信長の野望戦略編(下)

 

 

長島
 「包囲網」を打ち破り危機を脱した信長だが、本願寺・一向一揆との対立は解消されておらず、これを制圧するのが次の目標となった。たが、本願寺・一向一揆は手強い存在で、意外な感もあるが、大苦戦を強いられたとの印象がある元亀元(1570)年〜天正元(1573)年よりも、天正2年〜本願寺が石山(現在の大阪)を退去した天正8年8月までの方が、領地の拡大は鈍っている。これは、義昭が暗躍して「第二次信長包囲網」を築いたためでもあり、「第一次包囲網」の反省点を踏まえたのか、「第二次包囲網」の方が効果的に機能したのである。ただ、織田家も国力は随分と増しているから、苦戦しつつもこの「包囲網」を打破することができた。

 天正2年1月、越前にて一揆と結んだ富田長繁が蜂起し、前年に信長より越前守護代に任じられていた桂田長俊(前波吉継から改名)らを攻め殺すという事件が起きた。富田も桂田も、2年前に朝倉家より織田家に寝返っているが、桂田は守護代として専権を振るい、嘗ての同輩にも傲慢な態度を取ったので、反感を持たれたのだと云う(1)。一揆は越前北庄に駐留していた織田家から派遣された三奉行をも追放し(2)、織田家は一気に越前を失ってしまった。この後越前では、2月になって本願寺門徒の「国中一揆」が加賀から本願寺家臣の七里頼周を大将に迎えて蜂起し、4月には越前を制圧している(3)。この間、富田は「国中一揆」と対立して討ち死にし、更には織田家に寝返った朝倉景鏡など有力な朝倉旧臣も概ね「国中一揆」に攻め滅ぼされ、越前は本願寺と一向一揆の支配する国となった。信長は、すぐには越前に攻め込まず、押さえを置くに留めたが、これは南方の一揆の制圧が優先だと判断していたからだろう。

 信玄が死亡した後も武田家の軍事行動は活発で、信玄の跡を継いだ勝頼は1月27日に美濃東部の明智城に攻め寄せ、信長も救援に赴いたが、山中のため行軍に手間取り、救援は間に合わず落城している。更に勝頼は、6月5日には徳川方の遠江高遠城に攻め寄せ、徳川家康は信長に援軍を要請したが、織田・徳川の援軍が到着する前に内応により落城した。信玄も攻め落せなかった堅城を奪取したということで、勝頼の武威は高まった。このように武田家は信玄没後も着実に成果を上げていたが、織田家を脅かすまでにはいかなかった。信玄から勝頼への代替わりに伴う体制整備で活動を控えている間に、浅井・朝倉家や畿内の反織田勢力は織田軍に掃蕩されてしまっており、織田家に随分と余裕ができていたからである。武田家にとっては何とも間が悪かったということになる。

 遠江から帰還した信長は、二度に亘って敗北を喫した長島一向一揆の鎮圧に向かう。信長は7月13日に岐阜を発ち、長島へと向かった。兵数は不明だが、嫡男信忠を初めとして、柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・林秀貞など主だった重臣も従軍しており、かなりの大軍だったことは間違いなかろう。織田軍は長島を包囲して砦を制圧していき、兵糧の尽きた一揆は9月29日に降伏を申し出て長島を退去したが、織田軍は一揆勢に鉄炮を撃ち掛け、これに一揆側も反撃に出て、兄の信広など信長の親族を初めとして側の者が多数討ち死にした。織田軍が鉄炮を撃ち掛けてきたのを見て一揆勢の大半は砦に残り、織田軍はこれに火を付けて男女合わせて2万もの人間が死亡したと云う(4)。ただ、これは誇張されて伝えられている可能性もあり、そのまま史実として受け取ってよいものか疑問もある(5)。それはともかく、4年近くに亘って伊勢・尾張間の障害となり度々苦しめられてきた長島一揆の鎮圧により、織田軍の行動の自由が増したことになる。

 年が明けて天正3年4月6日、上洛していた信長は京都を発ち、本願寺と提携している三好康長の立て籠もる高屋城へと向かった。信長は、高屋や石山近辺で苅田を行ない、敵の兵糧を断って圧力をかけていった。19日には新堀城を落とし、香西越後や十河因幡などの首を斬った。情勢不利と見た康長は信長の右筆である松井友閑を通じて降伏し、赦されている。この時、高屋城を初めとして河内の城は破却されている。一揆などが城に立て籠もるのを防ごうとしたのだろうが、河内に攻め込まれることはないという信長の自信を示しているとも言えよう。信長は、京都を経て28日に岐阜に帰還した。

 

長篠
 天正3(1575)年3月下旬、武田勝頼は大軍を率いて三河へと侵攻し、5月11日には長篠城を包囲した。長篠城主の奥平貞能は信玄没後間もなく武田家から徳川家へと寝返った。そのため貞能は、再度鞍替えしても許される可能性は低く、勝頼が大軍を率いて攻め寄せてきても、徹底抗戦するしかなかった。勝頼にしても、代替わりした途端に寝返った貞能を放置しておくのは威信に関わることであり、長篠城攻めは優先順位が高かった。
 信長は5月13日に岐阜を発って長篠城へと向かい、18日には長篠城西方約5kmの極楽寺山に布陣した。織田軍諸部隊は更に前進し、長篠城から3〜4km西方のあるみ原(現在は設楽原)に徳川軍と共に布陣し、野戦陣地を築いた。これに対して勝頼は、一部を長篠城包囲に残し、軍の大半を20日にあるみ原へと進め、連吾川を挟んで武田軍と織田・徳川連合軍が対峙した。

