弘文天皇(大友皇子)は即位に疑問もあるので、大友と記す。また、天皇号や日本という国号が使用されたのは7世紀後半になってからの可能性が高いが確証はなく、混乱を来す恐れもあるので、7世紀半ば以前についても、天皇という称号と日本という国号で統一することにした。また年代も、原則として西暦で統一した(1年単位での換算)。これらはあくまで便宜的な措置である。

 諸史料からの引用は紫色で示した。『日本書紀』は『新訂増補国史大系 1下 日本書紀後編』(吉川弘文館1967年)、『扶桑略記』と『帝王編年記』は『新訂増補国史大系12 扶桑略記・帝王編年記』(吉川弘文館1999年)、『上宮聖徳法王帝説』と『藤氏家伝』は「日本古代史ホームページ」よりダウンロードしたテキストを利用した。また『日本書紀』については、講談社現代文庫の宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀 下』(講談社1988年)と教育社新書の山田宗睦『原本現代語訳41 日本書紀(下)』(教育社1992年)を、『愚管抄』と『神皇正統記』については『日本の名著9 慈円・北畠親房』(中央公論社1971年)参照した。
 天智と天武の関係を疑った説の流れとその内容、更には反論については、全てを今回直接確認したわけではなく、豊田有恒・大和岩雄「対談 異説・天武天皇をめぐって」及び大和岩雄「天智・天武非兄弟説と異父兄弟説」(共に『東アジアの古代文化』67号、大和書房1991年)と松尾光「天智・天武“非兄弟”論争」(『歴史読本』1998年9月号、新人物往来社1998年)とを主に参照した。異説については、多くの著作や論考は読んだが、随分昔に読んでそれっきりというものも多くあり、今回は間接的に引用したものも多い。
 赤字で記した()付き数字は注で、文末に纏めて記した。

 

異説の流れとその根拠
 天智と天武の関係について初めて疑問を呈したのは佐々克明氏であった(1)。佐々氏は天智と天武の年齢矛盾(後述)を指摘され、両者の関係に疑問を呈された。その後、佐々氏は更に論を進められ、新羅の王族である金多遂こそ天武その人ではなかったか、とされた(2)
 佐々氏の通説への疑問提示の後、同様に通説に疑問を投げかけた主な論者は、小林惠子・大和岩雄・豊田有恒・李寧煕・林青梧・井沢元彦・石渡信一郎・関裕二の諸氏である。
 小林惠子氏は、当初は天武を漢皇子と同一人物とされていた
(3)。漢皇子は、『日本書紀』卷第廿六(斉明紀)に「天豐財重日足姫天皇(4)。初適於橘豐日天皇(5)之孫高向王。而生漢皇子。後適於息長足日廣額天皇(6)。」と見える。舒明と斉明の間の長子が天智であるから、漢皇子は天智の異父兄ということになる。
 天武=漢皇子説は、大和氏と豊田氏も支持されているが、漢皇子の父である高向王についての見解は分かれている。高向王について、小林氏は、遣隋使として隋に渡り隋の滅亡後も中国に留まっていた高向漢人玄理とされ、大和氏は『日本書紀』通り用明天皇の孫とされ
(7)、豊田氏は『常陸国風土記』に登場する東国惣領の高向臣(名は不明)とされる(8)
 こうした異父兄弟説に対して、非兄弟説も提唱された。小林氏は天武を高句麗の高官である泉蓋蘇文とされ
(9)、李氏も同様に天武を泉蓋蘇文とされた(10)。一方、佐々氏と同様に天武=金多遂を主張されたのは林氏で、更に天智を百済の王である余豊璋(11)とされた(12)。井沢元彦氏も当初は非兄弟説を主張され、天武=新羅系渡来人と親しい有力氏族の長とされている(13)。天智・天武の関係についての異説は、大別すると、天武=漢皇子の異父兄弟説と非兄弟説の二つとなる。
 この他に、あまり有名ではないが、異母兄弟説もある。石渡信一郎氏は、天武を天智の異母兄である古人皇子と同一人物とされた
(14)。学界で唯一通説への疑問を示唆された水野祐氏も、両者を異母兄弟と推測されたが、天武の母は具体的には述べておられず(15)、強く主張されているわけではないので、上述した論者には入れなかった。関裕二氏の主張は基本的には異父兄弟説で、天武=漢皇子とされているが、実は天武は古人でもあり、天武=漢皇子=古人である、とされている(16)

 さて、こうした諸説の根拠についてだが、これについては井沢元彦氏が纏められている(17)
@没年齢から計算すると天武のほうが年上になる。これが年齢矛盾である。
A天智の実の娘が4人も天武に嫁いでいる。
B皇室の祭祀において天武系の天皇は除外されていた。天武系は今でも無縁仏である。
C天武は自らを、出自の卑しい漢の高祖に擬しており、周囲もそれを認めている。
D書紀に、天武が大海人皇子として初登場してくるのが43歳、これは異常に遅い。
E天武に対して、三種の神器の一つ、草薙剣が祟った。
F天智は百済派だが、天武は新羅派である。
 井沢氏は、「最後のFは、兄弟だから同じ派だとは限らないという反論があるかもしれないけど、@からEまではきわめて妥当だろう。@とAは、明確に兄弟、少なくとも同母弟じゃないことを示しているし、B、C、D、Eは天武が皇族とは違う階級の出身じゃないかということを示している」とされている
(18)。では、こうした根拠にどれだけの妥当性があるのか、次に見ていきたいが、先ずは天智・天武の関係を疑う契機となり、異説の最大の根拠となった@の「年齢矛盾」から検証していきたい。

 

年齢矛盾
 年齢矛盾とは、諸書を検討すると、弟の天武と兄の天智との長幼関係が逆転してしまうことをいう。最初に異説を唱えられた佐々氏は、『日本書紀』に拠ると天智の生年は626年で天武は不明だが、天武の生年は『一代要記』と『本朝皇胤紹運録』では622年となり、両者の兄弟順が逆転する、とされた
(19)。以後、異説を唱えられた論者は先ずこの年齢矛盾を指摘されるのだが、実際のところはどうなのだろろうか。下の一覧表は、大和氏が「天智・天武非兄弟説と異父兄弟説」に掲載された表に依拠して、各史書による天智・天武及び両者との関係が深い舒明・斉明(皇極)・持統の各推定生年を記したものである。()内の生年は異本に拠るもので、推定生年が不明の場合は空白とした。私が直接確認した史書は緑字で記した。

史書/天皇

舒明

斉明

天智

天武

持統

日本書紀

   

626

   

扶桑略記

593

     

648

水鏡

 

594

620

   

愚管抄

593

       

一代要記

593

594

619

622

645

帝王編年記

 

601

     

皇代記

594

594

614

   

仁寿鏡

593

 

614

614

 

興福寺略年代記

593(585)

594

626(614)

622

 

神皇正統記

593

594

614

614

645

神皇正統録

593

594

614

622

645

和漢合符

593

596

614

615

 

皇年代略記

593

594

614

 

