徳川家康
豊臣秀吉と織田信長について述べたので、完結編といった感じで、今回は徳川家康について述べてみようかと思う。
家康は、当然のことながら江戸時代には神格化されていたが、江戸幕府を倒して薩長が主導権を握った明治となると、神格化の必要がなくなり、従来の反動もあってか、「狸親父」などと言われて嫌われ、人気面では秀吉と信長に大きく遅れを取ることになった。だが敗戦後は、山岡荘八氏の大著『徳川家康』の影響もあってか、一時期と比較して随分と人気は高くなったように思われる。
家康は、江戸時代に神君と崇められてきただけに、今でも過大評価されているところがあるように思われる。小牧長久手の戦いでは秀吉を破ったかのように語られることもあるが、実際には局地戦闘で秀吉軍に打撃を与えただけで、結局は秀吉に屈服しているのだから、とても勝利とは言えない。姉川の戦いでは、徳川軍が数の上では圧倒的な朝倉軍を崩し、それが織田徳川連合軍の勝利を決めたと言われているが、朝倉軍は一般に言われている程多数の軍を戦場に持っていったわけではなく、兵力で大きく上回っていた織田徳川連合軍が浅井朝倉軍を数で圧倒した、というのが実情である。三方原の戦いも、家康が格好よく出撃したかのように言われているが、実際には、武田が攻めてこないと判断して野次馬気分でバラバラに武田軍の陣容を見に出掛けた徳川軍が、それぞれ気侭に投石をしていたところ、武田軍の反撃に遭って戦闘に引き込まれてしまい、家康も止むを得ず出撃した、というのが真相らしい。
三河武士団の強固な忠誠心というのも怪しく、三河一向一揆では家康家臣団の中でも一揆側に走った者も多く、後にも重臣の石川数正が秀吉の工作を受けて出奔している。三河一向一揆は信仰上の問題というよりは、支配強化を図る家康とそれに抵抗する在地武士と百姓との対立という性格の方が強かったのであり、そもそも、一向一揆と戦国大名との武力衝突は概ねそういうもので、信仰上の問題は一般に思われている程には重要ではなかったと思われる。狂信的な宗教的情熱による俗権力への(時代遅れな)抵抗という認識は、あまりにも現在の価値観に引き付けた解釈だろう。家康配下の三河武士団が格別に忠誠心が強固だったとまでは言えないだろう。
家康が、信長や秀吉とは異なり、商業を軽視したとの理解も、甚だ怪しいように思われる。家康は主要鉱山や京都・堺・長崎といった重要都市を直轄としており、商工業の把握・統制に努めており、これは信長や秀吉や他の戦国大名の傾向を引き継いだものである。鎖国政策の萌芽と思われる朱印状による統制貿易にしても、商工業の把握・統制の一環と位置付けられる。江戸幕府が朱子学を官学とし、公には商業を下位に位置付けたため、こうした誤解が生まれるのだろうが、それはあくまで建前であり、江戸幕府もその創始者である家康は、一般に思われている程には商業を軽視したわけではないだろう。例えば、時代が下って享保年間のことになるが、幕府の年貢140万石のうち60万石は貨幣で納められた(東国は金納、西国は銀納)のである。中国の重農主義の影響なのか、日本の歴代中央政権は、百姓を農民として位置付けようとする傾向にあり、律令国家(これは、統一国家としての実態が甚だ怪しいが)も明治政府もそうだった。その方が、民衆の把握が容易だと考えられたためなのかもしれない。