 織田軍が長篠城の手前で進撃を停止して野戦陣地を構築したのは、長岡(細川)藤孝宛の書状(6)から推測するに、武田軍が要害の地に陣取っているため、迂闊に進撃すれば大損害を出すと判断したからだろう。とはいえ、このままでは長篠城の陥落を傍観することになりかねず、これでは前年の高天神城陥落の二の舞である。故に、信長は武田軍を野戦に誘い出す必要があったのだが、『信長公記』に敵がたへ見えざる様に、段ゝに御人数三万ばかり立て置かるとある(7)ことから推測すると、兵の隠匿を意図していたようである。恐らく信長は、自軍の兵数を過小に見積もらせることにより、勝頼が野戦陣地への攻撃を決意するよう仕向けたのだろう。だが、これは賭けであり、勝頼が織田・徳川連合軍を無視して長篠城攻めに専念する可能性も充分あった。だが実際には、武田軍は野戦陣地へと攻め寄せてきたわけで、証拠はないのだが、恐らく偽情報を武田軍に流していて、これに勝頼が引っ掛かってしまったのだろう。
 20日に武田軍があるみ原へと進撃してきたとはいえ、このまま両軍が対峙する可能性もあり、信長は武田軍の突撃を促すべく更に手を打った。徳川軍と織田軍からそれぞれ2000人ずつ引き抜いて別働隊を結成し、家康家臣の酒井忠次をに指揮をさせ、武田軍が鳶の巣山に築いた付城に向けて20日午後8時に出撃させたのである。別働隊は翌日午前8時には鳶の巣山を占領して長篠城の籠城軍と合流した。
 ここで武田軍としては退却するという手もあったのだが、恐らくは織田・徳川連合軍の兵数を低く見積もっていたのだろう。武田軍は各部隊ごとに野戦陣地へと攻め寄せたが、兵力の差は如何ともし難くて午後2時には敗走し、山県昌景・馬場信春・土屋昌次・内藤昌豊・真田信綱といった多数の重臣が討ち取られるという惨敗を喫してしまった。前述したように織田軍の兵力は3万で、徳川軍は不明だが1万はいただろう。武田軍の兵力は15000だから
(8)、これらの数字が正確かどうかは分からないが、少なくとも武田軍は兵力でかなり劣勢だったことは間違いない。兵力の劣勢な側が野戦陣地に向かって攻め寄せたわけだから、武田軍の敗走も当然だったと言える。

 長篠の戦いは、従来の戦術を一変するものとしてされている(9)。つまり、騎馬隊から足軽鉄砲隊へと主力兵科が転換し、鉄砲が効果的に大量使用される契機となったとされているのだが、この見解は甚だ怪しい。よく言われる3000挺の鉄炮による三段撃ちには疑問が呈されており(10)、そもそも戦国時代の日本に騎馬隊は存在しなかった(11)。鉄炮の大量使用は信長が日本で初とは言い難く(12)、長篠の戦いの前後で戦術が一変したということはないが、野戦陣地の規模は日本史上空前のものだったようで(13)、数々の「長篠神話」が創作された一因はそこにあるのかもしれない。
 ただ、巷間言われているような「長篠神話」が虚構だったとしても、名将の勝頼を誘い出して武田軍を敗走させ、武田家重臣を多数討ち取ったのだから、長篠の戦いにおける信長の手腕は高く評価されるべきである。

 

石山合戦
 長篠の戦いで武田家の圧力を大いに減じた信長は、次の目標を越前の奪回に定めた。前年に越前は一向一揆を主とする諸一揆の支配する国となっていたが、派遣された本願寺家臣の搾取がひどく、多数の一揆がこれに反発して分裂状態となっていた。信長はこの機を逃さず、8月12日に3万人を率いて岐阜を発ち、越前へと向かった。一向一揆は外征能力こそ低いものの、動員能力は桁外れだから、平定は容易ではないところだが、分裂状態にあったため、大きく苦戦することなく越前は平定されることとなった。もっとも、信長は所与の条件に甘んじることなく越前の諸勢力に根回しをしている
(14)
 織田軍は各地の砦や城に立て籠もった一揆を鎮圧していき、生け捕りと殺害を合わせると3〜4万人になったと云う
(15)。ただ、長島一揆の鎮圧と同様に、これも誇張されている可能性はあるが、そうだとしても、かなり残酷な処置が取られたことは間違いなさそうである。織田軍は8月中には越前を概ね平定し、更に加賀南部の2郡までも制圧した。柴田勝家には越前8郡が与えられ、勝家は越前の事実上の国主となり、不破光治・佐々成政・前田利家の3人が勝家の目付けに任命されて2郡を与えられた。更に信長は、条書にて越前の施政方針を指示している。越前の仕置きを終えた信長は、9月28日に岐阜に帰還した。

 信長は10月10日に上洛し、11月には嘗て源頼朝も任官した右近衛大将に任じられている。この間、武田軍を長篠で撃破し、10月には本願寺と和睦しており、今や武家の棟梁とも言うべき地位に就いた。この時期まで、建前だとしても、信長は室町幕府体制を否定はしなかったが、この時期以降は幕府体制の維持・復活を企図した様子はなく、またこの時期以降は諸大名に対する信長の文書が花押から朱印に変化し、表現も尊大化している(16)
 この間、武田軍が美濃方面から侵攻してきたので、嫡男の信忠が迎撃に向かい、信長も京都を発って11月15日に岐阜に帰還した。武田軍は夜襲してきたが、織田軍はこれを撃退し、更には武田家にとって美濃における橋頭堡とも言うべき岩村城をも一気に落とした。信忠の活躍に信長は満足し、その器量を認めたようで、11月28日に信長は家督を信忠に譲ったが、依然として実権を握っていたことは言うまでもない。
 年が明けて天正4(1576)年1月、信長は丹羽長秀に安土城の普請を命じ、2月23日には安土城に移っている。この居城移動は、恐らくは本願寺攻略に備えてのことで、居城から本願寺への距離を縮めようとしたのだろう。
 こうして見ると、天正3年11月の前後は織田政権の一大転機だったと言えるように思う。これまで、まがりなりにも室町幕府体制の護持を掲げることで勢力を拡大してきた信長が、堂々と自らを中央武家政権の最高権力者として位置付けるようになったわけである。慎重な信長は、日本最大の大名となっても幕府を奉ずる姿勢を崩さなかったが、他家を圧倒する国力を築き、義昭との対立が修復不能となったからには、自らを武家の棟梁と位置付けて勢力を拡大し、全国の統一を果たそうと考えたのだろう。