645

如是院年代記

593

594

614

614

645

本朝皇胤紹運録

593

594

614

622

645

 以前ヤフー掲示板で、天智と天武の長幼関係を疑った史書はない、と書いたが、『興福寺略年代記』での両者の没年齢からでは天智より天武の方が年長となっている。とはいえ、異本では両者の長幼関係は逆転していないし、恐らく原本でも天武が天智の兄と記されているわけでもなかろう。『興福寺略年代記』はまだ直接確認したわけではないので、今回は取り敢えず措いておき、今後確認できたら追記として見解を述べたい。追記(2000年9月10日):スズメ♂さんに御教示頂いたのだが、『興福寺略年代記』では、天智は舒明太子、天武は舒明二子と底本に明記されているとのことである。
 この表から、基本的に同一の書で天智と天武の長幼関係を疑ったものはないことが分かる。『
仁寿鏡』と『神皇正統記』と『如是院年代記』とでは両者が同年生まれとなっているが、『神皇正統記』では天武が天智の同母弟であると明記されている。両者の年齢矛盾は、例えば、『日本書紀』に拠る天智の生年と『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』に拠る天武の生年というように、異なる史書に拠る生年を組み合わせた場合にのみ起きる。つまり、年齢矛盾といっても、その根拠は甚だ脆弱だと私は思うが、この点は坂本太郎氏が既に述べられている(20)

 これに対する反論を纏めると、次のようになる。『日本書紀』編纂時には真相を隠蔽するために年齢は記さなかったが、一方で天智や天武の生年または没年齢は伝えられており、特に天武65歳崩御は確度の高い伝承で、ほとぼりが冷めた中世(21)になって天智や天武の年齢が記載され始めた。だがそれでも、『日本書紀』の天武は天智の同父同母弟との記載に反することは流石に書けないので、天智が天武より年長になるように天智の生年を繰り上げたり没年齢を引き上げたりした。しかし、天武が天智より年長との伝承が中世にも根強かったため、各史書の編者や著者の中には、せめてもの良心の証として天智と天武の生年が同年となるような記載をする者もいた。だが私は、中世に伝えられていたとされる天智や天武の年齢がどこまで信用できるのか、そして『日本書紀』の記述を覆す程のものなのか、甚だ疑問に思っている。
 例えば、欽明天皇第2子の敏達天皇と欽明天皇第12子の崇峻天皇の生年についてである。『扶桑略記』では、敏達562年に対して崇峻521年となる。『愚管抄』では、敏達559年または548年に対して崇峻521年となる。『神皇正統記』では、敏達525年に対して崇峻521年である。敏達は正妃の第2子であり、『日本書紀』に敏達と崇峻との長幼関係は記されていないから、崇峻が敏達よりも年長であっても構わないのかもしれないが、540年に皇后になった石姫の第2子と、541年に妃になった小姉君の第5子の年齢差がこうも開くのには疑問を抱く。何よりも、『日本書紀』卷第十九(欽明紀)に
「二年春三月。納五妃。」とあり、崇峻はこの時に欽明の妃となった小姉君の第5子だから、少なくとも540年代後半以降の子とするのが妥当であろう。
 ここで敏達と崇峻を例に挙げたのは、同じく『日本書紀』では年齢不明ながら、中世の史書の一部に年齢が明示されている天武との比較としてはある程度の妥当性があり、また、『日本書紀』「欽明紀」後半以降の記事は、『日本書紀』「天武紀」の記事と比較し得るだけの信頼性があると考えているからである。『日本書紀』における歴代天皇の年齢は何故か欽明以降は11人中9人と多くが不明で(重祚の斉明と、即位したとの記述がない大友皇子は除く)、逆に宣化以前で不明なのは28人中8人(現在は天皇とされていない神功は除く)と少ない。古い時代の天皇の方が却って年齢が明記されているというのは変だが、この理由は現在の私には上手く説明できない難問である。ただ、『日本書紀』における天皇の年齢明記という点でいうと、「欽明紀」を境に大きく二分されると言え、その意味でも、敏達や崇峻と天武との比較には妥当性があると思うのである。
 「欽明紀」以降の天皇で年齢が明記されているのは推古と天智のみなのだが、天智の年齢に関しては疑問もある。『日本書紀』卷第廿三(舒明紀)に
「十三年冬十月己丑朔丁酉(22)。天皇(23)崩于百濟宮。丙午殯於宮北。是謂百濟大殯。是時東宮開別皇子(24)年十六而誄之。」とあるが、東宮(皇太子)制度の確立は普通は7世紀後半とされるし、仮に皇太子制度の原形が既にあったにせよ、天智がこの時点で舒明の皇太子的存在だったかは疑わしい。或いは、天智の正当性を強調するための作為である可能性も高く、天智626年生まれとの推定も怪しくなるようにも思われる。ただ、注(19)で引用した『上宮聖徳法王定説』の記事からすると、天智626年生まれとの説はかなり早くから存在し、信憑性も認められるかもしれない。とはいえ、この記事も『日本書紀』からの引用かもしれず、欽明以降の天皇の生年が『日本書紀』ではほとんど不明な点からも、天智626年生まれとの説にはさほどの信頼は置けないように思う。そうすると、中世の史書と組み合わせての年齢矛盾の大前提が崩れることになるのだが、私もこの見解に大きな自信があるというわけではないので、取り敢えず次に進みたい。

 さて、『日本書紀』では年齢不明の敏達と崇峻である。崇峻の場合は中世の諸書で生年が一定だが、敏達の場合は大きな年代差がある。中世の史書が、『日本書紀』に明記されていない天皇の生年や没年齢について、どのような伝承や史料を基に定めたのか、現在では不明だが、敏達の生年に大きな差があることから、それほど信頼性の高いものとは言えないだろうし、また、古代よりの伝承であるという保証もなく、中世になって唱えられるようになった説という可能性もあるように思われる。敏達の生年は、時代の下る史書につれて繰り上げられる傾向にあるが、これは『日本書紀』の記事と少しでも整合性を保たせようとしたためであろう。学界の一部が、天智と天武の年齢矛盾について、「中世の知恵」という表現で『日本書紀』との間の矛盾を説明したが、敏達の場合にも「中世の知恵」が用いられたように思う。
 「中世の知恵」という説明は、甚だ御都合主義だとして異説論者からは評判が悪いが、私は寧ろ的確な説明になっているのではないかと思う。恐らく天智や天武についても、敏達の場合と同じく、現在では出所不明の生年や没年齢が中世に伝わっていたのだろう。だが、それらの説の中には、『日本書紀』の天武は天智の同母弟との記述に矛盾するものがあり、『日本書紀』の記述と齟齬を来さないために、中世の史書では天智や天武の生年に複数の説が存在することになったと思われる。
 敏達の例から推測するに、天武が天智より年長との確実な伝承があり、その伝承と『日本書紀』との間で矛盾が生じないように天智や天武の生年や没年齢が定められたのではなく、天智や天武に関して不確実な生年が中世に伝わっており、それらの中には『日本書紀』の記事と矛盾するものがあることに気付いた編者や著者が、苦心して天智や天武の生年や没年齢を定めた(中世の知恵)のではないかと思う。恐らく、先に天武の生年に関して614年説と622年説が知られるようになり、それに合わせて天智の生年が決定されたのではなかろうか。だが、『日本書紀』の記事から天智の生年を大きく遡らせることはできず、一部の史書では両者が同年生まれとされたのだろう。
 ほとぼりが冷めたので天智や天武の生年を記すようになった、との解釈も可能かもしれないが、敏達の例から推測するに、中世の史書における天智や天武の生年も不確実で、何よりも基本的に同一の書で両者の長幼関係を逆転させたものはないのだから、異説には『日本書紀』の記事を覆すだけの説得力はないと言うべきであろう。
 ついでにDについて述べると、そもそも中世の史書の記す天武の生年に確固たる根拠がないのだから、天武が『日本書紀』初登場時に43歳かどうか定かではなく、また『日本書紀』では、天皇でも立太子または即位以前に登場することはあまりないから、天武の初登場が異常に遅いとは言えないと思う。尚、井沢氏は、『日本書紀』における天武の初登場は、「天智紀」の天智3(664)年2月9日条に見える大皇弟とされているようだが、普通は「孝徳紀」の白雉4(653)年条に見える皇弟が天武その人とされ、これが『日本書紀』における天武の初登場とされている。

