信長の野望戦略編(中)

 

 

上洛戦
 美濃を制圧した信長の次の目標は北伊勢であった。既に美濃攻略中から北伊勢への攻略に着手していたが、本格化したのは美濃制圧後のことであった。美濃を制圧した時点での信長の侵攻方向は、近江・飛騨・信濃・北伊勢・越前のいずれかとなるが、先ず北伊勢を侵攻対象とした理由について少し考えて見たい。北近江の浅井氏と信濃の武田家とは友好関係にあり、越前の朝倉家には、恐らく美濃制圧の時点で既に擁立を構想していたと思われる足利義昭がいる。飛騨の諸豪族は上杉派と武田派に分かれて抗争中で、織田家は上杉家とも友好関係にあり、また飛騨の国力は低いから、上杉・武田両家との関係悪化の危険を冒してまで侵攻するのは得策ではない。そうなると、次の侵攻先は北伊勢か南近江となるが、本国である尾張の安全確保という観点から、北伊勢の侵攻が優先されたのではなかろうか。
 美濃を制圧した翌年、永禄11(1568)年2月、信長は北伊勢に軍を率いて侵攻し、制圧に成功する。ここで信長は、北伊勢の有力豪族である神戸家と長野家に一族を送り込み、その支配の安定を図った。前者には三男の信孝を、後者には弟の信包を養子として送り込んだわけだが、このような事実上の乗っ取りは戦国時代によく見られたもので、有名なところでは、例えば毛利元就が息子を吉川家と小早川家に送り込んでいる。対象豪族の組織をそのまま活用できるし、家臣団の反発も取り潰しの時程ではなかろうから、勢力拡大にはなかなか有効な手法と言える。
 この時信長が動員した兵数は約4万とされており
(1)、この頃から信長は兵士を大量に動員し始める。勢力の拡大と行政組織の整備が進展したことが大量動員を支えたのだろうが、勢力を拡大して強敵と対峙するになると、それだけ多くの兵士の動員が必要となるのである。これは、織田家だけではなく「全国」的な傾向で、16世紀半ば頃より、各大名家とも大量動員体制を整え始めているのである。

 北伊勢も手中に収めた織田家の所領はこの時点で120〜130万石といったところで、恐らく日本最大の大名に成り上がったと推測される。こうなると、一旦は失敗したとはいえ、足利義昭が信長に再度上洛と将軍就任の後押しを期待するのは当然のことだとも言える。
 義昭は、兄の将軍義輝が三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)と松永久秀とによって永禄8年5月に殺害された後幽閉されていたが、同年10月、隙を見て脱出し、近江六角家へと逃れた。六角家は、京都を巡って三好家と長年争っており、義昭にとっては庇護者となり得る筈だったが、永禄6年10月の観音寺騒動以降は振るわず、次第に三好三人衆と接近したので、義昭は永禄9年8月に朝倉家を頼って越前へと脱出した。だが、一向一揆に悩まされていた朝倉家には義昭を奉じて上洛するだけの国力はなく、最も頼みとしていた上杉家も一向一揆や武田家と対立していたため、上洛どころではなかった。
 義昭としては、信長に頼らざるを得ない状況となっていたわけである。前述したように、義昭と信長とは義輝を通じてこれ以前より関係があったため、永禄11年7月に義昭が信長を頼って美濃に赴いたことは特に不思議ではない。恐らく信長は、これ以前より上洛準備をしており、義昭に美濃に移るよう働きかけていたのであろう。

 ここで少し、畿内の状況を整理しておく。阿波から出た三好長慶は、将軍義輝と対立しつつも畿内において勢力を拡大し、死亡した永禄7年7月4日の時点では、畿内と阿波・讃岐を中心として約150万石と日本最大の勢力を誇っていた。
 長慶没後、三好家は養子に入っていた義継が跡を継ぎ、三好家は翌年5月の将軍義輝殺害まではまだ何とか団結していたが、その後重臣の松永久秀と三好三人衆とが対立し、更に永禄9年6月に三好三人衆が堺公方義維の息子である義栄を将軍に擁立すると、義継はこれに激怒し、三好三人衆と手を切り松永久秀と同盟を締結した。長慶の死により三好家は分裂してしまい、更に配下の中には三好家と手切れする者も出てきた。それぞれの勢力圏は、三好三人衆が約80万石、義継・久秀連合が約40万石といったところであろうから、三好家はあっという間に日本最大の勢力から転落してしまった。しかも、代替わりに伴う動揺で配下の士気も上がらなかった。
 三好家の場合も、代替わりによる劇的な勢力変動があったわけだが、仮に長慶が気力と健康を維持し長命を保っていたとしら、或いは三好家による統一が達成されていたかもしれなかったし、長慶一代での統一が成らず、死後に分裂があったとしても、いずれかの後継勢力は並みの戦国大名よりも遥かに大規模な勢力圏を有していたであろうから、その勢力が統一を果たしていた可能性は高い。
 織田家の場合も、信長死後に分裂したが、こちらは分け前対象となる勢力圏が大きかっただけに、後継勢力は他の戦国大名を上回る勢力を確保できたので、統一が可能となった。三好家の場合は、織田家程には分け前対象となる勢力圏が大きくはなかったので、後継勢力はいずれも他の有力戦国大名に対して優位を保てず、統一を果たすことはできなかった。信長は上洛後も何度か命を落としかねない状況に陥った。仮に元亀元(1570)年の朝倉攻めからの退却中に死亡していたとしたら、後継者の信忠もまだまだ若く、家中が分裂していた可能性が高いから、織田家の後継勢力が統一を果たしていたか甚だ疑わしい。そうすると、信長の歴史的評価も長慶以下となったことだろう。
 まあそれはともかく、長慶の死と三好家の分裂が永禄11年の時点まで起きていなかったとしたら、信長も容易に上洛戦は敢行できなかった筈で、しかも長慶の没年齢は43歳というのだから、信長は実に運がよいと言える。

 さて、義昭を推戴した信長は永禄11年8月に一旦近江に入り、義弟の浅井長政の出迎えを受けて六角家を説得したが、将軍義栄を奉じて義昭と対立している三好三人衆と通じていた六角家は応じなかった。信長は翌9月7日、浅井・徳川の援軍も含めて5万と言われる(2)大軍を率いて南近江の六角家に攻め込み、六角家の居城である観音寺城の支城の箕作城を9月12日に陥落させた。これを受けて六角承禎・義治父子は伊賀へと逃亡し、信長はあっさりと南近江を制圧した。六角家は観音寺騒動以来家中は事実上の分裂状態で、6万もの大軍を前にしてあっさりと崩壊してしまったのは無理もないことであった。
 織田軍は殆ど戦闘もなく9月26日には入京し、義昭もまた入京を果たした。この時、織田軍の軍紀は厳正で濫妨・狼藉はなかったとされるが、やはり戦国時代には戦場に略奪は付き物で、織田軍と徳川軍の兵士は略奪に熱中したと云う
(3)。織田軍は続いて摂津・河内の三好三人衆の拠点を攻撃していき、義昭も行動を共にした。松永久秀や三好義継といった畿内の反三好三人衆も次々と義昭支持を表明し、畿内は概ね治まった。信長の上洛とその後の畿内平定については、義昭の存在が大きく物を言ったところがあり、久秀が義昭を殺害せずに幽閉に留めていたことは、信長にとって幸いだった。
 将軍義栄が上洛戦途中の9月に急死したことも、信長にとっては幸運だった。これにより三好三人衆の側の大義名分が失われて、信長の下に畿内の諸勢力が集結しやすくなっただけではなく、義昭の将軍任官の障害も除去された形となり、同年10月18日に義昭は征夷大将軍に就任した。仮に義栄の急死がなかったとしても、信長の上洛は達成されていただろうが、その後の畿内の平定と義昭の将軍任官で手間取っていた可能性があるから、信長にとっては都合の悪い事態となっていたかもしれない。
 また、義栄の急死がなければ、信長としても義昭をそうも粗略に扱うことはできなかった筈で、室町幕府体制の否定も史実よりは時間を要し困難なものとなっただろうし、信長も室町幕府体制の中に埋没してしまう危険性があった。信長はここでも運がよかったということになるが、義栄の急死が信長による暗殺だとしたら、信長は自力で室町幕府体制否定の重要な契機を作った、との評価に変更となる。