 だが、ここから意外と織田家の勢力は伸び悩む。恐らく、信長の右近衛大将就任は自らの存在意義を揺るがしかねないと義昭は考えただろうから、必死になって反織田勢力の結集に努めたのだろう。その結果、今度は毛利家を反織田勢力に引き込むことに成功し、信長はある意味で前回の「包囲網」以上に苦しむこととなる。
 紀伊の由良にいた義昭は毛利家を頼ることとし、毛利家は備後の鞆に義昭を迎え入れた。毛利家には、織田家と勢力圏が接してきたので、義昭を奉じて反織田勢力を結集して織田家を牽制しようとの狙いがあったのだろう。また、右近衛大将に就任し、恰も武家の棟梁の如き地位にて勢力拡大を図る信長を脅威として強く警戒し始めたということもあろう。
 信長の方も、毛利家は大国とあって友好関係維持に努めていて、例えば天正元年には、織田家による浅井・朝倉家の平定を祝して小早川隆景が信長に太刀と馬を贈呈したのに対して御礼の書状を送っている
(17)。だが、天正3年頃より次第に毛利家との友好関係維持には努力を払わなくなったようで、同年7月には但馬を巡っての両者の思惑に食い違いが見られるが(18)、これは信長が自己の国力と権威とに強い自信を持つに至ったからなのだろう。

 天正4年4月14日、信長は荒木村重・長岡藤孝・明智光秀・原田直政の4人に石山本願寺の攻略を命じた。前年に本願寺と織田家との間には和睦が成立していたが、恐らくは義昭の扇動もあったのだろう、再び本願寺と織田家は戦うこととなった。
 5月3日、本願寺軍約1万は数千挺の鉄炮を持って直政軍に攻め寄せ、直政は討ち死にしてしまった。恐らく、本願寺軍には鉄炮の運用に長けた雑賀衆がいたのだろう。本願寺軍はそのまま明智光秀らの立て籠もる天王寺まで攻め込み、京都にいた信長は諸国に命じて兵を集めて5日に出陣したが、急なことで兵の集まりは芳しくなかったようで、士分の者は集結しても雑兵達はなかなか到着しなかったようである
(19)。これは当時の軍編成を考えてみるとある程度は納得のいくことで、騎乗兵は士分の者だけであり、大多数の雑兵達は徒歩兵なのである。
 思うように兵は集まらなかったが、信長は7日になって3000の兵を率いて15000の敵軍へと突撃し、敵方の数千挺の鉄炮の銃弾が降り注ぐ中、足を撃たれて負傷しつつも果敢に突撃して敵軍を敗走させ、石山の出入り口近くまで攻め寄せて敵兵2700を討ち取ったと云う
(20)
 だが、この突撃には佐久間信盛・松永久秀・滝川一益・羽柴秀吉などといった重臣達が参加しており、僅か3000の兵だったとは考えにくく、当時の公家の日記に織田軍の戦果が誇張して伝えられているのに対して、軍記では戦果が控えめに記されていることから、苦戦していた信長が偽情報を各地に流した、と推測される
(21)。信長は6月5日に戦場を離れ、7日に安土に帰還したが、恐らくは手痛い打撃を被り石山本願寺の堅固さを改めて思い知らされ、早期の陥落は無理と判断して包囲に徹したのだろう。
 これに対して本願寺側は毛利家に救援を要請し、毛利軍は800艘の船で石山に迫り、織田軍は300艘でこれを迎え撃ったが、やはり戦力差は如何ともし難く織田軍は大敗し、毛利軍は石山に無事兵粮を入れるのに成功した(第一次木津川口の戦い)。この時点では、織田軍の水軍は毛利軍よりも貧弱だったのだろう。この後、翌年まで信長は軍事行動を起こしていない。

 年が明けて天正5年、信長は紀伊の雑賀衆の制圧へと向かった。雑賀衆は石山本願寺にとって重要な戦力であり、これを制圧することで石山本願寺の軍事力を低下させようとしたのだろう。この時、紀伊の根来寺のみならず、雑賀衆の中からも事前に織田軍への参陣を表明してきた者がおり、雑賀衆も決して一枚岩ではなかった。
 織田軍の兵数は5・6万〜15万と随分と開きがあり、これに対して雑賀軍は数千人とされ、織田軍が兵数で圧倒していたことはまちがいなく、3月21日には降伏してきた雑賀衆を信長が赦免したとされるが、これは疑わしく、織田軍は結局雑賀に有効な打撃を与えられなかったようで、実態は講和に近かったらしい
(22)。実際、紀伊の宮・中川・南の3郷が雑賀残党の掃蕩への協力を申し出たのに対して、信長は5月16日付の朱印状にて、三郷の者が挙兵次第出兵し、恩賞も戦功次第と約束している(23)。この後、『信長公記』には記載がないが、諸文献には織田軍の再度の雑賀侵攻が記載されており、この時も織田軍は苦戦し、大した成果もなく撤退したようである(24)