 

東アジア情勢 
 次にFについてである。異説では、天智が百済派で天武が新羅派とされることが多く、このことから、天武が新羅の高官とする説や、更には天智が百済の王族だとする説もある。天智は百済系に、天武は新羅系に支持されており、日本における百済系と新羅系との対立の反映が政権を左右していた、というのである。これに対しては坂本氏が、親百済政策は長い伝統を持った国策で、天武が壬申の乱で新羅系に支えられたとの根拠もない、とされているが
(25)、坂本氏の反論は妥当だと思う。
 天智の親百済政策は、663年の白村江の敗戦により、あまりにも無謀だったとして異常視されることもあるが、果してそうなのか疑問がある。660年に一旦滅亡した百済の復興運動はかなりの成果を収め、一時は旧領の過半を回復する勢いをみせた
(26)。唐は、当時の東アジアでは何と言ってもずば抜けた大国ではあったが、陸軍を主力としていて水軍は必ずしも強力とは言えず、また当時は高句麗もまだ健在だったため、そちらにも兵力を割かねばならなかった。遠山美都男氏は、白村江の戦いにおいて、日本軍が唐軍よりも戦力的には上であったと指摘されている(27)。そうだとすると、天智の百済救援が無謀なものだったとは必ずしも言えず、天智が従来よりも遥かに百済寄りだった、との見解も疑問である。

 では次に、天武の対新羅・唐政策について、天智と比較しながら見ていきたい。これに関しては、田村圓澄氏が表に纏められている(28)ので、それを参照した。
 天智年間(662〜671年)に、唐からの使者は664・665・667・669・671年の5回来日し、新羅からの使者は668・669・671(2回)の4回である。天武年間(672〜686年)に、唐からの使者は来日しておらず、新羅からの使者は実に15回来日している。
 確かに、天武年間における日本と新羅との関係は密接で、天武が新羅派と見做されるのも故なしというわけではない。しかし、天智年間にも新羅からの使者が頻繁に来訪しており、天智を単純に親百済・反新羅派と見做すことはできない。天智と天武の外交の大きな差は対唐政策にあり、天武年間には日本と唐との間に公的な相互交流はなかった。こうした違いは、7世紀の東アジア情勢の推移を見ていけば、説明可能なのではないかと思われる。

 中国の長期に亘る分裂状態を解消した隋とそれに続く唐の出現は、東アジア諸地域に重大な影響を及ぼした。朝鮮半島の諸国と日本、特に前者は強大な中国統一帝国の圧力を受けることになり、その対応に苦心することとなった。7世紀半ばの高句麗や新羅の政変はこうした状況に対応したものであり、日本における645年の乙巳の変も恐らくは同様なのだろう。
 新羅と唐は同盟して660年に百済を滅ぼし、百済復興運動は663年の白村江の戦いで潰えた。続いて新羅と唐は668年に高句麗を滅ぼした。唐は、旧百済・高句麗領には羈縻支配を行ない、旧百済領には熊津都督府を初めとして5都督府、旧高句麗には平壌に安東都護府を設置した。羈縻支配とは、中国の異民族統治方式の一つで、中国内地と同様に州県を設置し、現地の有力者を都督や刺史や県令に任命して統治させたのだが、これらは中国内地の州県と区別して羈縻州と呼ばれた
(29)。冊封体制とは異なり、君主(王)は任命されず、冊封関係の場合よりも中国の影響力が強くなっている。
 唐は旧百済・高句麗領ばかりか、新羅領でも羈縻支配を行なおうとし、高句麗遠征に際して新羅を鶏林大都督府とし、新羅の文武王を鶏林大都督とした
(30)。これは、君主を王と称し中国から冊封を受けてきた新羅にとって認められないことであり、恐らく667年の高句麗遠征の頃より、新羅は唐との将来の対決を決意していたものと思われる。また当時、高句麗・百済・新羅の間では同族との意識が芽生えつつあったようで(31)、その意味でも、新羅は旧百済・高句麗領が唐の羈縻支配とされたことに大いに不満だったと思われる。
 そこで新羅は、唐の勢力を朝鮮半島から締め出そうと決意し、日本との提携を図ろうとしたものと思われる。新羅は、高句麗の残存勢力を傘下に組み入れて傀儡高句麗政権を樹立させて旧高句麗領の支配に乗り出し、一方で旧百済領の唐勢力への攻撃を開始した(共に670年)。これに対して唐は新羅征討軍を送ったが、676年に伎伐浦で新羅は唐を破り、唐は熊津都護府と安東都護府を遼東に撤退させざるを得なくなって、新羅の朝鮮半島における支配権を事実上認めざるを得なかった。しかし、この時点では唐は朝鮮半島支配を完全に諦めたわけではなく、唐と新羅との緊張関係は続いたが、情勢は新羅に有利に働き、唐は西方の吐蕃や突厥との戦いに戦力を割かざるを得なかったため、8世紀になって遂に新羅との友好関係を復活することになった
(32)

 新羅は、朝鮮半島統一のために唐と対立せざるを得ず、そのために日本との友好関係維持に努めた。一方で唐も、朝鮮半島での支配を確立するために日本との友好関係強化を図り、白村江の戦いの後、天智年間に5回に亘って日本に使者を派遣した。こうした唐や新羅の対応が、日本における小中華意識の向上を齎したと推測される。
 では、これに対して天智や天武がどう判断し行動したかというと、天武年間に唐との往来がないことからも、天武は明らかに新羅寄りの政策を取ったと言える。これは、唐が新羅を制して朝鮮半島を支配下に置くと、唐の強大な圧力を日本が直接受けることを恐れたということと、小中華意識を向上させて東アジアにおける中国とは別個の中心たらんとした日本にとって、唐と組むということは、独自の律令制度など諸制度が充分整備されていないこの時点では唐の傘下に入らざるを得ないということを意味する、との判断があったためだと思われる。
 一方天智だが、唐からの使者が5回来日していることから推測すると、唐寄りの政策を志向していたのではないかと思われるが、新羅からの使者も4回来日しており、或いは情勢を傍観して日和見的態度を取ろうとしていたのかもしれない。少なくとも、天武ほど新羅寄りの態度を示していたわけではなく、壬申の乱の一因も、天智と大友の近江政権の外交政策にあったのかもしれない。
 日本と新羅との関係は、天武没後に悪化し始め、その傾向は8世紀になって一層顕著になり、遂に780年を最後に両国の公的関係は途絶えることとなった。これは、新羅と唐との関係が修復に向かい、新羅が日本に下手に出る必要性が薄れていったのに対して、小中華意識の昂揚した日本が相変わらず新羅を朝貢国扱いしようとしたためであろう。当時の日本の建前として、日本は世界における中国とは異なる一方の中心で、中国とは対等であり他の諸国より上位である、とされたのだが、これは、独自の律令制度の整備や日本国号・天皇称号の採用と大いに関連することなのだろう。『日本書紀』は反新羅色が強いとの指摘があるが、それは、7世紀末以降の新羅との関係悪化が反映されているということと、『百済本紀』や『百済記』や『百済新撰』など百済系の史料が用いられていることにによる可能性があり、潤色されているところもあるかもしれない。
 天智と天武の外交方針は、当時の東アジア情勢の推移に対応したもので、従来の日本の方針と比較して、百済や新羅に対して過度の肩入れをしたとまでは言えず、従って、両者の外交方針の違いは特に兄弟関係を疑う理由とはならず、また両者が百済や高句麗や新羅の出身との想定をする必要も特にないと言うべきであろう。

