第3章
人類の出アフリカ
人類の出アフリカ
以前は、人類が最初にアフリカを出た時期は100万年前頃と考えられていたが(Lewin.,1998,P145)、グルジアのドマニシで177万年前頃の人類化石がオルドヴァイ型石器とともに発見されたので(河合.,2007,P46-52に、このグルジア人骨群についての最近までの研究成果が簡潔にまとめられている)、遅くとも180万年前頃にはなるだろうし、200万年前頃までさかのぼる可能性もあるだろう。
グルジアの人骨群は脳容量が600〜780ccで、エレクトスと断定するには大きくなく(河合.,2007,P46-52)、原始的特徴と派生的特徴とが混在しており(Lordkipanidze et
al.,2007、関連記事)、いわばハビリスとエレクトスの中間形態と言えそうである。グルジアの人骨群は、ケニアのクービフォラで発見された現在のところ最古の確実なエレクトス化石である ‘KNM−ER3733’とほぼ同年代であるため、アフリカではなくユーラシアでエレクトスが誕生したのではないか、との見解もある(Lewin.,2002,P147-149)。
ここでも人類種区分の難しさが現れており解釈の難しいところだが、典型的なアウストラロピテクス属とハビリスの化石はアフリカでしか発見されておらず、アフリカのエレクトスは190万年前までに登場していたとの見解もあるから(Wood et al.,1999)、やはりエレクトスはアフリカで進化したと考えるほうがよいと思う。おそらく、アフリカを出た人類はエレクトスだけではなく、エレクトスとハビリスの中間的形態の集団も出アフリカを果たしたのだろう。これらが同一種かどうか定かではないが、おそらく近縁の集団であり、相互に混血もあったのではないかと思われる。グルジアの177万年前頃の人骨群もそうした雑多な人類集団の一部であり、はっきりと分類するのはなかなか難しい。これらをホモ=グルジクスと分類する見解もあるが(諏訪.,2006)、多様なエレクトスの一部と考えるほうがよいと思う。
アフリカとグルジア以外で初期エレクトス化石が発見されているのは東南アジアのジャワ島で、その年代は180万年前頃までさかのぼるとの見解もあるが、発見されたときの状況から疑問も呈されている(Lewin.,2002,P146-152)。しかし、エレクトスの登場年代が200万年前頃までさかのぼるのだとしたら、ジャワのエレクトスの180万年前頃という年代も不自然ではないだろう。
なお、ここで断っておくと、以下の東南アジアと東アジアという区分は、現在のものとはやや異なる。東アジアは、現在の東南アジアの北部をも含む地理的概念で、東南アジアは、スンダランドを中心として、現在の東南アジアの南部を想定している。東アジアにかんしては、中国の重慶市で出土したハビリスと似た人骨の年代が204万年前頃だと判明したとの報道もあったが(関連記事)、ハビリスに近い人類集団も出アフリカを果たしていただろうから、この年代が妥当だという可能性もあると思う。
わりと早期に東南・東アジアへ人類が進出していたとすると、石器分布にまつわる謎は解決となる。アフリカでは260万年前頃からオルドヴァイ型石器が使用されるようになったが、170〜160万年前頃からより機能性の高くなったアシュール型石器が使用されるようになった(諏訪.,2006)。しかし、東南・東アジアでは長らくアシュール型石器が発見されず、いぜんとしてオルドヴァイ型石器が使用されていたので、人類の出アフリカが100万年前以降とされていた頃には、なぜアシュール型石器が使用されなかったのかということが大きな謎とされていた。
グルジアの人類の年代はアシュール文化以前であり、上述したように共伴した石器はオルドヴァイ型であった。人類がオルドヴァイ文化の時点でアフリカを出て、その子孫が東・東南アジアのエレクトスになったとすると、石器分布にまつわる謎はもはや謎ではなくなる。ただ、中国で発見された石器の中にはアシュール型石器も含まれるので(宮本.,2005,P67-68)、東アジアにはアシュール文化が一部流入したとみるべきだろう。しかし、アフリカから離れた地域でアシュール型石器が見られないのは、人口減少により石器製作技術の継承が途絶えたからだ、との見解もある(Lycett et al.,2008、関連記事)。また、180万年前頃にはグルジアに進出していたとなると、ホモ属は初期より火を使用していた可能性もあるだろう。