 畿内を概ね平定した信長は、10月14日に京都に帰還した。同月23日、義昭は信長のために能楽を主催し、その席で信長に副将軍か管領に就任するよう要請したが、これを断った。普通、これは室町幕府の体制に取り込まれることを信長が嫌ったためと解釈されていて、確かにそうした意図もあるのだろうが、それ以上に、守護代の配下という家柄の出自である信長が管領や副将軍に就任した場合の諸勢力の反発を警戒したためだろう。
 同月26日、信長は京都を発ち、28日に岐阜へと帰還した。畿内平定については反三好三人衆の諸勢力の功績が大きかったため、織田家の新たな所領は南近江だけとなったが、それでも大した成果と言え、織田家の勢力圏は約160万石となった。

 12月28日、信長により京都から駆逐された三好三人衆は、阿波からの三好康長の援軍を得て反撃に出て、三好義継の治める和泉の家原城を陥落させ、京都へと進軍した。信長により畿内での勢力圏を大幅に奪われたとはいえ、この時点での三好三人衆の勢力圏はまだ45万石程あり、2万近い兵を動員することも可能だったから、決して侮ることはできなかった。翌年1月5日、三好三人衆は将軍義昭の御座所である六条本圀寺を包囲したが、義昭軍は寡兵ながらよく耐え、翌日には三好義継など義昭方の軍勢が来援して三好三人衆の軍は散々に打ち破られた。
 1月6日に三好三人衆侵攻の報を受けた信長は、大雪の中を急行し、2日後には京都に入り、功のあった者を賞した。今回は、信長は割と長期間京都に滞在し、岐阜に帰還したのは5月11日であった。この間、本圀寺襲撃の反省を踏まえて、二条に堅固な将軍御座所を建設した。大工奉行に任命されたのは、村井貞勝と島田所之助であった。また、疲弊した禁裏の修理にも取り掛かり、朝山日乗と村井貞勝が奉行に任命された。
 この京都滞在中最も注目すべきことは、信長が幕府殿中掟を定めたことである。これは1月14日に制定され、その2日後に追加が制定されている。この殿中掟には、信長の署名と判があり、義昭がこれに同意したことを意味する袖判がすえられている。全体として、将軍の恣意的行動を制約し、殊に裁判に関与しづらいように定められている
(4)。信長は、徐々に将軍権力を形骸化していこうと企図していたのだろうが、前述したように、これが可能となったのも、前将軍の義栄が急死して義昭への依存度が低くなっていたからである。

 岐阜に帰還した信長は、北畠家が支配している南伊勢の攻略に着手する。北畠家の本拠は大河内城であった。信長が岐阜に帰還した5月、北畠家当主具教の弟である木造城主の木造具政が織田方に寝返り、信長が即座に北伊勢に配置していた滝川一益らを援軍として派遣したため、木造具政は北畠軍に包囲されながらも耐えていた。
 8月20日、信長は8万とも伝わる
(5)軍勢を率いて岐阜を出陣し、その日のうちに桑名まで進出して翌日には鷹狩をする余裕を見せた。26日には木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が大河内城前面の阿坂城を攻め落し、28日には遂に大河内城を包囲するに至った。この時、城下町を焼き払っているが、これは攻城戦ではよくあることである。翌9月8日、信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉一鉄の3人に命じて西搦手口に夜襲をかけさせたが、雨が降って鉄炮が使えなかったこともあり、屈強の武士20余人が討ち取られるという敗北を喫した。以後、信長は強攻せず、包囲を強化して兵糧攻めに専念した。
 北畠具教は不利を悟って信長からの講和に応じ、大河内城を譲り渡すと共に、信長の次男信雄を養子に迎え入れることとなり、10月4日に大河内城は開城となって、信雄が城主となった。これで、信長は尾張・美濃・伊勢・南近江を領有することとなり、織田領の推定石高は約180万石となった。

 信長は大河内城を開城させた2日後、伊勢神宮に参拝し、その後10月11日には上洛して義昭に伊勢平定を報告した。だが、今回の在京期間は短く、同月17日には岐阜に帰還している。『多聞院日記』によると義昭との意見の相違があったようで、その衝突が奈良にまで伝わっているのだから、あからさまな衝突だったのだろう(6)
 年が明けて永禄13(1570)年1月23日、信長は五ヶ条の事書を義昭に呈して承認させた。この文書は、信長の朱印状として朝山日乗と明智光秀とに宛てたものだが、袖に義昭の黒印が捺されていた。第一条では信長に無断で書状を送れないようにした。第二条では義昭の従来の決定を破棄にした。第三条では幕府の恩賞権への干渉を宣言した。第四条では天下を天下を統治する権限は信長に委任されたもので、将軍の意思に関わらず成敗を行なうと宣言した。第五条では皇室への財政援助を義務付けた。特に重要なのは第四条だが、この五ヶ条の事書により、信長は義昭の持っていた権限を握り「天下之儀」を掌中に収めることに成功した
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 信長としては、諸国に書状を送って連絡を取っている義昭の行動をこれ以上見過ごすわけにはいかず、将軍権力の掣肘に乗り出したのだろう。この処置が妥当だったのかというと、何とも難しいところである。ただ、義昭は信長の傀儡に甘んじるつもりは全くなく、また前年の衝突で信長と義昭との対立は両者にとって自明のものとなったから、先手を打って義昭の行動を制約する大義名分を得たことは、妥当な処置だったと言うべきであろう。
 もっとも、これを以って幕府体制の否定とは言えず、信長は以後も幕府体制を利用しており、義昭もあからさまに信長に敵対したわけではない。両者は、元亀4(1573)年までは、表面的には友好関係を保ち続けていた。信長は、五ヶ条の事書を義昭に呈したのと同日、東は三河と遠江の徳川家康から西は備前の国衆まで書状を出し、2月中旬までに上洛するよう命じた。内裏を修理し、将軍に仕えて天下を安寧にするために上洛しろ、という内容の書状で、幕府と朝廷の権威を利用して「天下布武」を図ろうとする信長の姿勢が窺われる。このことからも、この段階では、幕府体制を否定してしまえる程の国力と論理を、信長は充分には用意できていなかったと見るべきであろう。

 

姉川
 上述したように、永禄13(1570)年1月23日、信長は周辺の大名に上洛するよう命じ、徳川家康などがこれに応じたのだが、京都に近い朝倉義景はこれに応じなかった。すると信長は、これを口実に朝倉領へと攻め込んだが、信長は最初から義景が上洛に応じないことを見越していて、朝倉家を攻める口実を作るために上洛を命じたのであろう。当時、義昭は各地の大名に御内書という私的文書を送っていたようだから、上述した五ヶ条の事書では、義昭が無断で書状を送ることが禁じられたのである。恐らく義昭は、嘗て逗留していた誼から義景に対しては特に期待するところがあったのだろう。或いは、信長に替わって後見役を勤めるよう要請したのかもしれない。そのような背景があったため、信長が、上洛して将軍に仕えて天下安寧を図ろう、などと言ってきても、義景は最初から応ずるつもりはなかっただろうし、信長もそれは分かっていた筈で、朝倉家を早期に制圧する必要性があると認識していたのだろう。
 だが、義昭が御内書を送ったのは朝倉家だけではない筈で、武田家や毛利家や嘗て最も親密であった上杉家などにも送っていたことは間違いなく、それは信長も分かっていた筈である。故に、朝倉家を早期に制圧しなくてはならなかったとしても、必ずしも最初にする必要はなかった。そこで、義昭との対立が確定してから最初の攻略目標を朝倉家とした理由を少し考えてみたい。

