掲示板過去ログ(3)

 

  

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続き 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月24日(木)23時53分13秒

>中世ヨーロッパ
 ローマの「過去」がちらつきますが、一度、そういう体制が
崩壊して、原始的段階にまで社会が後戻りしたと考えるべきですね。

>層の厚み
 部分的には、例えば聖徳太子とか、都とか、そう言うところでは、
中国の知識人に負けないような人物も出来てきます。しかし、層の
厚みとなると全然違う。例えば、同じ時代の中国では、都だけでな
く、地方にもざらにいたりする。

>きんたろうさん
 どうもはじめまして。日本大熊猫と申します。
 おそらく、おっしゃりたいことは、「文字文化において、中国から
多大な影響を受けたので、そう言う方面からの影響ばかりが重視されが
ちであるが、日本への文化的影響というと、中国や朝鮮からばかりでは
ない」、と言ったところでしょうか?



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>劉公嗣さん 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月24日(木)23時42分47秒

>農耕や国家や文字を独自に誕生させた地域というのは、肥沃三日月地帯や
>中国や中米など、世界には数える程しかなく、圧倒的多数の地域は、そう
>した先駆者に影響を受けて文明と国家組織が発達していったわけです。

 確かに、国境のない太古においては、そんな先駆者の誕生させた文化が周
辺に伝わるのは非常に早かったと思います。

>聖徳太子が優れた知識人であったり、律令の規定がそうも見劣りしないも
>のであったり、

 確かに、頭の中の作文では立派なものが出来ます。日本の律令も実際に施
行されなかった作文だと思うと納得がいきます。この作文を鵜呑みにして、
実は私も奈良時代には、日本はかなり進んだ国家を形成したと考えていたの
ですが。
 ただ、これは日本が進んでいたと言うよりも、中世欧州が遅れていた問題
なのですが、カール大帝が首都を持てず、廷臣団を引き連れて、各地を転々
としたのに、平城京では20万の人口を保持できたという話もあります。もち
ろん、「20万」も実際はどうだったかという問題はありますが、それでもか
なりは人口はあったのでしょう。

>一部の小説が世界的に評価されたりしますが、
 源氏物語などは、これはこれで大したものだと思いますが、文明の発展度
となると、この読者層の厚みも問題ですね。例えば、更級日記には、国司の
娘の作者でさえ、源氏を読もうとしても、継母などから話を聞くだけで、田
舎では手に入らない。都に戻って、やっと手にはいるのですが、それでも最
初は端本しか手に入りません。ましてや、国司以外の郡司など地方にどれだ
け普及していたか。源氏が地方にも普及するのは、内藤湖南も言っていまし
たが、やはり戦国以降でしょう。それも、源氏よりも論語、史記などの漢文
の方がよく読まれていたのですが。

 『銃・病原菌・鉄』は、なんとか手に入れて読みたいと思います。


http://members.tripod.co.jp/sumicom/


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大宰府は・・・ 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月24日(木)23時16分17秒

恥ずかしながら、私もよく知らないのですが、7世紀後半には既に多くの
施設が建てられていたようですね。確か、吉川弘文館の『古代を考える』
シリーズに『大宰府』もあったように記憶していますが・・・。


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関係のないお話 投稿者:かいがら  投稿日: 5月24日(木)23時00分16秒

大宰府って、いつからああ発展したんでしょうね?
まぁ、気になるところではあります


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先程・・・ 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月24日(木)22時51分03秒

改めて読み返してみると、かなり未熟な内容となっていて、恥ずかしい
限りです。今となっては、考えの違うところもありますし・・・。

日本の文字文化への影響というと、例えばインドあたりでしょうか?

