下等の乱
初めに
今回は、ふと思い立って無謀にも短編(と言えない程に短いのだが)創作物を書いてみた。別に面白い出来ではないのだが(面白いものが書けるなら、とっくに作家になっているのだが)、最後まで読んで頂ければ幸いである。尚、念のために断っておくが、作中の登場人物や組織は実在のものと一切の関係はない。人名は赤字で記した。
乱前史
似奔国の政権は、ごく短期間を除いて長らく保守政党である児眠党が握っており、結党後は常に比較第一党の地位を保ってきた。児眠党には複数の派閥があり、主役である下等貢夷恥は弧迂痴会という有力派閥の会長である。弧迂痴会は他派閥と比較して官僚出身者が多く、また歴代の会長の多くが首相になったということもあり、児眠党の諸派閥の中でもとりわけ保守本流・エリート意識が強い。
会長の下等自身も大変なエリートということになっており、似奔最高峰とされる大学の出身で、似奔国の宗主国である亜部利加国の一流大学に留学もしており、外務官僚を経て国会議員になったのである。
国会議員になった下等はエリートとして期待されて順調に出世していき、遂に名門である弧迂痴会の会長に就任したのだが、この時派内に亀裂を生じさせてしまい、少数ながら弧迂痴会を離脱する者やこの継承に不満を抱く者が出た。官僚出身でさほどの苦労もなく出世してきた下等は派内の取り纏めが不得手で見通しの甘いところがあり、いざ派閥を継承する時になって派内を上手く纏められなかったのである。
下等の前の会長は未邪挫倭で、この人も下等同様に大変なエリートで教養人とされており、首相も務めたほどであった。未邪挫倭はその経歴から財政・経済通と評価されていて、首相の座を追われた後も、請われて蔵相に再任することになったが、実は見掛け倒しで、バブル経済招来期の蔵相であり、バブル崩壊後の重要な時期に首相の座にいながら殆ど有効な政策を打ち出せず、似奔を泥沼の長期不況に陥らせてしまった重要な責任者の一人であった。
未邪挫倭が首相・児眠党総裁の時に児眠党は分裂し、直後の選挙の結果児眠党は結党以来初めて野党に回ることになり、未邪挫倭は首相の座を追われ、児眠党総裁も辞任することになった。後任の児眠党総裁となったのは、同じ弧迂痴会の胡宇野であった。胡宇野は二世議員のお坊ちゃんで、容貌は大変厳ついが外見とは正反対の大甘な人物で、頭の切れもあまりよくないのだが、甘い人物らしくお人よしなので、旨味のあまりない野党時代の党首としては適任だったかもしれない。児眠党は下野して1年も経たずに与党に復帰し、当初は捨壊党(その後、捨民党と改名)の党首を首相としたが、頃合よしとみるとお人よしの胡宇野を総裁の座から引き摺り下ろして、最大派閥の刑逝会に属する本命のポマード君こと端素を総裁とし、端素は間もなく首相となった。胡宇野は児眠党総裁の中で唯一首相になれなかったのである。
端素は泥沼の長期不況にも関わらず消費税率を上げるといった暴挙を行って支持を失い、選挙で敗北して退陣することになった。後任の首相・総裁となったのは、同じ刑逝会に属し人柄は良いが凡人との評が専らの汚縁だった。この間、下等は児眠党の幹事長をずっと務め、不得手の党務も何とかこなし、派内で胡宇野を凌ぐ支持を得るようになった。元々胡宇野は一度児眠党を出て新党を結成し、ジリ貧になって児眠党に復党した出戻りだったので、派内にも党内にも根強い反感があった。そのためもあり、弧迂痴会は下等が継承することとなった。だが、如何にお人よしとはいえ児眠党総裁を務めた胡宇野はこれに我慢がならず、下等の根回し下手もあり、弧迂痴会を出て新しい集団を結成した。
下等に派閥を譲ることを決意した未邪挫倭は、下等の調整能力に不安だったのか、派閥継承の条件として、派閥を分裂させないことを挙げた。だが、下等の稚拙さもあり胡宇野一派が派を出てしまい、未邪挫倭や弧迂痴会有力者の逝懸駄などは下等に不満を抱くことになり、派内にしこりを残してしまった。