 この時点での信長の領国は尾張・美濃・伊勢・南近江で、石高は約180万石となる。更に、畿内の多くの勢力は親織田家で、三河と遠江を押さえている徳川家と北近江の浅井家とは織田家優位の同盟関係にある。そうすると、織田家の侵攻方向としては、四国・山陽・山陰・紀伊・和泉・駿河・信濃・飛騨・越前・若狭といった所が考えられる。このうち、まだ領国とは言えない畿内または同盟国を通過しての侵攻となる四国・山陽・山陰・和泉・駿河は、飛び地となるので維持が難しい。そうなると、残りは紀伊・信濃・飛騨・越前・若狭となる。
 このうち飛騨は、既述したように諸勢力が武田派と上杉派に分かれて争っていて、上杉・武田両家の争いにわざわざ首を突っ込むのは、飛騨の低い国力を考えると得策ではない。そうすると、若狭には朝倉家が勢力を浸透させていたから、要するに紀伊・武田家・朝倉家のいずれを次の有力侵攻方向とするか、という問題になる。紀伊へは南伊勢から侵攻できるが、地形が険しく紀伊半島をぐるりと回る形となり行軍距離が長くなるので、大軍を展開するには不向きである。それに、紀伊は諸勢力が乱立していて、国を挙げて織田領に侵攻するという危険性はないから、取り敢えず放置しても構わない。
 大軍の展開が不向きなのは信濃への侵攻路も同様で、しかも信濃を治める武田家とは友好関係にあるから、敢えて敵を作らなくてもよい。妥当な判断と言えるが、この時期の武田家は四面楚歌とも言うべき状況で、北条・徳川・上杉の三大勢力を敵に回していて、周囲の有力な友好勢力は織田家のみであったから、ここで反武田側に回って信濃に侵攻するという手もあった。だが、信長の戦略はここでも慎重で、京都に近く現時点では敵に回る危険性のより高い朝倉家を最初の侵攻対象としたのである。
 この時点での朝倉家の石高は約45万石なのに対して、連合軍は織田家単独でも180万石もあり、これに徳川家や松永家なども加わるのだから、信長は六角家と同様に朝倉家も一気に潰せると考えていたかもしれない。だが、内紛で分裂していた六角家とは違い、朝倉家の底力は侮れないもので、4倍以上の織田家を相手によく戦い、信長も、3年以上軍事的圧力をかけて疲弊させることで、朝倉家を漸く制圧することができた。

 信長は年2月25日に岐阜を発ち、観音寺城近くの常楽寺まで出て相撲を取らせた後、3月5日に入京し、その後、徳川家康・北畠具房・畠山高政・一色義道・三好義継・松永久秀・姉小路頼綱が上洛している。4月14日には能楽を催しているが、これは朝倉義景を油断させるためだろうか。りしていた。早期に敵としての立場対心北条・徳川・上杉一気ににだろう。妥当なところだが、も脅威
 4月20日、信長は連合軍を率いて京都を発った。3万もの軍勢を率いてのこの出兵の名目は、若狭の豪族で反抗的な武藤友益を屈服させるというもので、その反抗が朝倉家の策動だと分かったので、越前に攻め込んだのだ、と信長は説明しているが、武藤云々は単なる名目で、最初から朝倉家攻撃が目的だったのは間違いないだろう
(8)。表立っては敵対していない朝倉家を攻める大義名分をしっかりと用意しているあたりが、信長の芸の細かいところである。
 連合軍は22日に若狭の熊川に宿泊し、23日には越前との国境に近い佐柿に到着し、翌日もここに留まっている。25日には越前に攻め入り、要害の天筒山城を力攻めで陥落させ、同時に義景の従兄弟である朝倉景恒の籠る金ヶ崎城を攻め、翌26日には開城した。また、疋田城の朝倉軍も撤退し、労せずして同城を手に入れた信長は、家臣を遣わしてこれを破却させた。
 朝倉家に油断があったのか、こうして連合軍は敦賀郡をあっという間に制圧し、続いて木芽峠を越えて戦果を拡大しようとしたところ、浅井家が「離反」したとの一報が伝わり、浅井長政は義弟だけに、信長も当初は信じられなかったようだが、その後も続々と浅井家離反の報が注進されてきたため、信長は止むを得ず僅かな人数を連れて、琵琶湖西方の若狭街道を通って素早く京都へと退却した。途中、朽木谷の領主である朽木元綱の歓待を受け、京都に帰還したのは4月30日であった。この時、殿軍を務めたのが木下藤吉郎、即ち後の豊臣秀吉であった。

 浅井家「離反」の理由は、幾つか考えられる。義昭は各地に御内書を送っていたから、浅井家にも届いていた可能性は高く、これが織田家との手切れを決断する際の理由の一つとなったかもしれない。また、若狭の武藤家征伐を名目としていて、三河岡崎の徳川家が参戦しているのに、ずっと近い近江小谷の浅井家が参戦していないのも変な話で、この事実から推測するに、この時点でも浅井家と朝倉家とは親密な関係にあった可能性が高い。恐らく、信長が両家の関係を考慮して浅井家には動員を命じなかったのだろう。
 尚、『總見記』などを根拠に、織田・浅井同盟締結の際、織田家と朝倉家が戦う時は事前に浅井家に通告するとの約束がなされていて、これに違約したため浅井家は織田家と手を切ったのだ、とする解釈も根強くあるが、浅井家との同盟締結でそこまで自らの行動を束縛するような約束を信長が交わした可能性は高くないように思う。更に、上洛戦の際に、浅井軍は信長に協力し、宿敵の六角家を滅ぼしているのに、旧六角領の南近江が織田領となったことが挙げられる。北近江の支配は認められているとはいえ、これでは、当主の長政のみならず、家臣団も信長に対して不信感を抱いたのではなかろうか。
 長政と家臣団は上洛戦以降信長に対して不信感を抱いており、今度は親密な関係にある朝倉家に攻め入ろうとしている。義昭からの書状より推測するに、反信長派に立つ勢力も少なからずいるようである。何よりも、反織田家として今起てば、織田軍を挟み撃ちにして信長を討ち取れる可能性も充分ある。このまま織田家に従っていたら、上洛戦の時のように便利使いされ、しかも侵攻方向は険しい山越えとなる丹波くらいしかないが、信長を討ち取って織田家を瓦解に追い込めば、南近江や美濃など国力の高い地域を取れる可能性がある。
 恐らくこのような考えで、長政は織田家との手切れを決意したのだろう。ただ長政の誤算は、恐らくは信長の朝倉攻めを事前には想定していなかったことで、そのため素早く軍を展開できなかったことであろう。もう一つの誤算は、信長が素早く退却してしまい信長を討ち取れなかったことで、長政は約6倍の織田家を相手に戦わざるを得なくなったのである。ただ長政は、信長を討ち漏らしたとはいっても、反信長派の決起に期待していただろうから、この時点では敗北を覚悟していたわけではなかろう。

 元亀元(1570)年4月30日(9)に越前から京都へと退却した信長は、本拠の岐阜城への帰還を図った。南近江では、織田家撤退の報を受けた六角家残党や浅井家に通じた者が各地で蜂起し、信長の行く手を妨げていたが、稲葉一鉄らの働きでこれらを鎮圧していった。浅井軍の南下を防ぎ、六角家残党の蜂起を鎮圧して岐阜と京都の連絡線を維持するため、信長は琵琶湖西岸に位置する宇佐山城に森可成を配置し、その後も、永原城に佐久間信盛・長光寺城に柴田勝家・安土城(10)に中川重政といった具合に、重臣を南近江各地に配置していった。
 信長は同年5月19日、行く手を阻む郷一揆を蒲生賢秀(氏郷の父)らの働きで退け、千草峠を越えようとしたところ、六角承禎に依頼された杉谷善住坊に距離12〜13間(21.8〜23.6m)から鉄炮で狙われたが
(11)、運よく弾は信長を掠めただけですんだ。当時の鉄炮はそれ程信頼の置けるものではなかったとはいえ、距離12〜13間といえば、充分有効射程距離内で、信長はここで命を落としていた可能性も充分ある。ここで信長が討ち取られていたら、兵農分離の先駆者などという評価をされることはまずなかっただろうが、これから更に12年間生きて統一の基盤を作り、配下の秀吉が統一を達成したので、既にこの時点で信長は兵農分離を達成していて、それが信長の成功要因となった、などといった的外れな見解が根強く浸透することとなった。