インドネシアに城壁都市が存在したかというと、私もよく分かりません。
現在のタイやビルマ辺りなど、東南アジア全域で見ると、城壁都市は珍
しくはなかったようですが。


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何故日本では囲壁集落が発達しなかったか 投稿者:きんたろう  投稿日: 5月24日(木)21時16分56秒

はなかなか興味深い考察だと思いました。
また、とても詳しく調べられているのには感心しました。

日本の文字文化は中国大陸から多大な影響を受けているためにどうしても史料やその他の面から中
国、朝鮮半島にかなりの比重で意識を向けがちになるのはある意味では仕方がないと思うのです
が、実はそればかりではないように感じています。

インドネシアなどでは、「城壁都市」は発達していなかったように記憶しています??
ちょっと怪しい記憶です、笑

http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/


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私もつい最近までは 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月24日(木)07時42分54秒

都市国家から領域国家を経て古代帝国へと、征服を通じて広域的な政治統合が
なされるのだと考えていましたが、日本大熊猫さんをはじめとして、皆さんと
ネットで議論したり、色々と本を読んだりして、考えも変わってきました。

今日読後雑感に掲載予定の『銃・病原菌・鉄』で述べられていましたが、農耕
や国家や文字を独自に誕生させた地域というのは、肥沃三日月地帯や中国や中
米など、世界には数える程しかなく、圧倒的多数の地域は、そうした先駆者に
影響を受けて文明と国家組織が発達していったわけです。
日本列島では、本格的な農耕開始から国家成立までの期間が非常に短かったと
する見解が提示されていますが、これも後発組の特徴というか「利点」なのだ
と思います。ですから、社会全体としては後進的要素が多分に認められても、
同時代の先進地域の先進的要素を取り入れて、部分的には、国家組織や文化で
先進地域に見劣りしないようなものが達成されていることになります。
そういうわけで、聖徳太子が優れた知識人であったり、律令の規定がそうも見
劣りしないものであったり、一部の小説が世界的に評価されたりしますが、そ
ういうものを過大評価して、全般的な歴史評価をしてしまうことには危険が多
いのではないかと思います。


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忘れない内に 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月24日(木)00時36分39秒

 実は、私も、劉公嗣さんの話を聞くまでは、邪馬台国は九州だろうと
思っていたのです。
 その主張の背景には、邪馬台国は日本最初の国家であると10年ぐらい
前まで思っており(今は違うが)、その歴史観的な背景としては、国家
は都市国家のように最初ごく小さな規模で形成され、それが征服等で発
展していって、領域国家、しいては古代帝国になるという歴史観があっ
たわけで、どうもそれがそもそも違ったのです。

 西日本の倭人諸部族による「倭国」(倭国同盟)形成の最重要契機は、
やはり中国王朝への朝貢貿易かもしれません。
 倭王を部族同盟の大酋長などというと、「土人」的なイメージがしますが、
後発文明の「有利」さなのかもしれませんが、先発文明から先進的文物を取
り入れることで、けっこう「進んだ」格好が出来ます。だから、聖徳太子を
見てもかなり先進的な王侯のイメージなのですが、社会段階はというと、ま
だ国家形成前夜と言うべきでしょう。もっとも、原始時代に対するイメージが
修正を要求されるのであって、原始時代末期ともなると、けっこう「立派」
な格好をしていたのかもしれません。

 何にしろ、地方と中央との文明差は、倭国同盟形成後、どんどん広がっていき、
律令国家成立は、更にそれを拡大したでしょう。おっしゃるように8世紀後半以
降も強化されていった中央支配は、地方の富を都に収奪する結果となり、益々、
文明差を拡大しました。南北朝以降の分裂争乱により、徐々に地方が発展して行き、
都の文明が日本中に拡大し、そうして今に続く日本文明というものが確立された
のでしょう。確かに、これは内藤湖南の言うように、応仁の乱をメルクマールとして
いるでしょう。

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いや、本当に 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月23日(水)23時47分10秒

皆さん、書き込み有難う御座います。

>なんかゲームがたまってきました
どんなゲームなのでしょうか?


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なんか 投稿者:かいがら  投稿日: 5月23日(水)22時55分08秒

ものすごくカキコが多いので、どこから返したらいいのか…(笑)
えと、なんかゲームがたまってきました
いいことです


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そうですね 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月23日(水)22時16分10秒

中国の史書に見える「国」については、実態をよく検討する
必要があると思います。3世紀頃の倭国というのは、面の支
配ではなく、点と線の支配と考える方が妥当なのだと考えて
います。
確かに、律令国家成立によって、中央勢力である「畿内」国
の各地方勢力に対する支配権は質的に強化されていったので
しょうが、やはり以前述べたように、その支配力は8世紀前
半に頂点を迎えたのではなく、8世紀後半以降も徐々に強化
されていったのだと思います。


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まあ、 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月23日(水)21時42分35秒