 義昭は、本願寺と毛利家のみならず上杉家をも反織田同盟に引き込むことに成功し、義昭の仲介もあって本願寺・一向一揆との対立が解消された上杉家は、越中から能登・加賀へと西侵することが可能となった。上杉軍は越中から能登へと向かい、これに対して信長は柴田勝家を大将とし、滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀などを付けて8月8日に加賀・能登へと向かわせつつ、一方では出羽の伊達輝宗に上杉家を牽制するよう書状を送っている(25)
 能登の畠山家は織田派と上杉派に分かれて内部対立しており、上杉軍が本拠の七尾城を包囲すると、9月15日に上杉派が織田派を粛清して開城し、七尾城は上杉家の勢力化に置かれた。七尾城が敵方に渡ったとあっては仕方なく、織田軍は撤退することとなったが、退却戦というのは浮き足立ってしまうので難しく、この時も上杉軍が追撃してきた。運悪く手取川が増水していたこともあって、討ち取られたり溺死したりした者が出てしまった(9月23日、手取川の戦い)。
 上杉軍の武威を高めた有名な戦いだが、織田軍も致命的な損害を出したわけではなかったようで、元々追撃戦で始まったということもあり、上杉軍や謙信を手放しで礼賛するのはどうかと思う。この後、上杉軍は追撃は続行せず、本国の越後に帰還している。恐らく謙信にとって、北陸よりも略奪の場である関東の方が重要だったのだろうし、既に本拠の春日山城から随分と遠くまで来ているので、これ以上追撃すると補給が続かないとの判断もあったのだろう。
 義昭と通じていた松永久秀は、謙信の西侵と呼応して8月17日に大和信貴山城で決起したが、肝心の謙信が西侵を止めて越後に帰還したため、織田信忠・羽柴秀吉・佐久間信盛・丹羽長秀ら織田軍主力に攻められ、10月10日に自害した。久秀が離反したのは、宿敵の筒井順慶が重用されるなど、冷遇されていると考えたためであろうが、「第一次信長方位網」の時に一度信長から離反しているのだから、自業自得と言える。下克上の代表的存在の如く言われている「梟雄」久秀も最期はあっけなく、年老いて判断能力が鈍っていたのだろうか。

 

謙信の死
 天正5(1577)年10月23日、信長は羽柴秀吉に播磨への出陣を命じた。当時、毛利家と織田家との勢力圏は播磨で接するようになっており、遂に両者の直接対決が始まった。この時点で、織田領は約400万石、毛利領は約140万石といったところだが、毛利家は宇喜多家と山名家とを半ば従属させていて、播磨にも勢力を伸ばしているから、勢力圏では180万石程度にはなり、更に同盟勢力として本願寺・一向一揆と約130万石の上杉家がいる。織田家にも徳川家などの友好勢力がいるから、本願寺・一向一揆が加わったとしても、織田方有利なのは間違いないが、それでも勝負にはなりそうな勢力比で、本願寺がしぶとく抵抗したのも、織田家から毛利家に寝返る者が出たのも、納得がいく。狂信的な信仰心により抵抗したとの俗説は的外れと言うべきであろう。
 秀吉は、播磨に侵出して毛利方の上月城を落としたばかりか、但馬にも出て山口・竹田城をも奪取している。上月城には、尼子残党の山中幸盛(鹿之助)が城番に任命され、山中は尼子家復興の旗頭として掲げる勝久を擁して入城したが、翌年2月に一旦毛利方の宇喜多直家に追い払われ、その翌月に秀吉の支援で奪回し、再度勝久を擁して入城した
(26)。信長は、毛利家の宿敵である尼子家を利用して勢力拡大を図ったわけである。

 年が明けて天正6年3月9日、上杉謙信は関東出陣を目前に控えて昏倒し、13日に死亡した。この後、謙信の養子となっていた景勝(謙信の甥)と景虎(北条氏康の七男)が家督を巡って争い、翌年3月に景勝が勝利して家督を継ぎ、景虎は自害に追い込まれた(御館の乱)。1年にも及んだ家督争いの結果、元々強固ではない上杉家の領国は統制が弛緩してしまい、織田家に付け入る隙を与えてしまった。
 謙信のこの時期の死は信長にとって幸運だったと言われるが、謙信死後の御館の乱で上杉家は弱体化したから、確かにその通りだと言える。ただ、謙信が健在だった場合、信長はその地位が危うかったとの指摘は、誤りだろう。この時点で上杉家が織田家を打倒できる可能性は、信玄が西侵を開始した時点で武田家が織田家を打倒できる可能性よりも遥かに低かっただろうし、何よりも謙信がとこまで本気で織田家打倒を考えていたか疑わしく、謙信にとっては関東での物品の略奪と奴隷狩りの方が重要だったと思われる。謙信も信玄と同様に、後世の評価という視点からは、信長との本格的な対決がなかったのは幸運だったと言えるかもしれない。

 4月4日、信忠を大将として北畠信雄(信長次男)・神戸信孝(信長三男)・明智光秀・津田信澄(信長の甥で光秀の娘婿)・滝川一益・丹羽長秀・蜂屋頼隆も加わった織田軍は石山本願寺へと向かい、5・6日には石山近辺の麦の苗を薙ぎ捨てた(苅田)。戦国時代の常套作戦とも言うべき苅田を行なうことで、本願寺に対する兵粮攻めの強化を狙ったのだろう。続いて明智・滝川・丹羽の3人は丹波へと向かい、10日には荒木山城を落としている。
 4月中旬、毛利・宇喜多連合軍が山陽道を上ってきて、尼子残党の立て籠もる上月城を包囲した。羽柴秀吉と荒木村重が救援に向かったが、地形が険しく、また毛利・宇喜多連合軍が大軍だったためだろうか、救援を断念した。5月1日、信長は信忠・信雄・信孝らに命じて播磨へ救援に赴かせたが、やはり戦況は芳しくなく、上月城の救援は断念し、織田家から毛利家へと寝返った別所長治の立て籠もる三木城へと攻略目標を変更した。織田軍は別所方の神吉城を7月15日に落としたが、三木城は堅固なため、信忠は8月17日に播磨から帰還し、羽柴軍が包囲を続けた。この間、7月5日には上月城が陥落している。