 信長は5月21日に岐阜に帰還した。信長にとってこの時点で最も優先されるべきは京都の維持であり、そのためには京都と岐阜との連絡線を確保する必要があり、それを可能とするには、浅井家と朝倉家の南下を防ぎ、六角家残党と諸一揆の蜂起を鎮圧しなければならない。
 6月4日、六角承禎は南近江にて諸一揆と連携して蜂起し、野洲川付近の落窪で柴田勝家と佐久間信盛の率いる織田軍と戦ったが、烏合の衆だったためか敗れてしまい、これによって南近江は一応鎮まった。重臣を南近江に配置して六角家残党の蜂起を鎮圧しようとした信長の構想は妥当なものだったということになる。
 続いて信長は、浅井家と朝倉家の南下を防ぐべく、6月19日に岐阜を発ち、浅井領へと侵攻した。これより前、浅井長政と越前より派遣された朝倉景鏡は軍を率いて長比と刈安に砦を構えて織田軍の侵攻をふせごうとしたが、信長は調略により浅井家に属す鎌羽城主の堀秀村を自軍に引き込み、これを見て長比と刈安の守備兵は退散し、信長は労せずして両砦を奪取した。こうしたことに、信長の優れた手腕がよく示されていると言えよう。

 信長は6月21日に浅井家の本拠である小谷城へと迫り、例によって城下の町を焼き払ったが、その堅固な様子(12)を見てすぐに攻め落すのは無理と判断したのか、一旦小谷城南にある虎後前山へと退き、各地に放火して回った。翌日、信長は目標を小谷城南東の横山城に切り替え、姉川を渡って虎後前山から退却した。この時、浅井軍は追撃したものの、佐々成政らの反撃に遭って大した戦果は挙げられなかった。織田軍のこの退却は、浅井軍を誘い出す目的もあったのかもしれず、その後も、横山城の包囲は木下藤吉郎らに任せ、本陣は姉川南の龍ヶ鼻に置き、浅井軍を誘っていた。
 この間、織田軍には三河から徳川家康が、浅井軍には越前から朝倉景健が援軍を率いて来て、浅井・朝倉連合軍は小谷城南東で龍ヶ鼻からは川2つを挟んで北方にある大依山に陣取った。6月27日、浅井・朝倉連合軍に動きがあり、信長はこれを退却と判断したが、これは誤認で、浅井・朝倉連合軍は大依山を降りて織田・徳川連合軍を攻撃してきた。当初退却と判断したためか、信長は横山城包囲の軍を呼び戻すのが少し遅かったようで、そのため緒戦では苦戦することとなった。
 両軍の兵力は諸説あり、『信長公記』では浅井軍5000・朝倉軍8000となっているが
(13)、浅井軍8000・朝倉軍10000に対して織田軍23000・徳川軍6000という説もあり(14)、はっきりとしない。ただ、織田・徳川連合軍が兵力ではかなり優位に立っていたことは間違いなかろうが、戦場はさほど広くはなく、両軍とも手持ちの兵力を存分に活かせたか、疑問もある。
 6月28日、姉川を挟んで、織田軍は浅井軍と、徳川軍は朝倉軍と向き合う形で先端が開かれた。上述した理由で、数に勝る織田・徳川連合軍は当初は苦戦したが、やがて数の優位が物を言って浅井・朝倉連合軍を敗走に追い込んだ。死者の数は、織田・徳川連合軍が800人、浅井・朝倉連合軍が1700人とされているが
(15)、よくは分からない。ただ、上述した戦場の狭さと、織田・浅井・朝倉家のその後の活発な軍事行動を考えると、双方とも大きな損害は出さなかったように思われる。
 織田軍はこの後に横山城を攻め落し、木下藤吉郎が城番に任命された。続いて織田軍は浅井家臣の磯野員昌の籠る佐和山城を攻めたが、これを陥落させることはできず、百々に砦を築いて丹羽長秀を置き、佐和山城を監視させた。これにより、横山・百々・安土・長光寺・永原・宇佐山に重臣を配置して浅井軍と六角家残党を監視する体制が一応は完成し、岐阜〜京都の連絡線も確保されたが、この時点ではまだ浅井・朝倉軍の行動を充分阻止できる迄には至らなかった。

 姉川の戦いは織田・徳川連合軍の完勝と言われているが、その後の浅井・朝倉連合軍の活発な動きから推測するに、実際には浅井・朝倉連合軍に致命的な損害を与えたわけではなかったと思われる。ただ、この戦いにより一先ず岐阜〜京都の連絡線寸断を阻止できたことは、信長にとって大きな成果だったと言えよう。
 信長は7月6日に上洛して将軍足利義昭に拝謁して姉川の戦いを報告し、その翌々日に岐阜に帰還した。信長も、義昭が浅井と朝倉の背後にいることは分かっていただろうが、表立って詰問することはなく、また義昭も信長との面会は拒否しなかった。この時点では、まだ両者ともお互いに相手の利用価値を充分認めていたのだろう。

 

比叡山
 元亀元(1570)年7月8日、姉川の戦いに勝利した信長は岐阜に帰還した。南近江を確保し、京都と岐阜の連絡線を維持できたとはいえ、信長にとっての苦境はこれからが本番であった。この年の越前攻めから天正元(1573)年の浅井・朝倉家滅亡の頃までの信長の苦境は、よく「信長包囲網」と言われて、義昭が影で糸を引いていたとされている。確かに、義昭は頼りになりそうな各勢力に書状を送っていたが、当初からよく練られた「信長包囲網」を計画していたわけではなく、これは結果として成立したかのように見えるもので、また、各勢力もそれぞれの都合で動いており、義昭の期待通りに行動したわけではなかった。従って、この「信長包囲網」は必ずしも有効に機能せず、そこに信長の付け込む隙があったわけだが、そうはいっても、敵対勢力を確実に弱体化させていき、苦境を脱した信長の手腕は大したものである。
 信長に二度に亘って打ち破られた三好三人衆だが、その勢力圏はまだ40万石近くあり、7月21日、再度畿内での勢力回復を狙って摂津に出陣してきた。今回は、管領細川家の嫡流である六郎が盟主とされ、信長により美濃を追われた斎藤龍興など反信長派も加わっていた。三好三人衆を中心とする反信長連合軍は、摂津の野田と福島に砦を築き、京都のみならず畿内要所への出撃の姿勢を見せた。野田と福島は中洲の攻め辛い地形に築かれていた。
 この反信長連合軍の決起について、義昭が関与していたかとなると、どうもよく分からない。ただ、三好三人衆が推戴していた前将軍の義栄が既に死亡していて、共に信長が邪魔な存在なわけだから、両者がこの時点で連携していたとしても不思議ではない。もっとも、義昭もこの時点では信長との協調は表面的には崩しておらず、河内の畠山昭高に信長に協力するよう命じたり
(16)、信長軍に同行もしている。

 当然、信長はこの動きを看過することはできず、8月20日、岐阜を発った。途中、横山・長光寺と琵琶湖東岸の属城に逗留し、京都では死所となった本能寺に宿泊した。26日、織田軍は野田・福島の前面に布陣した。ここで信長は、反信長連合軍が寄せ集めであることから、調略を専らとし、三好為三と香西某を寝返らせることに成功した。更に、9月1日には松永久秀を介して三木・麦井という者達が、4日には尼崎の別所家が寝返った(17)。野田・福島の反信長連合軍の兵数は8000と伝わっており(18)、織田軍の兵数は不明だが、国力差を考慮すると、反信長連合軍を圧倒する兵力だったと推測され、故に寝返りが続出したのだろう。
 更に、信長は将軍義昭を担ぎ出して中島城に入れ、如何に両者が深刻な対立関係にあるとはいえ、表面上は協調関係を保っているのだから、こうなると反信長連合軍は更に動揺することとなり、崩壊しかねないところであった。だが、本願寺が反信長の立場で決起し、更には各地に檄を飛ばして一向一揆の蜂起を促したことにより、情勢は一変した。本願寺は浅井・朝倉家とも通じており、代々一向一揆と対立してきた両家は本願寺との提携により行動の自由を得ることとなった。こうして、浅井・朝倉連合軍は京都を目指しての南下が可能となり、信長は一気に窮地に追い込まれることとなったが、先ずは情勢の変遷を少し詳しく見ていきたい。

