信長の野望戦略編(上)
初めに
これは、歴史雑文の「信長の野望」の連載を纏めたものである。以下、信長の置かれた状況を見ていくことで、戦略面から信長の行動を考察し評価していきたい。一度に掲載すると長くなるので、美濃制圧まで(上)・「第一次信長包囲網」の打破まで(中)・本能寺の変まで(下)の三つに分けて掲載する。赤字で付した数字は注で、文末に纏めて記した。参考文献は以下の通りで、基本的に太田牛一著・桑田忠親校注『新訂 信長公記』(新人物往来社1997年)に依拠しており、特に必要と判断した時以外は、同書からの引用は行なわなかった。石高は太閤検地のものを基準にしたが、扱う年代はそれ以前なので、多少低く見積もった。石高制が全国規模で行なわれたのは豊臣政権になってからだが、国力の指標にはなるだろうから、貫高制の領国についても、太閤検地を基準にして石高で表示した。
基本史料
◎太田牛一著・桑田忠親校注『新訂 信長公記』(新人物往来社1997年)。『信長公記』と省略。
◎奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』上巻・下巻・補遺索引(吉川弘文館1994年)。『文書(上・下・補)』と省略。書名の横の数字は文書番号である。
◎ルイス=フロイス著・松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』1・2・3(中央公論新社2000年)。『フロイス日本史(1・2・3)』と省略。
全般的な参考文献
◎脇田修『織田政権の基礎構造 織豊政権の分析1・2』(東京大学出版会1975・1977年)。
◎脇田修『織田信長』(中央公論社1987年)。
◎『歴史群像シリーズ27 風雲信長記』(学習研究社1992年)。『風雲信長記』と省略。
◎『歴史群像シリーズ54 元亀信長戦記』(学習研究社1998年)。『元亀信長戦記』と省略。
論文集
◎高柳光壽『高柳光壽史学論文集』上・下(吉川弘文館1970年)。参考としたのは以下の論文。
「中世史への理解−国家組織の発達について−」上巻所収。
「わが国に於ける国家組織の発達」下巻所収。
◎藤木久志編『戦国大名論集17 織田政権の研究』(吉川弘文館1985年)。参考としたのは以下の論文。
鈴木良一「織田豊臣時代の時代区分について」。
今井林太郎「信長の出現と中世的権威の否定」。
脇田修「織豊政権の商業・都市政策」。
三鬼清一郎「織田政権の権力構造」。
佐々木潤之介「信長における『外聞』と『天下』について」。
高木傭太郎「織田政権期における『天下』について」。
◎勝俣鎮夫『戦国法成立史論』(東京大学出版会1979年)。参考としたのは以下の論文。
「楽市場と楽市令」。
「戦国大名検地の施行原則」。
「戦国法」。
◎勝俣鎮夫『戦国時代論』(岩波書店1996年)。参考としたのは以下の論文。
「戦国大名『国家』の成立」。
「戦国時代の美濃」。
「交換と所有の観念」。
合戦について
◎宇田川武久『鉄炮伝来』(中央公論社1990年)。
◎藤本正行『信長の戦国軍事学』(JICC出版局1993年)。
◎藤木久志責任編集『朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読み直す15 城と合戦』(朝日新聞社1993年)。参考にしたのは以下の論考。
藤木久志「村の城・村の合戦」。
藤本正行「長篠の戦い」。
伊藤正義「城を割る」。
◎旧参謀本部編纂『日本の戦史 桶狭間・姉川の役』(徳間書店1995年)。『桶狭間・姉川の役』と省略。
◎藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社1995年)。
◎鈴木眞哉『戦国合戦の虚実』(講談社1998年)。
◎藤本正行『戦国合戦の常識が変わる本』(洋泉社1999年)。
◎鈴木眞哉『刀と首取り』(平凡社2000年)。
◎鈴木眞哉『鉄砲と日本人』(筑摩書房2000年)。
◎鈴木眞哉『謎とき日本合戦史』(講談社2001年)。
本能寺の変について
◎高柳光壽『本能寺の変』(学習研究社2000年)。
◎藤田達生『本能寺の変の群像』(雄山閣出版2001年)。
◎桐野作人『真説 本能寺』(学習研究社2001年)。
その他
◎藤木久志『戦国史を見る目』(校倉書房1995年)。
◎神田千里『信長と石山合戦』(吉川弘文館1995年)。
◎米原正義『出雲尼子一族』(新人物往来社1996年)
◎笹本正治『武田信玄』(中央公論社1997年)。
◎今谷明『戦国大名と天皇』(講談社2001年)。
序論
近年の日本においては、不況・既得権とも密着した腐敗・道徳心の低下といった現象が指摘され、日本の将来に不安を抱く人は決して少なくない。構造改革が必要だとは言われているが、それを不退転の決意で行なおうとする行動力と決断力のある政治家はなかなか現れない。
こうした状況の中、信長礼賛論が勢いを増しているように思われる(1)。戦国時代に、既得権にしがみ付く旧勢力と徹底的に戦い、新しい時代を築いた信長の如き果断な決断力と行動力のある政治家が現れないものか、というわけである。このような文脈で語られる信長は、既成の概念に全く囚われず独創的・先進的な天才的人物である。
一方、こうした信長礼賛論というか信長に対する反感もあるが、それらの中には、旧勢力との徹底的な戦いを認めつつも、その際に見られた信長の残虐さや破壊を批判するものも多くあり、これでは、信長礼賛論の裏返しにすぎず、同じ枠組みの中で信長を論じていることになる。
では、信長の独創性・先進性・天才性の根拠は何かというと、信長は戦国時代に**をしたから、というもので、具体的には、他家に先駆けての鉄炮の大量装備や楽市楽座や関所の撤廃や兵農分離などである。だが、ここで問題となるのは、信長礼賛論の多くが、**を戦国時代に行なうと何故天才と言えるのか、明確には説明できていないというか、所与の前提としてしまっていることで、結果として、「信長は天才だ→何故ならば戦国時代に**を行なったからである→**を行なうのは天才だ→故に信長は天才だ→信長の天才性は**戦国時代にをしたことからも明らかだ」というトートロジーに陥ってしまっているのである。
本当に信長が**を行なっているのならまだよいが、中にはそう言えるのか疑問のあるものもあり、また、本当に信長が行なったものの中には、信長以前に他の大名が既に行なっていたものもある。そういうわけで、信長礼賛論の根拠とされてきたものの中には、疑問を呈さざるを得ないものが多い。
だからといって、信長が平凡な人物だったと主張するわけではなく、戦国時代に信長ほど勢力圏を拡大し得た大名は他にはいなかったわけだから、優れた大名であったことは間違いない。ただ、過大評価や的外れな評価は退けて、でき得る限り実像に即した評価を述べていこう、というわけである。
