世襲制度

 

 現在、世襲制度は克服されるべき過去の遺物であり、非合理的なものと考えられがちだが、世襲制度の確立は案外新しく、また合理的なものであると思う。現在、日本における世襲制度の代表的なものであり、唯一の公的なものでもある天皇制は、倭国王、更には(治天下)大王という地位に由来するのだが、遠山美都男氏によると、大王位の世襲制度、つまり大王を輩出(再生産)する特定の家柄・家族としての王族(王家)の本格的成立は、どう早く考えても6世紀以後である、とのことである。
 この遠山氏の考えは、大変に興味深いものである。家族というのは人類誕生の頃より既に存在した、と漠然と考えられているように私には思われるのだが、集団生活は必ずしも確固たる家族制度を含むというものではなく、その辺は集団内部ではかなり曖昧・流動的なものだったと推測される。祖先を祀り、家の存続・繁栄を最大の価値規範とするような確固たる家族共同体・家族制度の成立は案外新しく、日本の場合、そうした家族制度が百姓の家として広範に成立したのは、南北朝戦国期であった。
 無論、その前にも一部で家(普通は「イエ」と表記されるが)は成立していたのであり、それは公家や武家や天皇家などであった。そうした家は、特定の地位や職業・役割を世襲していく確固たる家族制度であり、それは大変長い時間をかけて徐々に成立していったもので、ある程度の社会的「発展」を必要としたと思われる。
 つまり、君主というか指導者の地位の継承を例に挙げると分かりやすいのだが、血統を基準とする継承が行なわれるということは、個人的資質の劣る指導者を支えるだけの条件がある程度は整っていなければならないのである。また、個人的資質というのは判断が難しく基準が曖昧なものだが、血統というのは判断基準が一目瞭然で明快であり、地位継承の争乱を防ぐ効果という点では、ある意味で能力主義よりも合理的とも言える。
 日本に限らず世界では、社会的分業が進展するにつれてそれが家業という世襲形態をとるようになり、そうした形態が主流となった時期があったが、更に時代が下ると、世襲制は次第に衰退していって現代に至ったと思われる。

 そうした世襲形態は、一般的に「先進・中心地」で先ず進行し、それが「地方・周辺」に波及していったのだが、その中でも、君主・首長・王のそれは最初期に出現したものと思われる。日本において君主・王の世襲制が成立したのは、前述したように遠山氏によれば6世紀以降とのことだが、氏の見解の是非はともかく、弥生時代におけるクニの首長や、弥生時代後期〜古墳時代前半辺りまでの倭国王の地位は、必ずしも特定の家(つまり血統)に独占されていたものとは断言できないだろう。
 日本においては、特定の職掌を世襲し王に奉仕していく家の編成が5世紀後半頃より進展していき、当初それは擬似家族的で緩やかな編成だったが、それが次第に血統を基準とする家業による世襲制度として確立していった。王位の世襲化・王族の成立もそうした状況に対応したものであり、3世紀や4世紀といった段階から確立していた可能性は高くはないように思われる。そして、日本の貴族の間で家業・地位の世襲化が大いに進展したのは、10世紀前後の頃であった。
 中国の場合、殷代、つまり前二千年紀半ば〜後半には、王の地位が血統を基準として継承されていたようで、この頃には王位の世襲制度・王族が成立していたと思われるが、その前となるとよく分からない。夏王朝の伝承にある程度の史実性が認められるとすれば、前二千年紀前半には既に王位の世襲制度が確立していたのかもしれない。
 ここで注目したいのが、尭・舜・禹の禅譲伝承である。中国の古伝承には架上の法則というものがあり、古い時代のことを述べている伝承ほど新しい時代に創られた可能性が高く、尭・舜・禹の禅譲伝承も、その具体的な内容は割りと新しい時代(恐らくは春秋戦国時代)の創作なのだろうが、帝位(つまり指導者としての地位)の継承基準が血統ではないとしている辺り、単に儒家による理想像の仮託ではなく、実は案外と古い時代の事実を伝えている可能性もあるように思う。中国の学者の中には、尭・舜を氏族社会の大酋長を伝説化したものと解釈している人もいるそうである。

 

 

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