 信長は9月9日に天満森に本陣を進め、野田・福島近辺の堀を埋めている。12日には、義昭を伴って野田・福島の北にある海老江に本陣を構え、総攻撃に移った。この時、義昭の呼び掛けに応じて、根来・雑賀・湯川といった紀伊国奥郡衆2万が、3000丁という大量の鉄炮を備えて織田軍の来援に赴き、大銃撃戦となった(19)。織田軍の優位は確固たるものとなり、この日に信長は反信長連合軍からの和睦申し出を撥ね付けている。
 ところが翌13日になると、遂に本願寺の兵が決起して織田軍に襲い掛かり、14日には春日井堤で佐々成政・前田利家・野村定常らが本願寺軍の下間頼龍に敗れ、野村定常は討ち死にしてしまった。16日には遂に浅井・朝倉連合軍が坂本へと迫った。一気に窮地に追い込まれた信長は、今度は自分から和睦を申し出たようだが、如何に信長が外交に長けているとはいえ、流石にこれはあまりにも虫のよい提案で、あっさりと蹴られてしまった
(20)
 浅井・朝倉連合軍の坂本への進撃に対して、宇佐山城の森可成は僅か1000程の兵で城を出て迎撃し、一度は撃退したが、やはり兵力差は如何ともし難く、19日には信長の弟の信治などと共に討ち死にしてしまった。勢いに乗る浅井・朝倉連合軍は宇佐山城に攻めかかったが、武藤五郎右衛門と肥田彦左衛門がよく守り陥落させることはできなかった。浅井・朝倉連合軍は20日には大津を、21日には醍醐と山科に放火し、京都に迫った。
 22日にこの報を受けた信長は、流石に京都を無視して野田・福島の攻略を続けるわけにはいかないと判断し、退却することとした。翌23日、信長は和田惟政と柴田勝家に殿軍を命じて退却し、その日のうちに義昭を伴って京都に入った。京都は何とか維持できたものの、苦境が打開されたわけではなく、信長にとって厳しい日々が続くことになる。

 京都に帰還した信長は、翌9月24日、浅井・朝倉連合軍を迎撃すべく出陣した。下坂本にまで進出していた浅井・朝倉連合軍は、これに対して比叡山に上り、持久戦の構えを見せた。両軍の兵力は不明だが、浅井家と朝倉家は合計60〜70万石といったところで、これに対して織田家は200万石近くあるから、周囲に敵を抱えているとはいえ、恐らく織田軍の方が兵力ではかなり優勢で、そのため浅井・朝倉連合軍は有利な地形に陣取ったのだろう。
 信長は、比叡山延暦寺の僧を10人ばかり招いて、味方に付けば領国内の延暦寺領を返還するが、それが無理なら中立を守るよう申し出た。更に信長は、稲葉一鉄に命じて、もしこれらの申し出を拒絶すれば寺を焼き払うと延暦寺に伝えたが、延暦寺側は信長の申し出を退け、浅井・朝倉連合軍に加担し続けた。
 そこで信長は、持久戦の態勢を整えて比叡山の浅井・朝倉連合軍を包囲し、宇佐山城に本陣を構えたが、このまま京都近辺にて浅井・朝倉連合軍に居座られては困るので、10月20日には朝倉軍に決戦を申し入れたが、流石に朝倉義景はこの挑発には乗ってこず、徒に日々を過ごすこととなった。

 織田軍主力が比叡山にて浅井・朝倉連合軍と対峙しているこの間こそ、反織田勢力にとっては信長を追い落とす絶好の機会であったが、そこは寄せ集めの悲しさで、なかなか上手くはいかない。この時点において、既に反織田勢力の一部と連携していたと見られる将軍義昭は、表立って反織田の姿勢を明確にしていたわけではなかった。ここで義昭が信長追討を堂々と表明していれば、畿内の織田派の少なからぬ者が反織田派に鞍替えした可能性は高かっただろうが、義昭としてもまだ機は熟していないとの判断があったのだろう。この義昭の判断は、結果的には失敗だったと言えるかもしれないが、義昭としても武田や毛利や上杉といった大勢力のどれかが反織田派に加わる必要性を認識していただろうから、当時の判断としては止むを得ないところもあったのではなかろうか。
 そういうわけで、三好三人衆が野田・福島の砦を強化し、摂津や河内に軍を進めても、三好義継など多くの織田派は鞍替えすることなく、城の守りを固めたため、京都が反織田派の手に渡ることはなかった。また、織田軍の苦戦につけ込んで、南近江では六角承禎が挙兵したが数が集まらず不振で、近江の諸一揆も、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と丹羽長秀が平定して大事には至らなかった。
 不振の六角承禎は11月22日に信長と和睦しているが、この前日には、尾張と伊勢の国境近くの小木江城を守っていた信長の弟の信興が、近江の一揆と呼応して決起した伊勢長島の一向一揆に攻められて自害しており、六角承禎はもっと踏ん張れなかったものか、ともどかしさを覚えるところである。だが、そこが烏合の衆の悲しさで、反織田勢力は、各自の都合を優先して行動していて必ずしも足並みが揃わず、信長が結局はこの「信長包囲網」を打ち破れた一因も、その点にあると言える。

 比叡山戦線では、琵琶湖の水運を握る堅田衆の有力者である猪飼野甚助・馬場孫次郎・居初又次郎の3人が、11月25日に信長に通じてきたのたで、信長は早速、坂井右近・安藤右衛門・桑原平兵衛に兵1000人を率いさせて堅田に向かわせたが、朝倉軍は一部を割いて堅田に向かわせ、坂井右近は討ち死にしてしまった。
 浅井・朝倉連合軍と対峙が続き、本国尾張では弟が一向一揆に攻められて自害するなど、信長は苦境に陥ってしまったかの如くだが、苦しいのは浅井・朝倉連合軍も同様で、合計しても織田家の1/3程の国力しかないのだから、長期の対陣は織田軍と同じく苦しいことになる。特に朝倉軍が苦しく、冬になって豪雪となり、本国越前との交通が途絶えがちとなってしまった。
 そこで、朝倉義景が義昭に泣き付き、信長は当初は講和には反対していたが、義昭が三井寺まで下ってきたので、織田軍と浅井・朝倉連合軍は12月13日に講和した、と『信長公記』にはある
(21)。だが、これは信長家臣だった太田牛一が信長に配慮した記述である可能性が高く、恐らくは信長が義昭を動かして和睦を持ち掛けたのだろう。当初は条件が折り合わなかったようだが、信長は関白二条晴良も動かして、講和に持ち込んだ。ここで浅井・朝倉連合軍が踏ん張っていれば、との想定もあり得るかもしれないが、織田家よりも国力の劣る両家も、限界に近付いていたわけだから、この講和は止むを得ないところもある。本願寺と織田家との和議についてはよく分からず、講和が成立したという証拠はないが、年末に至って事実上の休戦期間に突入したようである(22)。こうして、幕府と朝廷を動かし、信長は何とか窮地を脱した。戦国時代といえども、やはり幕府と朝廷の権威は侮ることはできず、信長が京都の確保に腐心したのも当然と言うべきであろう。

