第6章
サピエンスの拡散
ユーラシア南部・オーストラリアへの拡散
サピエンスの出アフリカの時期については、「神経学仮説」の立場からは5万年前頃という年代が提示されているが(Wade.,2007,P94-106)、65000〜60000年前頃(Mellars.,2006B、関連記事)、85000年前頃(Oppenheimer.,2007,1章)という見解もある。年代に違いはあるが、いずれもサピエンスの成功した出アフリカは1回のみだっただろうとしている。
オーストラリアへのサピエンスの移住は45000〜42000年前頃に始まり、それ以前の移住の確たる証拠はないとする見解があるので(O'Connell et al.,
2004)、「神経学仮説」は否定されるとしても、5万年前以降の出アフリカ説は必ずしも否定できない。ただ、人類による海洋資源の恒常的な利用は遅くとも16万年前頃には始まっていたので(Marean et al., 2007、関連記事)、サピエンスが海岸沿いに移住した可能性は低くない。そうすると、8〜6万年前頃のサピエンスの少なからぬ痕跡は現在では海面下にあるだろうから、なかなか発見されにくいだけのことである、との考えも可能だろう。
74000年前頃のスマトラ島のトバ大噴火の前後にも、インド南部のジュワラプラム遺跡では中期石器文化的な石器を有する集団が存在しつづけている(Petraglia et al.,
2007、関連記事)。この遺跡から人骨は発見されていないが、この年代で中期石器文化を有しているとなると、サピエンスである可能性が高い。そうすると、サピエンスの出アフリカは8万年前よりもさかのぼる可能性が出てくるだろう。
サピエンスにかぎらず、人類は何度もアフリカからユーラシアへと進出しただろうし、逆にユーラシアからアフリカへと帰還することもあっただろう。サピエンスの遺伝的多様性の乏しさは、おそらく気候変動などによる人口減少の後、小集団による急速な拡大があったためなのだろうが(Mellars.,2006B、関連記事)、人口拡大の核になった集団と、それ以外のサピエンス集団やサピエンス以外の集団との間にも混血はあったものと思われる。ただ、核になった集団のほうが数で優勢だったため、遺伝的多様性が失われたのだろう。おそらく、サピエンスの成功した出アフリカが1回のみであるように見えるのも、そのためだと思われる(Schillaci., 2008、関連記事)。
その意味で、サピエンスの出アフリカはその登場とともに始まっていた可能性が高いと思う。インドでは16万年前頃に段階IIIの石器文化が現れているが(Oppenheimer.,2007,P96)、これはサピエンスかハイデルベルゲンシスとサピエンスの中間的な人類集団の所産なのだろう。こうして各地に拡散した人類集団は、135000〜90000年前頃のアフリカ熱帯地域の大旱魃や(Cohen et al., 2007、関連記事)74000年前頃のスマトラ島のトバ大噴火などにより、人口が減少したり一部地域では絶滅したりしたのだろう。その後、アフリカの小集団が急速に人口を拡大したものと思われる。
そうすると、サピエンスの南アジアや東南アジアやオーストラリアへの進出は10万年前よりもさかのぼる可能性がある。おそらく熱帯起源のサピエンスにとって、似たような気候の土地の多い南アジアや東南アジアへは進出しやすかったのだろう。ただそうだとしても、現代人の主要な遺伝子供給源となったサピエンス集団の出アフリカは、7万年前以降になる可能性もあるだろう。しかし、早期に南アジアや東南アジアに進出したサピエンスも、わずかながら現代まで遺伝子を伝えているのではなかろうか。
南アジアや東南アジアやオーストラリアへのサピエンスの進出は、エチオピアから紅海を渡ってアラビア半島へ上陸し、そこから海岸沿いに南アジアへと向かう経路でなされた可能性が高い(Oppenheimer.,2007,1章)。もう一つの出アフリカの経路として有力なのはエジプトからレヴァントへと抜ける道であり、上述したようにじっさい10万年前頃のレヴァントにはサピエンスがいたのだが、人類の出アフリカは1回だけだったとする見解では、サピエンスによる早期のレヴァントへの進出は失敗し、現代には遺伝子を残さなかったとされる(Oppenheimer.,2007,1章)。
しかし、上記のようにサピエンスも何度も出アフリカを果たし、早期にユーラシアに進出したサピエンスも少数派ながら現代まで遺伝子を残しているとすると、レヴァントへ進出したサピエンスが絶滅したと考えなくてもよいだろう。じっさいレヴァントの上部旧石器文化は、レヴァント南部において中部旧石器時代の前期から後期まで存在したタブンD層型文化と連続的であり、タブンD層型の担い手がどの人類種か確定していないが、サピエンスの可能性が高いと思われる(大津他.,1997,P35-39)。タブンD層型の末期にはアフリカからの人類集団の移住が想定されるが(大津他.,1997,P38)、この新たな移住者が先住者よりも数で優勢であれば、遺伝的多様性が失われ、サピエンスの出アフリカが1回のみであるように見える効果をもたらしたことだろう。
ユーラシア北部・アメリカへの拡散
年代の問題(Mellars., 2006A)を考慮にいれても、欧州へのサピエンスの進出は5万年前をさかのぼることはないだろう。中部旧石器時代の間ずっとレヴァント南部にサピエンスがいたとしたら、サピエンスが欧州へ進出できなかったのは、文化や人口などを含む総合的な社会的蓄積が不足していたからであろう。熱帯起源のサピエンスにとって北方への進出は厳しいし、レヴァントから欧州へ進出するさいにはネアンデルターレンシスが障壁となる。