エレクトスは欧州へも進出した。その年代は今のところ120〜110万年前頃までさかのぼるようだが(Eudald et al.,2008、関連記事1、関連記事2)、厳しい寒冷期もあっただけに、寒冷地適応体型をしていたネアンデルターレンシスの登場までは、温暖期にアフリカから西アジアを経由して欧州に進出し、寒冷期に絶滅・撤退するということを繰り返していたのではなかろうか。また、アフリカ起源のホモ属は肌の色が濃かった可能性が高く、それが欧州のような高緯度地域への進出にあたって障害になった可能性がある。現在のところ人類最古の結核患者と推定される50万年前頃のトルコの人骨(種区分には曖昧なところがあり、エレクトスともハイデルベルゲンシスとも考えられる)も、肌の色が濃かったとされる(Kappelman et
al.,2008、関連記事)。
アフリカのみならず欧州から東南アジアにまで拡散したエレクトスだが、広範囲に長期間存在しながら出土した化石が少ないだけに、進化や集団の移動の様相には不明な点が多い。おそらくサピエンス以前の人類の出アフリカは1回だけではなく、アフリカからユーラシアに進出した集団がアフリカに帰還するなど、人類集団の移動はかなり複雑だったのではないかと思われる。そのような中で出土数は少ないものの、アフリカの140〜80万年前頃の化石は、アフリカ内でのエレクトスの系統の連続性を示しているとの指摘もある(諏訪.,2006)。おそらく、人類誕生から更新世末期までの期間において、もっとも多数の人口と人類集団内の多様性を抱えていたのはアフリカであり、欧州や西アジアや東アジアなどでは何度か人類の系統が途絶えたかもしれないが、アフリカにはずっと人類が存在し続けたのだろう。
もっとも東南アジアの場合は、アフリカほどではないにしても、長期にわたる人類の連続性が認められるようである。ジャワ島のエレクトス化石の比較の結果、ジャワのエレクトスは年代が下るにつれてその派生的形質を強めていき、特殊化していったことが判明した、との指摘がある(Baba et al.,2003、馬場.,2005,P6-9)。この指摘により、ジャワのエレクトスがオーストラリアの先住民に進化したとする、多地域進化説の重要な根拠が崩れることになった。おそらく東南アジアのエレクトスは孤立度の強い集団で、一度人類が進出した後は、サピエンスの進出まで東南アジアには他地域からの流入があまりなかったのだろう。
ハイデルベルゲンシスの出現
このように世界各地に進出したエレクトスの一部からサピエンスが進化したと思われるが、エレクトスとサピエンスとの中間種の名称としてしばしば用いられるのがハイデルベルゲンシスである(諏訪.,2006)。その正基準標本はドイツで発見されたが、アフリカの60〜20万年前頃の人骨(ボドやカブウェなど)や東アジアの30〜15万年前頃の人骨(金牛山や大茘や馬壩など)との類似性も指摘され、これらをまとめてハイデルベルゲンシスとする見解もある(諏訪.,2006)。こうした人類集団にネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)も含めて、古代型サピエンスとして一括して分類する見解も以前からある(Lewin.,1998,P167-174)。
ハイデルベルゲンシスはエレクトスとの類似点がある一方で、脳容量の増加などの点でサピエンスやネアンデルターレンシスへの移行形態を示している(諏訪.,2006)。おそらくハイデルベルゲンシスは60万年前頃にアフリカで誕生し、世界各地へ進出したのだろうが、アフリカに残ったりユーラシアからアフリカに帰還したりした集団からサピエンスが進化し、欧州にとどまった集団の中からネアンデルターレンシスが進化したのだろう。ただ上述したように、東南アジアにはほとんど進出しなかったと思われる。
ここでは、アフリカとユーラシアの広範囲に拡散したこれら脳容量の増加した人類を、ハイデルベルゲンシスと区分しておく。ただ、この場合のハイデルベルゲンシスは多様性が大きく、複数種に区分するほうが妥当かもしれないという可能性をつねに念頭においておきたい(関連記事)。