 浅井・朝倉と和睦した信長は、12月17日に岐阜に帰還し、この後半年近くは表立ってた動きはなかった。この間の織田方にとっての最大の収穫は、元亀2(1571)年2月24日、浅井方の佐和山城主磯野員昌が降伏し、京都と岐阜の連絡線上に位置する重要拠点を奪取したことである。員昌は高島へと移り、替わって丹羽長秀が佐和山城に入った。
 織田家と浅井・朝倉家との講和は、同年5月に破れることになった。5月6日、浅井長政は本拠の小谷城から出撃し、配下の浅井七郎に一揆と合わせて5000の兵を率いさせ、箕浦へと出撃した。ここには織田方の鎌羽城があり、前述したように、城主の堀秀村は前年に浅井方から織田方に鞍替えしていた。堀秀村の後見役は、樋口直房が務めていた。
 浅井軍は、例によって城下の諸所に放火していき、この報を受けた木下藤吉郎は、小谷城監視の役割を担っている横山城から100騎ほどを引き連れて出撃し、堀・樋口の軍と合流し、織田軍の兵力は合計500〜600となった
(23)。兵力は劣勢だったが、浅井軍は一揆も含めた烏合の衆だったためか、それとも実際の兵力差はさほどでもなかったためか、織田軍は浅井軍を敗走させた。

 これ以降、4ヶ月に亘って織田軍の軍事行動が活発となっていく。同月12日、信長は伊勢長島の一揆を攻略するために出陣し、尾張津島に本陣を置いた。だが信長は、攻略は難しいと判断したのか、早くも16日には退却命令を出した。この時、殿軍の柴田勝家が負傷し、美濃三人衆の一人である氏家卜全は討ち死にした。
 暫しの休息の後、信長は8月18日に近江へと出陣し、例によって、一揆の立て籠もった城や砦の周囲を焼き払ったり、周囲の農地で苅田を行なったりしていき、小川を屈服させることに成功している。
 9月12日には比叡山へと向かい、麓の町坂本と延暦寺を焼き払い、僧侶など数千人を殺害したという
(24)。前年の延暦寺への予告をそのまま実行したわけだが、その規模に関しては疑問もある。比叡山焼き討ちは、同時代人には大変衝撃的だったようだが、これをあまりにも過大視してはならないだろう。延暦寺と信長との間には、元来寺領の押領などで対立があり、それが前年の延暦寺の浅井・朝倉への加担で、更に激化した。
 この焼き討ちは敵対勢力への攻撃というのがその本質で、中世的権威への挑戦という意味合いを積極的に認めることは難しいように思う。また、信長は信仰そのものを問うているわけではなく、自らに従わず敵対していることを問題視しているのであり、この点は一向一揆・本願寺との戦いも同様である。

 信長は9月20日に岐阜に帰還し、この後半年ほど、再び戦線は膠着するが、織田軍は休息していたわけではなく、横山城など各地の城にて、浅井軍や一揆を牽制していたわけである。織田家よりも遥かに国力の劣る浅井家は、潰されないためにも動員を思い切り緩めるわけにはいかず、次第に財政事情が苦しくなっていった。
 この間、畿内では松永久秀と三好義継が反織田方に鞍替えし、宿敵だった三好三人衆と講和を果たした。畿内の有力な織田勢力が鞍替えとなると、信長も劣勢に追い込まれそうなものだが、諸勢力の乱立する畿内ではそうもいかない。久秀の長年の宿敵だった大和筒井家当主の順慶は明智光秀を通じて信長への帰順が認められ、大和ではこの順慶が織田方として活動しており、8月には松永軍は筒井軍に大敗している。久秀が反織田に鞍替えしたのは、順慶の信長への帰順が認められたことも大きな理由となっているのかもしれない。このように、畿内では諸勢力が乱立しており、一向一揆・本願寺は外征能力が低いから、反織田勢力も、大攻勢というわけにも京都を脅かすというわけにもいかず、浅井長政が元亀3(1572)年1月に横山城に攻めかかる
(25)など、小競り合いはあったようだが、戦線は膠着していたのである。

 こうした状況の中、先に動いたのは織田軍であった。織田領南近江では相変わらず一揆や六角家残党がしぶとく機を窺っており、これを見過ごすわけにはいかなかったのである。年が明けて3月5日、信長は北近江へと向けて岐阜を発ち、7日には小谷城へと迫り、城下だけではなく余呉と木本にまで例によって放火した。予てより浅井家の者は、余呉と木本にまで織田軍が来たのならば一戦に及ぶと言っていたので、姉川の時のように浅井軍を挑発して誘き出そうとしたのだろうが、今回は朝倉家の援軍がなかったので、浅井軍は出撃してこなかった。
 そこで信長は、明智光秀らに命じて浅井方の木戸城と田中城を攻略するための付城を築かせ、自身は3月12日に上洛した。京都に滞在中、信長は義昭の勧めで滞在所の建築に取り掛かっている。この時点では、義昭もまだ、信長と表向きは協調しておく必要性があると考えていたのだろう。
 信長の京都滞在中、三好義継は松永久秀・久通父子と連携して、織田方の畠山高政の家臣である安見新七郎のいる交野城を攻めた。これに対して信長は、4月14日に交野城へと援軍を派遣し
(26)、これに恐れをなしたのか、義継と松永父子はそれぞれ自領に帰還した。これを受けて信長は、5月19日に岐阜に帰還した。

 7月19日、信長は岐阜を発ち北近江へと向かったが、これは嫡男である信忠の初陣でもあった。21日には小谷城へと迫り、柴田勝家らに命じて城下町を攻めさせた。信長は、22日には、木下藤吉郎に命じて、浅井家重臣の阿閉貞征の立て籠もる山本山城の麓に放火させ、23・24日には、寺院も含めて浅井領内の各所に放火していった。それと共に、山や琵琶湖に浮かぶ竹生島に立て籠もった一揆・僧侶を攻撃して多数の者を斬り、27日には小谷城の南2kmにある虎後前山に砦を築くよう命じた。
 こうして信長は小谷城の孤立化を着々と進めていき、これに対して浅井長政は朝倉家に援軍を要請し、29日には当主義景自ら15000の兵を率いて小谷城に到着した。朝倉軍は小谷城北西の大嶽という山に陣取ったが、ここも城砦化されて小谷城本丸との間に山道が繋がっており、両者併せて一つの城郭といったところである。義景自ら15000もの兵を率いながらも、浅井・朝倉連合軍が城に立て籠もったところを見ると、恐らく織田軍の方が兵数ではかなり優勢だったのだろう。
 8月8日に朝倉家重臣の前波吉継とその子3人が織田家に寝返ると、翌日には同じく朝倉家重臣の富田長繁・戸田与次・毛屋猪介が織田家に寝返った。国力では圧倒的に劣勢にも関わらず、朝倉家は2年以上も織田家相手に戦っており、家臣も軍役負担に耐えかねて朝倉家を見限ったのだろうが、無論、織田家の調略もあったのだろう。これを以って義景は無能とする見解もあろうが、大敵相手に戦っているのだから止むを得ないところもあり、義景を一方的に無能と指弾してしまうのは酷だろう。
 小谷城の陥落は無理と判断したのか、信長は9月16日に横山に移り、その後岐阜へと帰還した。小谷城の陥落こそ果たせなかったものの、朝倉家の重臣が相次いで寝返り、近江の諸一揆も次第に鎮圧されてきており、情勢は信長に有利に動いていった。そこで信長は、反織田勢力を裏で扇動していた義昭に対して強気に出て、同月に義昭に対して17ヶ条の異見書を突きつけたが、その内容は、諸国に勝手に御内書を出したている・貪欲だ、などといった義昭の非を糾弾するものだった
(27)。この異見書は信長によって各地に流布された可能性もあり(28)、信長は、対立している義昭を糾弾することで、自己の正当化を図ろうとしたのだろう。

 