 

皇室の祭祀
 次にBについてである。ここでは、スズメ♂さんの
「スズメ♂の古代妄想館」というホームページの「納得できない『逆説の日本史』」コーナーも大いに参照し、一部引用させて頂いた。泉涌寺のパンフレットは同ページからの孫引きである。Bの主要な論者は小林氏で(33)、この点に関しては、異説論者でも異父兄弟説の大和氏は小林氏の主張を批判されている(34)
 小林氏の主張は、『続日本紀』に拠ると、桓武天皇以後、山陵の奉幣は天智から間を飛ばしてすぐに光仁天皇となり、天武系の諸天皇の奉幣は、平安時代以降は全く確認できず、また現在でも、天皇家の事実上の菩提寺である泉涌寺において位牌が置かれているのは、天智の次は間を飛ばして光仁となり、同様に天武系の諸天皇は除外されていて無縁仏ということになるが、これは天武が皇族の出身ではないことを示唆しているのではないか、とされている。
 これに対して大和氏は、『日本書紀』の成立時期の天皇は天武系で、武力に依る簒奪王権に皇位継承権があったように書かれたが、天智系に皇統が移ると、皇族の武力に依る皇位簒奪の正当化を阻止するために、天武の簒奪を否定し、天武系の諸天皇を祭祀から除外して無縁仏としたのであり、この点を以って天武を非皇族とは言えない、と反論された。

 私も大和氏の見解を支持するが、この点をもう少し詳しく見ていきたい。泉涌寺のパンフレットには、「四条天皇は大師(35)の御転生と称され仁治三年(一ニ四ニ)正月天皇崩御の際には御山陵も当時に御造営になり、それより歴代の山陵は多く当山境内に設けられ皇室の御香華院として七百年間特別の御崇敬と御殊遇を賜る。」とあり、また「平安京の第一代天皇桓武天皇、その御父光仁天皇、その直系の御祖天智天皇、この三天皇が霊明殿に奉祀の特にお古い御方で、歴代天皇が奉祀されている。明治四年(一八七一)九月、宮中に皇霊殿が造営されて、内裏の仏像や、諸寺の尊牌がすべて泉涌寺霊明殿に移安されることになった。」ともある。
 小林氏や井沢氏は、泉涌寺において天武から称徳までの天皇が奉祀の対象となっていないことを問題にされているが、原則として光仁より前の天皇は奉祀の対象となっていない。最も古い天智にしても、1871年になって諸寺の尊牌が全て泉涌寺霊明殿に移安されることになったのだから、いつ奉祀の対象となっのかは判然とせず、天武系の諸天皇を除外せんとの意図が果してあったのか疑問である。そもそも、奉祀の対象となっていないことが、古代や中世においてどれだけの意味があったのか疑問で、泉涌寺の奉祀の件は、天智・天武に関する異説の根拠とすることはかなり難しいのではなかろうか。

 山陵の奉幣についても同様で、異説の根拠足り得るか、甚だ疑問である。確かに、天武〜称徳の諸天皇は奉幣されていないが、こちらも天智より前の天皇で奉幣された者はいない。奉幣の対象は、桓武〜光仁〜天智と遡るが、天皇に即位していない施基皇子(光仁の父で天智の息子)も奉幣の対象となっており、スズメ♂さんが指摘されるように父系への拘りが認められよう。
 これは、自らの即位を王朝交替と捉えていたらしい桓武の意向が後世まで多分に反映していたと推測され、泉涌寺の奉祀の対象についても同様なのだろう。桓武は天武系を否定したのだが、これは、母の身分がそれほど高くない桓武が自らの存在基盤を父系に強く求めたからだと思うが、スズメ♂さんが指摘されるように、桓武が天武の血を受けた他戸親王の廃嫡により即位したという事情も大きな理由となっているのだろう。
 そうすると、一つ疑問がある。父系に拘りながら、どうして天智までしか遡らなかったのか。何故、舒明以前は奉幣の対象とならなかったのか。『日本書紀』卷第廿五(孝徳紀)の大化2(646)年3月20日条に
「皇祖大兄御名入部。謂彦人大兄也。」とされている、舒明の父で天智の祖父である押坂彦人大兄皇子は何故除外されたのか。これに対する私の推測は、天武の父である舒明を対象としては、否定する筈の天武系に正当性を付与することにもなりかねないからである、というものである。天武が舒明の子でなければ、舒明をも対象としてもよい筈である。山陵奉幣について見ていくと、天武は天智とは非兄弟でも異父兄弟でもなく、舒明の子である可能性が高いと言えるのではなかろうか。
 もっともこれに対しては、天智は百済の王族なのだから、天智より前の父系が奉幣の対象とならないのは当然だ、との反論があろうが、天智や天武が百済や新羅や高句麗の王族や高官という説については、大和氏や豊田氏の仰るように、首肯し難いところが多分にある
(36)。この点については、結びでもう少し詳しく述べたい。

 ついでにAについて述べておくと、確かに理解し難いとの見解があるのは分かるが、古代の天皇家では異母兄妹の結婚もあり、叔父と姪との婚姻自体は異常とは言えない。4人もの姪が叔父に嫁いでいるのが異常だというのだが、では親族ではない相手に娘を4人嫁がせるというのは、異常ではないのだろううか。
 娘を4人嫁がせるのは、関係強化を図るためのものだろうが、親族でない者に娘を4人嫁がせるのは異常ではないとするなら、兄妹婚の普通に行なわれた時代に、それが兄弟の間で行なわれたとしても、特に異常だとは言えないのではなかろうか。それに、こうした親族間の結婚には、高貴性と財産の保持という目的もあっただろうから、この点でも、天智が同父同母弟の天武に自分の娘を4人嫁がせたのは、特に異常とは言えないように思う。

 

