(1)聖と俗(其の一)
人間とは、未解明・未知の現象についても何とか説明したがるもので、天文学の発達していなかった時代には、日蝕や落雷のような自然現象が天や神や故人の怒りと考えられたし、現在でも、未解明の現象について怪しげな説明を試みる人が後を絶たず、これらは迷信・呪術・祭祀などと言われるわけである。一般に時代が下るにつれて人智が発達するので、時代を遡る程、迷信・呪術・祭祀に関わる行為や認識の割合は増すということになるが、そもそもある時代までは、人間の認識や行為は、殆ど全て迷信・呪術・祭祀などに関わるものだったのだろう。
もっとも、現在を生きる我々の行為や認識も、千年後とは言わず百年後には、「まだ迷信に囚われているところも少なからずあった」と評されるかもしれないが、そのようなことを考えていくと収拾がつかなくなりそうなので、基本的には現在の一般的な単語の用法や概念に従って述べていく。
未解明・未知の現象について説明をつける場合、よく理解できていないものを対象とするだけに、それは畏敬・恐怖心を伴ったものとなりがちで、崇拝・鎮魂、つまり聖の対象となることが多いが、恐怖心は敵対心に転化することも珍しくないので、邪悪な敵対的性格を対象に付与することもよくある。神などの聖的存在と悪魔や鬼などの悪的存在とは、表裏一体のものであると言えよう。これに対して俗は、ここでは聖との対概念で用いることとし、その意味合いは「迷信・呪術・祭祀などが基本的に排除されている世界」といったものである。一般的な概念とは異なるが、まあ例外的な措置ということである。
絶大な功績を成した(と伝えられる)人物が聖の対象となることがあるが、これも常識外れ・理解不能などと考えられるから聖の対象となるわけで、聖の対象となるのは、広い意味での未解明・未知の現象と言えよう。例えば、天文学の発達以前には恒星や惑星や衛星などが聖の対象となり、その中でも一番目立つ太陽と月が特に崇拝の対象となったが、これは世界各地で見られる現象である。同様に山や山林も古代においては多分に未知の世界であり、世界各地で崇拝の対象となって、例えば中国の泰山や日本の三輪山などがそうだが、一方で崇拝の裏返しである恐怖・敵対の対象となることも屡々で、山や森林には邪悪なものが存在すると考えられたこともあった。
古代においては未解明・未知の現象が現代と比較して遥かに多かったから、それだけ聖というか崇拝の対象が多かったということになり、嘗て日本では、ありとあらゆるものに神が宿ると考えられていた、と言われている。恐らく、人類史においてかなり最近まで、聖の世界が俗の世界を圧倒していたのであり、時代が下って人智が発達していくに連れて俗の世界が力を得ていき、やがて聖の世界を圧倒していったのだろうが、その進行度合いや指標は地域によって大いに異なっていたものと思われる。
このように聖と俗との関係を考える際、一神教の出現と確立は重要な指標となるように思われる。多数の聖的存在が否定され、唯一神という一つしか存在しないものが聖、つまり崇拝の対象となるからである。もっとも、だからといって一神教の確立が俗の優位を意味するというわけではなく、聖の世界が一元化されて却って強化されるという側面もあっただろうが、そうだとしても、多数の聖的存在を原理的には否定することの意味は大きく、人智の発達・俗の世界の進展ということをも意味しているように思う。もっとも、これは西アジアも含めての西洋でのことであって、東アジアや南アジアについては、また別の視点で考察する必要があろう。
どうにもよく纏らなかったか・・・。次回は多少なりとも纏りのある文章としたいものである。