尚、以下に「信長は運がよかった」との一文が度々出てくるが、これは何も、信長が運だけの人物だった、と主張したいがためではない。運を活かして成功を収めるには、それ相応の器量が要求されるわけである。凡そ、全ての成功者とは運のよい人なのだろうと思う。
以下に述べていく信長の事跡についての解釈は、基本的に先行研究を参考にしたもので、私独自の新見解などまずないということになろうが、それらを総合して提示される信長像は、或いは私独自の見解と言えるかもしれない。ただ、全体的な信長像についても、やはり依拠している見解はあり、それは高柳光壽氏の論文の以下の一節である(2)。
この戦国以後の大名といふのは重ねて申上げますが、室町以前の守護や地頭のやうに、単に、司法・警察権だけを持つてゐて行政権を持つてゐないとか、或は司法・警察権は持つてゐないが、収税権だけを持つてゐるとかいふやうなものとは相違して、軍事の権・司法警察権、それに併せて収税の権その他一切の行政権を併せ有するところの、すなはち一地方をば殆んど完全に近き状態に於いて領有する独立政権、古い言葉でいへば諸職を一職にした独立政権であつたのであります。そしてこれが大体応仁・文明以後から起り、戦国時代に於いて閑静せられたのでありました。戦国時代とさへいへば、群雄割拠して戦乱にのみその日を送つた暗黒時代のやうに考へられ易いのでありますが、実は完全に近き強力なる地方政権成立といふ、重要にして頗る意義深き事実を将来せしめるためには、必然的に経過しなければならなかつた時代であつたのであります。
さてこの戦国時代に完成された大名を、そのあるがまゝなる姿に於いて統一したのが信長でありまた秀吉であつたのでありまして、彼等はその統一に当つて決して守護地頭制・荘園制の古さに復さうとはしなかつたのであります。すなはち彼等は歴史の発展といふ大きな事実をそのまゝ容認したのでありまして、そこに彼等の成功があり、承久の乱や建武の中興とは全くその行き方を反対にしてゐたのであります。かくて安土桃山時代はこの大名を基礎としてこれを整理統一し組織した時代であり、頼朝の統一と秀吉の統一とがその内容を異にする所以もまたこゝにあるのであります。この戦国大名が守護や地頭に比してその政治力が如何に強大であり、また中央集権的に如何に進歩してゐたかは言を要せぬところといふべきでありませう。近世日本は実にこの大名の成立によつて、有機的な組織を持つ中央集権的な近代国家の黎明を迎へたのでありました。
確かに、所謂「中世」と「近世」の区分という点で、信長の織田政権は他の戦国大名と一線を画されるべきかもしれないが、それを言うなら、種々の統一政策という観点から、寧ろ豊臣政権と織田政権との断絶の方があるとも言える。もっとも、秀吉の諸政策は信長の模倣にすぎないとの指摘もあり、確かに、秀吉の諸政策の中には既に織田政権で見られたものも多くあるが(3)、それを言うなら、信長の諸政策も多くは他の戦国大名に先例が見られる。確かに、織田政権と他の戦国大名とに違いも認められるが、私は基本的には高柳氏の見解が妥当と考えており、この見解を基本として、以下論を進めていきたい。
生い立ち
信長は天文3(1534)年に織田信秀の嫡男として誕生した。因みに、信長と共に戦国の三英傑と称される豊臣(羽柴)秀吉と徳川家康は、それぞれ天文6・11年の生まれである。信長と対立した各武将はどうかというと、今川義元は永正6(1519)年、朝倉義景は天文2年、浅井長政は天文14年、足利義昭は天文6年、武田信玄は大永元(1521)年、武田勝頼は天文15年、上杉謙信は享禄3(1530)年、毛利輝元は天文22年、となる。武将とは言えないが、信長最大の敵とも言われる本願寺法主の顕如(光佐)は天文12年の生まれである。信長にとっては、謙信・義景・秀吉・義昭といったあたりが同年代の人物と言えようか。
信長の父である織田信秀は、尾張半国下4郡(4)の守護代である織田大和守(清洲織田家)の3奉行の1人であった。国人領主としてはやや有力といったところであろうか。因みに、信秀在世中は、尾張の守護は斯波氏で、尾張上4郡の守護代は織田伊勢守(岩倉織田家)であった。
守護代の奉行であった信秀は、下克上の世を象徴するかのような働きでのし上がっていき、一代で殆ど守護代と同格というところまで成り上がった。信秀は、尾張国内に留まらず隣国の三河と美濃へも積極的に勢力拡張を図った。天文9年に信秀は三河の安祥城を陥落させ、これに対して同11年に今川義元が織田領に攻めてきて小豆坂で両軍が激突したが、この時は織田軍が勝利を収め、三河の豪族の中には織田氏に付く者も少なからず出た(5)。これに対して義元は、同17年に織田領に侵攻していき、再び小豆坂で両軍が激突し、この時は今川軍が勝利を収めている(6)。これ以降、三河における織田氏の勢力は徐々に失われていき、逆に今川氏は尾張にも徐々に勢力を浸透させていくことになる。
信秀は、美濃にも積極的に出撃していったが、これといって成果は挙げられず、敗走することもあった。そこで、信長の後見役であった平手政秀が中心となって、美濃勢との和睦が成立し、美濃の実権を握っていた斎藤道三の娘と信長との婚姻が成立した。信秀の侵攻を撃退した道三だが、美濃の実権を握っていたとはいえ、権力掌握の過程で随分と反感を買っていたから、織田氏との妥協・協調も止むを得なかったというところか。
この間、信長は元服と初陣を済ませている。まず天文15年、平手政秀や林秀貞などを伴って古渡城にて元服の儀を行ない、翌年には、政秀を後見として今川家の勢力圏である三河の吉良大浜に出陣し、各所に放火して帰陣しており、初陣としてはまずまずの成果だったようである。敵の勢力圏における放火や苅田といった行為は、戦国時代には日常茶飯事であった(7)。また、この間には橋本一巴を師匠に迎えて鉄炮の稽古に励んだともされており、信長が早くから鉄炮に着目していたことの証左とされ、このことから信長の天才性を論じる人もいるが、同時期に紀伊の雑賀衆の中には小学生くらいの年齢の子供まで鉄炮の稽古を行なっていたのだから、このことは信長の天才性の根拠にはならないだろう(8)。
信秀は天文21年に亡くなった(9)。この時点での織田家の勢力圏はというと、何と言っても、秩序が定まらず反覆常なき時代だけに、確定することは難しいが、信秀は当初は海東郡の勝幡城を本拠とし、その後に愛智郡を制圧し、春日井郡の一部と知多郡と三河西部まで勢力圏を伸ばしていたから、知多郡と三河西部は次第に今川家に侵食されつつあったとはいえ、なかなかのものである。石高でいうと、20万石弱といったところであろうか。また、勝幡城は水陸の交通の要衝にあり、港町の津島に隣接していたから、単に税収面のみならず、情報収集の面でも何かと有利だったのだろう。実際、信秀の朝廷への献金額は同時代の他大名と比較して群を抜いており、信秀の経済力の高さが窺われる。
