気になる見解

 

初めに
 今回は、最近私が興味を抱いている通説への疑問や新たなる見解について簡潔に列挙していこうかと思うが、中には本を購入してまだ読んでいないという場合もあり、充分に理解していないものも多い。この駄文を読まれた方の中に、以下の見解のうち一つでも私と同様の関心を持たれる方がいらっしゃれば幸いである。

 

最近関心のある見解
聖徳太子は架空の人物である
 いきなりトンデモ系かと思われるかもしれないが、決してそうではない。論者は大山誠一氏で、まだ『東アジアの古代文化』の102・104号の大山氏の論考をざっと立ち読みした程度で、大山氏の著書『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館1999年)を読んでいないので、詳しくは紹介できないが、厩戸王子は実在した人物なのだが、現在に伝わる諸史料における聖徳太子の事績や伝承は疑わしく、実在の人物とは認め難い、というものである。
 大山氏は、厩戸王子と聖徳太子との関係を、一休宗純と一休さんとの関係に擬えておられる。高僧であり実在した一休宗純をモデルにした頓知坊主の一休さんが後世の創作であり架空の人物であるように、聖徳太子は厩戸王子をモデルとして後世に作られた架空の人物だったというわけである。
 私は以前より、聖徳太子の事績の中には、実は蘇我馬子などの事績を後世の人間が盗用したものも多くあるのではないか、と疑っていただけに、大山氏の主張には大いに関心がある。今後、氏の著書や論考、更には反論などもじっくりと読んでいきたい。

白村江の戦いへの疑問
 これは遠山美都遠氏が主張されているものである。白村江の戦いで倭(日本)軍の戦力は唐軍よりも劣っていて、倭の百済救援は無謀なものであった。白村江の敗戦後、日本は唐の侵攻に怯え、各地に水城を築くなど防衛の強化に努め、一方で先進的な唐の諸制度の導入を急ぎ、律令国家=日本国の成立を招来した。
 こうした通説に対して遠山氏は、白村江の戦いでの倭軍の戦力は唐軍を凌駕しており、戦後も唐は倭を自陣営に引き込むのに熱心で、決して唐と倭との関係は、居丈高な戦勝国と打ちひしがれた敗戦国というものではなかった。倭は唐に敗北感と脅威を感じて受動的に律令制度を導入したのではなく、主体性を充分に保ち唐の律令制度を翻案しながら導入した。また、白村江敗戦史観には、圧倒的な国力差のある米国に第二次世界大戦で完膚なきまでに打ちのめされた日本が、戦後その米国の援助と制度導入により経済大国として復興したという史実を安易に投影してきた結果生まれたものではないか、とも遠山氏は述べられている。
 私も通説より遠山氏の見解に惹かれる。日本国成立の過程については、私も東アジア史の流れの中で再度検討してみる必要がある。これは現在の私の重要な関心事で、いつかは文章に纏めたいものである。詳しくは遠山氏の『白村江』(講談社1997年)で述べられている。

武士論
 これには在地領主的武士論と職能的武士論とがあるとよく言われ、戦後暫くは一世を風靡した前者に対して、1960年代後半以降後者が着目され始めて、現在は後者から新たな武士像を探るという試みが盛んである。私も後者に関心があるのだが、朝日百科日本の歴史別冊の『歴史を読みなおす8 武士とは何だろうか』を読んだ程度で、最近購入した高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会1999年)と元木泰雄『武士の成立』(吉川弘文館1994年)と川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社1996年)とはまだ読んでおらず、充分理解しているとは到底言えない。
 従来、在地領主的武士論では、地方の農村の在地領主の武装によって武士が成立したとされ、これが定説化していたのだが、近年は、成立期の武士の多くが下級貴族の出身であったことが強く指摘されており、高橋氏のように、武士は律令国家や貴族社会の産物と指摘される研究者もおられる。とはいえ、鎌倉時代の武士が原則として在地領主であったことは疑いなく、新たな武士像の提示が模索されている、ということだろうか。また武士見直し論の中で、源平合戦における精強な源氏方=東国武士と惰弱化した平氏=西国武士という平家物語史観とでも言うべき図式にも疑念が提示されている。
 尚、高橋氏は、武士論に在地領主的武士論と職能的武士論とがあるというのは通俗的で不正確であり、前者では武士とは自明の存在であり、武士とは何かとの定義的な問い掛けはなされてこなかったと述べられている。

長篠の戦い
 織田・徳川連合軍の鉄砲三段撃ちにより精強と謳われた武田騎馬隊は完敗した。織田信長による鉄砲の大量集中使用は合戦の在り様を根本的に変え、長篠の戦いは新体制による旧体制打破の象徴でもある。
 巷間にはこうした見解が浸透しているが、果して実際はどうなのだろうか。鉄砲三段撃ちには以前より疑問が提示されており、武田騎馬隊についていうと、明治より前の日本にそもそも騎馬隊と呼べるものが存在したか甚だ疑わしい。また、長篠の戦いの前後で合戦の様相が変わったのかも疑わしい。
 これらは、近年では少なからぬ方が指摘されているが、私の蔵書では鈴木眞哉『戦国合戦の虚実』(講談社1998年)がお勧めである。鈴木氏には『鉄砲と日本人』(筑摩書房2000年)という著作もあり、長篠の戦いについてはこちらで詳しく論じられているようである。私も書店で見掛ければ購入しようかと思う。

西周時代は存在しなかった
 これは如何にもトンデモ系という感じだが、何とこの見解を提示されたのは碩学の宮崎市定氏である。この主張を知った時には、大家の見解にしてはあまりにも突拍子もないものに思えて、大変驚いたものである。宮崎氏を尊敬して止まない私だが、金文などの証拠からいっても、流石にこの見解は苦しいのではないかと思う。とはいえ、宮崎氏が論文で公表されただけに、或いは真実に迫っているのかとも思うが、やはり無理があると言うべきだろう。
 ただ、結論は別として、殷周代に関する宮崎氏の御指摘には大いに耳を傾けるべきところがあるように思われる。詳しくは、宮崎市定『中国古代史論』(平凡社1988年)に所収されている「中国古代史概論」で述べられている。

独ソ戦
 第二次世界大戦の独ソ戦において、当初ソ連はドイツに圧倒されて甚大な被害を受けたが、例えば戦車にしても、ソ連の兵器はドイツより決して劣っていたというわけではなく、スターリンの油断と粛清により赤軍の将校を大量に粛清したことが緒戦におけるソ連苦戦の要因とされている。
 これはその通りなのだが、近年になって、スターリンの油断に関して、新たな解釈が提示されている。実はヒトラーだけでなくスターリンにも奇襲先制攻撃の意図があり、1941年7月上旬にソ連が先手を取ってドイツへの攻撃を開始する予定で、スターリンはその計画を隠蔽するためにわざと独ソ境界線の警戒を緩めていたところ、1941年6月22日、僅か数週間の差で、逆にドイツに先手を取られて奇襲攻撃を受けてしまったというのである。
 この見解は以前にも何かの雑誌で読んだ記憶があるが、先日書店に行った時、この見解について詳しく述べられている分厚い本を見付けた。懐具合と相談して購入しなかったので、題名もよく覚えていないが、余裕ができたら購入しようかと思う。

 

 

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