石合戦

 

 東アジアでは、嘗ては石合戦が盛んに行なわれてきた。日本の場合は、二つの村または同じ村内の二組がお互いに陣を作り、石を投げ合う形態が一般的であった。中世には特に盛んだったようだが、時代が下るに連れて大人から子供へと主体が移っていった。一般に、年中行事が零落すると子供の遊びになってしまうらしい。
 石合戦が行なわれる理由は、その試行時期とも大いに関係があるようで、大体正月か端午の節句に行なわれるのだが、前者は、年の変わり目という時間的な境界に出現する様々な混乱や災いを祓い防ぐためのものであり、後者は、秋の収穫を占うためのものであった。もっとも後者の場合について言うと、端午の節句は元々中国伝来のものであり、中国では端午の節句は凶日とされていたから、やはり最重要の目的は前者と同様だったのだろう。
 こうした辟邪としての行為に石が用いられるのは、石には特殊な呪力があると考えられていたためなのだが、原始・古代世界においては、多くのものにそうした呪力というか未知の力が認められていたのであり、長期に亘る合理主義の発達により、そうした観念は次第に失われていったのである。そのため、石は辟邪としての目的だけではなく、神意を問う目的でも使用された。特に日本では石への信仰が発達し、石は神そのものか神の象徴とされ、道祖神や地蔵などとして村境や衢などの境界に置かれ、辟邪としての効果を期待された。

 ただ、こうした説明だけでは、何故わざわざ投石を行なって石合戦という形態を取る必要があったのか、分からないところもある。ちょっと考えてみても分かることだが、石合戦というのは大変に危険な行為で、そのために日本・朝鮮・中国でも度々禁令が出されている。投石は実際の合戦でも盛んに行なわれており(日本では礫打ちと云う)、日本では戦国時代の武田家が特に有名であるが、武田家に限らず他の大名家でも行なわれていたことで、鉄砲伝来後も行なわれていた程であるから、如何に辟邪のための行事とはいえ、割に合わない危険な行為のようにも思われる。そもそも石自体に呪力があるのだから、道祖神や地蔵などとして祭っておけばよい筈だが、それですまないことから推測するに、投石という行為にも重要な意味があったのではないかと思われる。
 合戦でも盛んに投石が行なわれたわけであるから、投石は武芸の一種であるとされていたものと思われる。武芸には辟邪としての役割が期待されていて、日本の平安期の武士は、実際の武力解決のみにその役割を期待されたのではなく、主に都や朝廷を、武芸をもって邪悪な存在から守るという役割も担っていたのである。そうすると、石合戦とは、石という呪力のあるものを用いて、辟邪としての役割を担っている武芸(この場合は投石)を行なうわけで、二重の意味で様々な混乱や災いを祓い防ぐ聖的な行為であり、一層強い効果が期待されたのであろう。

 石合戦は権力側の度重なる禁令もあって衰退していったが、石合戦の衰退は、合理主義のみならず統治機構の発達をも示すものなのであろう。尚、東アジアにおいて嘗ては石合戦が盛んであったと冒頭に述べたが、中国の場合、この風習は殆ど江南にしか見られない。このことから、江南・朝鮮・日本を貫く基本文化圏が嘗て存在したと推測するのは、あながち無理なものではないようにも思われる。

参考文献:相田洋「東アジアの石合戦について」『異人と市』(研文出版1997年)

 

 

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