 2年前の第一次木津川口の戦いで毛利軍に敗北して以降、信長は九鬼嘉隆と滝川一益に命じて水軍の増強に努め、石山近辺の制海権を握るべく6月26日に九鬼に命じて石山近海へと向かわせた。これに対して雑賀衆などが攻撃を仕掛けてきたが、織田水軍は一蹴した。国力に物を言わせた水軍増強の成果と言えよう。織田水軍が新たに建造した船の中にはかなりの大きさのものもあったようで、当時随分と評判になったが、この大船がかなりの戦力となったのだろう。
 10月に入ると、摂津一国を任されていた荒木村重が有岡城にて謀反を企てているとの情報が各所より信長に届くようになった。畿内の要所を任されている村重が寝返るのは大打撃だから、信長は村重を説得しようとしたが、結局村重は従わず、信長は信忠・信雄・信孝・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉・佐久間信盛らに加えて、北陸からも前田利家・佐々成政らを動員し、11月9日に出陣した。信長が如何に村重の謀反を重視していたかが分かる。村重は義昭・毛利家・本願寺に通じて謀反を起こしたのだが、その理由はどうもよく分からない。
 この間、11月6日に毛利水軍が石山に兵粮を入れるべく再び来襲してきたが、今度は織田水軍が圧勝した(第二次木津川口の戦い)。2年間で両水軍の力関係が逆転したわけで、これは国力の差と言うべきだろうか。信長は村重の与力だった高山右近や中川清秀を調略で自陣営に引き込み、村重の孤立化を図った。織田軍は荒木方の砦・城を落としていき、更には例によって荒木方の町や村を焼き払っていき、付城を築いて村重の立て籠もる有岡城への圧力を強めた。信長は、村重包囲網は充分整ったと判断したのか、秀吉を播磨、光秀を丹波へと向かわせ、自身も12月25日には安土城へと帰還し、村重攻略は年を越すこととなった。

 年が明けて天正7年、信長は3・4月と有岡城攻略の督戦を行ない、5月には有名な安土宗論で法華宗と浄土宗の僧侶を議論させ、敗北した法華宗に今後一切法難しないよう起請文を提出させている。8月には明智光秀により丹波が概ね平定され、柴田勝家は上杉家の混乱に乗じて加賀へと侵攻した。
 9月2日、村重は5・6人を連れて密かに有岡城を脱出し、花熊城へと向かった。光秀は村重赦免のために信長に願い出たが、交渉は上手くいかず、村重の家族・家臣合わせて約530人は年末になって焼き殺されたり斬首されたりした
(27)。村重の離反は、織田家にとって大打撃だったと言えよう。光秀の丹波平定などがあったにせよ、1年間に亘って織田軍の西方への拡大が鈍くなってしまった。ただ、この間に宇喜多家が羽柴秀吉を通じて織田家への帰参を願い出ている。これで一気に備前が織田家の勢力圏となるところだが、信長は宇喜多家は攻め滅ぼすつもりだったのか、秀吉を叱責して追い返している。また、信雄は9月17日に伊賀へ攻め込んだが敗退し、信長に叱責されている。

 

本願寺との和睦
 天正8(1580)年1月17日、羽柴秀吉は長い包囲の末に三木城を開城させ、城主の別所長治は自害した。今や、播磨は織田家が制圧しつつあり、荒木村重は有岡城を脱して勢力を大いに失い、備前の宇喜多直家は毛利家から織田家へ鞍替えし、上杉家は御館の乱で弱体化、毛利家も水軍が織田家の水軍に打ち破られてしまった。本願寺はジリ貧に陥ってしまい、前年末より始まっていた織田家との講和交渉の妥結を急がざるを得なくなってしまった。
 3月17日、信長は本願寺に講和の条件として大坂(石山)からの退去を要求し
(28)、前法主顕如の息子で新法主教如(光寿)は織田家との講和に反対し、各地に檄を飛ばして抵抗したが、その教如も8月2日には石山を退去した。これより前、顕如は4月9日に大坂を退去している。本願寺と織田家との抗争は、断続的に10年近く続いたわけである。
 本願寺との講和は織田家にとって一大転機となった。これにより、「第二次信長包囲網」は完全に破綻し、以後織田家は本能寺の変まで他勢力に脅かされることはもはやなく、順調に勢力を拡大していくことになる。この時点での織田家の所領は約440万石といったところで、「第一次信長包囲網」を脱した天正元年末時点での所領が約360万石だから、6年かけて80万石程増やしたことになる。苦しかったと言われている「第一次信長包囲網」の元亀元年〜天正元年の4年弱で約160万石増やしているわけだから、明らかに勢力拡張の速度は落ちている。「元手」を考慮すると、第一次よりも第二次の方が苦戦したとも言えるだろう。
 これは、第一次の反省を踏まえたのか、義昭が諸勢力の連携に腐心したためでもあると思う。ただそれでも、やはり所詮は烏合の衆と言うべきで、例えば上杉家の西侵と松永久秀の決起がちぐはぐな形となって上手く連携が成立しなかったあたりに、自身の経済・軍事力の劣る義昭が暗躍して結成させた諸勢力同盟の限界があると言えよう。