発足当初は支持率が低迷していた汚縁政権が意外にも簡単に崩れそうにない状況の中、下等にも少々焦りが生じてきた。このままでは目立たない存在になり、首相の座も巡ってきそうにない。ここは自らの存在感を示さねば、と思った下等は、汚縁の説得に応じず、敗北覚悟で児眠党総裁選に出馬した。エリートで政策通の自分があんなボンクラの下で燻っていてよいのか、との意識もあったのかもしれない。結果は、汚縁に大差で敗れたとはいえ事前の予想よりは健闘した。
ところが、これが汚縁の警戒心を強めてしまい、汚縁は下等を徹底して干すことにした。下等の要請を退けて、党の要職に下等との間にわだかまりのある逝懸駄を起用し、また弧迂痴会を人事面で冷遇した。弧迂痴会は児眠党非主流派となってしまったのである。人柄の良い汚縁にしては強硬な、と世間は驚いたが、権力の座に就いて人間が変わるというのはよくある話である。下等は苦境に立たされてしまった。
ところが、汚縁は不幸にして病に倒れてしまい、児眠党主流派の首脳部は下等に相談なく密室の階段で銛を後任に決めてしまった。銛は小心者だがお調子者でもあり、景気の良い時はつい気が大きくなって大言壮語したり失言したりするところがあった。頭の方もかなり覚束なく、周到な配慮のできない人物で、この難局に、有力派閥の会長で要職を歴任した自分に何の相談もなく、一部首脳の都合だけでこんな無能な人物を首相にするとはどういうことだ!と下等は激怒したが、やはり甘ちゃんエリートだけに、即座にそうした見解を表明して活動を始めるだけの気力と行動力はなかったのである。
案の定、銛は失言を繰り返して内閣支持率は低迷し、国会選挙で大きく議席を減らしてしまったが、連立相手の貢迷党と呆腫党の議席と併せて過半数は維持でき、銛も何とか政権を維持できた。下等は、言わんこっちゃないと腹立たしかったが、やはり優柔不断なだけになかなか行動には移せず、せいぜいテレビ番組に出演して存在感を示したり、似奔と注国との関係悪化を密かに画策して、外務官僚時代以来の注国通である自分の出番を増やそうと姑息な手段を取ったりすることくらいしかできず、それらも大した効果はなかった。
乱の勃発
手詰まり状態の下等だったが、思わぬきっかけから銛政権とそれを支える児眠党主流派に喧嘩を売ることとなってしまった。政治評論家との会合に出席した下等は、政治評論家から、近頃は銛や蚊目異にやられっ放しではないか、との挑発を受けたのである。蚊目異は児眠党の政調会長を務める実力者だが、下品な言動で顰蹙を買うこと屡々である。だが、下等と同席した政治評論家達も、この時はその後の大乱を予想していたわけではなく、ちょっと面白い話を聞くことができれば、自分達のテレビ出演も増えるだろうなあ、との軽い気持ちで挑発したにすぎなかった。何と言っても、テレビ番組の出演料は活字媒体の原稿料と比較にならない程高い。
普段の下等なら、この挑発も無視するか軽く受け流すかちょっとした愚痴で返すかして、大騒動にはならなかったのだが、手詰まりでやや鬱状態にあり、また酒が入っていたということもあり、つい「銛に次の内閣改造はやらせない」と言ってしまったのである。省庁再編に伴う次の内閣改造まで後一ヶ月ちょっとという時点での発言である。事実上の倒閣宣言と受取られても仕方のない発言であった。
下等がつい口を滑らせてしまったのは、酒が入っていたということもあるが、よりによって銛や蚊目異を引き合いに出されたことで、エリートとしての自尊心を深く傷付けられたというのが最大の理由だった。どうして、エリートで保守本流で政策通で上品な僕が、裏口入学・入社のドキュソ首相や学祭で犬を食った下品で野蛮極まりない奴にいいようにやられなきゃいけないんだよう。そんなことあっていいわけないじゃないか!