家督相続時にこれだけの勢力を引き継げる当主などそうもいるわけではなく、その勢力圏を完全に掌握できておらず、弟の謀反などを制圧していかねばならなかったとはいえ、信長は随分と恵まれていると言える。後の信長の覇業は、親から受け継いだ所領が大きく物を言ったというところは多分にあり、例えば毛利元就のように、引き継いだ所領が2万石程度では、一国統一に随分と時間を要していただろうし、その前に他の大勢力に潰されていた可能性もあるから、到底「天下布武」どころではなかったろう。
尾張統一戦
信秀の病死により信長が家督を相続すると、信秀に通じていた豪族の中には離反する者も出た。この時点では、各家の興亡は当主の力量に多分に左右されており、代替わりの時期は各家にとって盛衰の分岐点となっていた。代替わりを機に配下が鞍替えすることなど、全く珍しくはなかったのである。尚、この時点での信長の居城は那古野城である。
信秀病死の直後、信秀に通じていた尾張国愛智郡鳴海城主の山口左馬助が早速今川家に寝返った。これを放置していては信長の威信が低下してしまうわけで、信長は早速討伐軍を繰り出したが、この時の織田軍の兵力は800、対する山口軍は1500であった(10)。案外、信長が動員できた兵が少ないように思われるが、この後も、桶狭間の戦いに至るまで、信長の動員した兵はそれ程多くはなく、兵力で劣勢だったことも屡々だったと思われる。
無論、古記録において凡そ兵数や戦果ほど信用できないものはなく、『信長公記』首巻は他の巻と比較して史料的価値がかなり劣るとされているから、『信長公記』首巻の兵数を鵜呑みにはできないが、どうも桶狭間の頃までは、信長は兵数が劣った状況で戦いに臨んだことも屡々である。信長の凄さは、桶狭間以降は相手を圧倒する兵数を整え、勝つべくして勝っていったことにあるとされていて、私もこの指摘は概ね妥当だと思うから、少々意外な気もする。
兵数800といえば、2万石もあれば充分動員できる筈で、この時期の信長の勢力圏を考えると、随分と少ないように思われる。信長が敢えて少数精鋭で臨んだとも解釈できるが、後年の弟の反乱などから推測するに、「うつけ」「たわけ」との評判が立っていた信長だけに、家臣団もこの時点では信長に心服するには至っておらず、従って信秀から受け継いだ勢力圏の掌握が充分ではなく、また周囲に敵を抱えていたため、敵よりも多数の兵力を動員したくともできなかった、というのが真相であろう。信長に限らず、戦国時代の各勢力はできる限り敵よりも多くの兵を確保しようとしており、桶狭間の頃までは信長も敵を圧倒する兵力を常に整えることは困難だったのだろう。
織田軍は三の山の赤塚にて山口軍と激突したが、やはり兵数が劣勢だったため山口軍を撃破することはできず、30騎が討ち死にし、空しく帰陣することとなったが、兵数で約半分と劣勢だっただけに、敗走しなかっただけでもましと言うべきであろうか。
家督相続時の動揺につけ込んだのは山口左馬助だけではなく、天文21(1552)年8月、清洲城主で尾張下4郡守護代織田彦五郎の家臣坂井大膳らが、松葉城の織田伊賀守と深田城の織田右衛門尉を人質に取り、反信長の姿勢を明確にした。これに対して信長は、守山城主で父方伯父の織田信光の援軍を得て、坂井大膳らを撃破して松葉城と深川城を奪い、清洲織田家に打撃を与えた。
尾張国内の統一もまだ目途がつかず、後見役の平手政秀が切腹し、東方からは今川家が次第に三河から尾張にも勢力を浸透させつつあり、前途はまだ多難といった状況の中、天文22年4月、信長は尾張国中島郡富田の正徳寺で岳父の斎藤道三と会見した。寺院は俗界の縁の切れるアジールであり、婚姻関係にあるとはいえ、以前は度々戦ってきた織田家と斎藤家の当主の会見場所としては相応しいと言えよう。
この会見で、「たわけ」と見られていた信長の器量を道三が認めたことはあまりにも有名で、以後、短期間ではあるが道三の敗死まで織田家と斎藤家との蜜月が保たれ、この蜜月期間に信長は清洲城を奪取したり道三の援軍を得て今川方の村木城を陥落させたりしているから(11)、正徳寺の会見は信長にとって実に効果の大きいものであった。道三が信長に肩入れしたのは、その器量を認めたということや、娘婿であったことも影響を及ぼしているのだろうが、やはり道三にとって、信長との友好関係が強く必要とされたことが最重要の理由であろう。
道三は正徳寺の会見の前年に守護の土岐頼芸を追放し、名実共に美濃の国主となったが、国内外にかなりの反発を招来したようで、隣国近江の六角家の軍勢が美濃に乱入してきたこともあった(12)。道三は天文23年3月に突然隠居して家督を子の義龍に譲り、その2年後の弘治2(1556)年4月には、長良川の河原で義龍と戦って敗死したが、この時道三の下に集まった兵力は、義龍軍の僅か10分の1であったから、道三の治世は随分と不安定なものだったことが分かる。国内外に(潜在的)敵対勢力の多い状況では、娘婿の信長との提携は道三にとって必要不可欠だったのだろう。織田家と斎藤家との蜜月は、双方の利害が一致したものと言える。道三との会見により斎藤家の支持を得ることに成功した信長は、尾張国内の敵対勢力の制圧と今川家の尾張侵攻の撃退に力を注ぐことになる。
天文22年7月12日、清洲に居を置いていた尾張守護の斯波義統は坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位に殺害された。義統の子の義銀は川狩に出掛けていて難を逃れ(13)、信長を頼って那古野に逃げ延びた。清洲織田家と対立していた信長は、この事件を口実として同父同母弟の信勝(信行)の家臣である柴田勝家に命じて清洲を攻撃させた。成願寺の前で両軍は激突し、信長軍は、河尻左馬丞・織田三位を初めとして清洲織田家の有力な武将約30人を討ち取り、勝利を収めた。清洲織田家は有力な武将を失い、以後逼塞することとなったから、信長にとってこれは重要な戦勝となった。
翌年1月24日には、今川軍が三河の水野家攻略のための付城として村木に築いた砦を攻撃し、激戦となり多大な損害を出しつつも夕刻にはこれを陥落させ、翌日には今川家に寝返った寺本城の麓に放火して那古野に帰陣した。上述したように、この村木攻めの時に斎藤道三から援軍が派遣されている。また、この時の戦いでは織田軍が鉄砲を使用していて、確かに鉄砲の使用例としてはなかなか早いが、既に同時代には各地で鉄砲が用いられているから、信長が鉄砲に逸早く着目したとの根拠にはならないだろう(14)。