 閏3月、柴田勝家は加賀へと侵攻し、11月には概ね制圧している。羽柴秀吉は4月に播磨の残敵掃蕩に乗り出し、6月にはそこから但馬を経て因幡と伯耆に侵攻している。こうして活躍している重臣がいる一方で、8月になって佐久間信盛・林秀貞・丹羽氏勝・安藤守就が信長により追放されている。
 本願寺との講和も成立し、もはや織田家を脅かす勢力が存在しなくなったということで、不要な家臣の粛清に乗り出したのだろうが、信盛と秀貞は譜代の家老級的存在だっただけに、衝撃は大きかっただろう。信盛の場合は、石山攻めで大した功績がなかったことや金を貯めるばかりで人を雇わないことなどが、秀貞・氏勝・守就の場合は、嘗て謀反・内通を企てたということが追放理由で、家臣団の綱紀粛正も意図していたのだろう。

 年が明けて天正9年2月28日、信長は京都にて正親町天皇を招いて盛大な馬揃えを主催し、武家の棟梁としての地位を強く印象付けることとなった。3月には、馬揃えで信長配下の有力諸将が不在であるのにつけ込んで、上杉景勝が越前・加賀・越中で一揆を扇動したが、佐久間盛政と佐々成政に阻まれ、織田家は越中の西半分を制圧するのに成功した。また能登では、6月27日に上杉派の遊佐続光らが信長の命を受けた七尾城代の菅屋長頼に殺害され、温井長盛といった他の主だった上杉派は逐電し、能登は織田家の領国となった。10月に能登は前田利家に与えられ、利家は越前府中から移転することとなった(29)。またこの時、能登と越中の城を破却するよう長頼は信長に命じられており、「鉢植え領主」と「一国一城」という近世社会の特色が、一部にせよこの時点でも認められる。
 中国戦線では、6月25日に羽柴秀吉が2万の軍を率いて山陰に出陣し、7月には毛利方の因幡鳥取城を包囲した。3ヶ月に亘る包囲戦の末、10月25日、城主の吉川経家は自害し、開城となった。更に秀吉は、毛利軍が伯耆の織田方の城へ侵攻してきたので自ら援軍として赴き、兵粮と兵を増強して11月8日に姫路に帰還した。こうして、山陰では伯耆の東部と因幡が織田領となった。秀吉は17日には淡路へと兵を派遣し、これを制圧している。佐久間信盛の追放を教訓としたのか、秀吉の働きには目覚ましいものがある。
 畿内近国では、9月3日に信雄を大将として滝川一益・丹羽長秀・蒲生氏郷が伊賀へと攻め込み、11日には概ね平定している。10月9日に、信長は信忠と津田信澄を連れて平定したばかりの伊賀を訪問している。もはや大敵の存在しない織田家は、この年順調に勢力を拡大した。

 年が明けて天正10年2月1日、武田家臣で信濃福島城主の木曾義昌が織田家への寝返りを申し出てきた。信長はこれを好機として出陣を命じ、信忠を大将として滝川一益・明智光秀・河尻秀隆らが従った。この遠征では、信長は徳川家・北条家とも連携している。嘗ては武田家の同盟者だった北条家は、勝頼が御館の乱で北条家から上杉家に養子に入った景虎ではなく景勝を支持したことから、武田家と絶交したのである。長篠の戦いで重臣を多数失った武田家は、その後の徳川・織田の軍事的圧力に疲弊し、崩壊しかけていた。そのため、織田軍が信濃に侵攻すると、武田軍は有効な反撃が殆どできず、家臣が相次いで織田家に寝返った。追い詰められた勝頼は3月11日に自害し、武田家は一気に瓦解してしまった。
 1月までは、武田家は曲りなりにも100万石近くを誇る大大名であったが、如何に内部崩壊が進行していたとはいえ、それが織田軍の侵攻から僅か1ヶ月ばかりで滅亡してしまうのだから、もはや織田家の国力は他家と隔絶したものとなっていた。武田家は、信玄の代から諸役免除といった手段を用いてまで兵の確保に腐心していたのに対し、信長はこの遠征に際して、
右遠陣の儀に候条、人数少なく召し連れ、と命じているくらいで(30)、こういう状況では、名将の勝頼といえども如何ともし難かっただろう。信長は3月5日に安土を発ち、13日に信濃へと入った。
 信長は29日に国割を伝達し、甲斐は河尻秀隆、駿河は徳川家康、上野は時期の織田家は圧倒的な国力を背景に信長が重臣四面楚歌となった織田軍は、大敵影響が後詰迎撃三月前で引き締め滝川一益、信濃は森長可・毛利長秀らが領することとなった。これで織田家の所領は約650万石となり、2年かけて約200万石を増やしたことになる。これに事実上の配下といってよい徳川家と宇喜多家を加えると、織田家の勢力圏は740万石なり、日本の4割以上を占めることになるのである。本願寺との和睦後、織田家の勢力拡大は順調で、もはやこれを阻止する勢力など日本には存在しないかの如くであった。信長は帰途家康の歓待を受けて富士山を見物し、4月21日に安土に帰還した。

 

本能寺の変
 安土に帰還した信長は、駿河にて歓待を受けた家康に返礼をすることとし、家康と穴山梅雪を安土に招いた。家康は、5月15日に安土に到着している。家康と梅雪は21日に上洛し、京都・大坂・奈良・堺の見物へと向かった。
 この頃、羽柴秀吉は備中へと侵出して清水宗治の守る高松城を包囲していたが、これに対して毛利家は援軍を出し、秀吉は信長に援軍を要請してきた。信長は、この機に中国から九州までを一気に平定しようと考え、明智光秀・池田恒興らに援軍に赴くよう命じ、自身は29日に小姓20〜30人を連れて上洛し、本能寺に入った。
 ここで織田軍の配置状況を整理しておく。まず信長の子息の中でも有力な3人だが、7年前に家督を継いだ信忠は京都の妙覚寺に滞在し、信雄は領国伊勢に、信孝は丹羽長秀と共に四国侵攻に備えて大坂にいた。有力家臣では、滝川一益は上野の廐橋城におり、柴田勝家は上杉方の越中魚津城を、秀吉は上述の如く備中高松城を包囲中で、明智光秀は秀吉への後詰に備えて領国である丹波の亀山城にいた。恐らく、大坂の信孝軍は四国侵攻に備えての寄せ集めの軍だったから、京都近辺で纏まった軍を率いているのは光秀だけであった。

