統治機構の発達

 

 高柳光壽氏の「わが国に於ける国家組織の発達」は、1946〜1947年にかけて、『丁酉倫理』523・529・531・532・534に掲載されたもので、既に半世紀以上前の論文であるが、現在でも、実に示唆に富んでいるというか、教えられるところが多いと言えるように思う。尚、引用は『高柳光壽史学論文集』(吉川弘文館1970年)所収の同論文より行なった。

 先ず高柳氏は冒頭で、従来の日本の歴史は大日本史の影響が甚だ多いやうに思はれます。それは根本史料について一々研究するといふことは頗る手数のかゝることであり、困難でありますので、既成の編纂書によつて歴史を書くといふことになり易い、と述べられていて、これは歴史というものを考える際、常に想起されるべきであろう。
 高柳氏の仰る根本史料とは古文書のことであり、氏によると、『日本書紀』以下の六国史も編纂書であって根本史料ではないとのことで、『日本書紀』を7世紀の日本史研究の根本史料と考えている私にとっては実に厳しい発言であるが、高柳氏の仰ることが正論なのだろうと思う。もっとも、7世紀以前の日本史を研究する際は、史料の不足から、やはり『日本書紀』に頼らざるを得ないだろうが・・・。
 編纂書というのは、その時点で既に特定の価値判断に基づいて多くの取捨選択を行なっているわけで、そうした編纂書に頼って歴史研究を行なっていれば、実態と大きくずれた歴史像を提示することになりかねないであろう。編纂書を二次文献とすれば、私のような素人は「三次文献」や「四次文献」で歴史を学んでいるわけで、確かに素人が根本史料に直接あたるというのは困難ではあるが、時として根本史料に触れてみることも必要なのだろう。

 高柳氏は、大体において歴史事実の判明している奈良時代以降も、古文書の研究から帰納すると、従来の概念と随分と違うところが出て来る、と述べられており、それは次の一節にも示されている。一体、わが国の歴史に於きましては、よく綱紀の紊乱とか弛緩とかいふことが説かれてをりますが、それは大抵の場合、最初に完全なものがあり、それが不完全になつて来たと考へる風習と申しますか、さふいふ宗教的な考へ方が一般に深く行なはれてをりまして、その考へ方から考へたことが多いのでありまして、事実は弛緩し乃至紊乱する綱紀は最初からなかつたことが多いのであります。この荘園の増加もさやうでありまして、荘園の増加といふことは人口の繁殖、耕地の増加、中央集権の勢力浸潤といふ自然的な歴史的展開であり、決して綱紀の紊乱でも何でもなかつたのであります
 従来、聖徳太子の頃より中央集権化と公地公民化が本格的に志向されるようになり、それは律令国家の成立により完成したが、次には荘園(というか私領)の発達により律令制度と中央集権体制が崩壊していった、と説明されることが多かったのだが、高柳氏は、そうした概念を一蹴されている。これは、単なる思い付きなどではなく、古文書などを通じて、奈良時代以降の日本社会の実態を考察した結果であり、当時の日本では、度量衡や租税労役は多様な形態を取っていて、土地と人の支配は分裂していたのである。
 高柳氏によれば、完全に近い強力な地方政権が成立したのは戦国時代になってからのことで、それをそのままの姿で統一したのが織田信長と豊臣秀吉であり、秀吉の政権は従来の統一と比較して、遥かに強力な中央集権体制であった。
近世日本は実にこの大名の成立によつて、有機的な組織を持つ中央集権的な近代国家への黎明を迎へたのでありました、というわけである。国家・統治機構の発達や中央集権化は大変に長い時間を要して徐々に発達したものである、というのが高柳氏の基本的見解である。
 考えてみると、上述したような日本史像は、『大日本史』などのみならず、西欧の歴史観の影響も大きかったように思われる。統一へと向かう古代・分裂した中世・古代の復興である近世という西欧で創出された歴史的枠組みを日本に当て嵌めた結果、荘園の増加を中央政府の衰退とする解釈を強化してしまったのではないかと思われる。
 高柳氏の見解は、当時としては大胆というか無謀に思われたのかもしれないが、その後研究が進むにつれて、その妥当性が証明されてきたように思われる。例えば、近刊の『日本の歴史06 道長と宮廷社会』を読むと、種々の問題を孕んでいるとはいえ、荘園の発達を巡る高柳氏の見解の方向性は基本的に妥当なもので、今では学界の主流派も、高柳氏の見解を大枠では支持していると言えるように思われる。

 やはり、高柳氏のような大家ともなると、一見大胆というか無謀なことを言っていても、よく考えてみると、納得させられたり深く考えさせられたりする、ということがよくあるのだと思う。内藤湖南の応仁の乱に関する発言や、久米邦武の武士に関する発言も、同様だと思われる。

 

 

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