成願寺前の戦い以降苦境に立っていた清洲織田家の当主で守護代の織田彦五郎(信友)は、信長の伯父である織田信光と提携しようと画策し、天文23年4月19日(15)、信光は清洲城の南櫓に移り、両者の間に尾張下4郡をそれぞれ2郡ずつ領有する約束が交わされた。翌日、織田彦五郎の家老である坂井大膳が信光に礼を述べに南櫓に参ろうとしたが、実は信光は、信長と謀って当初より織田彦五郎を騙まし討ちにする所存だったので、兵を伏せていた。坂井大膳はこの様子に気付いて駿河へと逃走して今川義元を頼ったが、織田彦五郎は逃げ切れず切腹させられてしまった。こうして合戦に及ぶことなく謀略にて清洲城を奪取した信長は、那古野城を信光に譲り、自らは清洲城に入ったが、那古野城に入った信光は、同年11月26日に急死した。『信長公記』には、不慮の仕合せ出来して、孫三郎殿御遷化、とあるが(16)、恐らくは信長の謀略なのであろうし、そのことは家中の者も気付いていたのだろう。
翌年、つまり天文24年6月26日、信長の弟の喜六郎が、信長の父方叔父である守山城主の孫十郎の家臣に、川狩の最中に射殺されるという事件が起き、信長の報復を恐れたのか、孫十郎は守山城には戻らず逃亡してしまった。事件を知った信勝は末盛城から守山城へと出撃し、城下に放火した。信長は、一旦は清洲城に帰還したものの、その後に飯尾近江守らを派遣し、一方信勝は柴田勝家らを派遣して守山城を包囲した。信長が異母弟の安房守(秀俊)を守山城に派遣したところ、孫十郎の重臣であった角田新五と坂井喜左衛門が安房守に内応し、安房守が守山城主となった。安房守は、『信長公記』には利口なる人と見える(17)。ここまで着実に勢力を拡大していた信長だったが、弘治2(1556)年4月、岳父の斎藤道三が息子の義龍と戦い敗死し、美濃斎藤家が敵対勢力となったため、以後、桶狭間の勝利と徳川家康(当時は松平元康)との同盟まで、存亡も危ぶまれる厳しい期間を過ごすこととなる。
謀略を用いて旧主家(清洲織田家)ばかりか親族(伯父の信光)まで殺害したことに危機感を覚えたのか、斎藤道三敗死の頃より信勝派の信長打倒の動きが活発化し、信勝の家臣のみならず信長の家臣にも信勝に通ずる者がいたが、これは、信長の冷酷な手法が反感を買っており、また、この時点でもまだ信長の器量を認めていない者が家中にいたためであろう。また信勝派にとっては、信長と美濃斎藤家が敵対関係になったことも、反信長の旗幟を鮮明にする重要な契機となったことは間違いない。
信長の家臣である林秀貞(佐渡守)は、その弟の林美作守と共に信勝に通じており、林美作守は、弘治2年5月26日、信長が弟の安房守と共に那古野城に林秀貞を訪ねた際、信長を殺害しようとしたが、秀貞の反対で信長は難を逃れた。秀貞は、三代に亘って恩を受けているのだからここで信長を討つことはできない、と述べているが(18)、その直後に敵対の立場を明確にし、荒子城などを押さえているのだから、どうも優柔不断な印象を受ける。単に、秀貞が信長と比較して甘い人物だとも言えるが、或いは、信長と同様に謀殺という手段を用いては人心を得られない、と判断したのだろうか。
同年6月、守山城主の安房守は、嘗て自分を引き入れてくれたが、その後不和となっていた角田新五により切腹に追い込まれ、守山城は、逃亡中の孫十郎が許されて城主となった。角田新五はその後信長の家臣として活躍しており、安房守殺害は信長の策謀なのであろう。信長は、優秀な弟の孫十郎を、自己の地位を脅かす危険人物だと判断したのだろうか。
恐らく、孫十郎殺害が決定的な契機となり、信勝は、信長に殺害される前に先手を打って信長を倒してしまおう、と考えたのであろう。遂に同年8月23日、信勝は柴田勝家率いる1000人と林美作守率いる700人の軍を出撃させた。これに対して信長は、翌日清洲城より700人の軍を率いて出撃し、両軍は稲生(現名古屋市西区)にて激突した。兵力の劣勢な信長軍は、佐々孫介が討たれるなど当初はやはり苦戦して崩壊しかけたが、信長の奮戦により逆襲に転じ、信長自身が林美作守を討ち取るなど、結局敵兵450人余りの頸を取り、勝利を収めた。無論、前述したように古記録における兵士数や戦果は鵜呑みにはできないのだが、兵力で劣勢な信長軍が大勝したことは間違いないだろう。
この大敗により信勝派は逼塞し、那古野城と末盛城に籠城することとなり、これに対して信長はその城下に放火するなどして圧力をかけた。不利な状況に追い込まれた信勝は母親を仲介に信長に謝罪し、周囲に大敵を抱えていた信長も粛清するだけの余裕がなかったのであろう、信勝派を許すこととした。だが、信勝は2年後(19)の11月に再び謀反を企み、今度は信長に謀殺されてしまった。もっとも、これには疑問もあり、柴田勝家など信勝の家臣が信勝から離れ、信勝の人心が失われていることを確認してから、謀反の罪を捏造して謀殺したのではないか、とも考えられる。
信勝の反乱を制圧した時点で、信長は尾張下4郡のうち、海東・愛智と知多の一部を押さえ、更には上4郡のうち春日井郡の大半を押さえていた。知多郡の大半と春日井郡の一部は今川家に押さえられており、何といっても大敵だけに、信長も排除することは容易ではなく、永禄元(1558)年には春日井郡の今川方の品野城を攻めて敗北したこともあった。尾張下4郡の一つ海西郡は一向一揆が押さえていたが、一向一揆は外征能力が低く、また海西郡が尾張に占める地位はそれ程高くはない。そこで、信長の次の目標は尾張上4郡守護代の岩倉織田家となった。
岩倉織田家は、尾張上4郡のうち春日井郡を信長に押さえられ、残りの三郡も、本拠の丹羽郡にある犬山城の織田信清が信長に通じていたくらいだから、掌握は不充分で、恐らく信長の半分の国力もなかったであろう。更に、岩倉織田家では内紛が勃発し、当主の信安が長男の信賢に追放されてしまったので、この戦いは信長優位に進んでいくことになる。
抜け目のない信長は、岩倉織田家の内紛に乗じて攻め込み、更には犬山城の織田信清の援軍を得た。これに対して信賢も軍を派遣して迎撃し、永禄元(1558)年7月12日、両軍は浮野で激突した。戦いは信長軍有利に進み、『信長公記』に見える1250人を討ち取ったとの記事は流石に誇張がありそうだが(20)、ともかく信長軍は大勝し、岩倉織田家は以後逼塞することとなった。
信長は翌年3月に岩倉城を制圧し、ここに尾張統一がなったとよく言われるが、前述したように、尾張には今川家の勢力が浸透し、一向一揆にも一部を押さえられており、犬山城の織田信清も必ずしも信長に服していたわけではないから、この時点ではまだ尾張の統一とはいかない。
