纏足について
初めに
今回は、纏足について至極簡単に書いてみようかと思う。ほとんど桑原隲蔵「アラブ人の記録に見えたる支那」からの引用で、ネタ切れでつい安易な方向に走ってしまうところが如何にもダメ人間である。やはり、週1の駄文執筆は厳しいかもししれない、と最近は思うが、こうして文章を書くことも鍛錬の一つだとも考えており、今後も週1の掲載は続けていきたい。 「アラブ人の記録に見えたる支那」は、東洋文庫の『東洋文明史論』(平凡社1988年)に所収されている。
纏足とは
纏足は、20世紀前半頃まで中国で行われた風習で、女性の足を幼年期より縛り付け、足の成長を妨げて小さく保つ、というものである。概ね、富裕層では4〜5歳時より始め、貧困層では7〜8歳より始めるので、貧困層の女性の足は富裕層の足よりもやや大きくなったらしい。
纏足のやり方は、凡そ次の如きものだったようである。幅約9cm・長さ約180cmくらいの白木綿を、足の裏より甲へ、甲より指へ、指より足の裏に8の字の形に縛る。4本の小指は全て親指の下に巻き込まれることになり、日毎に強く締め付けられるから、その苦痛は並大抵のものではなく、悲鳴が周囲に響いたという。約1年で指を曲げ終わり、次に指を踵に引き付け、足の甲と脛の延長とが一直線となる。このために1割程度の死者が出るというが、これを専門とする女性がいて、死亡率はその技術次第というところもある。上手くやれば四方を平均して圧迫して支障を来たさないが、下手にやると充血・発熱し、足が腐れて折れる。
このようにして9cm前後の足ができるのだが、当然のことながら纏足により歩行能力は著しく低下し、火災・地震・内乱などでの女性の死傷率は男性よりも遥かに高かったという。また、足の成長阻害は胎盤などにも影響を及ぼし、出産の際にも困難なこととなった。
何故このようなことをしたのかというと、女性については、小さい足を有することが極美とされてきたからなのだが、その起源となると諸説あって判断が難しい。外国人の記録でいうと、唐末から五代初めにかけて華南を訪れたアラブ人の記録には纏足のことは見えず、この頃の華南では、纏足は少なくとも流行ってはいなかったようである。
纏足を初めて記録した外国人のは、1320〜1330年頃に中国を訪れたOdoricで、「女子については小さい足を有することが極美と認められる。故に女子が生まれると、母は直ちにこれを束縛して発育せしめざるを常とする」との記録が残っている。
次に見えるのは、明末のジェスイット派の宣教師である魯徳照(Semedo)の著した“The History of China”(1641年初版、原書はポルトガル語)で、「ただ婦人の鞋は甚だ小さい。これが成長した人間の足に付け得るやとう疑わるほど小さい。その理由は次の如し。中国では女子の小なる時よりその足を緊束して、その発達を妨げることが普通である。中国人の説によると、小さい足は一つの美観であると言う。この風習は古代に遡る。さる皇后がありて畸形の足を有したが、その欠点を補わんために初めて行ったことであったが。遂に一般に模倣さるに至った」とある。
以上二つの引用は、Yule and Cordier“Cathay and the Way thither”からのものである。ここからは、纏足は唐代には行われておらず、元明になって盛んになったように思われる。
中国の史料における纏足の初出については、既に明代より論争があり、いつ纏足が始まったかは判然としないが、概ね6説あり、@後漢A南北朝B唐代半ばC唐末D五代E北宋、となる。
@は明末の楊慎が『丹鉛総録』で主張している。『漢雑事秘辛』に、「桓帝が有力者の妹を皇后とする際に(147年)体格試験を行ったが、足は絹を以って束縛して甚だ小さい」とあるのが根拠とされているが、一般にはこの記載は疑わしく、楊慎の偽作とされる。
Aは、500年頃、南斉の第6代東昏侯が寵妃の潘妃に天測させて、地に金蓮を敷かせて歩々蓮華を生せしめたという伝に基づく。だが、『南史』や『南斉書』には、金蓮を敷いたとはあるが、纏足させたとは見えない。
Bは、楊貴妃の死亡した村のある老女が楊貴妃の靴を拾って保存したが、その長さが僅か約9cmであつたとの伝に基づくが、この説は元代の書に見えるのみである。
Cは、唐末の詩に、句の意味よりの推測であるが、その詩句は極めて曖昧で、足の小さいことを賞賛した点はあるが、纏足の行われた充分な証拠とは言い難い。
Dは、宋代の『道山新聞』に、五代南唐の女官がその足を絹にて縛り屈撓せしめた、とあるのが根拠で、元末明初の陶宗儀の『輟耕録』巻十二に引用されている。ただ、『道山新聞』は『宋史』「芸文志五、小説類」にも掲載されてはいるが、著者も年代も分からず、現存しない。過信は禁物である。
Eは、北宋末に著されたと思われる張邦基の『墨荘漫録』巻八に「婦人之纏足起於近世」との記事が根拠となる。纏足の確実な記事としてはこれが最初で、単に近世とあるので五代とも北宋とも解釈できるが、北宋末ともなると纏足はかなり流行していたようである。『輟耕録』にも、纏足の沿革を記した後、「如熙寧元豊以前人猶為者少近年即人人相効以不為者為恥也」とある。熙寧とは1068〜1077年、元豊とは1078〜1085年のことである。
どうも、北宋の代に纏足が行われていたのは間違いなく、元代明代になって一層盛んになったようだが、その起源となるとどうも判然としない。ただ、唐末から北宋の間に始まった可能性が極めて高いとは言えるだろう。また、纏足は華南よりも華北で盛んで、華南では市街地においては一般に行われたが、村落ではあまり普及しなかったようである。
上述したように纏足には弊害が甚だ大きいので、纏足の習慣のない満州族が征服者の清代には何度か禁令が出されたが、反対が多く中止されたり空文化したりし、却って満州族の間に纏足の習慣が広がる始末であった。
纏足への有効な反対運動はキリスト教、特にプロテスタントの側から起こり、教会や学校で纏足廃止を勧告していった。この運動は次第に浸透していき、中国人の間にも纏足反対の動きが起こってきた。康有為や梁哲超の運動は特に盛んで、両者の失脚後もその動きは弱まらず、中華民国以降は一層纏足廃止の風潮は強まり、現在はまず纏足は行われていないであろう。
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結び
纏足は中国の奇異なる風習として明治以降の日本では紹介され、屡々中国の後進性の象徴ともされてきたが、私には寧ろ中国の文明的病理の一つで、高度な文明社会の不可避な宿命の一形態であるように思われる。現代の先進国にも、文明社会故の様々な歪みや病理が存在し、一見すると纏足とは似ても似つかないかのように見えるが、根本的な部分では相通ずるものがあるようにも思える。