天武と劉邦
 次にCについてである。ここでは、主に小林惠子『白虎と青龍』(文藝春秋社1993年)を参照して論を進めていきたい。様々な説の引用は、多くは同書からの孫引きとなる。天武が漢の高祖である劉邦に自らを擬していたところがある、という見解は古くから出されていて、異説論者が初めて提示したものではなく、学界でもかなりの支持を得ている。
 井上通泰氏は、『万葉集』における柿本人麻呂の高市皇子への挽歌から、天武は劉邦を擬していたと推測された
(37)。西嶋定生氏は、天武朝における「賜爵・・・」という用語は『漢書』の記事と同じだが、これは『日本書紀』編者の創意ではなくそのように表現した原史料があり、天武朝は漢朝に擬定されていた、と推測された(38)。前川明久氏は、天武が最初の領邑(美濃にあった)湯沐邑と名付けたのは、劉邦が故郷の沛を湯沐邑に指定したのを真似たのではないか、と推測された(39)。直木孝次郎氏は、天武が赤色を好んだのは、劉邦が火徳とされたことに由来する、と推測された(40)
 小林氏自身も、『神皇正統記』に天武朝に漆塗りの冠の着用が始まったとあるのは、劉邦が亭長の頃、貧しかったので皮で冠とし「劉氏の冠」と称したことに由来して漢代に竹皮で裏打ちをした漆塗りの冠が流行したことを踏まえてのもであり、北畠親房は天武が劉邦に自身を投影させてたと示唆したのではないか、と推測された。

 これに対して大和氏は、天武が自らを劉邦に擬したのは、前王権を武力で倒して長期政権を樹立したことに自らを重ねたからであって、出自の卑しさに共通点を見出したためではない、とされる(41)。私もこの見解を支持する。恐らく天武は、遷都や築城などで不評だったと思われる天智と大友の近江政権を短命に終わった秦に擬していたのだろう。
 ついでにEについて述べておくと、天武の病気を占って草薙剣の祟りと判断されたのは、天武の即位が通常の継承ではなく武力簒奪であり、当事者達にもそうした意識があったためなのだろう。そもそも、当時の人々が、草薙剣の祟りを、非皇族の天武が皇位を簒奪したためだと判断していたとしたら、天武を皇族と記す『日本書紀』の編者がそのような記事を載せるわけがないのである。『日本書紀』が重大な史実を隠蔽・糊塗しているという異説の大前提と矛盾するのではなかろうか。

 

古人皇子について
 ほとんど取り上げられることはないが、天武は天智の異母兄で古人皇子(大兄皇子)と同一人物との説がある。古人は、『日本書紀』卷第廿三(舒明紀)の2年1月12日条に、
「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子。更名大兄皇子。」と見える。天智や天武との長幼関係は「舒明紀」では明示されていないが、『日本書紀』卷第廿五(孝徳紀)の皇極4(645)年6月14日条に、「中大兄退語於中臣鎌子連(42)。中臣鎌子連議曰。古人大兄殿下之兄也。」と見え、また『藤氏家伝』に「天豐財重日足姫天皇、欲伝位於中大兄。中大兄諮於大臣。対曰、古人大兄、殿下之兄也。」と見えることから、古人は天智の異母兄とされている。
 天武=古人説がほとんど取り上げられないのは、『日本書紀』に、古人は645年に謀反が発覚して殺された、とあるからなのだが、天武=古人説を唱えられる石渡氏と関氏は、この記事を疑っておられるのである。ここでは、主に石渡氏の『日本書紀の秘密』と関氏の『天武天皇 隠された正体』を参照して論を進めていきたい。
 『日本書紀』卷第廿五(孝徳紀)の大化元(645)年9月3日条に
「古人皇子與蘇我田口臣川掘。物部朴井連椎子。吉備笠臣垂。倭漢文直麻呂。朴市秦造田來津謀反。或本云古人太子或本云古人大兄此皇子入吉野山故或云吉野太子此云之娜屡。」と見え、古人は蘇我川掘ら5人と共に謀反を企てたのだが、続く同9月12日条に「吉備笠臣垂自首於中大兄曰古人皇子與蘇我田口臣川掘等謀反。臣預其徒。或本云吉備笠臣垂言於阿倍大臣(43)與蘇我大臣(44)臣預於吉野皇子謀反之徒故今自首也。」と見え、同志の吉備垂が裏切って密告したのである。
 これに続いて、『日本書紀』卷第廿五(孝徳紀)には
「中大兄即使菟田朴室古。高麗宮知。將若干古人大市皇子等。或本云十一月甲午卅日(45)中大兄使阿倍渠曾倍臣佐伯部子麻呂二人將兵卅人攻古人大兄斬古人大兄與子其妃妾自經死或本云十一月吉野大兄王謀反事覺伏誅也。」と見え、詳細は不明ながら、原注に拠ると古人は殺害されたとある。

 古人の謀反と死に関して石渡氏と関氏とは疑問を呈されている。645年6月12日の乙巳の変の後、古人は出家して吉野に入り、その後上述したように謀反が発覚して討伐されたのだが、石渡氏と関氏は、古人が出家して吉野に入ったとの記事を疑われているのである。
 古人の出家の様子は、『日本書紀』卷第廿五(孝徳紀)の皇極4(645)年6月14日条に
「古人大兄避座逡巡拱手辭曰。奉順天皇聖旨。何勞推讓於臣。臣願出家入于吉野。勤修佛道奉祐天皇。辭訖。解所佩刀投擲於地。亦命帳内皆令解刀。即自詣於法興寺佛殿與塔間。剔除髯髪披著袈裟。」とある。石渡氏と関氏がこの記事を疑うのは、『日本書紀』卷第廿七(天智紀)の天智10(671)年10月17日条に「天皇(46)疾病彌留。敕喚東宮(47)引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。請奉洪業付屬大后(48)。令大友王(49)奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家修道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南。踞坐胡床剃除髯髪。爲沙門。於是天皇遣次田生磐送袈裟。壬午(50)。東宮見天皇請之吉野修行佛道。天皇許焉。東宮即入於吉野。大臣等侍送。至菟道而還。」とあり(敕は代用文字)、古人と天武の即位固辞と出家の描写とが似た表現となっているからである。
 とはいえ、出家の具体的な様子が似たものになるのはある意味では当然と言えるし、即位を固辞して出家し吉野に向ったのも偶然かもしれない。また石渡氏は、天武が病床の天智に対して、古人の娘である倭姫大后を即位させるよう返答したことにも疑問を呈され、そもそも謀反人である古人の娘が大后となったことが不自然であり、そのような女性を即位させるよう進言すれば天武は支持を失うのではないかと推測されている。更に、何よりも、『日本書紀』の原注では古人の子は殺害された筈ではないか、とされている。
 確かにそうかもしれないが、一旦は謀反人とされた蘇我石川麻呂の孫である持統が皇后になり、更には天皇に即位したことからすると、そうも不自然ではないかもしれないし、「洪業(ひつき)をあげて大后をさつけて」というのも、即位ではなく称制を意味しているのかもしれない。それに、この時代の大后の地位が、後世の皇后のような正式な制度ではなく、単に諸妃の中で最も血筋の良い有力な者という程度のものである可能性もあり、そうだとすると謀反人の娘が大后であっても特に不自然とは言えないのではなかろうか。天智の妃の中で、皇族出身は倭姫だけである。また石渡氏自身も述べられているように、倭姫は古人謀反の前に天智に嫁いでいた可能性もある。