会合の翌日、政治評論家は喜々として下等の発言をマスコミに喋って回った。当然のことながら下等の下には記者が殺到するだろう。下等は内心では困ったなあと思ったが、このまま倒閣に突っ走っても構わないのではないか、との判断に傾きつつあった。下等には野魔咲と濃墨という二人の盟友がおり、野魔咲は小なりといえども派閥の長であり、濃墨は銛派の会長であった。野魔咲は間違いなく自分と行動を共にしてくれるだろうし、濃墨は立場上おおっぴらに自分への支持は表明できないにせよ、好意的に自分の倒閣運動を見守ってくれるだろうし、土壇場になれば派閥の会長としての立場よりも友情を取ってくれるかもしれない。
結果的には、下等の濃墨への期待は全く裏切られてしまったわけだが、下等が期待したのには無理もない理由もあった。濃墨は下等に政権奪取に動くよう示唆していたのである。無論、それは友情から出たものなどではなかった。濃墨は下等を煽って無謀な政権奪取に動かせ、あわよくば下等を時期首相候補から引き摺り下ろそうと画策していたのである。変人と言われている濃墨は、実はかなりの策士であった。だが、甘ちゃんで優柔不断な下等は、濃墨のそのような思惑には全く気付いていなかったのである。
銛内閣支持率は低迷しており、野党には銛内閣不信任案提出の動きもある。下等派と野魔咲派が不信任案決議で欠席するか賛成に回れば、多少離脱者が出ても、銛を退陣に追い込める。勝算は充分あるじゃないか!下等は自分の計算に酔いしれ、遂に銛内閣退陣に動くことを決意したが、野党の不信任決議案に乗りかかって倒閣を果たそうという辺り、優柔不断でひ弱なエリートらしいとも言える。下等は記者団の前で派手に倒閣宣言を行った。酒の席での不用意な発言から始まった予定外の倒閣宣言であったが、下等にはこの時点では充分な勝算があったし、勿論予定外の行動などと言える筈もないので、その後も全ては計算通りだと主張し続けた。
これに対して、当然のことながら児眠党主流派は猛反発し、特に実力者の乃那珂幹事長は、党を束ねる立場から、恫喝まがいというか恫喝そのものの警告を繰り返した。乃那珂は下等のようなエリートとは異なり、叩き上げで当選回数も少ないが、最大派閥の刑逝会所属という点と自らの卓越した情報収集力を利用して児眠党の実力者にのし上がったのである。
乃那珂の抜け目のなさは車での移動時間の過ごし方によく表れていて、車内から周囲の風景を周到に観察し、少しでも気になったことがあれば即座に腹心に命じて調査させるのである。そうして収集した情報の中には政治家絡みのものも少なからずあり、その情報を更に詳細に分析して他の政治家の利害・人間関係や弱みなどを把握していき、政界での工作に活用するのである。こうして得た情報こそ、乃那珂の政治力の源泉であり、その情報収集力は警察組織を束ねる自治省の大臣を務めている間に確固たるものとなった。これに対して下等はというと、車内での移動中にカラオケの練習に興じる有様で、乃那珂は下等の甘さを予てより嘲笑していた。
マスコミはこの政治騒動を面白おかしく伝え、当事者の下等や児眠党主流派代表の乃那珂も積極的にテレビに出演し、自らの正当性を主張した。児眠党主流派の切り崩し工作は凄まじく、除名処分や同じ選挙区での対抗馬擁立などとといったムチは勿論のこと、閣僚ポストの約束などのアメも用いて、銛内閣不信任決議案を否決に持ち込もうとした。
下等もこうした動きは当然予想していたが、それでも勝利への確信は揺るがず、当初の不信任決議案時の本会議欠席予定から更に踏み込み、不信任決議案賛成に方針を転換した。ただ、ここまで決意を固めていながら、下等は児眠党からの離党は全く考えていなかった。やはり下等は中途半端で優柔不断だと考える人も多くいたが、保守本流を自認している下等にしてみると、何故自分から離党しなければいけないのだ、と考えるのは至極当然のことであった。
野党の思惑
下等は予てより懇意にしている最大野党眠主党のカイワレ大根こと癇幹事長と銛内閣不信任決議案提出の時期を窺っていた。一方、眠主・児憂・共惨・捨民の野党4党も、度々協議してその時期を窺うと共に、一致して不信任案に賛成するよう結束を固めていった。