 中国史書に見える「国」を国家などと考えると、とてつもない
誤解を招くのでしょう。それぞれの小「国」しかり、それは国家
などではなく、氏族部族的集団であり、それらの連合たる当時の
倭国でさえ、国家ではなく、それらの部族同盟のようなものなの
でしょう。
 いわば、卑弥呼や後の倭王、もっと言えば、律令国家成立以前
の「天皇」は、まあ部族同盟の大酋長と言った方がいいのでしょ
う。
 邪馬台国を国家と考えると、確かにそんな広範な国家があの頃
に成立していたわけはないが、部族同盟と考えれば、おかしくな
いし、それは推古朝でも基本的に代わりはないのではないでしょ
うか。
 おっしゃるとおり、律令国家でも、こんな同盟・連合的性格は
払拭されていませんが、この時期の特徴は、律令国家の「畿内」
国的性格であり、さらにはこの「畿内」国の各地方勢力に対する
支配権の質的強化だと思います。

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眠いなあ・・・ 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月23日(水)06時55分25秒

>日本大熊猫さん
私の考えは大体言われてしまった、という感じです。私も、まあ
そういった方向で考えています。中国諸王朝に倭国を代表して朝
貢するというのは倭国王の重要な任務で、外交権は当初から一元
化しようとの意識が強かったのでしょう。ただ、律令国家といえ
ども、そうした同盟・連合的性格は払拭できていないのではない
かと思います。この問題に関連した雑文を今日掲載する予定です。

>きんたろうさん
再度の御訪問、有難う御座います。
ミホノブルボンといえば、故戸山調教師は菊花賞での小島騎手の
騎乗には御不満だったようですね。行かせてしまえばよかったの
ではないかと。ただ、圧倒的な人気でしたから、長距離戦で最初
に競りかけられたら、岡部騎手といえども控えたのではないかと
も思います。

>教祖さん
いや、私も大したことは言えてませんから。
掲示板が再開となったら、また書き込みに行きます。

>会長殿
東京も雨が降っています。私も休みたいなあ(笑)。


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頭の中が洗われていく気分です 投稿者:彦やん  投稿日: 5月23日(水)04時01分40秒

これで、何とか自分も頑張ろうという気になりそうです。

でも、今日は雨が降っているので学校へ行くかどうかは・・・(汗)。

http://nununu.nu/paasuke/


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ふむむ 投稿者:教祖  投稿日: 5月22日(火)23時46分03秒

邪馬台国論議とかロマンを誘いますね。
教祖も2000年ぐらい昔の日本ってどうなってたのか
とっても興味ありますが
基礎知識が無いのでこんな恥ずかしい書きこみですんません


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再訪 投稿者:きんたろう  投稿日: 5月22日(火)22時51分39秒

レスを読むと劉公嗣さんの真面目さがとてもよく現れていると思いました^^

それにしてもミホノブルボン、笑
下記のページは私の秘密にしているページです。
(実はちょっと恥ずかしい、笑)(^^ゞ

http://www.geocities.co.jp/Colosseum-Acropolis/8323/blbn.htm


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殆ど私見になりましたが 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月22日(火)22時02分13秒

 どうも、従来の歴史学説というものは、奈良に興起した大和勢力、あるいは
九州より東進して大和へ入りそこを根拠地とした勢力が、まず大和地域から近
畿を支配した後に、諸国に侵攻し、徐々に小から大へと統一を進める中で、国
家が形成されていった、というようなものでしょう。

 しかし、この所、考えられるのは、まず西日本を中心とした比較的密接な
「交易圏」(おそらくは倭人の)が出来、その独立状態の諸部族、あるいは
小地域「国」の「国際連合」のような形で、同盟が出来、中央統轄機関たる」
倭王と側近勢力が生まれた。倭王は、対外的には、倭「国」を代表して、中国
王朝に朝貢した。
 その中央機関たる倭王と側近勢力が徐々に勢力を伸ばしていき、各地域小
「国」に対する支配を強め、一方、社会的にも、階級的矛盾が激化し、同盟
のようなものが、やがて国家へと変質発展していった。

 私見も交えてまとめてみると、こんなものでしょうか?
 「倭王と側近勢力」というのは、時代ごとに一定していない。ただ一定時期
には固定化するようになり、その勢力が中心となって、「日本」国号国家が
生まれる。