上部旧石器文化を備え、ネアンデルターレンシスを社会的な蓄積で圧倒できるようになってはじめて、サピエンスは欧州に進出できたのだろう。ただ、クリミア半島のスタロセリイェ遺跡で発見されたサピエンスと思われる人骨には、中部旧石器文化の石器が共伴していたので(Stringer
et al.,1997,P298)、これが後世の人骨の嵌入ではないとしたら、中部旧石器文化のサピエンスの一部も欧州に進出していたことになる。
欧州最初の「真の」上部旧石器文化(ネアンデルターレンシスの所産とされるシャテルペロン文化などは除く)はオーリニャック文化であり(Stringer et al.,1997,P329)、その担い手について近年になって色々と議論されたが、けっきょくはサピエンスということで落ち着きそうである(河合.,2007,P169-174)。
オーリニャック文化は、欧州だけではなくレヴァントにおいても外来文化として現れ、その起源地の候補としてザグロス地域が挙げられている(大津他.,1997,P42-44)。かりにそうだとすると、レヴァントにオーリニャック文化をもたらしたサピエンスと思われる集団も、数で優位に立って先住レヴァント集団を併合し、遺伝的多様性の喪失をもたらしたのかもしれない。
欧州へのサピエンスの最初の進出経路は、レヴァント→アナトリア→中欧南部ではなく、西アジア→コーカサス→東欧の中央平原か、西アジア→中央アジア→東欧の中央平原である可能性が指摘されており(Anikovich et al.,
2007、関連記事)、オーリニャック文化の起源がザグロス地域にあるとすれば、この経路は理解しやすくなる。しかしおそらく、サピエンスは複数の経路で欧州に進出したのだろう。
上述したように、南アジア・東南アジア・オーストラリアへのサピエンスの進出は10万年前よりもさかのぼる可能性があるから、東アジアへのサピエンスの進出も、10万年前頃までさかのぼる可能性がある。そうすると、今後10万年前頃のサピエンス的な人骨が東アジアで出土し、多地域進化説を証明するものだと中国の考古学者や形質人類学者が主張するかもしれないが、私の考えでは、その主張は間違っているということになる。もっとも、現代人の主要な遺伝子供給源となったサピエンスの進出となると、東アジアでもやはり7万年前以降ということになろう。
シベリアのアメリカ大陸に近い地域には、3万年前以降に人類の居住が始まる(海部.,2005B,8章)。このときアメリカ大陸への移住がなされたか不明だが、3万年前以降ならば、人類のアメリカ大陸への移住がなされた可能性を想定してもよいだろう。アメリカ大陸への人類移住の時期については激論が展開されているが(この論争については、Oppenheimer.,2007,7章、Mann.,2007,5章、などが詳しい)、まだ確定していない。この問題については、遅くとも12000年前にはアメリカ大陸に人類はいたということと、アメリカ大陸に移住した人類はサピエンスのみである、という二点のみ合意が成立しているといった感じで、当分決着しないだろう。
参考文献
Anikovich MV. et
al.(2007): Early Upper Paleolithic in
Mann CC.著(2007)、布施由紀子訳『1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見』(日本放送出版協会、原書の刊行は2005年)、関連記事
Marean CW.
et al.(2007): Early human use of marine resources and pigment in
Mellars P.(2006A):
A new radiocarbon revolution and the dispersal of modern humans in
Mellars
P.(2006B): Why did modern human populations disperse from
O'Connell JF, and Allen J.(2004): Dating
the colonization of Sahul (Pleistocene Australia–New
Guinea): a review of recent research. Journal of Archaeological Science,
31, 6, 835-853.
Oppenheimer S.著(2007)、仲村明子訳『人類の足跡10万年全史』(草思社、原書の刊行は2003年)、関連記事
Petraglia M.
et al.(2007): Middle Paleolithic Assemblages from the Indian Subcontinent
Before and After the Toba Super-Eruption. Science, 317, 5834,
114-116. 、関連記事
Schillaci
MA.(2008): Human cranial diversity and evidence for an ancient lineage of
modern humans. Journal of Human Evolution.
、関連記事
Stringer CB, and
Clive G.著(1997)、河合信和訳『ネアンデルタール人とは誰か』(朝日新聞社、原書の刊行は1993年)
Wade N.著(2007)、安田喜憲監修、沼尻由紀子訳『5万年前 このとき人類の壮大な旅が始まった』(イースト・プレス社、原書の刊行は2006年)、関連記事
大津忠彦、常木晃、西秋良宏(1997)『世界の考古学5 西アジアの考古学』(同成社)、関連記事(1)、関連記事(2)
海部 陽介(2005B)『人類がたどってきた道』(日本放送出版協会)
河合信和(2007)『ホモ・サピエンスの誕生』(同成社)、関連記事