マスコミの過熱報道もあり、従来政治に無関心だった人々もこの騒動に関心を持ち始めた。下等は、自分に多くの支持が寄せられていることを知り、一層勝利への確信を強めた。後は、不信任案提出の時期の問題である。癇は、土日のテレビ番組に下等が出演して広く国民に支持を訴えた後の月曜日がよいと主張したが、児憂党の党首である汚座輪は、児眠党主流派による切り崩しが徹底しないうちに提出する方がよいとし、金曜日に提出すべきだと主張した。
癇は児眠党に在籍したことがないこともあり、児眠党主流派の切り崩し工作の凄さをよく理解していなかったが、これは癇自身の甘さにも原因があった。嘗て癇はメディアコンサルタントとの不倫疑惑を報道されたことがあるが、癇の同志だった棚火はその女性を胡散臭い人物だと見抜いて近付けないよう言っていたのである。そうした女性を無警戒に近付けてしまう辺りが、癇の甘いところであった。
一方汚座輪は、嘗て児眠党幹事長を務めたこともあり、その後児眠党を割って出て一旦は児眠党を野党に追いやったこともあるだけに、児眠党の切り崩し工作の凄さを充分に理解していた。汚座輪は、凡庸な人物の多い政治家の中では珍しく自らの理念と政治構想を明確に述べることのできる人物で、決断力もあることから、改革者・強力な指導者と評価されて「大人の男志向」のマスコミの受けはよく、また汚座輪もマスコミの扱い方が上手かった。要するに刑逝会内部の主導権争いに負けて結局児眠党を離党したのに、相手に守旧派とのレッテルを貼って自分達を改革派と印象付けることにも成功した。だが、実は汚座輪は政治家としてはかなり守旧派的なところが多分にあり、土建業界との密接な関係も指摘されていて、そういった点がどうしようもない悪人顔と相まって少なからぬ人々に毛嫌いされていたが、容貌の点については本当に同情したくもなる。
汚座輪は、児眠党幹事長を務めていた頃から非児眠連立政権崩壊の頃までが政治家としては絶頂期だった。捨壊党をあまりにも舐め過ぎた結果野党側に転落してからというもの、汚座輪に以前程の威光はないが、それでも汚座輪を高く評価するマスコミは少なからずある。似奔を代表する週刊誌の一つである『週刊ポフト』もそうで、汚座輪礼賛の記事を書くだけでは物足りなかったのか、『票田のトラック』という汚座輪賛美の漫画まで連載する始末である。この漫画では、汚座輪をモデルとした政治家がやり手の秘書と共に他の政治家をいいようにあしらいまくっており、要するに汚座輪に敵対的な政治家をシメまくっているのである。正に、政治漫画の『ドカベソ』版または『あふさん』版と呼ぶに相応しい作品である。
だが、汚座輪は野党側に転落してからというもの、同志が次々と離れていき、一度は短期間連立政権に加わったものの離脱してしまい、今では共惨党と同程度の議席の党首を務めている有様である。そのため、『票田のトラック』の作者もどう汚座輪を賛美してよいものか訳が分からなくなって内容は支離滅裂となり、遂には汚座輪が心臓に持病を抱えていることにヒントを得たのか、汚座輪をモデルとした政治家を重病に陥らせて強引に引退させてしまった。亡くなったという設定にしなかったのは、汚座輪の復権にまだ望みを抱いてるからなのだろうか。
乱の終結
結局は数の力がものをいい、最大野党の幹事長である癇の主張が通り、不信任案提出は週明けの月曜日となったが、汚座輪の予想通り、土日2日間での児眠党主流派による下等派と野魔咲派所属議員に対する切り崩し工作は凄まじいもので、下等の当初の予想を遥かに超える議員が脱落してしまった。
乃那珂は下等本人にも揺さぶりをかけ、説得の途中で「そうそう、最近はカツラの方はどうだい?頭が蒸れているなんてことはないのかい?」と下等に脅しをかけた。頭髪の有無など、政治家として全く問題にならない筈だが、深刻な挫折を知らないひ弱なところのあるエリートの下等にとっては一大問題であった。気にしている点を突かれて下等はカッとなり、つい「僕はカツラはしていないぞ、今は増毛だ!」と言ってしまった辺り、やはり百戦錬磨で狡猾な乃那珂とは比較にもならない甘さを露呈してしまったと言える。下等は、しまった、乃那珂の誘導尋問だったのか、と気付いたがもう手遅れである。下等は乃那珂に思わぬ(他人から見るとどうでもよい)弱みを握られてしまったが、月曜日の朝まではまだ下等は勝利を確信していたので、乃那珂の軍門に下ることなど考えもしなかった。
