戦国大名と八百長

 

初めに
 史料を直接参照して纏まった雑文を毎週書くというのは、ダメ人間の私には到底無理なことであり、そうした雑文は半年に2回程度も書けば上出来なのではないかと最近は思うようになっている。そういうわけで今回も単なる思い付き程度のものであり、戦国大名の行動原理と大相撲における八百長との類似性についての雑感である。
 強引なこじ付けと思われる方も多いかもしれず、まあ殆どそうなのだが、類似性(とその裏返しである相違性)の発見・理解・評価こそ学問の基本であり、今回の雑文が多少なりとも知見を広めるのに役立てば幸いである。尚、今回は敬称を略すことにした。

 

類似性
 戦国大名の行動原理といっても色々な切り口があり、またそれぞれの切り口で多様性が認められるものだろうが、できるだけ損害を軽減し、敵陣営の切り崩しにより所領の拡大・維持を図ったという傾向が概ね認められる。まあ、戦いにおいて自軍の損害の軽減を図るのは当然のことなのだが、戦国大名の場合はその傾向が顕著である。
 戦国時代は100年以上の長期に亘ったが、主力同士の激戦などそうもあるわけではなく、主力が出陣しても小競り合いで終わったり、裏切りが出て一方的な展開になることが少なくない。落城の際も、総攻撃による武力制圧という場合だけでなく、開城交渉による籠城側の整然とした撤退という場合も少なからずあった。
 戦国大名は、自領の拡大・維持を図る際、損害の出る軍事行動よりも敵陣営の切り崩しの方に熱心であった。戦国時代、大名家が衰亡・滅亡する時は、裏切りが直接の決定的要因であることが多く、武田家や蘆名家や朝倉家などのように、大勢力が短期間であっさりと滅亡することも珍しくない。所領を拡大して後世高い評価を受けている戦国大名というのは、例えば武田信玄や織田信長や毛利元就など、概ね外交・謀略に優れており、戦術能力が少々劣っていても致命傷とはならなかったと思われる。
 さて、ここで問題にしたいのは、外交・謀略に長けてさえいれば切り崩し・取り込みが上手くいくのか、ということである。当然のことながら、武田信玄や織田信長級の智謀の持ち主が切り崩しを図っても、自勢力の方が敵勢力よりも圧倒的に劣勢であれば、切り崩しなどそう上手くいくものではない。やはり、相応の勢力だと認められねば相手にもされないのが普通である。
 そのために最も手っ取り早いのは、戦いで強さを誇示することで、つまりは軍事力である。軍事力とはいっても、それは経済力と支配力(統治制度、政治力とも言えるが)に支えられたものなのだが、統計が公表されているわけでもないこの時代、当時の人々にとって大名家の強さの最も明快な基準は軍事力である。故に、各大名は自らの戦果を誇張して各地の勢力に書状を送っている。如何に切り崩しと取り込みが自陣営の拡大・維持の最良の手段とはいえ、軍事力に劣るとの評判では、効果は殆ど望めないのである。

 こうした関係は大相撲の八百長にも認められる。国民栄誉賞を受賞した千代の富士(現在の九重親方)が八百長をやりまくって(星を買い取りまくって)数々の記録を打ち立てたことはよく知られているが、千代の富士は金の力と政治力だけで勝ち続けたのではない。
 八百長を告白した板井の言うように、圧倒的な実力があったからこそ、千代の富士は八百長が可能だったのである。大相撲の世界では、まず間違いなく勝てるとの自信がある相手に、金を渡されるからといってわざと負ける力士など普通はいない。一番でも多く勝つ方が結局は実入りがよいからで、まして横綱が相手なら、勝てるかもしれないとの自信が充分あれば、名誉と実利が大いに得られるのだから、そう簡単に応ずるわけがない。
 千代の富士が他の力士を圧倒する実力を持っていたからこそ、多くの力士は星の買い取りに応じたのであり、他の八百長を行なっていた力士も、ある程度の実力が認められていたからこそ八百長が可能だったのである。 だから、星の売買を申し込んでも断わられることもある。千代の富士は、嘗てある力士に星を買い取ってくれと申し込まれたことがあるが、その力士の実力を高く評価していなかったため断わり、ガチンコ勝負になったことがあったという。因みにその一番は、油断があったためか千代の富士が負けてしまい、大相撲界で物笑いの種になったという。

 結局のところ、戦国時代の切り崩し・取り込みも大相撲の八百長も話し合いであり、つまりは談合なのだが、それを成功させるには単に交渉能力に長けているだけではなく、軍事力や実力といった明快で即物的な力を認められていることが必要である。戦国時代や大相撲のような明快な力の勝負の世界では、談合は薄汚い手段であると考えられがちで、屡々当人達の力が過小評価されることもあるが、やはり力を認められなければ談合も成り立たない。
 尤も、明快で即物的な力とはいっても、大相撲における実力も何だかよく分からないことも珍しくはないし、戦国時代の軍事力など、それ以上に分かり辛いものである。とはいえ、これらの即物的な力は割と明確に分かりやすい方である。現代日本の政治の世界や公共事業の発注などとなると、各主体者間の優劣を明快で即物的な力という基準で判断し辛く、談合が行なわれると、何とも不透明で納得のいかない結果となることも珍しくはないのである。

 

 

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