ハイデルベルゲンシスの誕生した頃、石器に重要と思われる変化が訪れる。170万年前頃に始まるアシュール文化は60万年前頃を境により洗練されたものとなり、これ以前を前期アシュール文化、これ以降を後期アシュール文化と分類する見解もある。前期アシュール文化においては、仕上げが雑で左右対称ではない握斧(ハンドアックス)が普通だったのにたいして、後期アシュール文化においては仕上げが細やかで左右対称な握斧が作られるようになったが、これは人類の認識能力の向上との解釈も可能である(Klein
et al.,2004,P153-155、関連記事)。
本格的な狩猟もハイデルベルゲンシスが出現した頃にはすでに行なわれていた可能性がある。ドイツでは40万年前頃の槍が出土し(Thieme.,1997、Klein
et al.,2004,P171-176)、同じころに英国では象を狩っていたとされており(関連記事)、ハイデルベルゲンシスの誕生地と思われるアフリカでは、もっと早くに本格的な狩猟が始まっていた可能性もあるだろう。じっさい、80〜70万年前頃のアフリカにおいて、かなり本格的な狩猟が行なわれていた可能性が指摘されている(Rabinovich et
al.,2008、関連記事)。また、人類の定住が40万年前頃に始まったとする見解もある(関連記事)。石器の変化などを、脳の拡大を伴うハイデルベルゲンシスの出現と結びつけると説得力がありそうなのだが、「文化の発展」と「生物学的進化」とを安易に結びつけることは危険であるし、一つの発見で美しい解釈が容易に崩れることがあるのが古人類学の恐ろしさなので、断定は難しい。
参考文献
Baba H. et al.(2003): Homo erectus Calvarium from the Pleistocene of Java. Science, 299, 5611,
1384 - 1388.
Eudald C. et al.(2008): The first hominin of
Kappelman J.
et al.(2008): First Homo erectus from
Klein RG, and
Edgar B.著(2004)、鈴木淑美訳『5万年前に人類に何が起きたか?(第2版第2刷)』(新書館、第1版1刷の刊行は2004年、原書の刊行は2002年)、関連記事
Lewin R.著(1998)、保志宏、楢崎修一郎訳『人類の起源と進化(第1版5刷)』(てらぺいあ、第1版1刷の刊行は1993年、原書の刊行は1989年)
Lewin R.著(2002)、保志宏訳『ここまでわかった人類の起源と進化』(てらぺいあ、原書の刊行は1999年)
Lordkipanidze D.
et al.(2007): Postcranial evidence from early Homo from
Lycett SJ.
et al.(2008): Acheulean variability and hominin dispersals: a model-bound approach. Journal of
Archaeological Science, 35, 3, 553-562. 、関連記事
Rabinovich R.
et al.(2008): Systematic butchering of fallow deer (Dama)
at the early middle Pleistocene Acheulian site of Gesher Benot Ya‘aqov (
Thieme
H.(1997):
Wood B, and Collard M.(1999): The Human
Genus. Science, 284, 5411, 65 - 71.
河合信和(2007)『ホモ・サピエンスの誕生』(同成社)、関連記事
諏訪元(2006)「化石からみた人類の進化」『シリーズ進化学5 ヒトの進化』(岩波書店)、関連記事
馬場悠男編(2005)『別冊日経サイエンス 人間性の進化』(日経サイエンス社)
宮本一夫(2005)『中国の歴史01 神話から歴史へ』(講談社)