岩倉城攻略中の永禄2(1559)年2月、信長は初めて上洛し、将軍足利義輝に拝謁している。これは、尾張支配の正当性の保証意図したものであろうが、当時形式的にはまだ守護の斯波義銀が尾張に在国中で、信長は先例に倣って清洲城を義銀に献上し、自らは事実上の守護代として同城の櫓に居住しており、この時点では、旧来の政治的枠組みを維持・利用することで勢力拡大を図っていた(21)。信長のこのような姿勢は、他勢力を圧倒するに至る天正3(1575)年頃まで続くと推測され(22)、大胆な中にも慎重で巧妙な信長の政治手法が窺われるが、これは信長の最も優れた個人的資質と言ってよく、勢力拡大に成功した要因になったと言えよう。
信長は、尾張統一戦の過程で随分と謀略を用いたようで、暗殺も辞さなかった。随分と陰湿な手法のようにも思われるが、これは戦国時代には珍しいことではなく、毛利元就や宇喜多直家や龍造寺隆信なども、こうした手段を用いて勢力を拡大していったわけで、信長が特異な存在というわけではない。また、信長は度々寡兵で敵を破ったり引き分けに持ち込んだりしており、部隊指揮官としてもなかなか優秀だと言えるが、謀略も、こうした軍事力の強大さがあってこそ効果があるというものである。信長は、戦略には長けていたが戦術面ではあまり有能ではなかった、との指摘もあるが(23)、尾張統一戦を見ていると、戦術面にも長けていたと思われる。
桶狭間
信長にとって桶狭間の戦いは一大転機となったが、戦史や軍事史というわけではないので、個々の戦いの経緯を詳細に述べることはせず、戦いの背景や勝敗を分けた要因や戦いの影響に主眼を置いていくことにする。
今川家当主となって以来、駿河と遠江を固め、三河と尾張へ勢力の拡大を図ってきた今川義元だが、天文23(1554)年3月、武田信玄・北条氏康との所謂「甲相駿三国同盟」を締結して以来、その動きは本格化した。この同盟により後背をしっかりと固めることとなった武田・北条・今川の三家は、武田家は北信濃・北条家は関東・今川家は西方(三河・尾張方面)といった具合に、従来からの主要目標に主力を投入することが可能となったのである。三家の利害が一致した結果締結されたこの同盟は、今川家にとって実に有益なものであった。
三河と尾張の制圧に本格的に着手したとはいっても、三河は諸勢力が乱立しており、これを制圧するのは義元も容易ではなかったが(24)、桶狭間の直前には概ね三河も制圧し、更には尾張の一部をも制圧していった。これに対して信長も、弟の反乱を鎮圧したり岩倉織田家を制圧したりしつつ、一方では、今川方の尾張における拠点である鳴海城と大高城の付城として、善照寺や丸根といった砦を築いて配下を入れ、両城に圧力をかけつつ今川軍の侵入を防ごうとした。信長の築いたこれらの砦は、桶狭間の戦いにおける攻防の場所となった。
こうした状況の中、永禄3(1560)年5月12日、遂に今川義元は大軍を率いて駿府を発ち、織田領へと侵攻してきた。この軍事行動の最終目標は上洛であったとの解釈が一時は浸透していたが、流石に近年ではこの見解を支持する人は少ないようである。上洛目的なら、その途中の美濃斎藤家や近江六角家などと何らかの交渉があった筈だが、そのような形跡はない。駿遠三の太守今川義元といえども、まさか上洛途中の勢力を全て軍事力で制圧していくつもりではなかったろう。
この軍事行動の目的は、やはり尾張における勢力浸透を狙った示威行動にあり、直接の目的は、尾張における今川方の橋頭堡とも言うべき鳴海城と大高城に対する織田方の圧力の除去にあったと見るべきだろうが、かなりの大軍を動員したようなので、或いは、戦況によっては織田家、つまり尾張の制圧まで構想の中にあったかもしれない。
この時点での両家の勢力はというと、今川家が尾張の一部・駿河・遠江・三河、織田家が尾張の過半である。慶長年間の石高を基準にすると、今川家の勢力圏は約80万石、織田家は約40万石代半ばといったところだが、この時点では、それぞれ70万石弱と30万石強といったところであろうか。
今川軍は総勢4万5千人と称していたようだが(25)、これでは多すぎるのではないかということで、総勢では大体2万5千人ではないかと推測されている(26)。もっとも、目一杯動員すれば、70万石弱の勢力で4万5千人を動員することも不可能ではないが、やはりそこまでの動員はなかったのだろう。では、今川軍の兵数は総勢で2万5千人なのかというと、結局のところよく分からないが、少なくとも1万人以上を動員し、織田軍を兵数では圧倒していたことは間違いないようである。
一方織田軍だが、信長が直接率いた兵は2000人弱とされている(27)。これでは少ない気もするが、織田軍の兵力も、結局のところよく分からない。この他に、対今川用の善照寺や丸根といった5つの砦にそれぞれ数百程度の兵を配置していたようだから(28)、結局信長が今川軍の侵攻に動員し得た総兵力は、4000〜7000人といったところであろうか。この兵数は、信長の勢力圏から考えると少なく、この時点ならば1万数千人は動員できた筈である。そこで問題になるのは、信長は4000〜7000人しか動員「できなかった」のか、それとも、何か理由があって敢えて4000〜7000人しか動員「しなかったのか」ということである。
後者を採れば、信長は最初から義元の首だけを狙っていたのであり、そのために機動性に富んだ少数精鋭の軍を敢えて編成したのだ、ということになるが、どうもこの見解は疑問である。そもそも、信長が最初から義元の首を狙っていたかどうかは怪しく、この見解は結果論的解釈だと思われる。例えば、天文11(1542)年に今川軍の尾張侵攻を小豆坂で撃退したように、織田軍は何度か今川軍の尾張侵攻を退けているのであり、規模が従来よりも大きかっただろうとはいえ、今回も今川軍の目的は過去の尾張侵攻とは変わらないのだから、今川軍を敗走までさせなくとも、取り敢えず打撃を与えて尾張から撤退させるというのが、信長の当初の目標だったと推測される。
故に、信長が少数の兵しか率いなかったのは、止むを得ない事情があったためだと思われる。この時点で、嘗ての盟友だった斎藤家は仇敵となっており、周囲に織田家の有力な友好勢力は存在しなかった。従って、信長は対今川戦のみならず、斎藤家や一向一揆や北伊勢の諸勢力への備えとしても兵を割かねばならず、その分だけ今川軍の侵攻に対して動員できる兵が少なくなってしまった。また信長は、桶狭間の戦いの翌年に、今川方に通じていたとして守護の斯波義銀らを追放しており(29)、このことから推測するに、当時今川方の調略が進んでいて、信長配下の中には、今川方に密かに通じている者や、それに留まらず軍役を懈怠する者が少なからずいたのであろう。