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ええっと・・・ 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月22日(火)21時29分35秒

今回の一連の投稿は殆ど推測ですので、確固たる根拠があるわけでは
なく、自信もそれ程ありません。自分の掲示板に試論として書き込ん
でみた、という程度のものです。この時代の参考書としては、最近の
研究動向も踏まえられているという点で、講談社から刊行中の『日本
の歴史』の02巻と03巻がよいと思います。

「倭国王とその側近勢力」は、各種利権や一定の土地の支配権を握っ
ている豪族を想定しています。まあ、倭国王になれるような者は、下
級豪族を従えている(そんなに強力な支配ではないでしょうが)最上
級豪族に属しているのでしょう。
ただ、以前にも述べたように、3〜4世紀に確固たる王家が成立して
いたわけではないでしょうから、倭国王も複数の「家」というかその
原形のような「血縁集団」から選出されていて、出身地域も必ずしも
一定ではなかったのでしょう。倭国王の側近達は、王と地縁・血縁な
どで繋がっていた豪族達なのだと推測しています。継体の出身地域が
北陸と伝えられていることからすると、選出される倭国王の出身地域
は案外広域に亘っていた可能性もあるでしょう。
ただ、特定の地位や職掌を継承していく確固たる「家」というか氏族
確立の試みはずっとなされていた筈で、5世紀ともなると、そうした
氏族が徐々に成立しつつあったのではないでしょうか。そして、6世
紀以降に王族も本格的に成立していったのだと思います。

他地域についてはよく分かりませんが、「日本」の場合、交易同盟的
性格の強い政治秩序連合体が、後の日本国に繋がる広域国家の出発点
になった可能性が高いと思います。他にも、似たような事象の認めら
れる地域は少なからずあるように思います。


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補足 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月22日(火)20時33分42秒

 どうも、近頃は邪馬台国近畿説の方が有力のようですね。
 紹介していただいた『「邪馬台国」と日本人』にも、
>国家というものは、最初小国家として生まれ、侵略や交易の広がりを
>通して、徐々に「統一国家」へ発展していくもの、という常識・・・
>その常識が、今後は解体していくだろうと思うからである。
と書いてありました。
 確かに、古代国家というものを考える時、どうも神話のイメージや
古代のローマ市がローマ帝国に「発展していった」ような歴史を思い
出すのですが、確かにこれは違うのかもしれない。
 原始社会の末期に、一定広範囲の密接な部族的集団の交易範囲が形成
され、最初は「交易同盟」に過ぎなかったものが、後には国家に変貌し
て行くのでしょうか?


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ううん 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月22日(火)20時15分53秒

>後に畿内と呼ばれる地域を、倭国王とその側近の「中央勢力」は、
>7世紀頃までかけて、次第に他地域と比較して強力に支配するように
>なっていったのだと思います。

 「倭国王とその側近勢力」というのは、いったい何者なのでしょう。
彼らの権力基盤は何なんでしょうか?
 この辺は、勉強していないので、どうも苦手です。何か参考書はない
ものでしょうか?
 倭国を国家と認めるとか認めないとか言う前に、どうも実態がよく分
かりません。

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補足 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月22日(火)19時30分28秒

ヤマト(邪馬台)国が倭国大乱以前より奈良盆地周辺で大きな勢力を
誇り、乱を経て主導権を握り、首長の卑弥呼を諸国の賛同を得て倭国
王とした、という可能性も否定はできませんが、それよりも、吉備を
中心として北部九州なども加わった西日本諸国が、新たに共立した卑
弥呼を中心として奈良盆地に新たな拠点を築いた、との可能性の方が
高いと思います。
卑弥呼以降の倭国王というのは、元来ヤマトを拠点としていたわけで
も、またヤマトの「王」だったわけでもなく、あくまで倭国の王であ
り、後に畿内と呼ばれる地域を、倭国王とその側近の「中央勢力」は、
7世紀頃までかけて、次第に他地域と比較して強力に支配するように
なっていったのだと思います。
その倭国王の役割は、当初は、安定した交易(物資入手)を可能とす
る政治秩序の維持にあり、倭国王はいわば交易同盟の盟主といったと
ころだと思います。当然、その支配はさほど強いものではなく、倭国
を国家と認めない考え方もあるでしょう(まあ、そうした見解の方が
主流ですが)。