 6月2日、光秀は本能寺を襲撃し、20〜30人の小姓と合わせて側に50人もいなかったであろう信長は、為す術なく横死した。信忠はこの報を受けて二条城へと向かって明智軍を迎え撃ったが、やはり衆寡敵せず自害した。織田家は、一気に事実上の当主とその跡継ぎを失ってしまい、光秀としてはここまでは申し分ない成果と言える。
 光秀の謀反の理由については様々な説が唱えられており、ここで卑見を披露するだけの準備はできていないが、当時の織田軍の配置状況が光秀に謀反を決意させた一因となったことは間違いないと思う。信長と信忠が無防備といってよい状況で京都におり、上述したように京都近辺で纏まった軍を率いているのは光秀だけであった。滝川一益は関東におり、北条家が事変を知れば、一益を攻撃する可能性は高い。勝家は上杉軍と、秀吉は毛利軍と対峙しており、すぐには引き返してこられない可能性が高い。伊勢半国と伊賀の信雄は脅威だが、勢力は光秀の方が優勢である。大坂の信孝の軍は混成部隊で、信長と信忠が死亡して尚、信孝が統制できるか疑問である。家康は僅かな家臣と共に畿内におり、信長と同様に無防備状態である。そうすると、信長と信忠を討ち取れば、すぐに脅威になりそうな勢力はなく、信雄・信孝・重臣達の軍が光秀を討つべく来襲するまで時間的な余裕が期待でき、その間に体制を整えれば返り討ちにできる可能性は高い。謀反を起こすには絶好の機会で、これを逃せば次にこのような機会が到来する保証はない。光秀としては、充分勝算のある謀反だったのだろう。
 信長と信忠の死後、光秀は畿内とその近国の掌握に努め、例えば美濃では、2年前に信長に追放された安藤守就が光秀に呼応して決起している。また、警戒すべき信雄に対しては、伊勢と伊賀で一揆を扇動することによりその動きを封じており、信雄はこの一揆を平定するのに5ヶ月ほど要している
(31)。光秀は事変後僅か11日で敗死したことから、事変後の光秀の行動を非難する見解は根強く、事変後の光秀は無能だったとの見解もあるが、高柳光壽氏の言われる如く、事変後の光秀の処置は妥当なものであった(32)

 事変を知った織田家臣団の中で、逸早く軍を率いて光秀を攻めたのは秀吉であった。滝川一益は関東で事変を知った北条軍に攻撃されて大敗し、柴田勝家は上杉軍の牽制のためすぐには大軍を撤退させられなかった。信孝は、集結していた兵が事変を知って動揺し脱走し始めたため、光秀を討つどころの話ではなかった。家康は、事変当時殆ど無防備な状態で堺にいたため、光秀討伐どころか自身の命も危うく、同行していた穴山梅雪は別行動を取って一揆に殺害されている。秀吉の行動以外は、概ね光秀の予測の範囲内だったと思われる。
 3日に信長と信忠の死を知った秀吉は、以前より進められていた和睦交渉を4日に急ぎ取り纏め、5日には上方へ向けて撤退を開始した。この時、毛利軍は追撃してこず、これは光秀の想定外だっただろう。秀吉は、7日には居城の姫路城に帰還するという神速振りであったが、これは信長の援軍を迎えるために街道における進軍の準備が整っていたからであろう。所謂「中国大返し」である。事変後秀吉は、大坂の信孝と長秀など、畿内及びその近国の武将を味方に付けるべく活発な外交活動を展開している。
 秀吉の素早い帰還の結果、池田恒興・中川清秀・高山右近といった摂津の光秀与力衆は、秀吉有利と判断して秀吉方に加担した。また、光秀が頼りとしていた長岡藤孝と筒井順慶も、光秀の勝利が危うくなったと判断して秀吉と通じたが、山崎の戦いまではどうも日和見の態度を取っていたようである。
 この結果、光秀軍は秀吉・信孝連合軍に兵数で大きく劣ることとなり、13日の山崎の戦いでは、光秀軍と秀吉・信孝連合軍の兵力比は凡そ1:3となった
(33)。これでは、光秀が如何に名将だとしても勝算は殆どなく、やはり光秀軍は敗れ、光秀は同日、逃走中に落ち武者狩りに遭って死亡した。

 光秀にとって、秀吉の素早い帰還は大誤算で致命傷となったのだが、光秀に過失を認めるとすれば、毛利家を過大評価していたということだろうか。光秀は、秀吉は毛利軍と対峙して帰還できないか、撤退しようとしても毛利軍に追撃されて敗走してしまうと考えたのだろうが、この当時の毛利家は圧倒的な織田家に攻められてジリ貧で、織田家(秀吉が中心となったのだろうが)の調略により軍役を懈怠する家臣団がおり、秀吉軍を追撃したとしても返り討ちに遭った可能性が高かったと思われる。毛利軍が秀吉軍を追撃しなかったのは、毛利軍首脳部もそのことを認識していたからだろう。
 とはいえ、秀吉軍には直属ではなく与力の兵も多数いた筈で、場合によっては、信孝軍と同様に、兵士が動揺して逃亡してしまう恐れもあった。こうなると、毛利家が和睦に応じず秀吉軍を追撃して撃破した可能性もある。そうならずとも、備中高松城での対峙が長引き、秀吉軍は徒に日々を過ごすこととなり、その間に光秀が畿内とその近国を纏めてしまったかもしれない。
 秀吉の成功は際どかったのであり、山崎の戦いの後も秀吉の覇権は必ずしも決定的なものとは言い難く、数々の随分と際どい政治工作の末に天下人となったのであった。そう考えると、本能寺の変で最大の利益を得たのは秀吉だったが、そのことを以って秀吉を本能寺の変の黒幕だとは言えないのではなかろうか。仮に、秀吉が勝算ありとして光秀を唆して謀反を起こさせたのだとしたら、随分と見通しが甘く、秀吉の評価は下げざるを得ないと思う。