そうすると、信長が籠城策を採用しなかったのも納得がいく。籠城しても援軍を派遣できるような友好勢力は存在せず、配下の中には今川方に密かに通じている者もいるのだから、籠城して寝返りでもされたら命取りになりかねない。それに、野戦で今川軍の侵攻を撃退した事例もある。何しろ、今川軍主力は遠く駿府より出撃しているのであり、このような長距離遠征では、損害を耐えて無理押しすることは難しく、信長の目標である今川軍の撃退も決して無理なことではない、と信長は過去の事例からも判断したのであろう。
また、信長が事前に家臣に作戦を打ち明けなかったのも(30)、信長の独裁性や天才性を示しているというよりは、今川方に作戦が筒抜けになるのを警戒したためと見るべきであろう。従って、頑迷な家臣の籠城策に対して、天才信長はこの戦いの本質、つまり義元を討ち取れば織田家の苦境脱出が達成されるのだ、ということを理解していて、少数精鋭で出撃したのだとの言説は、根本的に間違っているように思われる。
5月19日、清洲城を僅か6騎で出撃した信長は、一旦は善照寺に入った。従来、ここから迂回して義元の本陣を奇襲したとされてきたのだが(31)、どうも、そこから直進して中島砦に入り、今川軍本陣を強襲したというのが真相らしい(32)。中島砦に入った時点では、信長率いる兵は2000人弱だったようである(33)。ここで信長は、家臣の反対を押し切って出撃し、今川軍の前進部隊を攻撃したのだが、信長は敵の新手を疲労兵と勘違いして出撃したようである(34)。或いは、士気を上げるために敢えてそう言ったのかもしれないが、ともかく、信長は叩きやすい敵に打撃を与えて今川軍を撃退することを意図していたのであり、必ずしも当初から義元の首を狙っていたのではないことが窺われる。
今川軍の前進部隊を撃破した織田軍は、戦果を拡大すべく追撃し、遂に今川軍本陣に到達した。義元は、周辺部隊の来援を待つのではなく、一時撤退して体勢を立て直そうとした。この判断自体は、間近に来援可能な自軍部隊がいなかったと推測されることから、特に間違いとは言えないように思うのだが、今川軍本隊は勢いに乗る織田軍に突き崩されてしまい、義元は討ち取られてしまった。撤退せずに踏み止まって戦った方がよかったのかもしれないが、それは結果論というものであろう。
信長がどの時点で義元本陣の場所を突き止めたのかは分からないが、どうも、今川軍の前進部隊が本陣に向かって敗走しているのを追撃していたら、敵本陣に到達したという感じで、直前までは確証はなかったのではなかろうか。信長の桶狭間の戦いにおける勝利は、かなり恵まれたところがあるように思う。堅実に勢力を拡大してきた義元の失策は、やや孤立した形で布陣していたところを織田軍に強襲されてしまったことだが、これも結果論的解釈のように思われる。要するに、桶狭間の勝敗は運によるところが多分にあったと思うのだが、信長に数少ない好機を活かすだけの器量があったことも間違いないであろう。
義元の敗死を受けて今川軍は退却し、信長は初期の目的を果たしたどころか、当主の義元まで討ち取るという想定していた以上の戦果を挙げた。だが、これで今川家の脅威が根本的に除去されたということはなく、それは徳川家康(当時は松平元康)との同盟締結まで待たねばならなかった。とはいえ、家康との同盟も桶狭間の戦いにおける勝利なくしてあり得なかっただろうから、桶狭間の戦いが信長にとって一大転機だったことは間違いない。
家康は、桶狭間の戦いの後、本拠の岡崎城に帰還したが、義元の跡を継いだ氏真は信長に到底及ばないと判断したのか、織田家と通じていた三河の豪族水野家を仲介役に、信長と永禄5年1月に同盟を締結し、今川家から離反することとなった。これにより、織田家と徳川家は尾張のほぼ全域と三河西部を押さえることとなり、推定合計石高約60万石で、今川家の推定合計石高約50万石を逆転することとなった。もし、家康が依然として今川家に従っていたとしたら、義元を討ち取って鳴海城などを奪取したとはいえ、依然として今川家の半分強という勢力に留まっていたわけだから、苦戦は免れないところであった。
桶狭間の戦いの結果、戦国時代によくあった代替わりに伴う劇的な勢力変動が起きたわけで、以後信長は、今川家の脅威に悩まされることなく美濃に侵出できたし、一方家康も、今川家の内紛と衰退に乗じて三河東部から遠江への侵出が可能となったから、織田・徳川両家にとって、この同盟は大いに有益なものとなった。もっとも、この同盟により、今川家、更には武田家という東方の大敵の脅威が大いに軽減されたわけだから、織田家の方が遥かに多く利益を享受したと言えるかもしれない。また、或いは信長には、三河侵出という選択肢もあり得たとの想定も可能かもしれないが、美濃斎藤家と既に敵対関係にある以上、やはりそれは難しかったであろう。信長の慎重な外交方針がここにも認められると思う。
蛇足だが、義元は斎藤家などと連携して織田家を圧迫すればよかった、との見解も或いはあるかもしれない。だがそうなると、尾張制圧の達成時には斎藤家も尾張の一部の領有権を主張してくるであろうから、単独で尾張を制圧できる可能性の高かった今川家としては、割りのよい話ではない。斎藤家は、当主の義龍が若死にしたことから推測するに病弱だったようで、それでも父の道三よりは器量があったのか、美濃国内は何とか纏めていたが、父子の争いの余波もあってか、国外に積極的に出撃することはなかった。
北伊勢は諸勢力が乱立して一枚岩とはいかなかったから、今川家の尾張侵出を妨害する強力な勢力はなかったわけで、義元とすれば、それらの勢力は尾張を単独で制圧した後に服属させていくつもりだったのだろう。仮に義元が桶狭間の戦いで信長を返り討ちにしていたら(その可能性は充分すぎるほどあったと言えよう)、そのまま今川家が尾張と美濃と伊勢を制圧し、最大の勢力にのし上がっていた可能性は高いであろう。
もっとも、義元が信長のような天下人となれたかというと、年齢の問題もあるので難しかっただろうし、後継者が氏真だけに、今川家による統一が達成された可能性は低いだろう。当主の器量に大きく左右されない体制の確立には、それ相応の時間と「手順」が必要なのである。
ただこの場合、義元は戦国時代屈指の名将として現在も賞賛されたていたであろうことは間違いないと思う。だが、信長の出撃策が運よくずばりと嵌って義元は討ち取られてしまい(義元に全く過失がなかったとは言わないが)、信長は現在も日本史上屈指の英雄・天才として賞賛される一方、義元は貴族かぶれした文弱で間抜けな大名という評価がまかり通ってしまい、近年になって漸く一般にも高く評価されるようになった。一度の失敗でこれだけ評価を落としてしまうとは、世評とは何とも怖いものである。
美濃攻略