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邪馬台国と卑弥呼は 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月22日(火)07時21分34秒

先ず何よりも、『魏書』解釈の問題であると思います。
『魏書』を読む限りでは、卑弥呼はあくまで倭国の女王
であり、邪馬台国は女王(卑弥呼)の都する所・居住地
以外のものではありません。
勿論、卑弥呼が元々邪馬台国の首長であり、邪馬台国の
勢力を背景に諸国に共立されて倭王に就任した可能性も
充分あるとは思います。ただ、結局この時代のことはよ
く分かりませんので・・・。
恐らく卑弥呼が居を構えたと思われる纒向遺跡は、従来
の奈良盆地の弥生集落とは異質の存在で、外部勢力の流
入により成立したものではないかと推測されています。
だからといって、以前よく言われていた九州勢力東進説
を今更唱えるわけではなく、恐らくは西日本の諸国によ
る共立が行なわれたのであり、卑弥呼が邪馬台国の首長
であったことや、邪馬台国の勢力を背景に共立されたと
は、必ずしも言えない様にも思います。


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具体的に、 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月21日(月)23時32分35秒

 「邪馬台国の女王」と「倭国の女王」とでは、どう違うのでしょうか?
>倭国の争乱の末に諸国の首長たちに共立されて王となった。邪馬台国に都し、

 確かに、「親魏倭王」に封じられた。本人も「倭王」と名乗ったでしょうが、
彼女は邪馬台国の首長ではないのでしょうか?まあ、「倭国」の「王」である
ことと、「邪馬台国」の首長であることは矛盾しません。ちょうで、ヴィルヘ
ルム2世などが、ドイツ帝国皇帝であると共に、プロイセン国王であったように、
「邪馬台国の女王」というのは、「プロイセンの皇帝」というような意味にな
るのでしょうか?
 卑弥呼を共立した首長たちは、自分たちの「連合」をなんと称していたので
しょう。
 余り、意味の無いような違いのような気もしますが、当時の段階で、卑弥呼
が邪馬台国(倭国連合の一構成要素である)と少なくとも無縁な人間ではなく、
邪馬台国の勢力を背景に倭国の女王となったと思うのですが。


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卑弥呼の件は・・・ 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月21日(月)22時57分05秒

私も、西嶋定生氏の論考を読むまでは全く気付きませんでした。
近代邪馬台国論争の火付け役である白鳥庫吉は、きちんと「倭
女王卑弥呼」と書いていて、その後に間違った表記が浸透して
しまったようです。


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そうでしたか・・・ 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月21日(月)20時54分58秒

 卑弥呼は、倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではなかったのですね。
知りませんでした。いっぺん、自分でも調べてみます。

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嗚呼・・・ 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月21日(月)07時04分30秒

>会長殿
この時期から忙しくなりますよね・・・。
頑張ってくだされ。

>教祖さん
そうですか・・・。ああいう場合は、本当に
どうしたらよいのでしょうねぇ・・・。


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掲示板止め 投稿者:教祖  投稿日: 5月21日(月)00時30分30秒

一時的にうちの掲示板止めました。
広告の内容が違法行為に近いか
少なくとも脱法行為なので対応を考えます。
再開時にはまた連絡します。


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過去の資料を探り 投稿者:彦やん  投稿日: 5月21日(月)00時07分26秒

ああでもないこうでもないと模索したりして。
また、月曜日も探ってきます。
そして、段々と文献調査の範囲を広げていこうと。
とりうえずは、そういうことろですか。

http://nununu.nu/paasuke/


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今日こそは片付けを・・・ 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月21日(月)00時01分20秒

>Toshyさん
まあ、殆ど受け売りですから(笑)。いつかは、独自色
の強い優れた見解を提示してみたいものですが・・・。

>かいがらさん
個人戦闘が難しくて・・・今のところ全敗です(笑)。
絡まれることもあるようですから、剣術技能は初期設定
で付けておく方がよいと思います。
まだ二ヶ月程進めただけなので判断は時期尚早ですが、
どうもカードバトルは外し気味のような気が・・・。か
なり期待していたのですが、ここにきて不安も増大しつ
つあります。