 だが、石渡氏は更に疑問を呈されていて、私も古人謀反事件に関する『日本書紀』の記事には少々懐疑的になっている。古人の謀反に参画した蘇我川掘ら5人が処罰されたとの記事がないのである。蘇我石川麻呂の事件では連座して殺された者が23人、流罪に処せられた者が15人いて、有馬皇子の事件では、連座して殺害された者2人、流罪に処された者2人である。謀反に参画した者が処罰されたとの記事がないのは、確かに疑問である。
 そればかりではなく、古人の謀反に参画した5人のうち、倭
漢文直麻呂は『日本書紀』「孝徳紀」白雉5(654)年2月条に見える遣唐使の一員である判官大乙上書直麻呂と、物部朴井連椎子は『日本書紀』「斉明紀」4(658)年11月5日条に見える有馬皇子の邸宅を包囲した物部朴井連鮪と同一人物と推測され、朴市秦造田來津は『日本書紀』「天智紀」天智元(662)年12月1日条に百済救援軍の指揮官として登場している。古人の謀反に参画した5人のうち3人が謀反後も活躍しているということになり、確かにこれは不自然である。
 こうした点から、古人の吉野入りと謀反に関する記事は、天武の事績を参考にした創作である可能性も否定できないように思う。確かに、古人が出家して吉野に入り謀反を起こして殺害されたという前例があるのに、天智に疑われている天武が同様の行動を取るのは疑問である。古代の史書において、似たような事件の記事がある場合、新しい記事の方が本歌で古い記事はその反映であるということが屡々あると思われる。古人の下野から謀反に至る記事も、その可能性を認めてもよいのではなかろうか。

 では、古人の645年での死亡は架空の記事で、古人の記事に天武の事績が反映されていることなどから、天武と古人が同一人物かというと、私はそうではないと思う。結びでも触れるが、天武が天智の同母弟でないとの説には、前提条件に大いに矛盾があると思うのである。
 では古人謀反の件はどう解釈すべきかというと、謀反に参画した5人のうち吉備垂は古人を裏切って天智に密告したのだが、記述はされていないものの残りの4人も最終的には寝返った、とするのが最も妥当かと思う。また天武の場合、『日本書紀』卷第卅(持統紀)の即位前紀の天智10(671)年10月条に
「從沙門天渟中原瀛眞人天皇(51)入於吉野。避朝猜忌。」と見え、天智の娘の持統を連れての吉野入りだったから、天智の追討を受けることはないと判断していたのかもしれない。『日本書紀』での古人の謀反と殺害記事は、全否定できるものではなく、概ね史実を伝えている可能性も充分あると思う。
 倭姫が大后となったことについても、当時は謀反人の娘が大后となることに抵抗感がなかったのかもしれず、そうだとすると、舒明から皇極という前例があるのだから、中継ぎ的性格を多分に有する形で倭姫が天智の跡を継いだとしても不自然ではない。
 古い時代については当てにならず年齢不明な天皇も多いが、『日本書紀』において、即位した時点で30歳以下だった天皇は見当たらない。恐らく、当時の即位条件として、ある程度の年齢が要求されていたのではなかろうか。大友皇子は『懐風藻』から648年生まれと推測されるから
(52)、671年時点で24歳であり、母の出自の問題だけでなく、年齢の点でも大友皇子の即位に難色を示す意見も根強かったのではないかと思われる。
 7世紀後半迄の皇位は兄弟相続が珍しくなく、次世代の有力後継候補者が条件を満たす迄は同世代である兄弟間で相続する傾向が認められる。天武は、次世代の大友が即位しては自分の出る幕がないと考え、倭姫の即位を進言したのだろうが、これは、大友が幾つかの即位の条件を満たしておらず必ずしも広範な支持を得ていなかったことが背景にあったものと推測される。倭姫も天武からすると次世代なのだが、女帝は中継ぎ的性格の強い存在であり、天武にとって大友が即位するよりは受け入れられるものだったのだろう。

 以上が、私が最も妥当だろうと判断した推論なのだが、古人の件に関しては、もっと大胆なというか無謀な推測も考えている。以下その推測を述べるが、あくまで私の思い付き程度のもので確信があるわけではない。また、かなり強引な推論なので、私も本論である上記の推測より以下の推測の方に妥当性を認めているわけではなく、余興程度と捉えて読んで頂ければ幸いである。今回の駄文は未熟なものであり、大いに批判されるべきだとは思うが、以下の推測というか思い付きを集中的に批判されるのは私の本意ではなく、正直なところ困ってしまう。それなら書かなければよいではないか、との批判もあろうが、折角古人についてやや詳しく触れてきたので、この機会に日頃の古人に関する考えを述べてみようかと思うのである。
 天智が中大兄とも呼ばれたように古人も大兄皇子と呼ばれており、両者共に有力な皇位継承候補者であったと推測され、天智にとって年長の古人は邪魔な存在だったのだろう。だが、乙巳の変後の不安定な情勢の中、混乱を恐れた天智は古人を公然と殺害することは避け、側近に古人が謀反を起こしたとの名目で出動を命じ、秘密裏に殺害したのではなかろうか。上で引用したように、天智が古人討伐に差し向けた兵は、本文では若干、原注では30人とされている。正式な討伐軍ではなく、天智とその側近による独断だったのではなかろうか。
 恐らく、天智生存中は古人の死は建前として事故死か病死とされ、そのために古人の娘の倭姫が大后となることに特に支障はなかったし、天武が病床の天智に倭姫の即位を進めても支持を失うことはなかった。だが、天智死後に禁忌は解け、古人死亡の事情も語られるようになった。だが、古人殺害は秘密裏に行なわれただけに詳細は不明で、謀反を理由に殺害されたとの説が唱えられたものの、経過についてはよく分からず、いつしか天武の事績が取り入れられて「古人下野と謀反失敗の物語」が作られ、謀反に参加した者として、古人と親しかったと伝えられていた蘇我川掘ら5名が挙げられたのだろう。
 『日本書紀』の編者はそうした伝承を取り入れ、乙巳の変後の古人の記事を編纂したが、確証を得なかったので注を付けたのだろう。そうだとすると、天武が謀反を起こした古人と似たような行動を取ったことや、謀反に参加した5名の処罰記事がないばかりか、そのうち3名が古人殺害後にも活躍していることは謎ではなくなる。