この騒動の間も、下等は様々な人脈を通じて主流派と密かに交渉をしており、何とか上手い具合に落とし所を見出せないものかと模索していた。下等は、銛を即座に辞任させて児眠党総裁選を前倒しにするということでどうだろうか、と打診したが、主流派がそんな虫の良い提案を呑む筈もなく、一蹴されてしまった。結局下等・野魔咲派と主流派との妥協は成立せず、不信任案提出の月曜日を迎えた。
月曜日になっても、両者共に最終的な票読みに入ったが、昼頃になって下等と野魔咲が確認してみると、やはり主流派の切り崩し工作は余程強力だったのか、かなり雲行きが怪しくなってきた。下等は慌てて癇に不信任案提出の延期を申し入れたが、癇は野党側の結束が固いうちに提出しなければならないとして下等の申し出を退けた。
要するに下等も癇も汚座輪と比較して見通しが甘かったということなのだが、どうも勝てそうにないということが分かっても尚、癇が不信任案提出を強行したのには別の思惑もあった。短気な癇は一向に児眠党を出ようとしない下等に苛立ち始めており、眠主党にとっては下等よりも銛の方が遥かに組しやすいのだから、銛政権を延命させて下等を潰すのも眠主党にとって魅力的な選択肢の一つなのではないか、との判断に傾いていたのである。
夕方になって下等と野魔咲が最終的な票読みをしてみると、脱落者が多数出ていて、到底勝てないことが判明した。元々今回の下等の行動に批判的だった未邪挫倭や下等との間に溝のできていた逝懸駄などが不信任案反対に回るのは下等もある程度は覚悟していたが、その他に予想以上の自派議員が脱落してしまっていたのである。主流派の方は日曜夜の時点で既に勝利を確信しており、乃那珂は月曜になって下等に「好きにしなさい」と最終通告を突きつけた。
下等は窮地に立たされた。元々、多数の議員が不信任案賛成に回れば除名などできないだろう、との読みがあって今回の行動に出たのだが、このままでは銛を退陣に追い込めないばかりか除名処分にもなりかねない。だからといって、今更詫びを入れて不信任案反対に回ることなど、できる筈もない。下等は悩んだ挙句、野魔咲と相談して不信任決議案には賛成せず欠席することにした。これなら除名処分は避けられるのではないか、と判断したのである。だが、自分と野魔咲は成り行き上欠席するわけにはいかず、出席して賛成票を投じる、と下等派の議員を集めた会合で表明した。
除名は嫌だよう、誰か止めておくれよう、というのが下等の本音であったが、派閥の長として、そして今回の騒動の主役としては、今後の政治生命を考えればそんなこと言える筈もない。だが、そこは同じ政治家同士、阿吽の呼吸というものがあり、「大将だけで出撃してどうするんですか!」と多くの議員が諫言して、下等も彼等の政治生命保障という大義名分のため仕方なく従う、という見え透いた芝居を演じ、下等派と野魔咲派の反主流派議員は銛内閣不信任決議案の際には全員欠席することになった。
下等は、この決定には(自派議員の地位保全という)大義があり、これは名誉ある撤退なのだ、まだ第二幕はあるのだと自派議員とマスコミに説明したが、敗退を転進と言い換えた大本営並の弁解に多くの人は呆れてしまった。今回の騒動は全くの茶番劇に終わり、下等の政治生命は事実上絶たれてしまったが、腰砕けに終わった辺りが、如何にも優柔不断で甘ちゃんの下等らしいと言える。
何とも盛り下がった結末に終わった今回の下等の乱だが、不信任案審議の段階になって、茶番ぶりを象徴するような事件が起き、この騒動を締めくくるに相応しい幕切れになったと言えるかもしれない。呆腫党の末並議員が、演説中に眠主党議員の挑発的なヤジにカッとなってコップの水をかけてしまったのである。これを巡って議会は紛糾し、不信任案の決議は翌火曜の未明にまでずれ込んでしまった。やはり末並は、外見通りの単純マッチョ志向野郎ということなのだろう。
当然のことながら、不信任案は否決されて銛内閣は辛うじて命脈を保った。だが、主流派の中にも、来年の国会選挙は不人気な銛首相の下では到底闘えない、として銛退陣論が根強い。銛政権産みの親の一人である乃那珂も、これに浮かれず気を引き締めろなどと言って、堂々と銛を愚弄する始末で、どうも銛首相の寿命は、長くても来年の予算成立までのようである。今回の騒動は、現在の似奔に相応しい何とも不景気なものであった。