>きんたろうさん
訪問して頂き、有難う御座います。好奇心は強い方だと
思います。どれも底が浅いのですが(笑)。
ミホノブルボンは、古馬になって出走していないので入
れなかったのですが、能力は、90年代の名馬の中でも
間違いなくトップクラスだと思います。
失敗した投稿は削除致しました。


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ごめんなさい^^;; 投稿者:きんたろう  投稿日: 5月20日(日)23時54分07秒

下の下の書き込みは失敗作です(;^_^A
削除をお願いします。


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こんばんは 投稿者:きんたろう  投稿日: 5月20日(日)23時52分52秒

遊びに来ました。
幅広い好奇心をお持ちなんですね^^
これからもよろしくお願いしますね。

ところで名馬10選にミホノブルボンが入っていなかっのだけは納得できませんでした、笑

http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/


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いかがです? 投稿者:かいがら  投稿日: 5月20日(日)22時17分43秒

太閤4は??


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御来訪ありがとうございました。 投稿者:Toshy  投稿日: 5月20日(日)21時40分59秒

いや、劉さんがあちこちで書いている歴史談義には感心しているところです。
幅広い知識を持っているんですね。
これからも勉強させてください(^^)


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Toshyさん、初めまして 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月20日(日)17時50分58秒

今後とも宜しくお願い申し上げます。
早速拝見してきましたが、凄いページですね。
感服致しました。


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はじめましてでござる。 投稿者:Toshy  投稿日: 5月20日(日)11時50分48秒

きんたろうさんのところから飛んでみました(^^)
わしは歴史人間ではありませんが、郷土の偉大なる平民を紹介するコーナーに、今夢中になっております。
ぜひとも遊びに来てください。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/tsu.htm


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史実・定説 投稿者:劉公嗣(管理人)  投稿日: 5月18日(金)06時45分36秒

一向一揆の制圧や比叡山焼き討ちについては、私も大いに勉強不足なので、
一般的な通念の方が真に近いのかもしれませんが、鉄砲に関しては、明ら
かに過去の一般的な見解は間違っていると思います。楽市楽座も、一般的
な理解はどうも違うように思われます。史実・定説というのも、根本史料
に謙虚に向き合えば、案外脆いことも多いのかもしれません。まあ、私自
身が根本史料を読み込んだわけではありませんが。


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史実となると難しい 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月17日(木)23時31分37秒

 鉄砲の問題、叡山焼き討ちの問題、史実の問題となると難しい
ですね。戦果を「誇る」つもりの言葉が、後世から見れば、「残
酷」に見える。
 私には実際の問題は分かりませんが、一般に言われるような
「史実」を鵜呑みに出来ないと言うことですね。

http://members.tripod.co.jp/sumicom/


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秀吉と家康の統一 投稿者:劉公嗣(管理人)  投稿日: 5月16日(水)21時38分36秒

近代日本国家の基礎は、概ね両者の統一で整ったと思います。
その意味では、両者により日本統一国家が成立したとも言える
のですが、幕末以前は、「日本国民」としての意識が弱いので
はないか、と思います。


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れ:秀吉による統一 投稿者:日本大熊猫  投稿日: 5月16日(水)20時26分33秒

>分裂後の再統合ではなく新しい統一国家だった、とするのが最も妥当
だと考えています。

 確かに、私もそう思います。

>秀吉の統一もまだ充分ではなく、真の日本国の成立は明治になってから
だと思います。
 確かに、藩の問題もあるのですが、基本的には秀吉、家康で日本統一国
家が出来たと考えてもいいと思いますが。

http://members.tripod.co.jp/sumicom/


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秀吉による統一 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月16日(水)07時31分02秒

秀吉人気は、やはり『絵本太閤記』など数々の語り物によるところが
大きいように思います。
豊臣政権の理解については、旧来の「日本」国に規定されるところも
多分にあったが、分裂後の再統合ではなく新しい統一国家だった、と
するのが最も妥当だと考えています。
仰るように、太閤検地によって最終的に荘園制が解体されたのも大き
かったと思います。ただ、太閤検地による石高制が一旦は「全国」で
施行されましたが、東国ではそれも一時のことで、江戸時代も基本的
には貫高制だったようです。そうすると、秀吉の統一もまだ充分では
なく、真の日本国の成立は明治になってからだと思います。


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皆さん、論文大変ですね 投稿者:日本大熊猫(Sumikomama)  投稿日: 5月15日(火)21時05分22秒

>秀吉人気
 なるほど、一種の判官贔屓ですか?
 やはり、絵本太閤記とかの影響の庶民出身者の立身出世話が面白いのかも?