 更に大胆な推測を述べると、乙巳の変の真の標的は蘇我入鹿ではなく古人だったのではなかろうか。乙巳の変は、『日本書紀』卷第廿四(皇極紀)皇極4(645)年6月8日条に拠ると、「三韓進調之日」のことだが、当時激しく争っていた朝鮮半島三国の使者が同時に皇極に謁見するというのは考えにくく、蘇我入鹿殺害は別の場所で行なわれたのだろう。同6月12日条に拠ると、入鹿が殺害された後、「古人大兄見走入私宮。謂於人曰。韓人殺鞍作臣(53)謂因韓政而誅吾心痛矣。即入臥内杜門不出。」とあり、古人は混乱した現場からの逃走に成功したのだろう。
 古人の殺害に失敗した天智は、自分より年長の古人の実力を考慮し、逆臣の蘇我入鹿と蝦夷の殺害こそ我々の本意で、古人に危害が及びかけたのは混乱した状況故のことであると偽り、古人に和解を申し出て、蘇我入鹿と蘇我蝦夷という大きな後ろ盾を失った古人も一旦は和解に応じた。しかし、天智にとって古人はどうにも邪魔な存在で、秘密裏に殺害した。
 蘇我本宗家の討滅・古人の殺害・孝徳の反対を押し切っての遷都・有馬皇子の殺害など、天智には自らの障害となり得るような勢力への強引な武力行使が目立ち、天智が当初より衆目の一致する正統な皇位後継者であったか疑わしいところも多分にある。そこで、天智の皇位継承者としての正当性を損なわないために、乙巳の変の標的として蘇我本宗家が強調され、蘇我本宗家滅亡の甚だ疑わしい前兆が「皇極紀」に幾つも記載された。無論、蘇我本宗家も乙巳の変の重要な標的ではあっただろうが。
 天智の皇位継承者としての正当性が損なわれないような配慮がなされたのは、武力で大友を攻め滅ぼした簒奪者の天武を正当化するためであったと推測される。天武を正当化するには、母の身分が低かった大友に対して、天武の際立った高貴性と皇位継承者としての正当性を強調するのが効果的だが、そのためには、天武の同父同母兄である天智も同様の存在に仕立て上げねばならないのである。
 以上、ほとんど妄想のようなもので、私も自信はない。結びでも述べるが、私は、『日本書紀』の大枠を否定しながら異説の根拠を『日本書紀』に求めるのは、大いに矛盾しているのではないかと思う。上記の推測は、あくまで本論ではなく余興程度のもので、本論より妥当性を認めているわけではないと断わってはいるが、私の『日本書紀』に対する立場と矛盾するものかもしれない。とはいえ、私自身は、上記の推測は『日本書紀』の大枠を否定するものではないと考えていて、この機会に述べてみたのである。

 

天智暗殺説
 井沢氏が屡々取り上げられている天智暗殺説だが
(54)、出典は『扶桑略記』である。『扶桑略記』第五の天智10年の条に異伝として「一云。天皇(55)駕馬。幸山階ク。更無還御。永交山林。不知崩所。只以履沓落處爲其山陵以往諸皇不知因果恒事殺害。」とあり(殺は代用文字)、『水鏡』ではこの記事が異伝ではなく本文として記載されている(56)
 井沢氏が言われるように、これは天智暗殺を示唆しており、天武が犯人である、との解釈は充分可能であろう。井沢氏はその根拠として、『万葉集』での天智の皇后の歌や、『扶桑略記』の著者である皇円の履歴などを挙げられている。
 私は、12世紀成立の『扶桑略記』を根拠に『日本書紀』の記事を否定するのは難しいと思うが、ほとぼりが冷めたから書けたのだ、とされる井沢氏の説にも妥当性はある。
 だが、たとえ天智が天武により暗殺されたとしても、それは天智と天武が非兄弟であるとの直接の根拠にはならないであろう。直接には、天智と天武の対立が深刻なものであった、ということを証明するに留まると思う。

 

結び
 以上、天智と天武に関する異説の根拠に対しての反論を長々と述べてきたが、最後に異説に対する根本的な疑問を述べて結びとしたい。
 そもそも異説の大前提として、『日本書紀』は、例えば天武など特定の権力者の意向が強く反映された史書であり、その記事は信頼するに足りない、というのだが、その一方で異説の根拠の多くは『日本書紀』に拠っている。
 天武が天智の異母兄や異父兄であるという説や、天智と天武は兄弟ではなく、天武は新羅または高句麗の高官であるという説は、『日本書紀』の大枠を否定するものである。だがその一方で、「天武と劉邦」の項でも述べたように、そうした異説の根拠として『日本書紀』の記事を提示したり、天武を『日本書紀』に見える別人に比定するのは、御都合主義であり、大いに矛盾しているのではなかろうか。
 要するに、『日本書紀』全体が信用できないというのではなく、個々の記事毎に信憑性の問題があるというのだから、『日本書紀』編纂の意図と各記事における改竄や隠蔽について、整合性のある説明が必要なのだが、異説ではその説明が充分説得力のあるものなのか疑問である。上述した草薙剣が祟ったとの記事はその典型例で、大いに矛盾していて説得力に欠けるのではなかろうか。

 天武が天智の異父または異母兄で、漢皇子または古人と実は同一人物だったというなら、どうして『日本書紀』の編者は別人として記載したのだろうか。天武が実は漢皇子や古人であることが知られると都合が悪いというのなら、抹殺すればよいのである。『日本書紀』の編者にとって、天武は近代どころか現代の人で、編纂時の政治体制や諸制度の基本的な枠組みを築いた人物である。その人物の家系や兄弟との長幼関係を偽るような史書なら、漢皇子や古人の存在を抹殺することなどいとも容易なのではなかろうか。
 漢皇子は事績が特に伝えられておらず、抹殺するのは容易な筈である。古人については「古人皇子について」でも触れたが、仮に天武が古人と同一人物だとして、それを知られては困るというのなら、古人についての記事に天武の事績を反映させることなどないのではなかろうか。
 また、天武が天智より年長だったとして、果してそれが不都合なことなのだろうか。23代の顕宗天皇と24代の仁賢天皇は同父同母の兄弟だが、先に即位した顕宗は弟である。「年齢矛盾」でも述べたように、敏達も崇峻の弟である可能性があるが先に即位している。もっとも、これは中世の史書に拠る推定年齢なのでどこまで信用してよいものか疑問だが、顕宗と仁賢に関しては『日本書紀』に明記されているのである。

 天武が新羅または高句麗の高官であったとの説に対しても、同様に大いに疑問がある。仮にそうだったとして、何故『日本書紀』にはそのことが明記されていないのだろうか。『日本書紀』編纂の意図が、天皇家による古来よりの日本支配の正当化にあったため、との反論があろうが、仮にその反論に妥当性を認めるとして、朝鮮の史書にそのことが一切記されていないのは何故なのだろうか。
 『日本書紀』編纂時の支配層は天武朝の功臣の子孫であり、中には第一世代もまだいたかもしれない。彼らが、君主として擁立した天武の出自を大きく偽った史書を編纂することなど果してあるのだろうか。当時まだ健在だった天武の子や孫達は、自らの父または祖父の出自が隠蔽されることを何故承認したのだろうか。もし、当時の支配層が史書において天武の出自を隠蔽する必要があったのだとしたら、天武朝の権力基盤は恐ろしく脆弱ということになるのではなかろうか。果して、そのような脆弱な権力基盤の集団が内乱に勝利して政権を樹立することなどあり得るだろうか。

 天智と天武に関する異説について、学界で反論されたのは坂本太郎氏と水野祐氏くらいであろうか。かなり話題になっているにも関わらず、随分と反応が鈍いようにも思えるが、これは、学界が閉鎖的・権威主義的・怠慢であるためではないと私は思う。
 異説には強引で御都合主義的なところが多分にあり、要するに学界で取り上げるだけの水準には達していないということなのだろう。たとえそうだとしても、これだけ話題になっている説を無視するのは怠慢だとの批判はあるかもしれないが、そうではなかろう。学界にはこれよりも優先順位の高い研究課題が多くあり、この問題にまでなかなか手が回らないのは仕方のないところである。ただ一部の学者が、天武65歳崩御を56歳の倒錯と見做したのは軽率であり、異説に却って説得力を与えてしまったのではないかと思う。
 この問題は、私のような歴史を趣味とする素人が、ネットなどで反論していけばすむ話なのではなかろうか。無論、私も現時点での考えを精一杯述べてはみたものの、今回の私の反論がどこまで有効なものなのか甚だ疑問で、却って異説を補強するという逆効果になったかもしれないが、日本古代史にかなりの関心がある方なら、少し本気になれば、今回の私の駄文の水準を遥かに凌駕する反論を書くのは極めて容易な筈である。今回の駄文が、そうした反論の呼び水となれば幸いである。