信玄西上
  信長に面目を潰された形となった義昭だが、簡単には屈しない。義昭には武田信玄という切り札があった。義昭は予てより信玄と通じており、5月13日には、軍事行動を起こして天下静謐のために尽力するよう信玄に命じている
(29)。その信玄が遂に大軍を率いて出陣したのは、10月3日のことであった。この時点で武田領は約90万石といったところで、これだけの大勢力が反織田陣営に加わって大軍を動員するというのだから、義昭が信長に屈しなかったのは無理もない。信玄は西上に際して細心の注意を払っており、一向一揆と通じて宿敵の上杉謙信を牽制している。信玄と一向一揆・本願寺とは、義昭を通じての結び付きもあっただろうが、信玄の正室の妹が当時の本願寺法主である顕如に嫁いでいたことから、それ以前より親交はあったのだろう。
 武田軍本隊は遠江北部、山県昌景の軍は東三河、秋山信友の軍は東美濃へと侵攻し、秋山軍は11月14日に織田方の美濃岩村城を落とした。本隊の一部は徳川方の二俣城攻略に向かったが、陥落には意外に時間を要している。この後、信玄は浜松城へと向かった。信長は佐久間信盛らに命じて援軍を派遣したが、その数は3000
(30)と少なかったようで、織田軍も余裕がなかったのだろうが、これまで信長は徳川家に度々兵の動員を要請しており、家臣に近い同盟者だから、義理立てしたというところだろうか。
 12月22日、武田軍は三方ヶ原で徳川・織田連合軍を撃破したが、信玄は浜松城の攻略には向かわず三河へと進み、翌年には徳川方の三河野田城の攻略に取り掛かった。二俣城攻略に手間取ったことから、本拠の浜松城の攻略が容易でないと判断したのだろうが、三河で軍事的圧力をかけることによって徳川方の豪族を寝返らせ、浜松城の徳川本隊を孤立状態に追い込もうとの意図もあったのだろう。

 この武田軍の一連の行動の解釈は、大別して上洛説と遠江・三河制圧説=徳川家制圧説とがある。信玄は早くから義昭など畿内とその近国の反織田勢力と通じており、上洛説にも説得力はあるが、この時点での織田家の所領は約230万石といったところで、武田家の倍以上である。武田家には他の反織田勢力の間接的支援が期待できるとはいえ、織田家も畿内及びその近国の親織田勢力と徳川家とを合わせれば350万石くらいにはなるだろうから、いきなりこれを打ち破って上洛を果たすというのは難しい。恐らく、この軍事行動は徳川家の制圧を目標としたもので、それが概ね完了したら、次は反織田の諸勢力と連携を更に続けて、織田領に本格的に侵攻しようとしたのだろう。上洛を意図しての行動なら、徳川軍への備えを残して更に西侵するところだが、流石にそれは危険性が高く、信玄はそのような無理をする大名ではなかった。
 年が明けて元亀4(1573)年2月10日、武田軍は徳川方の三河野田城を落としたが、ここでも意外と時間を要しており、27日には長篠城に入っている。三方ヶ原での武田軍の大勝とその後の三河への進出を受けて、信長は義昭を通じて和睦を試みたが、流石に虫がよいと判断されて一蹴されてしまった。前年に義昭に対して屈辱的な異見書を突きつけたわけだから仕方のないところだが、野田・福島の時といい、信長の変り身の早さには驚かされる。悪く言えば節操がないが、よく言えば機を見るに敏で柔軟である。

 武田軍の動向を聞いて勝利を確信したのか義昭は強気に出て、今堅田の砦に兵を入れ、石山には砦を築き始めた。信長の対応は素早く、2月26日にはまだ普請の終わっていない石山を落として破却とし、29日には明智光秀が今堅田を落とした。これに対して義昭は、3月10日に信長の質子を返却して信長と断交し(31)、公然と反織田の姿勢を示したが、この頃より、頼みの綱の武田軍の動きが鈍ってきて、遂には帰還することとなった。当時既に信玄は病に伏しており、軍事行動を指揮できる状態ではなかったのである。
 だが、信玄が病に臥したことは武田家の一部の者しか知らず、義昭は相変わらず強気で、信長も武田軍の動向を警戒して行動は慎重だった。前述したように、信長が義昭方の砦の攻略を家臣に命じたのは2月下旬、自身が本隊を率いて岐阜を発ったのは3月25日のことで、武田軍の西侵を警戒していたのだろう。信長は29日に京都近郊の逢坂まで進出し、ここで幕府奉公衆の細川藤孝と摂津の有力豪族である荒木村重の出迎えを受けた。勝利を確信して決起した義昭だったが、直臣からも見放されていたのである。
 織田軍は京都へと進んで4月4日には上京に放火し、寺院など各所で略奪したが、信長は予てより上京の住民に反感を抱いており、上京からの献納も拒否したと云う
(32)。上京の住民は略奪を免れようとして信長に献納しようとしたのだろうが、恐らく上京は義昭寄りだったので、義昭への威圧という目的で放火し略奪したのだろう。大名に献納して略奪・放火などを免れるという習慣は当時よく見られたもので、中には敵対する双方の大名に献納して「安堵を買う」村や町もあった(33)。ここで朝廷が義昭と信長との和議を持ち掛け、信長も武田軍の動向を警戒していたためか、これに応じた。

 信玄は帰還途中の4月12日に信濃にて死亡した。信玄が病に倒れずに軍事活動を続行していれば、信長は危うかったとの見解が根強くあるが、果たしてどうだろうか。結論を先に言えば、信玄のこの壮大な西侵作戦は遅すぎたと思う。
 信玄が大軍を率いて出陣したのは元亀3年10月3日のことだが、この時点で既に近江の諸一揆は鎮圧されつつあり、浅井・朝倉家も、強大な織田家との2年以上の対峙により国力は随分と消耗していた。浅井家は放火などにより織田軍に領内を荒らされまくっており、朝倉軍も越前から大軍を率いてきているのだから出費は相当なものであり、既述したように負担に耐えかねて織田家に寝返る重臣が続出する有様で、両家とも不振であった。浅井・朝倉連合軍は武田軍出陣後の11月3日には一度出撃したが、木下藤吉郎にあっさりと撃退されている。
 朝倉軍は遂に12月3日には本国越前へと撤退し、信玄はこれを非難して度々朝倉義景に出陣を要請しているが
(34)、義景は信玄死亡時までに軍を動かすことはなかった。義景にすれば、一旦本国に戻って体制を立て直さなければ朝倉家は崩壊しかねず、これ以上近江に滞在して織田軍を牽制することにはもはや耐えられない、といったところであろう。義景のこの行動について、信玄の戦略を解さないものとして義景を暗愚と指弾する見解が根強いが、義景に言わせれば、信玄の出陣が遅かったのであり、もはや限界だということになろう。この撤退について、義景を指弾するのは酷ではなかろうか。
 仮に元亀元年秋の時点で信玄が西侵を開始していたなら、浅井・朝倉両家もまだ国力に余裕があったから、或いは織田家を瓦解に追い込むこともできたかもしれない。だが、元亀2年10月3日に北条氏康が死亡して武田・北条同盟が復活するまで武田家は四面楚歌状態で、大規模な西侵作戦を行なうどころではなかった。そして漸く出陣する頃には、既に浅井・朝倉家は消耗してしまっており、武田軍への有効な間接的支援は困難であった。
 信玄は晩年になって、棟別役や普請役などの免除を通じて大規模な軍事動員体制を確立しつつあった
(35)。こうした傾向は「全国」的なものだが、経済的な負担が大きいことは言うまでもない。故に、織田家の半分もない国力の武田家が、反織田勢力の有効な間接的支援なしに、織田家を敵に回して大規模な動員に耐えられ続けたかは疑問で、結局のところ、既に元亀3年10月の時点で、武田家が織田家を制圧できる見込みはかなり低かったと言えよう。
 後世の評価という視点からは、信玄と信長の直接的対決がなかったのは信玄にとって幸運だったとも言え、仮に信玄が長命を保って信長と対峙していたとしたら、現在よりも低く評価されていた可能性もあろう。

 