 それと、理屈をこねると、これを再建されたと取るか、初めて本格的に形成
されたと取るか、見解が分かれるかもしれませんが、短命に終わったとは言え、
日本統一国家の建設者ですね。
 それと、太閤検地も、これによって荘園制の残滓が完全に払拭されます。

http://members.tripod.co.jp/sumicom/


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卒論 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月15日(火)07時16分27秒

>かいがらさん
おお、是非ともお願いします。私が理解できるかどうか分かりませんが(笑)。
思想史はさっぱりですからねぇ・・・。だからといって、他の分野に精通して
いるというわけでもありませんが(笑)。

>会長殿
取り敢えず、過去何年かの先輩の卒論を読めば、ある程度の目処がつくような
気もします。


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ワシの卒論こそ 投稿者:彦やん  投稿日: 5月15日(火)00時35分41秒

ひどい出来になったりするんだろうな(笑)。
したくなくてもなりそうで。
なるだけふざけたものにならぬよう、調べて調べて分析する心積もりではありますが。
どうでしょうねえ。

http://nununu.nu/paasuke/


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むめ〜 投稿者:かいがら  投稿日: 5月14日(月)23時06分55秒

ひどい出来の卒論でも提供しましょうか?(笑)


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私自身は 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月14日(月)22時39分58秒

大したことは書けていないのですが、諸文献からの引用には読んで
有益なものが多いと思います。歴史雑文や読後雑感の紫色の文字の
部分です。
こちらこそ、今後とも宜しくお願いします。


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トピックへの書き込み 投稿者:kituno_i  投稿日: 5月14日(月)21時52分17秒

いつもありがとうございます。
トピックを読破して下さり、とても感激しています。
私はとてもおっちょこちょいで、周りの方に迷惑をかけてばかりです。
HPの作成も、失敗続き。^^;;
トピックの内容も中途半端で、申し訳なく思っています。

劉公嗣さんのHPは、少しずつ読ませていただきます。
これからも宜しくお願いします。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/


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月曜日ですね・・・ 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月14日(月)07時31分23秒

いつものことながら憂鬱です(笑)。

>日本大熊猫さん
今後とも宜しくお願い申し上げます。

>かいがらさん
私は基本的に暇人なのですが、将来のことを考えたら、本当はそんな
筈はないんですよね・・・。


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ふげ 投稿者:かいがら  投稿日: 5月13日(日)23時14分12秒

ヒマなような忙しいような
ちょっと考えるのをやめてみたり


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ホームページタイトルとハンドルの変更の件 投稿者:日本大熊猫(Sumikomama)  投稿日: 5月13日(日)21時17分22秒

 どうも、有り難うございました。

http://members.tripod.co.jp/sumicom/


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町人文化 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月13日(日)10時53分17秒

>日本大熊猫(Sumikomama)さん
>町人文芸の隆盛の担い手たる町人たちは、けっこう
>漢学を身につけていたのではないでしょうか?
そうなのだろうと思います。単に中国の話を借用する
といったことではなく、物語を創作する上で必要な教
養や思考力といったものも、漢学から多く得ていたの
だろうとも思います。

>会長殿
了解しました。私もなるべく顔を出すつもりです。


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会活動、というほどでもありませんが 投稿者:彦やん  投稿日: 5月13日(日)01時35分03秒

全日本越冬会ホームページにある「越冬会談話室(チャット)」にて
一週間に一度、管理人常駐を始めます。
静か過ぎる現状をどうしようかとかねてより考えておりましたが
とりあえずこういう形で対処することになりました。
詳細はリンク先を参照して下さいませ。
ではまた。

http://page.freett.com/rinou/JHA-HP.html


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江戸文学 投稿者:Sumikomama  投稿日: 5月12日(土)20時42分38秒