桶狭間の戦いの直後に、信長は何度か美濃に侵攻しているが、これは威力偵察のようなものだったのであろうか、これといって戦果は挙げられず、撤退している。また、美濃斎藤家の当主である義龍は、病弱だったためか、国外に積極的に出撃することはなかったものの、父の道三より器量が上だったようで、家臣団をよく統率していたようである。こうなると、如何に信長が名将で外交と謀略に長けているとはいえ、尾張と美濃の経済力はほぼ互角だから、なかなか美濃を制圧することは難しい。
だが、信長にとって幸運なことに、永禄4(1561)年5月11日、斎藤義龍が亡くなった。後を継いだのは息子の龍興だったが、この時まだ14歳で、しかも器量は父や祖父よりも随分と劣っていたようである。この機を逃さず、信長は2日後の5月13日に出撃し、その翌日の5月14日には迎撃してきた斎藤軍を森部にて撃破し、長井甲斐守や日比野下野守といった神戸将監といった斎藤家の有力家臣を討ち取り、更には墨俣という美濃侵出への橋頭堡も奪取した。代替わりの動揺をついた見事な行動と言えよう。これに対して斎藤軍も反撃に出て、同月23日、墨俣に押し寄せた。織田軍も出撃して斎藤軍を迎え撃ち、犬山城主織田信清の弟が討たれるなど一時は苦戦したが、結局斎藤軍の撃退に成功した。
ところが、この戦いで弟を失ったことに恨みを抱いたためか、犬山城主織田信清は信長から離反して斎藤家に通じてしまい、斎藤家が尾張における拠点を確保した形となった。当然、信長は犬山城の制圧に向かうことになり、先ずは永禄5年6月、犬山城の支城である小口城に攻めかかったが、苦戦して退却することとなり、尾張統一とはいかなかった。
ここまで主に美濃西部へ侵攻していた信長だが、翌年の永禄6年になると、美濃中部から東部へと侵攻の重点を変更するようになった。信長が清洲城から小牧山城へと本拠を移転したのがいつかは定かではないが、清洲城の北東にある小牧山城への移転は、美濃攻略の経路の変更と犬山城制圧とを意図した結果であることは間違いなく、その時期は永禄5〜6年ということになろう。
美濃攻略の経路を変えてきた信長だが、永禄6年の美濃加賀見野への侵出は失敗に終わり、相変わらず一進一退の攻防といったところである。だが、翌年2月になって斎藤家に内紛が勃発し、一時的ではあるが、斎藤家の居城稲葉山が竹中半兵衛(重虎)らに奪われた。斎藤家のこの混乱に乗じて、信長は斎藤家に寝返った犬山城の織田信清を攻めた。先ず、犬山城の支城である小口城と黒田城を調略で勢力化に置くことに成功し、孤立させた上で犬山城を攻め、信清も耐えられずに8月になって甲斐へと落ち延びた。こうして、信長は遂に尾張の統一を達成した。
尾張を統一した信長は、斎藤家において同年に勃発した内紛に乗じて、美濃における勢力拡大を着実に進めていった。信長は、丹羽長秀に命じて加治田城主の佐藤紀伊守を自陣営に引き込んだり、出兵して軍事的圧力をかけることにより宇留摩城の大沢基康を配下に加えたりして、斎藤家を切り崩していった。軍事行動で圧力をかけつつ調略も平行して行ない、敵を確実に切り崩していくあたり、信長の政略に長けた点が窺える。
これに対して、斎藤龍興も加治田城の付城として堂洞に砦を築いたのだが、永禄8年9月に信長は速攻で堂洞の砦を陥落させた。龍興も自ら軍を率いて救援に来たのだが、時遅く既に陥落した後であった。斎藤家は、永禄7年の内紛が示しているように、龍興が家中を纏められていなかったようで、堂洞砦の救援でも後手を踏むこととなり、美濃中部から東部における織田家の勢力浸透を防ぐことはできなかった。だがそれでも、やはり美濃一国を治めていた斎藤家の底力は侮れないもので、永禄9年閏8月8日には、美濃河野島で織田軍と斎藤軍が激突したが、織田軍は敗走して多数の死者を出してしまった。
この戦いは、どうも上洛を企図していた織田軍を斎藤軍が迎撃したというものだったようで、兄で室町幕府第13代将軍の足利義輝が永禄8年5月に殺害された後、義昭は早くから信長と接触していて(信長は遅くとも永禄9年6月までには義昭の推挙により尾張守に任官していたようである)、上洛、つまり自分を将軍位に就けるべく兵を起こすよう促していたのであるが、義昭がまだ美濃を完全に制圧していない信長に着目したのは、信長が嘗て義輝に拝謁してその公武一統理念に賛同していたからで、同じく義輝に拝謁したことのある上杉謙信もその理念の賛同者であった(35)。
河野島の戦勝も斎藤家の巻き返しには結び付かず、永禄10年8月1日、美濃三人衆と呼ばれる美濃西部の有力者である稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の三人が申し合わせて織田家に寝返ると、信長は直ちに出陣して斎藤家の本拠である稲葉山城を包囲し、翌9月には、もはや美濃を保つのは困難と判断した当主の龍興が城を脱出して伊勢長島に落ち延び、ここに信長は美濃を制圧することとなった。
信長は、本拠を小牧山城から稲葉山城に移すと共に、稲葉山城下を井口から岐阜へと改称し、以後、稲葉山城は岐阜城と呼ばれた。因みに、岐阜の呼称はこの時初めて登場したものではなく、一部の僧侶の間では、以前より稲葉山が岐阜と呼ばれており、周の文王と関連する名称として使用されていた(36)。同年11月には信長は有名な「天下布武」の印判を使用し始め、岐阜改称と併せていよいよ天下統一の志を明確にしたと言われているが、この時点での信長の「天下布武」構想は、必ずしも幕府を否定するものではなく、義昭を奉じて上洛し、自らの軍事力で幕府と朝廷の復興を目指すものであった(37)。
信長の美濃制圧は、桶狭間の戦いの後7年を要したということになるが、尾張と美濃とでは国力がほぼ互角だけに、義龍の死去と代替わりによる斎藤家中の内紛がなければ、もっと時間を要したか、或いは決着がつかなかった可能性もある。美濃制圧に関しても、信長はかなり恵まれたところがあったと言えるが、何度かの敗戦があったとはいえ、軍事的に打撃を与えつつ調略を駆使して美濃を制圧していった手腕は流石に見事なものである。
ここで少し、桶狭間の戦いの後の信長の戦略について考えてみたい。桶狭間での勝利と家康との同盟により東方の脅威が消滅した織田家にとって、次の侵攻方向は美濃か北伊勢となる。信長は、桶狭間の直後から美濃に攻め入っており、北伊勢に纏まった規模での軍事的圧力をかけるようになったのは永禄10(1567)年になってからだから、桶狭間の直後から侵攻方向は美濃と決めていたようである。
よく、早くから天下統一を意識していた信長は、上洛のためには尾張の次に美濃を取る必要があったとか、道三より美濃の譲り状を受けていたので美濃に攻め入ったとの説明がなされるが、後者の譲り状は後世の偽作であろうし、前者についても、上洛戦自体は美濃からでも伊勢からでも充分可能だから、明確な説明とはなっていない。