義昭追放
 義昭と和睦した信長は4月7日に京都を発ち、途中で六角義治の立て籠もる鯰江城を佐久間信盛らに攻めさせ、自身は11日に岐阜に帰還した。信長は5月22日に佐和山に移り、長さ約54mという大船を建造させ、7月3日に完成したが、これは、義昭との対立を想定してのことであった。
 浅井・朝倉家はジリ貧、武田家は信玄が死亡して軍事活動が停滞中と、反織田勢力がすっかり衰退していたにも関わらず、義昭は7月5日に懲りずに槇島城にて信長打倒の挙兵を行なった。情勢は不利だが、このまま行けばジリ貧なので、乾坤一擲の勝負に出たのだろうが、こういう場合に挽回することは稀で、大体は状況が一気に悪化するものであり、義昭の場合も例外ではなかった。
 6日、信長は建造したばかりの大船を使って一挙に京都近郊の坂本まで進出し、翌日には上洛して義昭方の二条城を攻め、12日に奪取した。信長は16日には義昭の立て籠もる槇島城に迫り、18日には陥落させた。信長は義昭を殺すことはなく、三好義継の居城である若江城へと追放するに留めた。将軍を殺害した場合の諸勢力の反感を考慮したのだろう。信長は26日に京都を発ち、8月4日に岐阜に帰還したが、この間に三好三人衆の一人である石成友通が細川藤孝に討たれている。
 普通、これで室町幕府は滅亡したとされるが、義昭は将軍職を剥奪されたわけではなく、信長の横死に至るまで「幕府」の権威と権限は侮れないものであった
(36)。また、信長はこの時点で幕府体制を否定してしまったわけではなく、義昭の息子を「大樹(将軍)若君」として庇護・推戴し、ことあるごとに同道しており、これは天正3(1575)年まで続いている(37)。有力者が将軍を都から追うというのは戦国時代にはよくあったことで、義昭の追放も、この時点ではそれらの前例に近いものとして評価するのが妥当だろう。

 8月8日、浅井家重臣で山本山城主の阿閉貞征が織田家に寝返り、信長はこの機を逃さず即座に出陣した。10日には朝倉義景が浅井家への援軍として2万もの兵を率いて来たが、共闘してきた隣国の一大事とあって、流石に義景も無理をして出陣してきたのだろう。小谷城北西の大嶽には朝倉軍の守備兵500人ほどがいて、前年と同じく朝倉軍はこの要害の地に布陣すると判断した信長は、先手を打って12日に大嶽を占拠し、朝倉方の兵士をわざと逃がしてこのことを知らせた。朝倉軍の士気低下と撤退を狙ったのだろう。
 信長は朝倉軍の撤退を予測し、佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・木下藤吉郎といった重臣に、朝倉軍の追撃を命じた。ところが、重臣達は朝倉軍の撤退に確信が持てなかったのか動きが鈍く、撤退する朝倉軍を見逃して信長に先を越されてしまい、信長は重臣達を叱責した。この時、他の重臣達が信長に詫びる中、信盛だけは抗弁し、信長は激怒した。後に信盛が追放される際に、この時の態度が理由の一つとして挙げられている。義景が決戦を挑まず撤退したことへの避難はあろうが、重臣が相次いで寝返るなど、前年の時点で既に朝倉家は内部崩壊しかけており、今回もとても決戦を挑むどころではなかったろう。
 織田軍は朝倉軍を追撃して越前へと侵攻し、朝倉家の重臣を多く討ち取ったが、この中には朝倉家へ身を寄せていた元美濃国主の斉藤龍興もいた。義景は本拠の一乗谷から更に大野郡の賢正寺まで逃げたが、同族の景鏡に裏切られて20日に自害し、義景の嫡男と母親も丹羽長秀により殺害された。こうして朝倉家は滅亡して越前は平定され、前年に朝倉家から織田家へ寝返った前波吉継が守護代に任命された。義景は暗愚との評価が専らだが、自己よりも強大な織田家相手に足掛け4年に亘って戦っており、言われている程には無能ではなかったと思う。
 信長は朝倉家を滅ぼすと即座に近江へ戻り、小谷城の南2kmにある虎後前山に入って、小谷城に攻め寄せた。浅井長政の父久政は28日、長政は9月1日に自害し、ここに浅井家は滅亡した。長政に嫁いでいた信長の妹は娘3人と共に助けられたが、長政の嫡男は磔刑に処せられた。信長は4日には六角義賢の立て籠もる鯰江城を攻めて落とし、6日に岐阜に帰還した。
 信長の次の目標は北伊勢の諸一揆で、24日に岐阜を出陣し、1ヶ月かけて各地を平定したが、10月25日に帰還しようとしたところ、伊賀・甲賀の豪族も加わった一揆に攻撃され、殿軍を務めた林新次郎(秀貞の息子)が討ち死にした。岐阜に帰還した信長は11月4日に岐阜を発って上洛し、佐久間信盛に命じて若江城の三好義継を攻めさせた。義継の家老は情勢不利と判断して裏切り、義継は16日に自害に追い込まれた。12月2日、信長は岐阜に帰還し、松永久秀の立て籠もる多聞山城を攻めさせ、26日に久秀は降参して城を明け渡した。久秀は許されて信貴山城へと移った。
 こうして、畿内も概ね平定され、この4年近い騒乱の結果、畿内も概ね織田領となった。織田領は約360万石となり、織田家に次ぐと思われる毛利家が約110万石だから、この騒乱の結果、織田家は隔絶した存在になったと言えよう。

 元亀元(1570)年から天正元(1573)年(38)の足掛け4年間は、「信長包囲網」が敷かれて信長にとって特に苦しい時期だったとされる。確かに、元亀元年後半には浅井・朝倉連合軍が京都に迫るなど、信長が苦境にあったことを否定するつもりはないが、それを過大視してはならないだろう。
 この包囲網は最初から周到に計画された緻密なものではなく、随分と穴があったのであり、武田信玄の動向が示しているように、織田家の打倒という意味で有効に機能したとは言い難い。従って、信長は確固撃破の形に持っていくことが可能となり、この間も織田本隊は常に敵の兵力を圧倒していたと推測される。少なくとも、本隊が敵よりもかなり劣勢で対峙したことはないだろう。更に、信長は朝廷と幕府を握っており、必要とあらば両者を動かして講和を持ちかけることができるのだから、条件は随分と有利だと言える。
 とはいえ、朝廷と幕府を持ち出しての外交交渉を利用しつつ、この包囲網を打ち破って大幅に勢力を拡大した信長の手腕は大したものである。機を見るに敏な信長の資質が如何なく発揮されたと言えよう。

 


(1)
『元亀信長戦記』P34。
(2)「信長の出現と中世的権威の否定」P36。
(3)『雑兵たちの戦場』P26。
(4)「織田政権の権力構造」P85。
(5)『元亀信長戦記』P41。
(6)『元亀信長戦記』P42。
(7)「織田政権の権力構造」P86。
(8)『元亀信長戦記』P44。
(9)同月23日に永禄から元亀へ改元となった。
(10)信長が本格的な城郭を築く以前にも、安土山には砦が築かれていたのだろう。
(11)『信長公記』P106。
(12)私は小谷城を訪れたことがあるが、高さと奥行きのある山を利用した城郭となっており、非常に堅固な山城と言えよう。
(13)『信長公記』P109。
(14)『桶狭間・姉川の役』P268〜274。但し、織田軍の横山城包囲部隊5000人は含めていない。
(15)『桶狭間・姉川の役』P278。
(16)『元亀信長戦記』P72。
(17)『元亀信長戦記』P72〜73。
(18)『信長公記』P111。
(19)『信長公記』P112。ただ、紀伊国奥郡衆2万という兵数は誇張かもしれない。
(20)『元亀信長戦記』P75。
(21)『信長公記』P118。
(22)『信長と石山合戦』P99。
(23)『信長公記』P120。
(24)『信長公記』P124。
(25)『桶狭間・姉川の役』P286。
(26)『文書上』314P521〜522。
(27)「織田政権の権力構造」P88。
(28)
『文書上』P576。
(29)『武田信玄』P95。
(30)『元亀信長戦記』P55。
(31)『文書上』P618。
(32)『フロイス日本史2』P284。
(33)『雑兵たちの戦場』P178〜181。
(34)『武田信玄』P98。
(35)『武田信玄』P101・107。
(36)『本能寺の変の群像』P139〜142。
(37)『本能寺の変の群像』P54。
(38)義昭追放後の7月28日に、天正に改元となった。信長は将軍の権限であった改元の要請権を握ったのである。

 

 

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