 確かに、「町人」文学ばかりに注目して、漢詩文の隆盛に注目し
ないのは片手落ちでしょう。漢詩文を、儒学や漢学の名のもとに一
括するのは、実態に誤解を招くと思います。
 確かに読んで面白いのは、西鶴などかもしれませんが、日本外史
だってそれなりのものでしょう。
 行き詰まる武家政治に対し、町人の勃興という見方があるのでし
ょうが、町人だって漢学はやりましたし、また漢詩文や漢学方面か
ら、明治維新の思想的な系譜を研究するのも面白いと思います。
 また、町人文芸の隆盛の担い手たる町人たちは、けっこう漢学を
身につけていたのではないでしょうか?例えば、明治になっても、
江戸戯作者の系譜を継承すると称した永井荷風の漢文の素養だって
大したものです。
 例えば、江戸落語にはかなり中国の明代の笑話が影響しています。
落語の「饅頭怖い」の原作は中国です。少なくとも、落語作家にそ
んな向こうの笑話を読みこなすような漢文能力があったことは間違
いありません。

http://members.tripod.co.jp/sumicom/


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民間を通じての文化流入 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月12日(土)18時05分18秒

これは、文書として残らないことも多いので軽視されがちですが、
実際には多くのものが流入していると考えるべきでしょうね。どの
本に書いてあったのか忘れましたが、日本の伝統芸能とされる浄瑠
璃も、明代中国の民間芸能の影響を大いに受けていたようです。時
代が下っても、日本における中国文化の影響は意外なところにもあ
るものだと思います。


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れ:独自性 投稿者:Sumikomama  投稿日: 5月12日(土)16時54分06秒

>ホームページのタイトル変更
 お手間を取らして申し訳ありません。それで、タイトル名の変更ですが、
実は近日中にハンドル名も漢字のものに変えるかもしれませんので、その
時に一緒にしていただいた方がいいと思います。

>当事者達に「外来」文化を主体的に選択しているとの認識があったかとい
うと、「日本」の場合、恐らくはそんなものは殆どなかった時代が長かった
のだと思います。

 そう思います。文化の大勢というのは、むしろ高いところから低いところ
へ流れ込むようななもので、まあ「その地域の特殊具体的歴史条件」によっ
て、流れが阻害されて一部のものが流れ込まなかったということもあるでし
ょう。
 「外来文化の主体的選択」に重きを置くというか、そこに自主性を主張する
むきもありますが、確かに日本への中国文化の流入は、時の遣唐使等、日本の
為政者によってよりも、文書に残らない形で、長期にわたって、いわば民間を
通じて流入した部分が多いと思います。
 確かに、主体的選択を強調しなくても、日本文化は大枠では東アジア=中国
文明圏に属しているとしても、現代の中国文化と対等の独自の文化であること
は間違いないと思います。

>「日本にしかない」固有性
 確かに、そういうものは実際には、ほとんどないのです。いわゆる「縄文」
論者が、日本「固有」と主張するものが、世界中の原始的諸民族に共通するア
ニミズム的要素であったり、せいぜい凡東アジア・太平洋的なものであったり
します。


http://members.tripod.co.jp/sumicom/


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独自性 投稿者:劉公嗣  投稿日: 5月12日(土)10時59分59秒

Sumikomamaさん
本当は、どんな雑多な文化を取り入れようとも、その結果として形成展開
されていった歴史や文化は、その地域の特殊具体的歴史条件に即して顕現
したものなので、独自のものとして評価すべきなのだと思います。まあ、
特殊具体的歴史条件に即して、とはいっても、当事者達に「外来」文化を
主体的に選択しているとの認識があったかというと、「日本」の場合、恐
らくはそんなものは殆どなかった時代が長かったのだと思います。
日本の独自性を主張する論者は、最初から「日本」の存在を自明のものと
したり、「日本にしかない」固有性というものを強調する傾向にあるので、
それは私も違うと思います。

>猫那沙更さん
そんなものかもしれませんねぇ。ちょっと埃がたまっただけで接触不良に
なることなど、よくありそうです。

>かいがらさん
そういう意味での独自性というのは、人類の居住している地域全てにおい
て当て嵌まるものだと思います。ただ、独自性というと、本源地・初現地
でないといけない、と考えている人が多いようで、その意味で独自性を主
張しようとすると、日本に限らず、色々と無理が出て来ることも多いと思
いますし、実際そういう無理な主張が歴史上多くありました。


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