では、何故先に美濃を攻略したのかというと、道三の敗死後は斎藤家と仇敵関係になっており、こちらとの戦いを優先せざるを得なかったのに対して、北伊勢は北畠家や六角家などが影響力を及ぼしていたとはいえ、諸勢力が乱立していて尾張に侵攻してくる余裕がなかったからであろう。また、北伊勢に干渉できそうな有力勢力が北畠家と六角家だけなのに対して、美濃に干渉できそうな勢力は越前の朝倉家・北近江の浅井家・南近江の六角家・甲斐信濃の武田家と揃っていて、他勢力の干渉できないうちに美濃を単独で制圧しよう、との判断も働いたのだろう。
信長が美濃を攻めている間は、朝倉家は一向一揆との、浅井家は六角家や京極家や一向一揆との、武田家は上杉家との戦いがあり、美濃に有効な干渉ができるだけの余裕がなかった。また六角家は、浅井家との戦いもあったが、何よりも永禄6年10月に重臣の後藤賢豊を成敗したことを契機とする内紛(観音寺騒動)が勃発して以降は振るわず、斎藤道三が土岐頼芸を追放した時のように美濃に干渉する余裕はとてもなかった。
こうした点からも、信長は美濃制圧に際してかなり恵まれていたと言えるが、信長は、所与の条件に甘んじることなく、美濃の単独確保に向けて慎重な外交政策をとっており、外交に長けたところを見せていると言える。先ず、永禄8年には武田家の勝頼に養女を嫁がせて、東美濃の確保を図っている。当然、それ以前より武田家との交渉は行なっていたであろうから、早くから美濃単独確保に向けて慎重な手立てを講じていたのであろう。
浅井家には妹(38)を嫁がせているが、その時期には諸説あり、早いものだと永禄4年、遅いものだと永禄10年末または11年となる。前者の場合、美濃単独確保の布石と言えるが、後者だと、上洛戦への布石ということになろう。ただ、後者だとしても、やはり武田家の場合と同様に、織田家と浅井家との交渉自体はそれ以前より行なわれていたであろうから、浅井家との交渉には、上洛戦だけではなく美濃単独確保の意図も含まれていたであろう。
また信長は、上杉家とも早くから親密な交渉を持っており、永禄7年には息子を謙信の養子に迎えられることを感謝した内容の書状を出しており、また度々鷹などの贈物を献上している。信長と謙信の親密な関係は、上述したように、両者が足利義輝の構想の「同志」だったことが重要な契機となったのだろうが、それに留まらず、武田家との関係悪化を想定しての「保険」という意図もあったのではないかと推測される。
ともかく信長は、美濃制圧に際しても様々な面で細心の注意を払っているが、一方では時として電光石火の軍事行動により多大な成果を挙げており、ここでも慎重さと大胆さを併せ持つ信長の資質が成功を導いたと言えよう。
信長が美濃を制圧したのは永禄10(1567)年のことで、家督を継いだのが天文21(1552)年、横死したのが天正10(1582)年だから、織田家大名としての活動期間の半分(一応、途中で信忠に家督を譲ってはいるが)を尾張と美濃の制圧で費やしたということになる。ここまで、20万石弱の所領を15年かけて100万石弱にまで増やしたわけで、その手腕は見事なものである。
ここから同じ年数をかけて、所領を600万石代半ば〜後半(39)まで増やしたのだから、所領は前半と比較して飛躍的に増大したが、伸び率自体は前半も後半もそれほどの違いはない。所領の拡大規模は、「元手」に応じたもとのなってしまうのである。信長の「後半生」における覇業の基礎も、「前半生」における美濃と尾張との制圧が大きく物を言ったのであり、更に言えば、家督相続時に受け継いだ所領の大きさこそ信長の覇業の要因だったと言えよう。如何に当主の器量が優れていたとしても、ある程度の所領がなければ、その器量を活かすことは難しいものである。
注
(1)例えば、秋山駿『信長』(新潮社1996年)など。
(2)「わが国に於ける国家組織の発達」P72〜73。
(3)例えば、刀狩や高次調停権を持ち出しての講和と服属化など。
(4)尾張は、葉栗・丹羽・中島・春日井の上4郡と、海西・海東・愛智・知多の下4郡からなる。
(5)『桶狭間・姉川の役』P56〜58。
(6)同上。
(7)『雑兵たちの戦場』P36〜40。
(8)『鉄砲と日本人』P72。
(9)天文20年死亡説もある。
(10)『信長公記』P32。
(11)道三の派遣した安藤伊賀守率いる1000人の援軍は、村木城攻めに加わったのではなく、那古野城の留守居役を勤めた。
(12)「戦国時代の美濃」P204。
(13)義銀と屈強の若侍衆が川狩に出掛け、義統の館には老人しか残っていない機会を狙って、坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位は義統を狙ったのである。
(14)『鉄砲と日本人』P72〜73。
(15)弘治元(1555)年説もある。
(16)『信長公記』P42。
(17)『信長公記』P44。
(18)『信長公記』P45。
(19)信勝が殺害されたのは、永禄元(1558)年ではなく弘治3(1557)年との説もある。
(20)『信長公記』P74。
(21)『本能寺の変の群像』P23〜24。
(22)『本能寺の変の群像』P9〜10。
(23)例えば、『戦国合戦の虚実』P163。
(24)特定の地域の制圧に関しては、ある程度の勢力が纏まっていた方が、その勢力をそのまま支配下に収めれば制圧が完了するという意味で、諸勢力が乱立している場合よりも容易だとも言える。
(25)『信長公記』P55。
(26)例えば、『桶狭間・姉川の役』(徳間書店1995年)P70など。
(27)『信長公記』P56。
(28)『桶狭間・姉川の役』P72。
(29)尾張保持に義銀はもはや不要というか、寧ろ邪魔だとして信長は追放したのだろう。今川軍侵攻に際して軍役を懈怠していた他の家臣団については、尾張保持と美濃攻めに必要だとして罪を問わなかったのだろうが、当時、敵対勢力にも誼を通ずるということはよくあり、信長もこれを全く許せないほど狭量ではなかったということだろう。
(30)『信長公記』P54。ただ、これを史実と受け取ってよいものか、疑問もある。
(31)例えば、『桶狭間・姉川の役』P83など。
(32)例えば、『信長の戦国軍事学』など。『信長公記』を読むと、迂回奇襲ではなく直進強襲の方が妥当と推測されるのである。
(33)『信長公記』P56。
(34)同上。
(35)『本能寺の変の群像』P25〜30。
(36)「戦国時代の美濃」P213。
(37)『本能寺の変の群像』P31。
(38)従兄弟の娘を妹ということにして嫁がせたとの説もある。
(39)事実上従属関係にあった徳川家と宇喜多家も含めれば700万石代半ばとなろう。