 長くなってしまったこの駄文を最後までお読みになられた方には本当に感謝する。色々と御批判・御批評を頂ければ幸いである。

 

異説の流れとその根拠
(1)
佐々克明「天智・天武は兄弟だったか」『諸君』昭和49年8月号(文藝春秋社1974年)。因みに、佐々氏は既に亡くなられているが、危機管理で有名な元内閣安全保障室長の佐々淳行氏の兄上でもある。
(2)佐々克明「天武天皇と金多遂」『東アジアの古代文化』18号(大和書房1979年)。
(3)小林惠子「天武の年齢と出自について」『東アジアの古代文化』16号(大和書房1978年)。
(4)斉明天皇。
(5)用明天皇。
(6)舒明天皇。
(7)大和岩雄『天武天皇出生の謎』(六興出版1987年)。
(8)豊田有恒『英雄・天武天皇』(祥伝社1990年)。
(9)小林惠子『白村江の戦いと壬申の乱』(現代思潮社1986年)。小林惠子「天武は高句麗から来た」『別冊文藝春秋』1990年夏号(文藝春秋社1990年)。
(10)李寧煕『天武と持統』(文藝春秋社1990年)
(11)百済は660年に滅亡したが、その後遺臣が復興運動に立ち上がって一時は旧百済領の過半を制した。余豊璋は日本の援助も受けて王に擁立された。
(12)林青梧「天智・天武天皇の正体」『別冊歴史読本』1990年6月号(新人物往来社1990年)。
(13)井沢元彦『隠された帝』(祥伝社1990年)。追記(2000年9月10日):ただ井沢氏は、『逆説の日本史2 古代怨霊編』(小学館1994年)では、天武を天智の異母兄とれていて、天武の父は新羅人だったのではないかと推測されている。掲載時点では井沢氏を非兄弟説論者に分類していたのだが、異父兄弟説論者に分類するのが妥当かもしれない。
(14)石渡信一郎『日本書紀の秘密』(三一書房1992年)。
(15)水野祐「天智・天武『年齢矛盾説』について」『東アジアの古代文化』6号(大和書房1975年)。ただ、水野氏は天智と天武が異母兄弟かもしれないと示唆されたが、両者の長幼関係は疑っておられない。尚、水野氏は先月28日(2000年8月28日)に亡くなられた。私も尊敬する学者だっただけに、何とも残念である。心より御冥福をお祈りしたい。
(16)関裕二『天武天皇 隠された正体』(KKベストセラーズ1991年)。
(17)井沢元彦『隠された帝』。同書はあくまで小説であり、ここで井沢氏の論拠とするには甚だ不適当かもしれないが、同書のNON・NOVEL版でも、ここに書いてあることを自分は信じていると述べられているし、その他の氏の著作でも非兄弟を展開されていて、更に井沢氏のホームページでもNON・NOVEL版はNONFICTIONに分類されているので、同書での非兄弟説は井沢氏の論と見做すことにした。
(18)井沢元彦『隠された帝』。

年齢矛盾
(19)佐々克明「天智・天武は兄弟だったか」。ただ、『本朝皇胤紹運録』では、天武の生年が623年で没年齢が65歳とされており、没年が686年だから1年のズレが生じる。同様に『上宮聖徳法王帝説』では「乙巳年六月十一日、近江天皇〈生廿一年〉殺於林太郎□□以明日其父豊浦大臣子孫等皆滅之。」(□は欠字)とされており、645年の時点で天智が21歳だから、『日本書紀』に拠る645年時点での推定生年20歳と1年のズレがある。また、聖徳太子の没年も、『日本書紀』が621年としているのに対して、「壬午年二月廿二日甲戌夜半上宮聖王薨逝也」とある『上宮聖徳法王帝説』を初めとする多くの書では622年とされており、やはり1年のズレが生じる。小林氏は「天武は高句麗から来た」の中で、この1年のズレは、『日本書紀』において推古の葬礼が約1年抹殺されたためだろう、としておられる。『日本書紀』では推古の葬礼は1ヶ月足らずとされているが、これでは短過ぎるというわけである。『日本書紀』の編者に特に意図はなく、単に誤って1年削除しただけという可能性もあるとは思うが、どうも現在の私の手に負える問題ではなさそうで、今回は深入りは避けたい。上記の表では、没年齢から推定した生年を記した。
(20)「昭和49年第24回法隆寺夏季大学講演」(1974年)。
(21)ここでは一般的な見解に従って、鎌倉時代以降という意味合いで中世という用語を用いている。
(22)641年10月9日。
(23)舒明天皇。
(24)天智天皇。

東アジア情勢
(25)「昭和49年第24回法隆寺夏季大学講演」。
(26)李成市「三国の成立と新羅・渤海」武田幸男編『朝鮮史』(山川出版社2000年)。
(27)遠山美都遠「白村江の戦い論争」『歴史読本』1998年9月号。
(28)田村圓澄「“天照大神”と天武天皇」『東アジアの古代文化』67号。
(29)堀敏一『中国通史』(講談社2000年)。
(30)李成市「三国の成立と新羅・渤海」。
(31)
鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(中央公論社1992年)。
(32)
堀敏一『中国と古代東アジア世界』(岩波書店1993年)。

皇室の祭祀
(33)小林惠子「天武の年齢と出自について」。
(34)大和岩雄「天智・天武非兄弟説と異父兄弟説」。
(35)月輪大師のこと。すずめ♂さんの注を引用した。
(36)大和岩雄『天武天皇出生の謎』(六興出版1987年)。豊田有恒・大和岩雄「対談 異説・天武天皇をめぐって」。

天武と劉邦
(37)井上通泰「天武天皇紀闡幽」『歴史地理』54−3(1929年)。
(38)
西嶋定生「草薙剣と斬蛇剣」『江上波夫古希記念論集・歴史編』(山川出版社1973年)。
(39)前川明久「壬申の乱と湯沐邑」『日本歴史』230(吉川弘文館1972年)。
(40)直木孝次郎『日本の歴史ニ・古代国家の成立』(中央公論社1965年)。
(41)大和岩雄「天智・天武非兄弟説と異父兄弟説」。

古人皇子について
(42)中臣(藤原)鎌足。
(43)阿倍内麻呂。
(44)蘇我石川麻呂。石川麻呂は、後に謀反を企てたとして自害に追い込まれた。
(45)
11月30日。
(46)
天智。
(47)天武。
(48)古人の娘である倭姫王。
(49)大友皇子(後の弘文天皇)。
(50)10月19日。
(51)天武。
(52)
星野良作「大友皇子」『別冊歴史読本』1990年6月号(新人物往来社1990年)。
(53)蘇我入鹿。

天智暗殺説
(54)井沢元彦「天智天皇死の謎」『別冊歴史読本』1990年6月号。『隠された帝』。『逆説の日本史2 古代怨霊編』(小学館1994年)。
(55)天智。
(56)倉本一宏「『日本書紀・壬申紀』以外の史料で語られた壬申の乱」『東アジアの古代文化』67号。

 

 

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