 

終わりに
 ここまで、信長の置かれた状況を見ていくことで、戦略面から信長の行動を考察し評価してきたが、信長の戦略方針は概ね慎重なもので、周囲の状況も考慮に入れつつ、できるだけ自勢力よりも弱い勢力を効力目標としていたと言えよう。嘗て北野武氏が、バラエティー番組の中で、「弱きを助け強きを挫く」をもじって「強きを助け弱きを挫く」と歌っておられたが、信長の行動原理は正にこの一節に当てはまるように思われる。
 信長は、止むを得ない場合の例外はあったものの、概ね「強きと結んで弱きを叩く」の原則に従って行動していたのであり、この点は他の戦国大名も同様だと言えよう。また、信長は最初から上洛と天下布武という目標を立て、その方針を実現するべく勢力を拡大したのではなかろう。その時々の状況に応じて最善と思われる方向へ勢力を拡張していった結果、運よく天下統一を狙える位置に立ったのだと思う。

 運がよいというのは、既に述べてきたことだが、具体的には斎藤義龍・三好長慶・足利義栄・武田信玄・上杉謙信などの死のことである。もっとも、これも既に述べたことだが、信玄と謙信の死で確かに信長は利益を得たものの、信玄も謙信も晩年の時点では既に信長を倒せる見込みは殆どなかった。これに対して、義龍・長慶・義栄の若すぎる病死がなければ、信長の覇業も危ういものとなったか、少なくとも勢力拡大が大きく遅れたことは間違いない。この3人の病死によって、信長には覇業への道が開けたのだと言える。
 個人の努力が殆ど意味を持たない(養生に努めるという手はあるので、努力する意味が皆無とは言わないが)病死により道が開けた信長は、実に幸運な人であったが、既述したように、信長に幸運を活かせるだけの優れた器量があったことも間違いない。信長の生きた時代は、まだ各大名家とも当主個人の力量に盛衰が大きく左右されており、当主個人の力量に大きく左右されない体制が確立するのは、江戸時代になってからであった。そして、信長の織田政権も、信長の横死を契機に瓦解してしまうことになったのである。もっとも織田家の場合は、既に家督を継いでいた信忠まで殆ど同時に死亡したので、ある程度仕方のないところもあろう。

 また、信長の慎重な態度は数々の政策にも認められ、一般に信長は旧来の権威を徹底的に破壊したかの如く言われているが、実は旧来の秩序との妥協を図ったり、これを利用したりして着実に勢力拡大を達成している。例えば、よく言われる旧来の座を否定し「自由」な商売を可能としたとの評価については、確かに領内の一部に楽市令を発布したので全面的に間違いとは言えないが、信長の基本的な流通政策は旧来の座の容認・保護と特権商人を指定しての流通統制にあるから、殆ど的外れな評価だろう。幕府の否定についても、当初からそのような構想だったかは疑問で、少なくとも天正3(1575)年後半までは幕府の権威を全否定はしていない。
 信長は旧来の秩序と新しい動向の双方に配慮して政策を推し進めていったのであり、単純に旧来の秩序の破壊者と定義しては、却って信長を矮小化することになろう。その意味で、脇田修氏の、
人はそれなりに時代の重荷をおい、当面する課題を解決しながら進まねばならない。信長もまた戦国期の現実の中で苦闘し、私たちが思っていたよりも、はるかに柔軟で複雑な動きを示したのであった、との信長評は的確であろう(34)。ただ、室町幕府を否定した形での統一の論理を築き上げようとした点は、信長の新しさとして高く評価すべきかもしれない。もっともこれも、朝廷の高次調停権と従来よりの天下思想に依拠しているところが多分にある、と言えるかもしれないが。

 

 


(1)
『信長公記』P158。
(2)『信長と石山合戦』P116。
(3)『信長と石山合戦』P116〜117。
(4)『信長公記』P167。
(5)『戦国史を見る目』P68〜69。
(6)『文書下』510P26。
(7)『信長公記』P172〜173。
(8)『信長公記』P173。
(9)『織田信長』P78〜80。
(10)「長篠の戦い」P26。
(11)『鉄砲と日本人』P88〜91。
(12)『鉄砲と日本人』P92。
(13)『戦国合戦の虚実』P128。
(14)『信長と石山合戦』P131〜133。
(15)『信長公記』P185。
(16)『本能寺の変の群像』P54。
(17)『文書上』419P710〜712。
(18)『文書下』523P44〜45。
(19)『信長公記』P199。
(20)『信長公記』P199〜200。
(21)『鉄砲と日本人』P119〜121。
(22)『鉄砲と日本人』P124〜127。
(23)『文書下』713P287〜288。
(24)『鉄砲と日本人』P127。
(25)『文書下』728P310〜311。
(26)『出雲尼子一族』P213〜214。
(27)『文書下』P411〜412。
(28)
『文書下』852P471〜472。
(29)『文書下』954P640〜642。
(30)『信長公記』P335。もっともこの後で、できるだけ多くの人数を動員できるよう努力工夫せよ、とも信長は命じている。
(31)『本能寺の変』P64。
(32)『本能寺の変』P6。
(33)『本能寺の変』P137。
(34)『織田信長』P177。

 

 

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